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●ある方がおっしゃいました。
 「素敵だなと思えることを多く見つける又は行うことが多いほど幸福だ。」と。

 さて みなさんの幸福とはどんなものですか? 教えてください。

A 回答 (20件中1~10件)

なんか仏教的な話もかなりあるようですが、仏教的・宗教的論理じゃなく、私の場合は「あ、嬉しい」と思った瞬間であったり、楽しそうな人や周囲の風景を見て優しい気持ちになれた時。

そういった気持ちを感じれる事が私にとっての「幸せ」です。
意見の食い違いがあっても、「そういう見方も出来るんだな」と思えば自分を成長させる為に相手がしてくれたんだと思い好感を持てて、人間関係も暖かくなりますよね?私は「気持ちが良い」状態で生活できる事が幸福です。
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この回答へのお礼

●「優しい気持ちになれた時」
 ああ なるほどって感じでした。

 よく見聞きして 正しいことを 優しい気持ちでできたなら
 どんなにか素晴らしいだろう・・・そんな風に思いました。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/29 01:30

>だから念仏をとなえればその原因から抜け出れますよ。

と安心させているわけです。
 念仏を唱えることはいわば貧乏ゆすりとおなじであまり害はないわけです。
 原因を勘違いされて社会を乱されるよりは ちょっとみぐるしいけど 貧乏ゆすり(念仏)でがまんしとこうかって感じですよ。教祖の発想は・・・。
 あなたが述べていることはごくごくあたりまえのことなんです。
 それをただ宗教の用語におきかえているだけなのですよ。

ということですが、
 至極の罰は、
「頭破れて七分になる(頭破七分)」(法華経陀羅尼品第二十六)
といって、物理的に頭部や脳を損傷して非業の死を遂げる、あるいは、心が常に不安と苦しみにさいなまれて通常の生活ができなくなる、精神分裂やノイローゼ等の異常をきたす等々・・・、自らの人生を破滅させてしまうほど重いのであります。
 かつて、某大新聞がアンケート調査を実施した際、日本人の90%は、べつに自分が不幸だと感じていない、との結果が出たそうである。だが、現今のような不況、自殺者の激増、人災天災や凶悪犯罪の続発等々、まさに末法濁世の様相を呈する社会の中に生きていながら、自分だけは何の関わりも影響もなく生活している、と思っていること自体が異常といわねばなるまい。
 これら、正常なる感覚もマヒして、不幸も不幸と感ぜられなくなっている姿こそ、まさしく頭破七分の前兆である。
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この回答へのお礼

●90%の数字に嘆きますか?
 わたしは切なくなります。つつましいじゃありませんか。
 世界の状況はみての通りです。
 このすべての問題を呪文でいい方向にもっていこうとするのは無理です。
 できるものならもうできてますよ。今 できていないから無理と言うわけです。
●問題はすべて個別に処方を考えるべきです。
 自殺者問題にはそれにたいして天災にはそれにたいして ひとつひとつ対処
 すればいいことなのです。解決できますよきっと。
 呪文なんかとなえてるとかえって解決できませんよ。
 あなたは呪文唱えながら数学の問題解けますか?人間の頭なんてそんなもんです。
●頭破七分ですか 爆笑ですよ。
 頭破七分で亡くなられた方はいらっしゃるのでしょうか?
 ある日突然発狂した→頭破七分だ。この図式はやめてください。
 発狂の憂き目にあってらっしゃる方(そのお身内の方)をさらに苦しめるだけです。
 あなたには他人のことをとやかく言う権利も根拠もありませんよ。
 そのことが公になれば名誉棄損で訴えられますよ。お気お付けください。

お礼日時:2002/01/29 01:55

本当は生きているだけでも幸せだと思う。


本当に幸せなときはそれが幸せだと気付かないときだと思う。
「幸せだ」と口に出すときは、何かしらの良い出来事のときだけであって、
本当の幸せは今をすごせることだと思う。
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この回答へのお礼

●これは もう握手ですね ガシッ!
 いいこと言ってくれるなぁ もーー。

 ご回答ありがとうございました。=*^-^*= ♪

お礼日時:2002/01/29 01:25

ちょっとした時間があり、友人や家族と取り留めもない話が出来る事です。


などと言うと偽善者っぽくきこえますが..

何かを努力して大きな事をやり遂げたことも幸せですがあとになって思い返す懐かしい時間ってたいていそんな光景です。

chihokoさんに同感です。貴方の考えは素晴らしい。

『真の幸福』って獲得するものではなく、すでにそこにあるものだと思います。

別に刹那主義ではありませんが、人生に大きな目的などなくその時、その瞬間にハッピーを感じられるか感じられないかで人生の価値は大きく変わると、私も思いますね。
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この回答へのお礼

●「思い返す懐かしい時間」すばらしい発想をもってらっしゃいますね。
 正に おっしゃるとおりでした。

 主人と雪が降るのを見ながら七輪で焼肉したこととか。
 こどもが幼稚園に「いってきまーす。」といって家をでたら
 庭の草いじりしてて かわいいなあって見てたこととか。
 本当にそうですね。特にそのときは幸福だと思わなくても
 あとになって思い出すのはそういうなにげないことなんですね。
 そしてそのなにげない事に確かに幸せを感じますよね。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/26 20:33

>ミーム(宗教も含む)に縛られていては ありのままの自分が見えませんよ。


 もっと もっと 言葉を失うべきです・・・。

ということですが、
 日蓮大聖人の仏法は、私達の生命の奥深く内在する仏の生命力(仏界)を開発し、真の幸福を獲得していく、唯一最高の大法です。
 では、もし、この大法に従わず、背いていった場合には、いったい、どうなるのでしょうか。
 この大法に背くこと・・・すなわち、我が胸中に仏界という最高の生命力を引き出すための法に背く、ということですから、それは、かえって自分の中の仏界を、覆い隠し、破壊することになってしまいます。そのために生命力はしぼみ、その、しぼんだ生命力で人生を生きていく結果、仕事上、健康上、精神上と、あらゆる面にわたって諸々の行き詰まりが生じ、次第に、悩み苦しみに煩悶する人生に陥っていくのであります。
 すなわち、世の中の一切の不幸の寄って来たる根本原因が、ここにあるのでありまして、これを通常、仏法では「罰」と呼んでおります。
 ここで注意したいことですが、普通、罰といいますと、人間を超越した絶対者(神仏)がいて、忠実な者には恵みを与え、背く者には罰を与えるのだ、といった捉え方がされているようです。
 しかし、仏法でいうところの罰とは、このような、神や仏から与えられるといった、迷信の類いではありません。
 罰とはルールに反して生ずるもの。
 まず、私達の身近な例として、交通法規というものがあります。これは、いちおう、社会に生活していく上での、ひとつの法(ルール)であります。
 この交通法規が存在しているにも拘わらず、もし、これに従わず、信号・標識・規則等を無視して通行したならば、どのような事態が起こってくるでしょうか、申すまでもなく、必ず、事故を起こすなどの反価値(マイナス)な現象が生じてまいります。
 しかも、その場合に、たとえ「自分は山奥から出て来てルールを知らなかった」「そのようなルールを学んだことがなかった」といっても、知ると知らずとに拘わりなく、従わないこと自体が反価値を招く原因なのですから、ルールの適用を免れることはできません。 
 また、もちろん、交通法規を知っている者が、あえてそれに逆らい、すべて逆に逆に行動したならば、知らずにルールに従わなかった人よりも、さらに激烈な大事故等の反価値現象を引き起こすことは、申すまでもありません。
 以上は交通法規の例ですが、この他にも、私達の生活上にはさまざまな法があって、それらのルールに従わず、背いたときには、やはり、それ相応のマイナス現象が生じてきます。
 このことは要するに、ひとつの法(ルール)が存在するにも拘わらず、自分がそれに従わなかったならば、結果としてマイナスな現象を招く、という道理でありまして、それも、他の誰かがマイナス現象を与えるのではなく、いわば、自らマイナス現象(不幸)の中へ飛び込んでいくようなものであります。
 仏法でいうところの罰という考え方も、じつは、基本的にはこれと同じ考え方である、といえましょう。
 つまり、罰とは、神や仏などの絶対者によって与えられるものではなく、法(ルール)に反した、自分自身の行き方から生ずるものなのです。しかも、その法とは、自らの生命に内在する仏界を開発し、真の幸福生活を築いていくための、いわば人生の根本の法です。この根本の法に従わないから、生命力がしぼんで、さまざまな不幸が生じてくるのであり、これこそ、人生の、もっとも根源の不幸の原因にあたるのであります。
 前に挙げた、交通法規や国の法律などの種々のルールは、特定の時代や環境、また生活のごく一部分に適用される、浅く狭いルールでありましたが、それでさえ、無視すれば大きな事故や苦しみを招きます。ましてや、人生の根本法たる仏法に背く罰は、まさに想像を絶するほど重く、厳しい、と知るべきでありましょう。
 なおまた、前の例で、「交通法規を知らなかった」といっても交通事故から逃れられないのと同様、これまで、この日蓮大聖人の仏法のことを知らない、聞いたことがなかった、という人であっても、これに従っていないということ自体、法に外れている、反していることでありますから、罰を免れることはできません。
 つまり、この大法に従っておらぬ人は、誰一人の例外なく、すでに、罰によって種々の不幸を受けていることになります。
 事実、自分自身も含め世の中の人々の姿を、よく御覧ください。たとえ、うわべが幸福そうに見える人であれ、一歩内側まで立ち入ってみれば、経済的な苦しみとか、病苦、家庭不和、対人関係の悩み、人格的欠陥、性格的な悩み等々、誰もが必ず、さまざまな問題を抱え、悩み苦しんでいるではありませんか。
 これこそが、正しい仏法に背いているための、罰の現証(現実の証拠)なのです。
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この回答へのお礼

●わたしの推察で仏法をわかりやすく話してみましょう。
 人生の障害にはかならず原因があります。でも暇のない人には
 その原因をつきとめるまでの時間がないわけです。
 だから念仏をとなえればその原因から抜け出れますよ。と安心させているわけです。
 念仏を唱えることはいわば貧乏ゆすりとおなじであまり害はないわけです。
 原因を勘違いされて社会を乱されるよりは ちょっとみぐるしいけど
 貧乏ゆすり(念仏)でがまんしとこうかって感じですよ。教祖の発想は・・・。
 あなたが述べていることはごくごくあたりまえのことなんです。
 それをただ宗教の用語におきかえているだけなのですよ。
●でもよく考えてください。
 かぜは念仏で予防できますか?うがいのほうがよほど予防効果があるのです。
 だからわたしが何度も忠告しているのです。
 自分で考えなさいと。
 自分で考えないとかぜを念仏で予防してしまいますよ・・・。

お礼日時:2002/01/26 23:41

なんですか、高邁な論争に発展しつつある状況を横にして


非常に恐縮ですが、私の場合を一発....。(^^;)

「みなさんの幸福」って事ですから、私という矮小な
存在が「幸福!!」って感じる条件ですけども....。


ささやかな平和に頭や感情・感覚が浸りきったときに
まずは幸福を感じます。
例えば、女房と美味い飯を楽しく食べている時、人から
お礼を言われた瞬間、何か良いこと(と自分が思ってい
ることを)した瞬間、目的が達成された瞬間等々ですな。

この時は、私の単純な脳味噌と感情は、「もう、幸せ!」
って感想に打ち震えております。

 ※:他人の不幸を見て我が身の幸福を実感する
   場合もありますな~。


で、他方では「人の不幸」を見ないで済む状態とか、他人
の不幸が解決された時にも幸福感を感じますな~。

まだ紅顔の美児童であった私は、ショッピングの為に梅
田の地下街を親に連れられて初めて歩いた時の事ですが
そこに寝ている浮浪者(差別用語だったら失礼。ホーム
レスのこと)を見てショックを受けたんですわ。
未だに鮮明なんですが「自分は温々しているのに、世の中
には何と不幸な人が居るんだろう」って感想で、彼らの
姿を見るのが辛くて、それから梅田嫌いになりました。

それ以来ですかね、「他人の不幸は見たくない」「他人の
幸せを見るのは幸せ」って感情を持っていますな。


かといって、当然ながら高尚な人間ではないので、キリ
スト様やお釈迦様のように人々の魂を救えるわけでなく
マザーテレサの様な行動力もないので、平々凡々として
おりますし、当然ながら嫉妬もしますし怒りもするし
喰うためには働かなくちゃいけないけど、出来るだけ楽
して儲けられたら「幸福!!」とも感じますわ。

でも、できたら、喰う寝る垂れる(時には遊ぶ)でそん
なに不自由していない現在では(これも幸せな状態なの
ですけども)、世間の皆さんが揃って幸せになってくれ
たら嬉しいですし、そうなったら本当に自信を持って
「幸せ」と言えると思いますな~。

きれい事の様ですが、「人の本性は善」と信じるなら
これが大多数の人の幸せの一断面なんでしょうな~。
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この回答へのお礼

●あわれむ気持ちはさらさらないんですけど。
 つつましい生活ってありますよね。狭い住居で家族仲良く暮らす姿に
 よわいんです。切なくなるんです。わたし自信そんな方達と同じ暮らしぶり
 なんですけど。汗を流して働いて誰から搾取するでもなく淡々と暮らす方には
 つつましくない生活をさせたいなと思っちゃうんですよね。
 kenchinさんがホームレスの方をみて感じられた感覚にちかいものだとおもうんですけど。
●したたかさがないと なんか見てて苦しくなりませんか?
 したたかすぎてもイヤですけど。バランスなんでしょうね。
 生きるバイタリティと言い換えてもいいかな。それは必要ですね。

 「世間の皆さんが揃って幸せになってくれたら嬉しい」っていい言葉ですね。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/26 02:13

>わたしがお釈迦様や日蓮大聖人様だったら


 「経典は考える暇の無い方たちのために良かれと示した行いと考え方だから あなたのように考える力のある方なら ご自分でお考えなさい。」
 と 助言するなあ・・・。

ということですが、
 「宗教」とは、真理を悟り究めた聖者が、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。
 すなわち、正しい宗教とは法界の真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏な境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉なのです。
 したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地雲泥の異なりがあるわけですし、これを同等に考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。
 個人の信念のみを強調して宗教を否定する人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則に拘束されて、画一的な人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由が奪われるのではないか」と懸念するむきもあるようです。
 しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべて育て養う大地のように、ひとりひとりの個性や信念を超えて、それぞれの人生を開発し、開花させるものであり、けっして画一的な価値観や思想を押しつけるものではありません。
 現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧されるどころか、信仰に培われて、より健全にのびのびと発揮しつつ社会の中で活躍しています。
 また日ごろはそれほど信念について固執したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教の議論になると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈を並べる人もいるようです。
 いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思い違いや人生を狂わせる考えに陥ることもありましょう。
 あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実させるためには、主体者であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依し、信仰に励むことが絶対に必要なのです。
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この回答へのお礼

●あなたの文章は宗教的にはいいかもしれませんが
 日本語としては おかしいですね。
 日蓮正宗を信仰する人々が 異なった信念をもっていたのではいけませんね。
 日蓮大聖人様の信念に添うように自らを磨いていかなければなりません。

 わたしに信念などというものは 全くありません。
 快楽至上主義なのです。人生の目的もありません。よって結実させるべきものも
 これからの課題も精神上の義務もありません。
 今日は今日の快楽に酔い 明日は明日の快楽に酔う毎日です。
 よって信念はありません。瞬間瞬間に違う自分になれるのです。
 いま生きているという すばらしい自分の命が 解き放たれるそのままを自由に
 なんのこだわりもなく 飾らず置き換えず 言葉にすらしないで具現しているのです。

●ミーム(宗教も含む)に縛られていては ありのままの自分が見えませんよ。
 もっと もっと 言葉を失うべきです・・・。

お礼日時:2002/01/25 23:01

カップラーメン食べたとき、入っていた肉のカタマリが、いつもよりちょっと多かった気がしたとき、お、ちょっとしあわせかも、って思います。

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この回答へのお礼

●なるほど・・・ですね。
 トイレットペーパーをちょうどピッタリで使い切ったときも
 ちょっとしあわせかも・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/25 19:17

幸福。


何かを諦める事と求める事。
妥当、「~でなくても良い。」言いかえれば「~なら良い。」

基準の違う「幸福」と言うのは皆さんそれぞれでしょう。

私の幸福は「~で良い。」です、「現状より裕福にはならないだろうが、それ以上は悪くならないだろう。」と言う意味で。
受け側の気持ちでは「諦め」と取れるでしょう、だが「満足」私の一種の幸福です。
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この回答へのお礼

●センスの高さを感じる幸福感だと感じました。
 中道を選択できるセンスは とても大切だと常々感じていました。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/25 17:11

>ただ わたしが感じているのは


 もしお釈迦様の言葉をあなたが代弁しているのであれば
 それは はなはだ なさけないなあ もっとよく物事を見てくださいと  思うのです。わたしの方が深く物事をみれてる とは感じます

 サイバースペースが何物か分かりませんが、「成仏」すら弁えていらっしゃらないようです。それに、仏語以外に真実があると思われているだけで、甚だ傲慢、偉いんだとしていることであります。
 仏教の乱れも、そうした宗教家が勝手に変えてしまったからであります。そのまま説く、自分の我見で推し測らず、教義に主観を入れないことが大切なのであります。

 日蓮大聖人は、この三世にわたる因果律の上から、成仏とは、生死を越えた、永遠に崩れない幸福を得ることである、と仰せられている。
 すなわち、成仏の境涯とはこの世限りのものではなく、たとえ生命が生から死へと流転しても、常に生まれてくるたびに御本尊のもとに生まれ、力強い仏の生命力にあふれて、自由自在の活動をなし、三世にわたって揺るぎない自受法楽の人生を送っていけるのである。
 このような幸福が永遠に連続するとは、なんと素晴らしい大利益であろうか。このことを法華経では、現世安穏・後生善処と説くのである。
 信行者の臨終の際に、いわゆる成仏の相を現ずるのは、成仏の境涯が死後にまで継続するという、疑うことのできぬ現証である。
 「成仏」こそが、本当の自由境涯の獲得であり、現在、宿業で存している境涯等を変えれる唯一の道であります。
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この回答へのお礼

●わたしがお釈迦様や日蓮大聖人様だったら
 「経典は考える暇の無い方たちのために良かれと示した行いと考え方だから
 あなたのように考える力のある方なら ご自分でお考えなさい。」
 と 助言するなあ・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/25 19:26

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