「クリミア戦争(1853-56)直後、オーストリアは経済的にも立ち遅れ、あまつさえロシアとの関係を悪化させた」というところでつっかかっています。これは関税同盟などが首尾よかったプロシアとの比較において語られています。ですが、オーストリアが当時ロシアとの関係がよくなかったとは記憶にありません。これは「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」との対比を解説した読み物です。

ロシアとの関係を悪化させたかもしれないオーストリアの外交の事例を調べています。よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

質問者様が引用された文から判断すると、オーストリアとロシアの関係が悪化したのは、クリミア戦争そのものだったと思うのですが。



#1さんが仰るように、もともと両国の関係はそんなに良いものとはいえません。それがナポレオン戦争~神聖同盟~ウィーン体制と協力関係にあったのは、一時的に両国の利害が一致していたからです。

その関係が悪化するのは、まさにクリミア戦争でした。
それまではフランスから波及した革命の気運を警戒して、同盟状態にあった両国ですが、クリミア戦争でオーストリアが英・仏を支持してロシアに対立する構図になります。

1848年のオーストリアでの革命時、ロシア軍の援護によって事態が沈静化するなど、ロシアに対して恩があったオーストリアでしたが、オーストリアとしてはロシアがバルカンに出てくるのはやはり我慢できなかったようです。

いつ自国を襲ってくるかという脅威もあるし、ここで英・仏についた方が後々有利になるという目論見もあっただろうし、対ロシアよりも対英・仏の方が脅威だっただろうし…そんな理由でロシアに対してワラキア・モルダヴィアからの撤退を迫り、ロシアはそれに応じた、という流れになります。

で、そこからしばらくはオーストリアは動かなかったのですが、ニコライ1世が病死して、セヴァストーポリが陥落して、ロシアが負けモードになると、オーストリアが参戦して、その翌年ロシアが降伏します。

結局、オーストリアの参戦は、連合国にとって一番大変だったセヴァストーポリ戦後だったことから、連合国に特に評価もされず、ロシアからは反感を買って踏んだりけったりな感じになる、と。

以上のことから、疑問にはお答えできたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

1848年のオーストリアでの革命時にオーストラリアはんを助けたったのに、戦争になったら中立を守らへんのはなんでやねん!がロシアの立場だったちゅうわけやな。おおきにな。

お礼日時:2006/06/24 11:09

オーストリアが、対プロシアに集中していた時期は、ロシアの支援を受け、ドイツ問題で有利に展開していました。


この時は、オーストリアとロシアは、蜜月状態でした。
1848年の、ハンガリーの反乱に際し、ロシアに支援を求め、ロシア軍により反乱を鎮圧しています。
1850年のオルミュッの協約は、ロシアの支援を受けたオーストリアが、プロイセンに最後通告を宣言し、プロイセンを屈服させ、プロシアによるドイツ統一を阻止しています。

この後しばらくは、ドイツ連邦は、オーストリア・ロシアサイドで運営されます。

オーストリアとロシアの友好が崩れるのが、ロシアのトルコ宣戦布告と、それにともなう、ロシアのバルカン半島侵攻です。

バルカン半島において、ロシアは、オーストリアとロシアによる共同支配を提案していましたが、オーストリア側は、バルカン半島の主たる民族が、ロシアと同じスラブ民族であり、このころ、スラブ人の民族意識が高まっていたため、ロシアとの共同支配となった場合、支配化のスラブ人が、ロシア側に走ってしまう事を危惧していました。

1853年に、ロシア軍がルーマニアに侵攻するに及び、オーストリアとロシアの同盟関係が崩れ、1854年のクリミア戦争で、決定的となります。

これには、ドイツ国内でのプロイセンの立場を有利にするために、プロイセンのビスマルクが、ロシアとの関係改善を行い、ロシア側に、オーストリアとの離反によるダメージを軽減した事も、原因のようです。
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この回答へのお礼

ダニューブ侵攻がオーストリアを怒らせたんで、英仏と組んで、それが逆にロシアを怒らせたちゅうわけですね。ところで punctation って何ですか、ウィキペディアさん。
おおきにです。

お礼日時:2006/06/24 11:05

その”上記の内容”をもっと詳しく書いてくれないと


具体的に著者が何をさしているかは
類推するのは難しいですが、
クリミア戦争後の出来事ということを考えれば
露土戦争とベルリン会議でしょうね。
英・墺がサン=ステファノ条約の破棄を迫って
外交関係は険悪になります。
1878年のベルリン条約の内容と経緯を
調べれば、疑問は解消するかと。
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? オーストリアとロシアの外交関係は


往々にして悪いものです。
というのも両大国は国境を接していただけでなく
覇権国家として勢力範囲が重複していました。

争点は時代によってこもごもありますが、
主なものは、まずポーランド問題。
これは直接・間接の領土紛争ということですが
ポーランド領をめぐっては
プロシア、ロシア、オーストリアは
18世紀からずっと互いに争いけん制しあって
しばしば戦争の原因となりました。
オーストリアはロシアとは同盟関係だった時も
ありますが、潜在的な敵国です。
ハンガリーとロシアの国境線はしばしば変更を
余儀なくされています。

第二は、バルカン問題。
汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立関係は
オスマン=トルコの領土が縮小を始めた頃から
激しい対立となって顕著になります。
神聖ローマ帝国はヨーロッパへの外敵の侵入を
防ぐことから形成された帝国であるといえるわけで
その意味でドイツ人とスラブ人の対立は
ドイツ騎士団領のころからあるわけですが、
トルコの撤退で、ロシアとオーストリア両国の
影響力がバルカン半島に流入して
要するにバルカン半島の支配権を巡って
南下するロシアとオーストリアは敵対するわけで
これが結局は、第一次世界大戦の引き金となります。
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この回答へのお礼

おかげさまで1次大戦までの伏線となる露・オ関係の潜在的な敵対関係が浮き彫りになりました。
多分筆者は上記のように書いたとき具体的な歴史イベントが念頭にあったと思いますが、どういったものが考えられるでしょうか?

お礼日時:2006/06/23 18:52

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Qオーストリアのウィーンは「ウィーン」ですか?「ヴィーン」ですか?

いわゆる標準ドイツ語では「ヴィーン」ですが、
ウィーンのバイエルン・オーストリア語でも
「ヴィーン」なんでしょうか?
それとも現地では「ウィーン」なんでしょうか?

Aベストアンサー

Wien のオーストリアドイツ語の発音ですね。
ドイツ語の [v] は、英語の [v] より柔らかい音です。
ウィーンの [v] は、標準ドイツ語の [v] より、さらにもう少し柔らかい音です。
日本語の [ヴ] に標準音はありませんから、本来は比較できません。
日本語の [ヴ]子音を 英語の [v] と同じとし、日本語ワの子音 [w] の距離
を感覚でいうと、 標準ドイツ語[v]度 70%、ウィーン方言[v]度 60% くらい。
ドイツ語の W[v] をウィーンやワーグナーと書くのは、単なる習慣だけでは
ないのは、この言語音の差による寄与もあると考えられます。

http://www.dokken.or.jp/column/column22.html
↑3番目のパラグラフ(私のドイツ語の心の師 諏訪功先生の文)

私は、ウィーンに7度行ってますが、Wean の表記は見たことがありませんし、
[ヴェアン] という発音は聞いたことがありません。この固有名詞に関しては、
母音[イー] が広め程度で、標準ドイツ語と発音記号で差が出るほどは、
感じません。S バーンなどの公共交通機関は間違いなく。ウィーン周辺の
田舎とかなら、古くからの発音が残っているかもしれませんが。一般的に、
若い人は、テレビ・学校が普及したどの国でも、方言はきつくないです。

もし、本当にドイツ語の方言を若くから聞き分ける訓練をして(言語音の
聞き分けはある程度若くないと困難で、特に微妙な違いは)、いろいろな
地方の生のドイツ語をフィールドワークしている本当の専門家がいらしたら
その意見をお聞きしたいものです。

Wien のオーストリアドイツ語の発音ですね。
ドイツ語の [v] は、英語の [v] より柔らかい音です。
ウィーンの [v] は、標準ドイツ語の [v] より、さらにもう少し柔らかい音です。
日本語の [ヴ] に標準音はありませんから、本来は比較できません。
日本語の [ヴ]子音を 英語の [v] と同じとし、日本語ワの子音 [w] の距離
を感覚でいうと、 標準ドイツ語[v]度 70%、ウィーン方言[v]度 60% くらい。
ドイツ語の W[v] をウィーンやワーグナーと書くのは、単なる習慣だけでは
ないのは、この言語音の差による...続きを読む

Qクリミア戦争とイタリア統一の関係

こんにちは。
現在19世紀のヨーロッパ史を勉強しているのですが、クリミア戦争がどのようにイタリア統一に貢献したかという質問につまずいています。なんとなく答えは分かるのですが、要素がたくさんありすぎてどの要素が決定的なものなのか答えあぐねています。どなたか詳しい方回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ピエモンテ(サルディニア)王国は1859年の第2次統一戦争以前に
1848-49年に第1次統一戦争を戦っています
その時はピエモンテ王国以外にも教会国家やナポリ王国からも軍が派遣されオーストリア軍と対峙していたのですが
元々イタリア統一に反対な教会国家や反動的なブルボン朝のナポリ王国は戦わず軍を引いてしまい
ピエモンテ王国が単独でオーストリアと戦うことになり、オーストリア軍側もラデツキーのような軍才のある将軍に恵まれたため
ピエモンテ王国は散々な惨敗を喫しました

ピエモンテ王国独力の軍事力では到底オーストリアとは戦えないことは明白となりました
そこでピエモンテ王国宰相になったカヴールはこれを教訓としイタリア半島の他国の援助でなく
外国勢力に援助を求めようとしたのです
彼には他にも思惑があり
それはマッツィーニやガリバルディのように半島に存在する国々が平等な立場で統一を行う自由主義的、連邦的な統一でなく
あくまでピエモンテ王国が他の半島諸国家を吸収合併し中央集権国家を創ることが真の目的でした

そこでその効果的な援助が期待できる英仏にポーズを取るため
ピエモンテ王国にとって何のメリットもないクリミア戦争に無理矢理参加したのです
ピエモンテ王国軍は小国ながら奮戦して大戦果を挙げたのですが
いざ講和会議になってカヴールがイタリアからオーストリア勢力を駆逐するのに手を貸してくれるよう要望すると
英はそんな話は事前に聞いていないと激怒してしまいそれ以降英はその話し合いのテーブルには着いてくれず
話は仏のナポレオン3世としかせざるを得ませんでした

ただナポレオン3世はそもそもイタリア統一に反対であり、教会国家の保護者を自任していたので
カヴールはイタリア統一の事は話さずオーストリア勢力のイタリアから駆逐することだけで同意
将来的にイタリアを四つの国家に統合することで合意しました

実はナポレオン3世も偉大な叔父のような外征戦争での華々しい勝利と
あわよくば北イタリアの統合国家になるピエモンテ王国を衛星国家とし
オーストリアに代わり仏がイタリアに影響力を及ぼしたい思惑があったので
結局はカヴールとナポレオン3世の騙し合いで出来たのが後にいうこのプロンビエールの密約の内容です

ピエモンテ(サルディニア)王国は1859年の第2次統一戦争以前に
1848-49年に第1次統一戦争を戦っています
その時はピエモンテ王国以外にも教会国家やナポリ王国からも軍が派遣されオーストリア軍と対峙していたのですが
元々イタリア統一に反対な教会国家や反動的なブルボン朝のナポリ王国は戦わず軍を引いてしまい
ピエモンテ王国が単独でオーストリアと戦うことになり、オーストリア軍側もラデツキーのような軍才のある将軍に恵まれたため
ピエモンテ王国は散々な惨敗を喫しました

ピエモンテ王国独力の...続きを読む

Qウィーン空港でのオーストリア航空同士の乗り継ぎ

今度オーストリア航空で成田→ウィーン→フランクフルトと乗り継ぎますが、ウィーンでの乗り継ぎが25分で、最低の条件は満たしてはいるものの不安です。
海外空港での乗り継ぎも何度も経験していますが、チェックインする荷物もある(もちろんスルーですが)ので、25分と言う短さが気になります。
ウィーンでの短時間での乗り継ぎを経験された方、いらっしゃいましたら状況を教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本とヨーロッパを結ぶ便は距離が長いこともあって時間も割りと余裕を組んで設定してあり、早く着くことも多いです。
一方で予期せぬ事態で遅れることも結構あります。
したがって、本当に乗り継ぎが25分になることはあまりなくて、実際には結構余裕があるかまったく余裕がなくて乗り継げないかのどちらか着いてみないとわかりません。
ただ、後者の場合でも航空券を一括で予約している場合は、東京からの客室乗務員にも情報は行っていますし、乗継が難しいまたは乗り継げない場合は何らかの連絡が入ると思います。
明らかに乗り継げない場合はその後のオーストリア航空便または共同運航をしているルフトハンザに振り替えてくれますよ。

なお、乗り継ぐ場合はウィーンで入国審査を受けることになります。降りたらすぐにフランクフルト行きのゲートを確認し、入国審査を受けてそのままゲートに向かってください。荷物はスルーで運んでくれます。
ウィーンの空港は首都の空港としてはコンパクトで、成田・羽田はおろか関空・伊丹よりも小さく、移動はしやすいと思います。何か手間取らない限り25分で乗り継げるとは思いますよ。

日本とヨーロッパを結ぶ便は距離が長いこともあって時間も割りと余裕を組んで設定してあり、早く着くことも多いです。
一方で予期せぬ事態で遅れることも結構あります。
したがって、本当に乗り継ぎが25分になることはあまりなくて、実際には結構余裕があるかまったく余裕がなくて乗り継げないかのどちらか着いてみないとわかりません。
ただ、後者の場合でも航空券を一括で予約している場合は、東京からの客室乗務員にも情報は行っていますし、乗継が難しいまたは乗り継げない場合は何らかの連絡が入ると思い...続きを読む

Q不墺戦争時代のオーストリア国内の「ドイツ人」とは

「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」などとドイツ統一が議論された際に、またオーストリア・ハンガリー帝国を築く際にオーストリア国内の支配勢力として出てくる、「オーストリア国内のドイツ人」とはどういう人のことを指していたのですか?
民族的に「ゲルマン系」の人達のことですか?しかしヨーロッパにゲルマン人が到来して1000年以上も経ち、混血も相当に進んでいると考えるとどこまでがゲルマン系と言えるのか分かりません。長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
もしくは、混血をしていようともオーストリア内に伝統的にドイツ語を話す地域があり、そこに住む人達を指したのでしょうか?

「大ドイツ主義」に含められていた「オーストリア国内のドイツ人」と、不墺戦争に敗れた後、オーストリア国内のドイツ人の支配を保つためにハンガリー国内に済むマジャール人と手を組みオーストリア・ハンガリー帝国を築いた、というときのオーストリア国内に24%いた「オーストリア国内のドイツ人」はおそらく同じ人達のことを指しているとは思うのですが、誰が何を持ってドイツ人なのか、詳しくお知りの方がいらっしゃいましたら分かりやすくご教授お願いいたします。

また、結局ビスマルクによって小ドイツ主義が取られ、オーストリア国内に取り残されたドイツ人達(の子孫)は今もオーストリアに住んでいるのでしょうか?

「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」などとドイツ統一が議論された際に、またオーストリア・ハンガリー帝国を築く際にオーストリア国内の支配勢力として出てくる、「オーストリア国内のドイツ人」とはどういう人のことを指していたのですか?
民族的に「ゲルマン系」の人達のことですか?しかしヨーロッパにゲルマン人が到来して1000年以上も経ち、混血も相当に進んでいると考えるとどこまでがゲルマン系と言えるのか分かりません。長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
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Aベストアンサー

神聖ローマ帝国が、1806年まで存在していました。神聖ローマ帝国は国というよりも神聖ローマ皇帝を盟主とする領主貴族の連合体みたいなものでありました。その神聖ローマ帝国からスイス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどが神聖ローマ皇帝の支配を脱して、残された地域がドイツになったわけです。ではオーストリアはなんなのか。オーストリアとは神聖ローマ皇帝を一時期世襲していた最有力な領主貴族の一つであるハプスブルク家の領地です。神聖ローマ帝国は、領主貴族代表と聖職者代表が選挙で神聖ローマ皇帝という職位を決めていました。これを選挙王制という。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国滅亡時点の最後の神聖ローマ皇帝でありました。ハプスブルク家は元々神聖ローマ帝国の領土の一部も領地にしていましたが、領土を拡大して神聖ローマ帝国の外にも領地を持ったのです。それが、現在のチェコ、スロバキア、ハンガリーといった国の領土です。神聖ローマ帝国が滅亡した時点で、ハプスブルク家は旧神聖ローマ帝国の一部、チェコ、スロバキア、ハンガリーといった4つの民族構成が異なる4つの地域を領地にしていたということなのです。その領地を持って、神聖ローマ皇帝を退位したフランツ2世がオーストリア帝国の樹立を宣言します。

ここまでで回答になっているかな。オーストリア国内のドイツ人とは、旧神聖ローマ帝国の一部の住民のことです。

ドイツ統一とは、神聖ローマ帝国滅亡後にばらばらになってしまった領主貴族の領地を、再び一つに国としてまとめるということです。ところがハプスブルク家は1804年には自分の領地だけでオーストリア帝国の成立を宣言した。またハプスブルク家の領地は元々神聖ローマ帝国の領土の外も含んでいますから、話は面倒なことになってしまったわけです。

本来のドイツ統一の主旨からすれば、ハプスブルク家の領地の一部も併合しなければならない。しかし、それは同時にオーストリア帝国の分割を意味してしまうことになります。それだけはハプスブルク家としてはたまらない。オーストリア帝国にしがみつけば、主要な支持基盤を失うわけですから、異民族であるチェコ、スロバキア、ハンガリーから追い出されてしまうことは目に見えている。さりとてドイツ側につけば、チェコ、スロバキア、ハンガリーを失うことになってしまう。ハプスブルク家の立場としてはオーストリア帝国の分割だけは、どうしても許せないわけです。だからオーストリア帝国を拡大発展させた大ドイツか、オーストリア帝国を除外した小ドイツの2つの選択肢しか無かったわけです。一方、ドイツ統一を主導したプロイセン王国のホーエンツォレルン家としては何としてもハプスブルク家を排除したかったのです。

その後、オーストリア帝国は第一次世界大戦の敗戦によって、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーに分割されて、ハプスブルク家の帝政は終わります。現在のオーストリアは第一次世界大戦の前の1/4ぐらいに縮小された、ドイツ人地域だけが残された訳です。

そして、そのオーストリアは第二次世界大戦の前にドイツに併合される。

ちなみにオーストリア・ハンガリー帝国とは、オーストリア帝国から分離独立を目指すハンガリー人をなだめすかす為に、ハンガリーという名称を国名に含めただけです。

ここでは極めて大雑把な話しかしませんが、神聖ローマ帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国、ドイツ帝国の歴史は極めて複雑なので、中途半端に理解しようとしても、とても無理です。

神聖ローマ帝国が、1806年まで存在していました。神聖ローマ帝国は国というよりも神聖ローマ皇帝を盟主とする領主貴族の連合体みたいなものでありました。その神聖ローマ帝国からスイス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどが神聖ローマ皇帝の支配を脱して、残された地域がドイツになったわけです。ではオーストリアはなんなのか。オーストリアとは神聖ローマ皇帝を一時期世襲していた最有力な領主貴族の一つであるハプスブルク家の領地です。神聖ローマ帝国は、領主貴族代表...続きを読む

Qオーストリア(ウィーン)での楽しみ方

夏休みに友人とヨーロッパを回るのですが、オーストリア(ウィーン)でお勧めの場所があれば教えて下さい。どこかウィーン付近でいい所があればそれでも構いません。あと、そこからチェコへ移動する予定なのですが、いい移動方法を知っていれば教えて下さい。ユーレイルパスを持っているなら鉄道を使ったほうが
バスより安いですか?

Aベストアンサー

こんにちは
夏休みにウィーンいいですね。少し住んでいたのでお答えします。
 ユーレイルはチェコでは利用できないはずです。普通に電車を利用するしかないですね。
 見所はシェーンブルン宮殿に行ってみて下さい。
オペラ座などの中心街からは少し離れていますが(地下鉄で20分程度だったかな?)宮殿はもちろん庭園もいいですよ。朝早く行ければ宮殿内は見学できないものの誰もいない庭園を散策することも可能です。
 ちょっと見つけにくいかも知れませんが、宮殿隣のホテルシェーンブルンにはもちろん複製ですがマリアテレジアの大きな絵があります。ご覧になってみては如何でしょう。
 また宮殿内のオランジェリーハウスでは夜の演奏会も行われることがありますので旅行会社に問い合わせてみてもいいかもしれません。(空調がないので暑いかも)
 市街ではオペラ座周辺(ザッハーはすぐ脇)から町中を散策するのもいいでしょう。少なくとも昼間なら女性同士でも安心です。
 レストラン等では団体客でもない限り注文を取りに店員は来てくれませんので自分から呼んでください(最初は恥ずかしいですがすぐに慣れます)
 地下鉄の入り口周辺のみは気をつければ安心です。
 どうぞ楽しんでください。

こんにちは
夏休みにウィーンいいですね。少し住んでいたのでお答えします。
 ユーレイルはチェコでは利用できないはずです。普通に電車を利用するしかないですね。
 見所はシェーンブルン宮殿に行ってみて下さい。
オペラ座などの中心街からは少し離れていますが(地下鉄で20分程度だったかな?)宮殿はもちろん庭園もいいですよ。朝早く行ければ宮殿内は見学できないものの誰もいない庭園を散策することも可能です。
 ちょっと見つけにくいかも知れませんが、宮殿隣のホテルシェーンブルンにはもちろん...続きを読む

Qオーストリア継承戦争について

オーストリア継承戦争について、
マリアテレジアが女王になることをブーイングしたフリードリヒ二世が、シュレジエンを占領したことが発端だということはわかりましたが、ここで急にフランスとイギリスが参戦するのはなぜですか?

Aベストアンサー

些か気になりましたので若干のコメントを。

まず大前提として、「フリードリヒ2世がマリア・テレジアの『継承』に反発した」という前提は、実情とは異なります。

プロイセン王(König in Preußen)フリードリヒ2世にとって、マリア・テレジアが「継承」することが予定されていた地位そのものは重要ではありませんでした。
彼が狙ったのは、「シレジア地方」そのものです。
当時のプロイセンは、ドイツ騎士団領が17世紀後半に再編されたプロイセン公国と、ドイツ国内のブランデンブルク選帝侯領の人的同君連合で、両者の領地はつながっていませんでした。
「シレジア地方」は、この両者の間を「つなぐ」位置にあり、かつ鉱業資源が豊富でした。
この地を虎視眈々と狙っていたフリードリヒ2世は、1740年に、ハプスブルク家をマリア・テレジアが継承する際にザクセンやバイエルンが反発して混乱している隙を突いて、シレジア地方に突如襲撃しこの地を獲得しました。
以後、フリードリヒ2世は、シレジア地方を橋頭堡にたびたびボヘミア王国に侵略しますが、これはオーストリアによって退けられています。
ただし、マリア・テレジアは、シレジア地方奪還はかないませんでした。

ここで、神聖ローマ皇帝カール6世の娘であるマリア・テレジアの立場について整理しておきます。
神聖ローマ皇帝位は、建前上は選挙王制でした。ただし、実際には、帝国最大の貴族であるオーストリア大公(ハプスブルク家)によって世襲されていました。
カール6世とその先代のヨーゼフ1世は、いずれも皇帝レオポルト1世の子供です。
ヨーゼフ1世は男子に恵まれず、「女子への家督継承」を可能とする詔書を発出しようと構想していたものの、1711年に崩御しました。
その際、ハプスブルク家宗主の有していた地位「オーストリア大公」「ボヘミア国王」「ハンガリー国王」などなどは、特に条件もなく、弟のカール6世に継承されました。
そのカール6世は、兄が実現できなかった「『女子への家督継承』を可能とする詔書」を、1713年には発出しました。

この1713年の詔書では、最初から「カール6世の女子」に相続の優先権が与えられていました。
この詔書の「妥当性」を巡って、「長男だったヨーゼフ1世の女子の方が優先されるべきではないのか」という「異論」があったのは確かです。
また、ヨーゼフ1世の皇后だったアマーリア・ヴィルヘルミーネは、娘たちをバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯に嫁がせることで、カール6世に対抗しようとしました。

カール6世が1740年に崩御するや、「マリア・テレジアにはハプスブルク家の家督継承権はない」と反発したのが、このバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯(特に前者)でした。

本題のうちフランスは、16世紀以降長年にわたってハプスブルク家との闘争を続けていました。
その流れで、「ハプスブルク家弱体化の好機」につけいり、バイエルン選帝侯カール3世・アルブレヒトを支援して遠征軍を派遣した…という次第です。
バイエルン選帝侯はオーストリアの占領を図ったのに対して、フランスはボヘミア王国の占領を目指し、1741年の秋にはプラハを制圧しました。
なぜボヘミアを狙ったのかというと、ボヘミア国王も神聖ローマ帝国の選帝侯の一人だったためです。
ボヘミアがマリア・テレジアの王位継承を否定すれば、ハプスブルク家は選帝侯の資格を失うことになりました。
そして実際に、ボヘミアは1741年12月にバイエルン選帝侯カール3世・アルブレヒトを国王に戴冠しました。選帝侯位二つを得た彼は、翌年1月に行われた選挙で皇帝に当選し、神聖ローマ皇帝カール7世となりました。

マリア・テレジアの方は、1740年の時点でオーストリア大公の継承者として推戴されましたが、反ハプスブルク勢力の侵略に見舞われました。
マリア・テレジアはハンガリーに向かい、議会の協力を得て、1741年6月にはハンガリー女王に推戴されました。そして、元のオーストリア軍にハンガリー軍を加えて反転攻勢に転じました。
結果、1742年になると、皇帝カール7世の本拠地ミュンヘンがオーストリアの手に落ちました。
とはいえ、フランスとプロイセンが駐留していたボヘミアの方は攻略困難でした。

……このような形で、大陸情勢が「フランス優勢」になったのを見て、英国は介入を図りました。
その目的は、勢力均衡のためのフランスへの対抗にありました。
ただ、この時期、英国王室は、神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯と同君連合の関係にあったため、帝国内の勢力均衡を目指したという側面もありました。
なお、フランスからの圧力に面していたオランダも、英国と行動を共にしました。

かくして、マリア・テレジア勢(オーストリア・オランダ・英国=ハノーファー)とカール7世勢(バイエルン・プロイセン・フランス)が対立するという図式ができあがりました。

最終的には、カール7世が1745年に崩御した際、バイエルンの新選帝侯マクシミリアン3世・ヨーゼフがマリア・テレジアとの協定により皇帝選挙不出馬を決めた結果、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンが新皇帝に選出され、ハプスブルク家の家督はマリア・テレジアの手に入りました。
ただし、シレジアはフリードリヒ2世の手に入りました。
後の七年戦争でも、マリア・テレジアはシレジア奪還を狙ったものの、望みかなわぬままに終わりました。

その間で、シレジアの富を活かしたフリードリヒ2世は、ポーランド分割などによりプロイセンとブランデンブルクの所領を連結させ、プロイセン国王(König von Preußen)を名乗るに至りました。

他方、フランスと英国は、アメリカ大陸の海外植民地を巡って別途の戦いを始めてしまいました。
こちらは、海軍強国の英国が圧倒的に強く、フランスは遠征軍が疫病等で壊滅的被害を受ける事態になりました。
ただし、このときは、フランスは陸戦でベルギー・オランダに侵略して英国に間接的な圧力を加え、大陸領土を「現状維持」に戻すことができました。

続く七年戦争でも、アメリカ大陸植民地において英国がフランスを圧倒し、フランスは大陸植民地をすべて英国に奪われるに至ります。
(俗にフレンチ・インディアン戦争と呼ばれているこの戦いは、フランスでは「征服戦争」と呼ばれています)

長くなってしまいましたが、以上がオーストリア継承戦争の概要になります。

些か気になりましたので若干のコメントを。

まず大前提として、「フリードリヒ2世がマリア・テレジアの『継承』に反発した」という前提は、実情とは異なります。

プロイセン王(König in Preußen)フリードリヒ2世にとって、マリア・テレジアが「継承」することが予定されていた地位そのものは重要ではありませんでした。
彼が狙ったのは、「シレジア地方」そのものです。
当時のプロイセンは、ドイツ騎士団領が17世紀後半に再編されたプロイセン公国と、ドイツ国内のブランデンブルク選帝侯領の人的同君連...続きを読む

Q迷っています⇒ドイツ&オーストリア vs 中欧(プラハ・ウィーン・ブタペスト)

9月下旬に60代の両親と一緒にヨーロッパ旅行を計画中です。

この旅では、趣きのある建物や街並みを堪能できればと思っています。
また、母が音楽好きで、今年はちょうどモーツァルト生誕250周年でもあることから、オーストリアには行きたいと思っています。

したがいまして、オーストリアを基準に「ドイツと組み合わせるか」「チェコ・ハンガリーと組み合わせるか」で迷っています。

今迷っているプランは、大きく分けて2つあります。

(1)ドイツ&オーストリア8日間
行程:ドイツ(ライン川クルーズ~ハイデルベルグ~ローテンブルグ~ロマンティック街道~ディンケルスビュール~ノイシュバンシュタイン城)→ オーストリア(ザルツブルグ~ザルツカンマーグート~ウィーン)

(2)中欧3ヶ国(プラハ・ウィーン・ブタペスト)8日間
行程:ハンガリー(ブタペスト~ドナウ川クルーズ)→オーストリア(ウィーン)→チェコ(チェスキー・クルムロフ~プラハ)

私は、中世の美しい街並みが堪能できそうな(2)に傾きつつあるのですが、両親にとってはチェコやハンガリーはドイツに比べてマイナーなイメージであまりピンとこないようなのです。

そこで、これまでドイツ・チェコ・ハンガリーに行かれたことがある方に「ドイツ派」か「中欧派」かのご意見・おすすめ情報等をいただければと思いご相談させていただきました(全ての国の情報でなくとも、いずれかの国について教えていただけるだけでも嬉しいです)。

ちなみに、旅行代理店の添乗員付きツアーに参加する予定です。両親も私も、ヨーロッパはこれまでイタリアのみ行ったことがあります。

勉強不足のため的を得ていない質問になっているかも知れませんが、よろしくお願いいたします。

9月下旬に60代の両親と一緒にヨーロッパ旅行を計画中です。

この旅では、趣きのある建物や街並みを堪能できればと思っています。
また、母が音楽好きで、今年はちょうどモーツァルト生誕250周年でもあることから、オーストリアには行きたいと思っています。

したがいまして、オーストリアを基準に「ドイツと組み合わせるか」「チェコ・ハンガリーと組み合わせるか」で迷っています。

今迷っているプランは、大きく分けて2つあります。

(1)ドイツ&オーストリア8日間
行程:ドイツ(ライン川...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。ハンガリー以外の国に個人旅行で行ったことがあります。
人それぞれ見方も違うということを前提にしてですが、私は中欧派です。

私はチェコとオーストリアが大好きです。ドイツは嫌いではないのですが、ドイツの町、特にロマンティック街道は、同じような町並みが多く飽きてしまうので、印象に残っていないことが多いです。
整然としすぎた個性の無い町が、他のヨーロッパの国に比べても多いような気がします。
別格で、個性のある独特な雰囲気を持ったハイデルベルクは私も大好きで、ドイツの中でここだけはまた行きたいと思わせる町でした。
ノイシュバンシュタイン城は綺麗過ぎて、逆にそのまま当時のまま(砲弾の痕跡がそのまま残ってたりしています)をさらけだしているハイデルベルク城のほうが魅力的です。
夕日に照らし出されたハイデルベルク城は、ため息がでるほど素敵です。
あと、ドイツでお勧めの町はドレスデン・マイセンです。
音楽がお好きだということですが、旅行に何をメインに置かれるかで行かれる場所も変わるのではないでしょうか?
自然を楽しまれたいのなら、オーストリアのザルツカンマグート地方はお勧めです。映画“サウンド・オブ・ミュージック”の背景が広がっています。私はハイリゲンブルート・ハルシュタット(世界遺産)が一番印象に残っています。
音楽をテーマに旅行されるのならチェコです。スメタナやドヴォジャークの足跡がたどれますし、あと、モーツァルトは晩年、貧困生活の中、オーストリアの貴族には無視されましたがプラハの貴族に援助され、プラハはとてもゆかりのある町になっています。中でもブルトラムカ荘はお勧めです。“ドン・ジョバンニ”を書き上げたところです。モーツァルトのゆかりの品々が展示されています。

建築物をテーマに周られるなら、これはもう好みですよね。私は整然としたものより、個性があって雑然とした絵になる街並みが好きなので、プラハです。質問者様は、プラハに陰・ドイツに陽という印象を持たれていますが、私は逆にプラハのお城や建築物のほうが遊び心満載で、楽しませるものがあるので大好きですし、例えばスグラフィットの装飾など、装飾がとても細やかです。
カルルシュテイン城なども印象に残っています。とても女性らしい景観で、中の内装もとても印象に残っていて私は大好きです。

私は、どちらかというとチェコのお城や街並みのほうが、男らしいドイツの町より可愛いと思うのです。世間一般では、ドイツの“ロマンティック街道”という名称が先行して、可愛いというイメージが出来上がっちゃっていますが、チェコの城や街並みが“ロマンティック街道”と言われてもおかしく無いと思うのです。ただ、ドイツのように観光地誘致をしていないだけだと思うのです。
そういう視点から見て頂いて、マイナーだから外そうというのではなく、自分の価値観に合う所、また行きたいと思う所に素直に行くのが一番いい選択方法だと思います。
今は、ドイツはイメージがちゃんと出来ているけれど、チェコのことは・・・?だと思うので、このままだと、チェコに分が悪いので、チェコのことももっと知ってから、決められてはどうでしょうか?

こんにちは。ハンガリー以外の国に個人旅行で行ったことがあります。
人それぞれ見方も違うということを前提にしてですが、私は中欧派です。

私はチェコとオーストリアが大好きです。ドイツは嫌いではないのですが、ドイツの町、特にロマンティック街道は、同じような町並みが多く飽きてしまうので、印象に残っていないことが多いです。
整然としすぎた個性の無い町が、他のヨーロッパの国に比べても多いような気がします。
別格で、個性のある独特な雰囲気を持ったハイデルベルクは私も大好きで、ドイツの...続きを読む

Qドイツ・オーストリア・ロシア(特にドイツ)はなぜ王朝がさかんだったのか

先進国は、何らかの民主化が早々起こってもいいはずだと思いますのに、なぜドイツは大戦まで革命がなかったのでしょうか?なにかフランスとかに比べて「いい王朝」だったのでしょうか。

Aベストアンサー

ドイツにおいても、ウィーン体制の頃に、何度か立憲制を求める革命騒ぎはありましたし、
さらに前の宗教戦争のころに起こった、ドイツ農民戦争は、
抜本的な社会変革を求めた革命であったと認識されています。
しかし基本的にはイタリアと同じで、ドイツは統一されていなかったというのが
第一の理由です。統一と国民国家の成立が非常に遅かったんで、
イギリスやフランスのごとき民主主義の進展が阻まれたというだけに過ぎません。
いい王朝だったというのは全く逆で、ドイツが細分化され、分裂し、
旧態依然としたローカルで中世じみた支配体制だったということ。
要するに後進的だったのです。
特に東に向かうほどドイツでは後進性が酷く、農奴制に近い社会が残っていました。
君主や領主の絶対的な権力が強く、軍隊も人民を抑圧する道具として機能していました。
人民の意見は武力で容易に弾圧できたわけで、いい王朝どころか
ドイツ地方の各政府は強圧的な政府ばかりだったといえます。
特に代表的なプロシアは、厳しい厳罰主義が軍隊と人民を支配していて、
18世紀の前半から軍国主義をとっていたので、民主化の芽はすべてももぎ取られていたというわけです。
大戦後にドイツで革命騒ぎが頻発するのは、実際、ドイツ政府の権力が弱体化したからに過ぎず、
民主勢力に対する圧力が弱まったので噴出すようにそういった運動が動き出したということです。
ま、現実的にはどれも成功しませんでしたが。

ドイツにおいても、ウィーン体制の頃に、何度か立憲制を求める革命騒ぎはありましたし、
さらに前の宗教戦争のころに起こった、ドイツ農民戦争は、
抜本的な社会変革を求めた革命であったと認識されています。
しかし基本的にはイタリアと同じで、ドイツは統一されていなかったというのが
第一の理由です。統一と国民国家の成立が非常に遅かったんで、
イギリスやフランスのごとき民主主義の進展が阻まれたというだけに過ぎません。
いい王朝だったというのは全く逆で、ドイツが細分化され、分裂し、
旧態...続きを読む

Qオーストリアのウィーンの治安ってどうでしょうか?

オーストリアのウィーンの治安ってどうでしょうか?

個人旅行で行きたいのですがスリが多いそうで・・・。

余裕があれば隣国のスロヴァキアへも行きたいですが
語学力が乏しいので無理かもしれません。

(昔、ドイツへ個人旅行で行ったことありますが、
そのときは何も被害にあわずに帰ってこれました)

Aベストアンサー

人口100万以上の大都市で欧州では一番治安がいいかと。女性一人旅の最適の都市です。まず何も起こりませんから。

とにかくローマやパリ、ロンドンよりはるかに安全です。スリはプラハやブダペストより少ないかと。

ドイツの中小都市と同じと考えていいかと。ドイツの大都市より治安がいいです。

ブラチスラバまで列車で1時間、語学力不要です。ここもドイツと同じと考えていいかと。

Qオーストリア継承戦争

オーストリアのマリア=テレジアの相続にイチャモンをつけたのはフランス・スペイン・ザクセン・バイエルン・プロイセンですが、各国が参戦に踏み出したそれぞれの利害関係を教えてください。
当時の国際関係がうまくつかめません。
マリア=テレジアがオーストリアの全領土を継ぐことは、なぜそんなにも周辺国が憂慮すべき事態だったのですか?
おねがいします。

Aベストアンサー

マリア・テレジアのハプスブルク家ですが、1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王となったのが世に知られる最初です。
その後ハプスブルク家はオーストリアに勢力を広げ、1308年にドイツ王と皇帝の称号を失いましたが、オーストリア大公として着実に成長し、1438年にアルプレヒト2世がドイツ王になってからはドイツ王位を完全に世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めます。
そして婚姻関係からハプスプルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルランドとスペイン王国、ハンガリー王国、ボヘミア王国を継承し、皇帝カール5世のもとでヨーロッパの大領土を実現しました。
このカール5世の後、カールの弟フェルディナンドが神聖ローマ皇帝位オーストリアとハンガリー、ボヘミアを譲られたのが、オーストリアハプスブルク家です。
さて皇帝カール6世ですが、世継ぎの男子が早世したため娘ばかり2人しかおらず、オーストリア・ベーメン・ハンガリーなどハプスブルク世襲領の相続を各国に認めさせるも、皇帝の称号は取り上げられます。

さてこの状況で
プロイセン:相続を認めるので隣接するシュレジエンが欲しい。
バイエルン:俺こそが正当な後継者である。バイエルン選帝侯(皇帝カール7世,在位1742~45)が主張。
フランス:プロイセン、バイエルンに味方するから、ネーデルランドをお礼にください。
イギリス・オランダ・ザクセン:敵(フランス)の敵は味方。

マリア・テレジアのハプスブルク家ですが、1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王となったのが世に知られる最初です。
その後ハプスブルク家はオーストリアに勢力を広げ、1308年にドイツ王と皇帝の称号を失いましたが、オーストリア大公として着実に成長し、1438年にアルプレヒト2世がドイツ王になってからはドイツ王位を完全に世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めます。
そして婚姻関係からハプスプルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラン...続きを読む


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