No.3ベストアンサー
- 回答日時:
どこから書けばよいのかわかりませんので、一番初めから。
イングランドとアイルランドは、共にケルト文化を持つ兄弟のような関係でしたが、ローマ帝国が、イングランドを占領したとき、ローマは、徹底したイングランドのローマ化を行いました。
(アイルランドにはローマ帝国は進出しませんでした。)
これにより、次第にイングランドとアイルランドの文化的共通性が無くなってゆきます。
その一方、アイルランドには、キリスト教は入り、ケルト文化とキリスト教が交じり合ったケール教会が成立します。
ローマ帝国の崩壊後、イングランドは混乱し、文化や学術などの大幅な低下が起こります。
その時、アイルランドのゲール教会の修道士が大勢イングランドに進出し、学術・文化などの際築に力を入れます。
このことは、後のアイルランド人が、イングランドの混乱を再構築し、文明を与えたという自負心となります。
アイルランドに成立したゲール教会は、カトリックに属さないため、教皇ハドリアヌス4世が、ヘンリー2世に、アイルランドの領有権を与え、アイルランドのカトリック化を目論見ます。
アイルランドのレンスター地方(ダブリン周辺)の領有に成功し、イギリス人を入植させますが、彼らはしだいにアイルランド化してしまい、実質イングランドの支配下から離れてしまいます。
これは、当時のイギリスが、百年戦争、バラ戦争などで、アイルランドを顧みる事ができなかったのが原因です。
チューダー朝の成立により、余裕ができたイギリスは、アイルランドに進撃し、アイルランド最大の貴族キルディア伯を滅ぼし、再度アイルランドに覇権を確立し、時の王ヘンリー8世は、アイルランド王となります。
それと同時に、アイルランドの宗教を、イギリス国教会へと変貌させる事を始めます。
イギリス王として、エリザベス1世が即位し、カトリックのスペインと対立するようになると、スペインのフェリペ2世が、アイルランドにカトリックの宣教師を多量に送り込み、反イギリス感情の強かったアイルランドのカトリック化に成功してしまい、またアイルランドは、イギリスから離れてイギリスへの反乱を繰り返します。
エリザベス1世の死後、スコットランドのスチュアート朝がイングランド王となると、アイルランド北部のアルスター地域での反乱を徹底的に鎮圧するとともに、スコットランドから大量の移民をアルスターに対し行います。
これが、今日まで問題となっている北アイルランド問題の起こりです。
土地を奪われたアイルランド人の反感はすさまじく、イギリス軍との徹底抗戦となります。
一方イギリスでは、ピューリタン革命が起こり、クロムウェルが実権を握っていました。
クロムウェルは、アイルランドの反抗に、徹底的に対処し、反乱を次々に鎮圧し、イギリス領として確定させます。
その後王政復古で再度イギリス王位に返り咲いたスチュアート朝も、続く名誉革命で王位を失うと、アイルランド人と結び、アイルランドの領有を企てます。
アイルランド人を率いたジェームス2世は、アルスターに進出し、イギリス王ウイリアム3世との戦いに敗れ、スチュアート家再興はなくなります。
アルスターに移民したのは、以前のスチュアート家の領民でしたが、この時には、スチュアート家を見限り、イギリス側について戦い、ジェームス2世の侵攻からアルスターを守り通した事により、完全にアイルランド人との決別の意識を持ちます。
イギリスとフランスが対立するようになると、アイルランドの反乱を、フランスが支援するようになり、アイルランドでは、反乱と鎮圧が繰り返される事になります。
1796年の反乱に支援のフランス軍の敗北により、1800年アイルランドは完全にイギリスに併合されます。
その後アイルランドを支援するようになるのは、アメリカに移住したアイルランド人たちになります。
主に金銭的・精神的支援でしたが、かれらの支援により、アイルランド人たちは、民族意識を高め、アイルランド独立運動への流れとなって行きます。
1922年アイルランド自由国が成立し、北アイルランドを除いた地域がイギリスの保護下ながら独立し、1937年に完全にアイルランドは独立します。
しかしアイルランドの独立は、北アイルランド問題の解決をより遠ざけたともいえます。

No.2
- 回答日時:
そもそもの発端は1154年にローマ教皇がイングランド王のヘンリー2世に「アイルランド卿」の称号を与えたことに始まります。
当時のアイルランドは小豪族が割拠しており、異端宗教も広まっていたので、教皇はヘンリー2世により、アイルランドをローマ教会の支配下に入れる意図があったようです。
ヘンリー2世は1171年になってアイルランドへ侵攻し、東部を支配下に治めることに成功し、以後はイングランド王がアイルランド東部の支配権を確立し、1542年にイングランド王ヘンリー8世が、アイルランド王を自称するに至ります。
その後、ピューリタン革命で有名なクロムウェル、ウィリアム3世などが遠征して、アイルランドは1801年ジョージ3世により、アイルランドの自治議会は消滅し、「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」が成立します。
20世紀に入ると、上記の経緯からイングランド主体の連合王国に不満を持つ勢力の独立運動が激化し、1921年の英愛条約により、1922年南部が独立、イギリスは「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」と、現在の国名になります。
つまり、アイルランドはイギリスのイングランドによる支配地域だったわけです。
イギリスを構成するイングランド、スコットランド、アイルランドは元々は別の文化圏で、言葉も公用語の英語以外にケルト語が通用してますから、一体と言うわけでもないようです。
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