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メンタルヘルスというか、なんか別の話かもしませんが、ここが一番かと思いここに書き込んでみました。
よく、「色んな生き物は何かをなすべき為に、この世に生を受けているんだ」と言うようなことを聞きますが、では、その目に見えない「何か」を成し終えたらその生き物は生きている価値が無いのでしょうか?
また、その「何か」を持って生まれていない(見つからない)生き物は、自然の摂理に従い淘汰されるべきなのでしょうか?

何か回りくどい言い方になってしまったのですが、自分自身、その「何か」を見つけることが出来ず「自分は淘汰されるべき人間」という考えが頭から常に離れないのです。
このような考えを持つこと自体変だと、この質問を投げた人には言われているのですが、本当に変な考えなのでしょうか?
どの様な回答でも構いませんので、どうぞ宜しくお願いいたします。

A 回答 (14件中1~10件)

あなたが淘汰されるとはどういった状態になることを言うんですか?

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また、書きます。

k-ishi。
次の一節を読んでください。淘汰されるべき人間なんていません。

1.「あの世」への帰還
 (1)「魂」としての自覚

参考URL:http://www.sol.dti.ne.jp/~sam/realaim/NO1.html
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mercury_starさんが今生きているならまだ淘汰されるべき人間じゃないと思います。


人間はなにか役目をもってこの世に生まれて、そして成し遂げたら死ぬんだと自分は強く信じていますが、その役目は気づかないものかもしれませんよ。
「役目」はスゴイ物を発明したり、世界平和に貢献したりとかじゃなく、
もしかすると家庭を持って子供を立派な常識のある人間に育てる事かもしれません
でもそう考える事は大事だと思います。ただいつも考えるべき事ではないと思うんです。
変なアドバイスになってしまいましたが参考にしてもらえたら、と思います。
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そもそもの淘汰という考えが、本当にありえるのかが重要です。

ダーウィンの進化論(この進化論自体、他人の理論のパクリではあるが…)の不完全さは議論されて久しいです。

『役割の終わり=淘汰』という考え自体が、もしかしたら自然の法則に反しているかも知れません。

簡単に終われるような役割りは役割りにならないのではないでしょうか。卑近な例で言えば、会社でも簡単に終了できる役割りの与え方は、よっぽど会社に余裕がない限りしません。およそ人間に求められる全ての役割りは社会に満ちており、人間にできない役割りは存在しません。

あるとすれば、自分の理想とする役割りと現実のギャップだけではないでしょうか。

発展途上国で、道端で物乞いをする子供達は、「やむをえない」状況という背景はありながらも、それが彼らの切実な役割りであって、その意味でも、その宿命の中で役割りを果たしていると考えられないでしょうか。

私達は、あまりにも恵まれた社会に住んでいるために、役割りについて考えられる余裕が生まれているとも思います。

先日、NHKの教育テレビで、瀬戸内寂聴さんが悩み相談をしていましたが、mercury_starさんと同様の質問を受け、「世の中が豊かになったのですね」と答えられていました。世界を見渡せば、自分の役割を考えられる余裕のある人の方が少数で、ほとんどの人が明日を生きる為にどうするかで精一杯なのだということでしょうか。

私は、この豊かな社会で生まれ育って、自分の役割について考えられる(悩める)幸運を感じるのが、まずは先だと思います。
突き放す言い方かも知れませんが、私も同様の悩みを経過しており、私の出した結論も、このようなものでした。
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真面目に突き詰めれば確かに


「自分は生きるに値する人間か?」という疑問はありますね。
何の根拠もなく自信は持てないですね。
何かを成し遂げたと実感したとしても
「私は人類に欠くべからざる人間だ」などと言われればどんな人物でも鼻持ちならないと感じますよね。
「何かを担って生まれて来た」と考える場合は神の存在を肯定しなくては矛盾しますよね。
色々な宗教家が色々な説を唱えたりしていますが、突き詰めれば「何であなたはそんなことを知っているのか!?」と突っ込みたくなるし、それに答えられる人などいないでしょう。
人間とて生物です。
生物として生まれただけ・・・だと思うのが正解ではないでしょうか?
生まれっぱなしで周囲に迷惑を掛けっぱなしで死んでいくのか、偶然出会う人達にいくらかでも役に立って気持ち良く一生を終わるのか、それは人間として生まれたあなたが決めることではないでしょうか。
ただ、貴賎もなにもなくただヒトとして生まれた者同士に上下は無いはずなので、淘汰されるべき人とそうでない人の区分って物も無いわけです。
そんなことは誰にも決められない。
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 「生き物は何かをなすべき為に・・・」と書かれておりますが、そのなすべき行いは、絶対的な評価に基づく物ではありません。

あくまでも相対的な価値観として捉えるべき物でしょう。家族の為、地域社会の為、国家の為、世界人類の為、地球の為等々、考えられることは色々と有るのですが、無理に自身の認識として捉えなければならないことでもないと思います。自分の行いや存在そのものが、自分の思惑とは違った影響を社会に及ぼしている事を考えなければなりません。
 先日、某国営放送で、若者たちが自分の存在意義についての討論をやっていましたが、彼らは”存在意義”と”自己満足”という二つの言葉の狭間で悩んでいたように思われます。私は”存在意義”についても前述したように、相対的な価値観として捉えるべきであろうと考えます。何々にとっての自分の存在意義というように、色々な角度から
考えると、それなりの答えが浮き上がってくるでしょう?
それが、例えば”自分にとっての自分の存在意義”に行き着いても、それはそれで面白いじゃないですか。要するに
存在意義とか、なすべき行いとか、淘汰されるとか、あまり自分の中だけで悩むことは無いと思いますよ。ただ、この問題について考えている貴方も、そのことによって、ある事柄に対する何かの影響を成し遂げているかも知れません。 
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mercury_star様


宗教に答えを求めるのも一つの方法と思いますが、このたびはそのようなことを言うのはやめましょう。多分いろいろ試行錯誤されたのでしょうから。
(1)生物学者である「柳沢圭子」さんという方が、生物学的視点から人生を語られています。何冊もの本を出されています。あなたのような質問に対する答えがきっとある筈です。参考に読まれたら如何ですか。書籍検索(の著者検索)で検索できます。
(2)人は生まれる前に「人生の自己計画」を立てて生まれてくるのだということが、米国の精神医学者の退行催眠療法によって明らかにされています。この関係の本も何冊も出版されています。経営学者でおられる、福島大学の飯田史彦先生という方がこの手の研究をまとめた論文を出されております。一般人にも読みやすい内容です。URLを参考にして下さい。宗教的な話のように思われますが、宗教ではありません。
誰も自分の人生は生まれる前に自分で計画して生まれてくるという事です。自分の人生の目的はあなた自身が知っているということです。こういう事実をどう解釈されるかはあなた次第です。
飯田先生は何冊もの本を出されていますので、ご参考にされては如何ですか。飯田先生のHPもあります。
以上。k-ishiでした。

参考URL:http://www.sol.dti.ne.jp/~sam/realaim/Lifeindex. …
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マグロは釣り上げて、さばいて食べればおいしい。


養殖した人間にしてみれば、マグロの使命はおいしく食べられること。
でもそんなこと、マグロ自身にしてみれば知ったことじゃない。
どう生きるかはマグロの勝手、マグロの感じる幸せを追っていくというのが
生き物なんじゃないかなあとわたしは思ってます。

世界一の俊足に生まれついたら、運動選手にならなきゃいけないかしら?
それでも、走るより料理が好きだったら、料理人になったほうが
そのひとにとっては自然で幸せなのだとわたしは思います。
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たしか新聞で見たと思うのですが、とても印象に残った言葉があったので、ここで書かせていただきます。



「ここにあなたの地球での使命が終了したかどうかを判定するテストがあります。
 生きていますか?
 もし命があるのなら、あなたの使命は終わっていないのです。
 - リチャ-ド・バッハ」

いかがでしょうか?
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「為すべき事」それを決めるのは自分です.


「何か」が何かを決めている人もいれば、まだ決めていない人もいます.
決めていない人は、そのうち見つかります.
為し終わった人は、次の「何か」が見つかります.すぐ見つからない人もいます.

あなたの言う「何か」が見つからなくても焦る必要はナッシング.
なぜなら、「何かが無い」時間も大切な時間だからです.
いつも何かに向かって全力疾走できる人はなかなかいません.

私は、2年前から今の「為すべき事」を発見して走っています.とろとろと.
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