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1333年新田の挙兵で、鎌倉方と新田方双方の戦闘が起きますが、多摩川沿いの戦い(分倍河原の戦い)の後6日間で鎌倉は陥落してしまいます。

鎌倉は攻撃に強い都市として設計されており、切通しや地形的な有利さなど、責めるほうにとってはやすやす攻め落とせるとは思えないのですが、なぜこれほどあっけなく陥落してしまったのでしょうか。

また、もし防衛策があるとすれば、どうやったら新田の攻撃を封じることができたのでしょうか。

A 回答 (8件)

問題の稲村ヶ崎ですけど、鎌倉方は地元ですから、この時期は午前2時50分と午後2時半頃に起こることは知っていたと思います。


「梅松論」に依れば、
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5月18日の午後2時頃、義貞の軍勢が稲村崎を通って前浜の在家を焼き払った。
その煙が見えたので、鎌倉中は手足の置くところもないほど驚き騒ぎ、周章狼狽した。
しかし、高時の家人の諏訪、長崎以下の者が身命を捨てて防ぎ戦ったため、この日の浜の手の寄せ手の大将だった大館宗氏が稲瀬川で討死し、その方面の新田勢は退いて霊山の山頂(仏法寺跡)に陣を取った。
19日、20日、21日に霊山寺の大門に立てこもる幕軍との攻防戦が行われ、ついに三木俊連の奇襲で大門が開かれた。
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これによりこの方面の幕軍は手薄になりますから、午前2時50分の干潮で、新田義貞はやすやすと鎌倉に侵入することが出来ます。
この記述を読む限り、鎌倉方も防御はしており、一旦は追い払ったものの、その後の攻防戦に敗れて要害を明け渡したことが判りますから、もう既に内部ではどうしようもない状況だったことが考えられます。
新田義貞の奇襲と言うより、敵の拠点を落として、安全を確保してから通過していますから、太刀を海にというのは、もし本当なら一種の魔よけと言うか、儀式としてやっただけで、戦とは関係が無いですね。
合戦の前半は「梅松論」の方が詳しいので、「太平記」とあわせて読むとよいですよ。
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この回答へのお礼

そういう資料もあるのですか。まったく素人な者で(^^;)しかし、結局干潟を渡ることは可能だったわけなのですね。実地検分した調査があるのかわかりませんが。月明かりなどあったのかなくても通過できるものか疑問が残ります。

お礼日時:2006/07/23 09:06

つけくわえますと、14世紀は世界的に見ても寒冷期だったようです。

そのために海岸線は今より海側にあったと予想されます。すると干潮時には大軍でもある程度は突入できたはずなので、新田義貞が干満の時刻を把握していたとしたら、黄金の太刀伝説はまんざら嘘でもないかもしれないです。
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この回答へのお礼

はい、鎌倉時代の寒冷期というのは聞いたことがあります。こういう飢饉なども幕府を弱らせた要因でしょうか。海岸線の後退というのが意味あるほどだったとすると、十分考慮に値することですね。

お礼日時:2006/07/25 23:42

問題の稲村ガ崎ですが、前に実証を試みた話を読んだ記憶があります。

  700年前と近年と状況が同じとはいえませんが、一応参考になります。   当日とおなじ潮の日は大潮でなく、干潮でも通るのは結構大変だが、無理すれば通れるだろう、との結論だったようです。  大軍が渉るのには難渋したと思います。   潮に流された兵もいたようですが。   資料が見あたらないので、不確かですが。
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この回答へのお礼

そういう記事もあったのですか。大潮ではないのですね。

お礼日時:2006/07/25 23:39

確かに鎌倉は防御に適した地形でしたが、それ以上に兵力差が大きかったのが敗因でしょう。



包囲された形で重点的に切り通しという交通路を防御したでしょうから、防衛側は前方だけに備える事になります。

当然海側も防御の配慮はされた筈ですが海岸線は広く攻撃点を特定するのは至難です。
船を利用した上陸作戦もあり得た筈で当然防御側の兵力不足から幕府側は機動防御しかとる方法はなかったと考えられます。

従って防御施設のない野戦防御を強いられる事になった筈でこれはかなり不利な体勢です。

当時の関東勢には乗馬兵も多く干潮時の干潟を渡る事は容易だったとおもわれます。
戦闘時には弓矢による射撃戦が先行し防御施設のない防戦は困難だったでしょう。
それでも必死の防戦で時間は稼げたでしょうが海側の防御線が破れると寄手の総攻撃を受けて敗北したとおもわれます。

内線防御は機動力と十分な予備兵力が必須条件です。
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この回答へのお礼

兵力差ですか。やはり、前哨戦で敗北したのが響いたのでしょうかね。海というのが弱点だったようですね。

お礼日時:2006/07/25 23:38

完全に余談ですが....


「新田義貞が干潮を利用して稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入った」というのは「太平記」に記された伝説に過ぎないと聞いたことがあります。
当時の確実な資料からすると新田軍は海岸線を通っていない推定されるそうです。
「太刀を投じて龍神の加護で鎌倉を討てた」という鎌倉攻略の正当性を高めるための伝説のようです。
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この回答へのお礼

もちろんその逸話はアレですけど、事実に基づいて創作されたのかいなかというのが問題です。
通っていませんか?ならますます防衛都市鎌倉が機能しなかったことになるか、戦意が喪失していたかなんですかね。

お礼日時:2006/07/23 09:01

鎌倉攻めの前に、武蔵での戦闘で幕府軍は連敗し、日和見だった関東の諸将を倒幕へ踏み切らせました。


まったく無名だった新田義貞ですが、大塔宮及び足利高氏による誘いに応え、多くの軍勢が義貞と千寿王(後の足利義詮)の下に集まります。
この時点で兵力差は決定的になり、いかに鎌倉が難攻不落でも、防衛は不可能となりました。

参考URL:http://www.kamakura-burabura.com/rekisinittayosi …
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この回答へのお礼

大局的な形成というのは不可抗力的でしょうね。幕末史を見ても明らかでしょうし。防衛上、「干満の差を生かしてくるかもしれない」という発想はあったのか、あったとしても対策しようがなかったのかなぞですね。

お礼日時:2006/07/23 01:31

稲村ヶ崎の干潮を利用したようです。



参考URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taihei …
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この回答へのお礼

そうですね。その伝説は有名でした。
実際調査などしたことがあったでしょうかね。その干満の差でどうかなとか。

お礼日時:2006/07/23 01:29

こんにちは。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0% …
(ウィキペディア)にその訳らしき事が書いてあります。

新田軍は、各切り通しから攻撃しただけでなく、海から干潮を利用して襲撃したのが効いたみたいです。
切り通しと違って、干潮時に渡れる状況ならば、大量の兵がなだれ込む事が可能ですから、海からの攻撃を予測してない場合は完全に後ろから攻撃された状態になったでしょう。

源義経の鵯越えや、屋島の戦いと同じように奇襲戦術ですね。
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この回答へのお礼

そうですか。しかし干潮がどの程度のものか、開設時に調査ぐらいしそうなものだと思いますが、そういうことは考慮外だったのでしょうかね。それとも、そこはもう致し方なかった弱点として最後まで残ってしまったということだったのか。あるいは海を(たとえ干潮であっても)渡ってくるはずないという常識破りの先方だったのか?ちょっとなぞです。

お礼日時:2006/07/22 22:05

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