「クリミア戦争(1853-56)直後、オーストリアは経済的にも立ち遅れ、あまつさえロシアとの関係を悪化させた」というところでつっかかっています。これは関税同盟などが首尾よかったプロシアとの比較において語られています。ですが、オーストリアが当時ロシアとの関係がよくなかったとは記憶にありません。これは「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」との対比を解説した読み物です。

ロシアとの関係を悪化させたかもしれないオーストリアの外交の事例を調べています。よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

質問者様が引用された文から判断すると、オーストリアとロシアの関係が悪化したのは、クリミア戦争そのものだったと思うのですが。



#1さんが仰るように、もともと両国の関係はそんなに良いものとはいえません。それがナポレオン戦争~神聖同盟~ウィーン体制と協力関係にあったのは、一時的に両国の利害が一致していたからです。

その関係が悪化するのは、まさにクリミア戦争でした。
それまではフランスから波及した革命の気運を警戒して、同盟状態にあった両国ですが、クリミア戦争でオーストリアが英・仏を支持してロシアに対立する構図になります。

1848年のオーストリアでの革命時、ロシア軍の援護によって事態が沈静化するなど、ロシアに対して恩があったオーストリアでしたが、オーストリアとしてはロシアがバルカンに出てくるのはやはり我慢できなかったようです。

いつ自国を襲ってくるかという脅威もあるし、ここで英・仏についた方が後々有利になるという目論見もあっただろうし、対ロシアよりも対英・仏の方が脅威だっただろうし…そんな理由でロシアに対してワラキア・モルダヴィアからの撤退を迫り、ロシアはそれに応じた、という流れになります。

で、そこからしばらくはオーストリアは動かなかったのですが、ニコライ1世が病死して、セヴァストーポリが陥落して、ロシアが負けモードになると、オーストリアが参戦して、その翌年ロシアが降伏します。

結局、オーストリアの参戦は、連合国にとって一番大変だったセヴァストーポリ戦後だったことから、連合国に特に評価もされず、ロシアからは反感を買って踏んだりけったりな感じになる、と。

以上のことから、疑問にはお答えできたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

1848年のオーストリアでの革命時にオーストラリアはんを助けたったのに、戦争になったら中立を守らへんのはなんでやねん!がロシアの立場だったちゅうわけやな。おおきにな。

お礼日時:2006/06/24 11:09

オーストリアが、対プロシアに集中していた時期は、ロシアの支援を受け、ドイツ問題で有利に展開していました。


この時は、オーストリアとロシアは、蜜月状態でした。
1848年の、ハンガリーの反乱に際し、ロシアに支援を求め、ロシア軍により反乱を鎮圧しています。
1850年のオルミュッの協約は、ロシアの支援を受けたオーストリアが、プロイセンに最後通告を宣言し、プロイセンを屈服させ、プロシアによるドイツ統一を阻止しています。

この後しばらくは、ドイツ連邦は、オーストリア・ロシアサイドで運営されます。

オーストリアとロシアの友好が崩れるのが、ロシアのトルコ宣戦布告と、それにともなう、ロシアのバルカン半島侵攻です。

バルカン半島において、ロシアは、オーストリアとロシアによる共同支配を提案していましたが、オーストリア側は、バルカン半島の主たる民族が、ロシアと同じスラブ民族であり、このころ、スラブ人の民族意識が高まっていたため、ロシアとの共同支配となった場合、支配化のスラブ人が、ロシア側に走ってしまう事を危惧していました。

1853年に、ロシア軍がルーマニアに侵攻するに及び、オーストリアとロシアの同盟関係が崩れ、1854年のクリミア戦争で、決定的となります。

これには、ドイツ国内でのプロイセンの立場を有利にするために、プロイセンのビスマルクが、ロシアとの関係改善を行い、ロシア側に、オーストリアとの離反によるダメージを軽減した事も、原因のようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ダニューブ侵攻がオーストリアを怒らせたんで、英仏と組んで、それが逆にロシアを怒らせたちゅうわけですね。ところで punctation って何ですか、ウィキペディアさん。
おおきにです。

お礼日時:2006/06/24 11:05

その”上記の内容”をもっと詳しく書いてくれないと


具体的に著者が何をさしているかは
類推するのは難しいですが、
クリミア戦争後の出来事ということを考えれば
露土戦争とベルリン会議でしょうね。
英・墺がサン=ステファノ条約の破棄を迫って
外交関係は険悪になります。
1878年のベルリン条約の内容と経緯を
調べれば、疑問は解消するかと。
    • good
    • 0

? オーストリアとロシアの外交関係は


往々にして悪いものです。
というのも両大国は国境を接していただけでなく
覇権国家として勢力範囲が重複していました。

争点は時代によってこもごもありますが、
主なものは、まずポーランド問題。
これは直接・間接の領土紛争ということですが
ポーランド領をめぐっては
プロシア、ロシア、オーストリアは
18世紀からずっと互いに争いけん制しあって
しばしば戦争の原因となりました。
オーストリアはロシアとは同盟関係だった時も
ありますが、潜在的な敵国です。
ハンガリーとロシアの国境線はしばしば変更を
余儀なくされています。

第二は、バルカン問題。
汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立関係は
オスマン=トルコの領土が縮小を始めた頃から
激しい対立となって顕著になります。
神聖ローマ帝国はヨーロッパへの外敵の侵入を
防ぐことから形成された帝国であるといえるわけで
その意味でドイツ人とスラブ人の対立は
ドイツ騎士団領のころからあるわけですが、
トルコの撤退で、ロシアとオーストリア両国の
影響力がバルカン半島に流入して
要するにバルカン半島の支配権を巡って
南下するロシアとオーストリアは敵対するわけで
これが結局は、第一次世界大戦の引き金となります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おかげさまで1次大戦までの伏線となる露・オ関係の潜在的な敵対関係が浮き彫りになりました。
多分筆者は上記のように書いたとき具体的な歴史イベントが念頭にあったと思いますが、どういったものが考えられるでしょうか?

お礼日時:2006/06/23 18:52

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qドイツ・オーストリア・ロシア(特にドイツ)はなぜ王朝がさかんだったのか

先進国は、何らかの民主化が早々起こってもいいはずだと思いますのに、なぜドイツは大戦まで革命がなかったのでしょうか?なにかフランスとかに比べて「いい王朝」だったのでしょうか。

Aベストアンサー

ドイツにおいても、ウィーン体制の頃に、何度か立憲制を求める革命騒ぎはありましたし、
さらに前の宗教戦争のころに起こった、ドイツ農民戦争は、
抜本的な社会変革を求めた革命であったと認識されています。
しかし基本的にはイタリアと同じで、ドイツは統一されていなかったというのが
第一の理由です。統一と国民国家の成立が非常に遅かったんで、
イギリスやフランスのごとき民主主義の進展が阻まれたというだけに過ぎません。
いい王朝だったというのは全く逆で、ドイツが細分化され、分裂し、
旧態依然としたローカルで中世じみた支配体制だったということ。
要するに後進的だったのです。
特に東に向かうほどドイツでは後進性が酷く、農奴制に近い社会が残っていました。
君主や領主の絶対的な権力が強く、軍隊も人民を抑圧する道具として機能していました。
人民の意見は武力で容易に弾圧できたわけで、いい王朝どころか
ドイツ地方の各政府は強圧的な政府ばかりだったといえます。
特に代表的なプロシアは、厳しい厳罰主義が軍隊と人民を支配していて、
18世紀の前半から軍国主義をとっていたので、民主化の芽はすべてももぎ取られていたというわけです。
大戦後にドイツで革命騒ぎが頻発するのは、実際、ドイツ政府の権力が弱体化したからに過ぎず、
民主勢力に対する圧力が弱まったので噴出すようにそういった運動が動き出したということです。
ま、現実的にはどれも成功しませんでしたが。

ドイツにおいても、ウィーン体制の頃に、何度か立憲制を求める革命騒ぎはありましたし、
さらに前の宗教戦争のころに起こった、ドイツ農民戦争は、
抜本的な社会変革を求めた革命であったと認識されています。
しかし基本的にはイタリアと同じで、ドイツは統一されていなかったというのが
第一の理由です。統一と国民国家の成立が非常に遅かったんで、
イギリスやフランスのごとき民主主義の進展が阻まれたというだけに過ぎません。
いい王朝だったというのは全く逆で、ドイツが細分化され、分裂し、
旧態...続きを読む

Qもしもドイツの統一がオーストリア主導でなされたら

もし、19世紀のドイツ統一事業をオーストリアハプスブルグ帝国中心に進められたら世界史は大きく変わるのでしょうか?その場合、プロイセンの処遇は?プロイセン抜きでは大ドイツ主義にならないし、それでも中欧に超大国(大ゲルマン帝国)が出現しますね。露仏同盟は強化されるし、帝国内に抱えた民族問題やら、イタリヤとの領土問題などドイツの発展にとって足枷となる難題が多そうです。

Aベストアンサー

度々すみません
再補則します


なぜドイツ関税同盟がオーストリアを除外したプロイセン中心の小ドイツ主義的統一がなされたかというと

前にも述べましたようにプロイセンをはじめとするドイツ関税同盟諸邦とオーストリアの経済格差があります
オーストリアの産業革命は19世紀後半です
ドイツ関税同盟が自由貿易を標榜するとは逆に産業革命前の一次産品中心のオーストリアは保護貿易指向です

第二にプロイセンの交通網整備です
鉄道敷設前のライン川、オーデル川の河川航路、道路建設は19世紀前半の時点でよく整備されました
当然、鉄道敷設にも力を入れました

第三にプロイセンの地理的優位さ
例えば内陸のザクセンはハンブルク、ブレーメンの海港から原材料、中間財を輸入せねばなりません
それにはプロイセン領内のオーデル川航路や道路を使用せねばなりません

また南西の同じく内陸にあったヴュルテンベルクにとっては国内の生産物を大量消費してくれるのは
プロイセン領のルール地方のあるヴェストファーレーンで
そこへ輸送するにはやはりプロイセン領のライン川航路を使用せねばなりませんでした


第四にプロイセン以外の諸邦の産業企業家や中産階級が
上記の事でわかるように小ドイツ主義的経済統一を望んでいたことです

普墺戦争で南西諸邦は政治的理由でオーストリアに味方しますが
戦争が終結するとすぐにドイツ関税同盟は復活するのです


長文失礼致しました

度々すみません
再補則します


なぜドイツ関税同盟がオーストリアを除外したプロイセン中心の小ドイツ主義的統一がなされたかというと

前にも述べましたようにプロイセンをはじめとするドイツ関税同盟諸邦とオーストリアの経済格差があります
オーストリアの産業革命は19世紀後半です
ドイツ関税同盟が自由貿易を標榜するとは逆に産業革命前の一次産品中心のオーストリアは保護貿易指向です

第二にプロイセンの交通網整備です
鉄道敷設前のライン川、オーデル川の河川航路、道路建設は19世紀前半の...続きを読む

Q不墺戦争時代のオーストリア国内の「ドイツ人」とは

「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」などとドイツ統一が議論された際に、またオーストリア・ハンガリー帝国を築く際にオーストリア国内の支配勢力として出てくる、「オーストリア国内のドイツ人」とはどういう人のことを指していたのですか?
民族的に「ゲルマン系」の人達のことですか?しかしヨーロッパにゲルマン人が到来して1000年以上も経ち、混血も相当に進んでいると考えるとどこまでがゲルマン系と言えるのか分かりません。長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
もしくは、混血をしていようともオーストリア内に伝統的にドイツ語を話す地域があり、そこに住む人達を指したのでしょうか?

「大ドイツ主義」に含められていた「オーストリア国内のドイツ人」と、不墺戦争に敗れた後、オーストリア国内のドイツ人の支配を保つためにハンガリー国内に済むマジャール人と手を組みオーストリア・ハンガリー帝国を築いた、というときのオーストリア国内に24%いた「オーストリア国内のドイツ人」はおそらく同じ人達のことを指しているとは思うのですが、誰が何を持ってドイツ人なのか、詳しくお知りの方がいらっしゃいましたら分かりやすくご教授お願いいたします。

また、結局ビスマルクによって小ドイツ主義が取られ、オーストリア国内に取り残されたドイツ人達(の子孫)は今もオーストリアに住んでいるのでしょうか?

「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」などとドイツ統一が議論された際に、またオーストリア・ハンガリー帝国を築く際にオーストリア国内の支配勢力として出てくる、「オーストリア国内のドイツ人」とはどういう人のことを指していたのですか?
民族的に「ゲルマン系」の人達のことですか?しかしヨーロッパにゲルマン人が到来して1000年以上も経ち、混血も相当に進んでいると考えるとどこまでがゲルマン系と言えるのか分かりません。長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
...続きを読む

Aベストアンサー

神聖ローマ帝国が、1806年まで存在していました。神聖ローマ帝国は国というよりも神聖ローマ皇帝を盟主とする領主貴族の連合体みたいなものでありました。その神聖ローマ帝国からスイス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどが神聖ローマ皇帝の支配を脱して、残された地域がドイツになったわけです。ではオーストリアはなんなのか。オーストリアとは神聖ローマ皇帝を一時期世襲していた最有力な領主貴族の一つであるハプスブルク家の領地です。神聖ローマ帝国は、領主貴族代表と聖職者代表が選挙で神聖ローマ皇帝という職位を決めていました。これを選挙王制という。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国滅亡時点の最後の神聖ローマ皇帝でありました。ハプスブルク家は元々神聖ローマ帝国の領土の一部も領地にしていましたが、領土を拡大して神聖ローマ帝国の外にも領地を持ったのです。それが、現在のチェコ、スロバキア、ハンガリーといった国の領土です。神聖ローマ帝国が滅亡した時点で、ハプスブルク家は旧神聖ローマ帝国の一部、チェコ、スロバキア、ハンガリーといった4つの民族構成が異なる4つの地域を領地にしていたということなのです。その領地を持って、神聖ローマ皇帝を退位したフランツ2世がオーストリア帝国の樹立を宣言します。

ここまでで回答になっているかな。オーストリア国内のドイツ人とは、旧神聖ローマ帝国の一部の住民のことです。

ドイツ統一とは、神聖ローマ帝国滅亡後にばらばらになってしまった領主貴族の領地を、再び一つに国としてまとめるということです。ところがハプスブルク家は1804年には自分の領地だけでオーストリア帝国の成立を宣言した。またハプスブルク家の領地は元々神聖ローマ帝国の領土の外も含んでいますから、話は面倒なことになってしまったわけです。

本来のドイツ統一の主旨からすれば、ハプスブルク家の領地の一部も併合しなければならない。しかし、それは同時にオーストリア帝国の分割を意味してしまうことになります。それだけはハプスブルク家としてはたまらない。オーストリア帝国にしがみつけば、主要な支持基盤を失うわけですから、異民族であるチェコ、スロバキア、ハンガリーから追い出されてしまうことは目に見えている。さりとてドイツ側につけば、チェコ、スロバキア、ハンガリーを失うことになってしまう。ハプスブルク家の立場としてはオーストリア帝国の分割だけは、どうしても許せないわけです。だからオーストリア帝国を拡大発展させた大ドイツか、オーストリア帝国を除外した小ドイツの2つの選択肢しか無かったわけです。一方、ドイツ統一を主導したプロイセン王国のホーエンツォレルン家としては何としてもハプスブルク家を排除したかったのです。

その後、オーストリア帝国は第一次世界大戦の敗戦によって、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーに分割されて、ハプスブルク家の帝政は終わります。現在のオーストリアは第一次世界大戦の前の1/4ぐらいに縮小された、ドイツ人地域だけが残された訳です。

そして、そのオーストリアは第二次世界大戦の前にドイツに併合される。

ちなみにオーストリア・ハンガリー帝国とは、オーストリア帝国から分離独立を目指すハンガリー人をなだめすかす為に、ハンガリーという名称を国名に含めただけです。

ここでは極めて大雑把な話しかしませんが、神聖ローマ帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国、ドイツ帝国の歴史は極めて複雑なので、中途半端に理解しようとしても、とても無理です。

神聖ローマ帝国が、1806年まで存在していました。神聖ローマ帝国は国というよりも神聖ローマ皇帝を盟主とする領主貴族の連合体みたいなものでありました。その神聖ローマ帝国からスイス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどが神聖ローマ皇帝の支配を脱して、残された地域がドイツになったわけです。ではオーストリアはなんなのか。オーストリアとは神聖ローマ皇帝を一時期世襲していた最有力な領主貴族の一つであるハプスブルク家の領地です。神聖ローマ帝国は、領主貴族代表...続きを読む

Q専制主義と絶対主義、全体主義の違い

中華帝国を代表とする東洋的な専制国家と、近世ヨーロッパの絶対主義国家、
それと戦前の日本やドイツまた共産圏のような近現代の全体主義国家、
これらの違いはどういうところにあるのでしょうか?
一人または少数の権力者が国土と人民を全面的に支配している点では
同様に思えるのですが。

Aベストアンサー

専門家ではないので、学術的に完全に誤りがないかどうかは別にして、便宜的な理解だとこうなると思います。

>一人または少数の権力者が国土と人民を全面的に支配している点では同様に思えるのですが。

この点で共通点があるように見えますが、「人民」が政治に関わる度合いに相違点があると理解してよいのではないかと思います。

いわゆる古代・中世の専制国家・専制君主は、全人民を直接支配していたというよりは、間接支配に甘んじていました。地方の実力者が大きな力を握っていたため、彼らの地元支配を認める代わりに自分の君主としての立場を承認させていたというのが実態です。

絶対王政のころ(近世)になると、地方の実力者(ヨーロッパでは貴族)に対抗しうる勢力が出てきます。主に商売で財をなした有力市民(人民)です。彼らは、地方を今までどおり支配したがる地方実力者(貴族)の力を弱めて自分たちが自由に商売を行いたいと考えるようになりました。これが、地方実力者の力を弱めたいという君主の利害と一致し、君主を積極的に支持し、君主の権力の強大化を後押しします。日本でも、明治維新では豪商が志士を経済的に支援しています。形は違えど、江戸時代の地方分権から明治の中央集権の権力構造の変化に際して財力を持った市民の関与が見られました。

全体主義になると、先の回答でもあったように民主主義に対立する言葉として使われます。つまり、絶対主義のような一部の有力市民だけでなく、基本的にはほとんどの国民(男性だけだったり、高額納税者だけだったり、という制限はあるかもしれまんせんが、)が政治に参加できる状況下で起きる現象です。クーデターまがいの政権もありますが、政権樹立時には国民の相当部分から直接の支持がなければ成立しない、という点で専制や絶対主義とは異なっています。

専門家ではないので、学術的に完全に誤りがないかどうかは別にして、便宜的な理解だとこうなると思います。

>一人または少数の権力者が国土と人民を全面的に支配している点では同様に思えるのですが。

この点で共通点があるように見えますが、「人民」が政治に関わる度合いに相違点があると理解してよいのではないかと思います。

いわゆる古代・中世の専制国家・専制君主は、全人民を直接支配していたというよりは、間接支配に甘んじていました。地方の実力者が大きな力を握っていたため、彼らの地元支...続きを読む

Q私の両親は戦後農協勤務時GHQに渡された映画を公民館で上映してました。自由主義、資本主義、民主主義を

私の両親は戦後農協勤務時GHQに渡された映画を公民館で上映してました。自由主義、資本主義、民主主義を受け入れると、洗濯機、掃除機、自動車、等がつかえ生活向上のためと、仕事をしました。それは共産主義の砦なのです。それをケントギルバートはGHQのマインドコントロールと切り捨てます。私はケントギルバートが親の敵と思います。親を侮辱されて皆さんは怒らないのですか?

Aベストアンサー

>お前にお父様きもいわ!

他人の身内を語る場合に使う普通の敬称だと思いますが、何かおかしな妄想をしていませんか?
それとも日本語に不慣れな方のでしょうか。



>父親母親戦前軍国主義者でした。それが悪いか!

>私の両親は戦後農協勤務時GHQに渡された映画を公民館で上映してました。自由主義、資本主義、民主主義を受け入れると、洗濯機、掃除機、自動車、等がつかえ生活向上のためと、仕事をしました。

↑ですが、どちらもお父様の本心だとすると、どちらかは洗脳状態だったと思います。



>それは共産主義の砦なのです。
>資本主義最高!!


人気Q&Aランキング

おすすめ情報