怖いタイトルで驚かれた方もいらっしゃるかも知れませんが、以前に質問されている「ここはどこ?(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=212443)」と本質的には同じ内容の儚い質問です。

私は、幼いころ自分を囲む世界の存在を疑問視していました。
(この疑問を理解していただくために、あれこれと説明を用意していたのですが、他の質問への回答などを読ませていただくと、どうやらここではそのような説明が不要に思えます。)

子供のころは、このこと深く考えることでとても強い孤独感を感じました。
35になり、家庭を持ち、精神的にもまあ健康かと思える現在では、さすがにこの孤独感に苛まれることはありませんが、依然疑問が解決している訳ではありません。

同じ疑問を持たれている方が他にいらっしゃるのも知っています。
なにかの本に、「自分の後ろの世界が実は存在しないのではないか?と思い、不意打ちで後ろを振り返ったりもした」というような著者の経験が書かれていたのですが、私もこれと同じ事を子供のころにしました。また、上述した過去の質問も、本質的に同じもののようです。

ところで、この疑問を持つ人と、持たない人との違いはなんでしょうか?
誰しも持たれる疑問であるように思うのですが、予想するに大半の方がこの疑問を持たれた事がないように思えます。

また、この疑問は「生きていく」という目的に対してはネガティブなもので、考える必要性のないものかとも考えます。つまり精神的には不健全な思慮であり「病気」の元になるものかとも思うのですがいかがでしょうか?

有識者の方々、また同様の疑問をお持ちの方、ご意見をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

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A 回答 (10件)

哲学の正統的見解はstarfloraさんが述べていますので、私の方は


少々異端的(?)な見解を述べます。


『生苦とは、「あの世」と切り離される苦しみのこと』
| さて、ここまでお話しすれば、「生苦」の意味がおわかりいただけたかと
|思います。「あの世」ではすべてが一体で、仏の慈悲、無条件の愛、に
|包まれていたのに、肉体をまとって生まれてきたとたん、突然切り離されて
|一人ぼっちになってしまうのです。

| つまり、生まれることによって「個」が発生するのです。「個」は孤独に
|通じ、孤立に通じます。そして、あれほど豊かだった、仏の慈悲、無条件
|の愛が少しも感じられなくなってしまうのです。

| だからこそ、人間は悩み、そして苦しむのです。自分を愛することがで
|きず、人の愛を求め、満たされない人生を送るのです。つまり、すべての
|苦しみはこの「セパレーション感覚」に起因しており、そのおおもとが、
|「生まれる」ということなんですね。だから、「生まれる」ことは、人間
|にとって最大の苦しみなのです。

<「般若心経の科学」 天外伺朗/祥伝社 より抜粋>


上記の本の記述によりますと、「愛と慈悲」で満たされている「あの世」か
ら、人間が「この世」に生まれてくると、あの世で感じていた「愛と慈悲」
を感じなくなってしまうそうです。それが原因で孤独になり、世界から切り
離されたと感じるようになります。これを「セパレーション感覚」と呼んで
います。
ところが、この「セパレーション感覚」は人によって強弱があります。その
原因について、以下のように説明しています。

| お母さんも、赤ちゃんに対して限りない愛情を注ぎますね。あらゆる犠
|牲を払っても、時にはわが身を犠牲にしてさえ、赤ちゃんを護ろうとしま
|す。これは、人間に限ったことでなく、動物でも同じです。

| このような、母親の愛が文字どおり無条件の愛であり、仏の慈悲に近い
|と思います。
|....
| いずれにしても、赤ちゃんにとってお母さんの愛情がいかに大切である
|かは、いくら語っても尽きることがないでしょう。わずか一週間でも母親
|の愛情が途切れると、幼児の精神には大きな傷がついてしまうのです。

|しかし、それは「母親が不在であること」とは関係ないと思われます。
|おそらく、母親が一週間不在でも、こういう影響は出ないでしょう。幼児
|からすると、目の前に母親がいるのに、自分に対して愛情を注いでくれな
|い、何かほかのことにいつも気を取られている、ということが問題なので
|す。

| そこで、ひじょうに不安になり、「セパレーション感覚」が出てきてしまう
|のでしょう。

つまり、幼少期の母親の愛情が問題ではないか、と結論づけています。
私個人の体験から考えても、あながち的外れな意見ではありません。


>また、この疑問は「生きていく」という目的に対してはネガティブなもの
>で、考える必要性のないものかとも考えます。つまり精神的には不健全な
>思慮であり「病気」の元になるものかとも思うのですがいかがでしょうか?

そのとおりです。しかし「セパレーション感覚」は感じてしまうものであり、
感覚してしまうと、そこからネガティブな考えが触発されてしまうのを避け
ることは非常に難しいと思います。

結局は、その人の人生で、この「セパレーション感覚」をどうやって克服し
ていくかが大事なのではないでしょうか。「結婚」ということも重要な選択
肢の一つではないかと思います。

私個人としては、まだ独身なので、一人であれこれ工夫をしている最中です。
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この回答へのお礼

とてもわかりやすいご回答です。
私の文面を見ていただいておわかりの通り、私は哲学や宗教論に明るいわけではありませんが、「異端」という前書きのあとに引用していただいた「般若心経」の解釈が、私自身のこの問題の分析ととても近いことに驚きました。

大人になり、母から聞いた過去の家族状況や、(少々深刻な)現在の家族の状況から推するに、幼少のころの親から与えられる何か(「愛情」とは書かないでおきます)が欠落していたのでは・・と考えるようになりました。

また、cse_riさん自身のご意見として、
>感覚してしまうと、そこからネガティブな考えが触発されてしまうのを避け
>ることは非常に難しいと思います。
これにはまったく同感します。
私は、この質問を上げたことで久しぶりにこの問題について考えていますが、このネガティブな思考に抗う感覚(抗体のようなものでしょうか)が自然と現れてきます。

最後に私からもひとつアドバイスをさせてください。
cse_ri さんは、独身でいらっしゃると書いておられます。
結婚もそうかもしれませんが、子供を持つことは、「セパレーション感覚」克服にもっとも有効かも知れません。親になると愛情を与える側にまわります。
親になって感じる子供への愛情は、私の場合、独身の時には予想できなかった、とても強いものです。そのような強い愛情を持つことはとてもよい薬だと思いますし、同時に子供をこの感覚から守ろうという意識も生まれます。

ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/30 03:20

わたしも同じような疑問を10代の頃に抱いておりました。


 ふと思うものなんですね、こういうのって。当時はその疑問を考えるだけで恐くて眠れませんでしたが、やはりどこかで気になっていたので、考えに考えて自分なりの答えに至った事が変な話、自信に繋がってます。
 疑問を持つ人、持たない人とありますね。私の場合、疑問を解決しようとする人、そのままにする人としておきます。便利な言葉ですが、生き方の違いだと思います。
 この手の話はプライドが関わってきます。疑問を解決しようとする人が集まり、自分を述べる。そして、そのプライドが質問を高めて行く。残るのは高められた疑問。デカルトも故人です。
 つまり私は、私が納得する答えを見付けたので、それで良しとしています。しかし深くしようとすれば、まだまだ切りがないでしょう。それこそ人生であるかと思います。年齢とともに考え方も変わってきますから、これからの楽しみでもあります。
 ところで疑問を抱いた原因は、私自身、結構いやしいところからだったと思います。
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この回答へのお礼

いやしいところ・・何でしょう?
失礼ながら興味を持ってしまいます。

この手のお話ができるお相手がいらっしゃったのですか?
うらやましいと思います。
私は少なくとも、そのような友人にめぐり合ったことがありません。

そうなんです。きりがないんですよね。それだけがわかっている・・
といった感じです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 22:50

私も子供のころ、同じ疑問を持ったことがあります。

ですが、いつの間にか考えなくなりました。これは、いつ、なぜ考えなくなったのかは分かりません。
ただ、今この質問を見て私が思うことは、自分以外の存在を認めたからではないか、ということです。

子供のころは自分中心で物事を考えるものです。そして、成長するにつれていろんな情報が入ってきて、自分が実際に体験したり、見てきたわけでもないのに、現在までの過程が分かるからではないでしょうか。
例えば、どうやって地球ができたか、海や山ができたか、生命が生まれるか、物が建造されたり、製造されたか…。
子供のころに持った疑問が徐々に解明され、意識的、無意識的に知識として身についていき、決して自分が主体ではなく、この世界を創ったのも自分ではないということを理解したので、

「自分の後ろの世界が実は存在しないのではないか?」

という疑問が、不自然に思え考えにくくなったのだと思います。
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この回答へのお礼

その通りだと思います。
やはり、大人になり「現実」を知り、理性を得ることで
この疑問は失せていくものだと思います。
ただ、改めて考えてみても回答はみつかりません。
やはり、「自分の世界」だけしかないのです・・・

同じことを感じておられた方が多いので驚きました。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 22:45

「自分の後ろの世界が実は存在しないのではないか?と思い、


 不意打ちで後ろを振り返ったりもした。」

●↑この経験は我家では主人と子供ふたりの四人が全く同じ事をしてました。
 小学校の頃の記憶です。
 また同じく四人とも 眠って起きるとこの世が無くなってるかもしれない
 という恐怖感を感じつつ眠りについた記憶を持っていました。
 これも小学校のころの記憶です。

 家族でなぜ小学校のころは いろいろ恐いことを妄想してたんだろうと
 話し合いましたところ。
 たぶん 感覚が鋭敏だったからだという結論となりました。
 子供のころの感覚の鋭さは 現在(大人)に比べると想像に難いくらい
 なまっぽくリアリティがありました。
 子供の脳の中身(性能)は 「クリア」という感じがします。
 五感はもちろん 想像によるイメージの明瞭感も格段にクリアでした。
 あのころ感じてたこの世の終わりの恐怖は いまではそのカケラすら
 感じることができません。とても残念ですが それが現実でしょう。
 脳の老化 刺激に対する鈍化(現実を生きるための脳の防衛策)
 が その原因にあるとおもいます。
●感覚がネガティブであることよりも。
 その感じを得られる感性を大切にしたいです。
 「敏感に感じれる」ということは 人生を豊かにしてくれますから・・・。
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この回答へのお礼

すごいですね・・・・家族全員ですか!?

みなさんの回答もあわせて読ませて頂くと、どうやら私の幼いころの感覚は、とても普通のことだったように思えてきます(これまでは、「同じ」と思えた意見を聞くことはほぼ皆無だったのですが・・まず人に話せませんからね。)

私の幼少のころの疑問に、この質問のような大袈裟な題を付けてみましたが、幼いころ(小~中学生くらいですか・・)は、自分の中で「なぜ自分は自分でしかないのか」という表現でした。
この表現が理解していただけるようであれば、なおうれしと思い書いてみました。

>その感じを得られる感性を大切にしたいです。
今はそう思います。けれど、ちょっとしたサバイバルもある社会(会社など)に、この感受性を「適応」させられそうに思えないのも正直なところです。
また、私は現在3歳の子を持ちますが、できればこの感覚を遠ざけてやりたいと感じています。

とても親近感が持てるご意見ありがとうございます。
chihokoさんのご意見にずいぶん私も勇気付けられました。

お礼日時:2002/03/30 02:09

 


  これは、或る意味非常に難しい問題なのです。ただ、哲学や実存の問題に、簡単な問題というのは普通ないのですが。世界と個の実存のありようが、連関する問題なのです。
 
  >私は、幼いころ自分を囲む世界の存在を疑問視していました。
  
  この言葉で何を語りたいのか、ほぼ分かると思うのですが、実は、こういう「表現・把握」は、思春期になってからか、またはもっと後の、二十歳を過ぎてから、子ども時代の自分の存在のモードを振り返って、このように解釈しているので、本当は、子ども時代に、このような体験は「ない」のです。
  
  それはどういうことかと言うと、「世界の存在の疑問視」というのは「世界の存在の了解」という問題になるのですが、子どもは、世界または何か事物ががあることを感じ、知っても、それは、「存在物の認識」と言い、「存在」の認識・了解とは言わないのです。つまり、何かがあること、事物があることは、動物でも知っているし、認識しているのです。しかし、彼らは、「ある」ということはどういうことであるのか、そのことに疑問を感じることはないのです。子どもも同様に、「存在物」の認識や、それについての疑問はあっても、「存在物の存在」ということは、実は分からないのです。ハイデッガーのような話になりますが、「存在 Sein」を知るのは、反省意識のある人間実存なのです。
  
  すると、この幼いころの認識、感じていたことは何かというと、それは、わたしの解釈では、「世界に対する違和感」であり、「自己に対する違和感」であるのです。この世界とこの自己が調和しておらず、違和があるということの実感が、自覚的に表現すると、「世界の存在への疑問」となるのです。「世界が存在しない」という時、それでは、「立ち現れている現象は何なのか?」という問いが出てきます。それに対する回答は色々ですが、例えば、「幻・仮象である」という回答があり、他方、似たような言い方で「偽物である」というのがあります。しかし、現に「現象しているのではないか」ということが云えるのです。実際、現象しているのです。従って、正確には、「この世界または自己は、幻・仮象、偽物である。本当のわたし、本当のわたしの世界は、このわたしでなく、この世界ではない」というのが、こういう感じ方の意味することなのです。
  
  これは本来性からの逸脱で、ヘーゲルは「疎外 alienation, Entfremdung」という言葉で定式化し、マルクスがこれを継承したのですが、「疎外」は、実存主義哲学で大きな意味を持って来るのです。つまり「実存疎外」という形での疎外は、「実存の本来性の疎外」になるのです。疎外という言葉は、「疎遠になる、よそよそしくなる」という動詞から造られている訳で、実存疎外とは、世界が、実存にとって、よそよそしい、何か自分の本来性と無縁なものと感じられるという「感受性・気分」の問題にもなるのです。認識的把握の前に、「気分」の問題として、世界のよそよそしさがあると言うことです。
  
  では、何故、世界がよそよそしく「感じられる」のか、です。エリック・エリクソンの自我同一性の理論からすれば、成長の発達段階ごとでの自我同一性の発達課題において、どこかの段階で「自我同一性の確立」に失敗した、あるいは、不十分にしか、同一性が確立されなかったのだということになります。「自我同一性」とは何かというと、「わたしはわたしである」という確認で、この場合、前者の「わたし」は、内面的実存的な、認識する主体の「わたし」であり、後者の「わたし」は、外面的社会的世界的な、認識される、他によって規定され評価される「わたし」なのです。そして、両方共が、「私」の認識あるいは把握のなかにおける「わたし」なのです。
  
  内面的に「わたし」とは、このようなものである、「誰」であるという認識または把握があり、これが、「世界のなかでは、わたしは、このように位置付けられている、誰である」という世界内の名指しとしての「わたしの自覚」と、調和するかどうかなのです。エリクソンの自我同一性において、基本的世界安定感という形の自我同一性があります。これは、第一段の発達課題、第二段の発達課題に大体相当しますが、小児精神病(自閉症)でない場合は、第二段階の発達課題または、第三段階の課題である可能性があります。青年期・思春期における、メインとされる自我同一性課題においても、課題達成の失敗は、社会人としての自信の欠如、男性または女性としての自信の欠如または混乱として出てくるのですが、それは、基底的な「世界の存在への違和」までは進まないのです。「世界の存在とのあいだの違和」というのは、従って、子ども時代の基本的体験における、自我の構成における刻印またはモードの構成ということになります。
  
  「No.224446 質問:心の支え」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=224446)の回答のなかで参照した、グノーシス主義のサイトには、「宇宙的孤児性」という概念が出てきます。これは、グノーシス主義の思想というか、その現存在姿勢の意味を解釈するため、サイトに文章を書いている人が記していることです。ハイデッガーの言葉に、「被投性」というのがあるのですが、これは、現存在は、「根拠なく」、この世界に「投げ込まれた」という実存の事態を表現しています。「宇宙的孤児性」というのは、「この世界=宇宙に、わたしは、理由が分からないまま投げ込まれたのであり、この世界は《わたしの世界》ではなく、そうとすれば、わたしの《本来的な故郷の世界》があるはずで、わたしは、故郷から離れて、このよそよしい世界に投げ込まれた、この世界の孤児である……こういう事態を、宇宙的孤児性と呼ぶようです。
  
  砕いた表現で言うなら、「この世界は、わたしにとって、よそよそしく、わたしの《本来の故郷》とは思えない」ということです。「世界の存在についての疑問」というのは、「この世界の本来性についての懐疑」であり、何かが欠けている、疑わしいので、後ろを振り返って、「不在の実相」が見えるのではないか、「非本来性=偽りの世界」である証左が、振り返る一瞬に見えるのではないかと思い、そういうことを試みるのだと思えます。わたし個人の経験で言えば、「振り返ることができなかった」ということがあります。振り返って、そこに「異様な相」を確認することの恐怖が、それを押しとどめたのだとも云えます。
  
  エリクソンの理論は、カール・グスタフ・ユングの理論と交わる所があるのですが、どこで交わるかと言えば、ユングの理論は、西欧的自覚自我の確立の理論と密接に関連し、集合的無意識からの自我の覚醒あるいは、自己確立の過程をユングの理論は描いているからです。無意識からの自我の確立という課題はフロイトのテーマでもあったのですが、整序された自我からすれば、混沌(カオス)として映じる無意識から自我を独立させるという成長の課題は、エリクソンの自我同一性理論の発達課題と極めてよく似ているのです。この場合、本来性や異郷は、無意識の世界に起源があるとも云えます。内的無意識世界と、外的な日常人間社会世界のあいだに自我はある訳で、図式化すれば、外的な世界の要請に応じて、自我の整序が行われ、無意識は意識の下に抑制されるのだということになります。
  
  無意識からの自我の独立・自立がうまく行った場合、自我は、外的世界の正統な住民・市民になる訳で、世界に対する「違和感」は生じないと言うことになります。しかし、子どもの頃や、精神病の人や、昔の未開人は、より自我の確立が脆く、あるいは確立されておらず、自我は未だ半ば、無意識に身を浸しているとも云える状態なのです。夢に無意識の世界が登場しますが、それは時に、懐かしい子ども時代の情景であったり、見たことがないか、しかし、懐かしい故郷だと思える場所であったり、逆に、何か恐ろしい異郷であるということもあります。《自我》は、無意識か、日常的この世か、どちらに属しているのか、ということが実は大きな問題となって、子ども時代には存在したのです。
  
  普通の発達では、自我は、光のある「この世界」へと進んで行き、そこを自己の定住の場、自己の本来的世界と認識します。子ども時代の中途半端な状態というものは、忘却され、個人的無意識にその遺跡を残すことになります。子どもの発達の過程において、普通に起こることとして、「エイリアン疑問、取り替え子疑問」というのがあります。こういう言葉では云わないと思うのですが、何と言うのか忘れました。これは、子どもが必ず一度は、自分は、本当に、両親の子どもなのだろうか、何か別のところから貰われて来た、「偽の子ども」ではないのかという疑問です。自分が偽の子どもかという疑問は、つまり、両親は、偽の両親ではないかという疑問である訳で、自我の安定の第一の基盤とも云える両親が偽ではないかというのは、「この世界」が偽ではないかということになります。しかし、これは、自我同一性の自己確認のために起こる疑問であるのが普通で、そうでないという保証を得て、自我は「この世界」は、まさに本物の世界だという確信に達するのです。
  
  従って、「この世界の存在に対する懐疑」というのは、どこかの段階の発達課題の達成の失敗か、または、混乱が存在するということになります。
  
  これは、発達心理学または無意識心理学での解釈というか、把握です。しかし、哲学的課題としては、自己の存在の根拠が見出せない、ということになります。この場合、「根拠」とは、実は、「わたしが《この世界》に存在していることの根拠が見出せない、ないとしか思えない」ということになります。核心としての「わたしの存在」には、実は懐疑はないのです。わたしがわたしだと認識するものが複数に分裂していたりする場合でも、それは「わたしの存在が、他在に宿る」のであって、「わたしの存在」は、懐疑以前なのです。というか、社会的発達的な「わたし」とは、社会や他者との関係で築かれた「わたし」なのですが、その根柢に「本来の原型としてのわたし」があるからです。
  
  「世界が偽」であるというのと、「わたしが偽」であるというのは、全然異なることのように思えますが、本当は同じ事態なのです。何故なら、「わたし・世界が、偽」と感じているのは、「原型としての基底自我」だからです。
  
  >ところで、この疑問を持つ人と、持たない人との違いはなんでしょうか?
 
  発達課題の達成が不完全であった場合と、比較的うまく行った場合の違いがありますが、それ以外に、自我と無意識とのあいだの交通が、子ども時代のように、なお、或る面で比較的に保存されている人とされていない人の違いでしょう。宇宙的孤児性というのは、思想を根拠付け、説明するための概念で、日常的にそう適用できる訳ではありません。世界に対する疎外感(よそよしさの感覚)以外に、無意識との交通の道を持っているので、無意識にある「本来的世界」を感じるが故に、「この世界は、実は偽りではないか」と感じるという違いでしょう。
  
  自我が、自己の安定基盤を失い動揺する場合というのは、文化衝撃(カルチャ・ショック)の場合がそうなのですが、その時、自分は「異郷」にいるのだ、「この世界は、自分の世界でない」と感じることがありますし、極端に珍しい、何か壮大過ぎるとか、戦慄させるような風景や場所に出会うと、「異郷感」とか「夢のなかにいるようだ」と感じます。
  
  >また、この疑問は「生きていく」という目的に対してはネガティブなもので、考える必要性のないものかとも考えます。つまり精神的には不健全な思慮であり「病気」の元になるものかとも思うのですがいかがでしょうか?
  
  そういう疑問というか、実存的直観・気分や世界把握を持つ場合、それが、自我の整序の(規模は色々でも)混乱に起因する場合は、広い意味で、自我が(この世の尺度で)「病気」であるので、そういう疑問になるので、話が逆です。単に「思考上の疑問」に留まり、実存の衝撃とかに繋がらないのであれば、別に問題はないでしょう。「思考上の疑問」として、距離を置いて、眺めることができるなら、「世界の異郷感覚」の呪縛の外にあると云えます。(貴方の場合は、現在は、「思考上の疑問」となっているようです。「精神的に不健全な思慮ではないか」という意識があるということは、世界の「よそよしさ」の感覚ではないからです。「違和感」というのは気分・直観で、思慮ではないのです)。
  
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この回答へのお礼

非常に詳細な解説をありがとうございます。
回答の属性が「一般の方」となっていますが、驚きです。哲学者の方ではないのでしょうか・・
最初に回答を読ませていただいたときは、私の理解を超えた内容に、熟読することができませんでしたが、改めて読ませていただくことで、少々理解が深まったように思います。

私の疑問のような課題は、哲学では「基礎」なのでしょう・・
私のほうは逆に、自分の疑問が「奇病」ではなく、分類済みの「よくある病気」であることに、(予想していたとはいえ)安心させられました。
歴代の哲学者/心理学者の方々は、自分の疑問だけでなく他の持つ問題もこのように体系付けられたということは凄いことですよね・・。

ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 23:21

世界を観るには、世界の果てに立たなきゃなんねぇ。


世界の果てが、自我。
果ての向こうに我は無い。
世界の果てとしての自己認識があれば、孤独に悩む事は無くなる。なんでかって?みんな世界の果てにいるからだよ。
疑問をもつ、持たないについてだが、持たないほうがいいな。いや、どっちでもいいか(笑。両者に違いはないとおもうよ?
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この回答へのお礼

>世界の果てが、自我。
>果ての向こうに我は無い。
とても深いご意見ですね。今晩寝るときに、じっくり考えてみたいと思います。
caballero さんの他の回答を少し読ませていただきましたが、とても的確なご意見が多く、感心させられてしまいました。
今の私には、この言葉を理解することができませんが、真実なのかもしれません。
(この場で、「真実」などと言ってしまうのは、よくないかも知れませんね・・もともと真実があるのかないのかもわからないのですから・・)
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/30 01:41

タイトルは哲学的なアプローチですが


この質問の答は、どちらかというとユング心理学のコンテクストの中に
あるような気がします。

>自分の後ろの世界が実は存在しないのではないか?
これは「無意識」「深層心理」といったものとして
解釈していいように思います。
人間は自分の行動を意識することが出来るし
多くの行動や考えなどは意識的統制に従っているが
自分では意識し得ない心の動きの存在を仮定し
この存在をユングにおいては「無意識」と呼びます。
この「無意識」を形成する要素として
まだ倫理観や道徳観が身についていない子供の頃の「原体験」が大切だと考えます。
子供の頃、さまざまな「体験」はまだ解釈できず
得体の知れない「原体験」として記憶されます。
大きくなるにつれ、さまざまな「体験」の解釈を学びます。
このとき「あのときの体験は○○ということだった」と理解し納得してしまうと
その原体験は失われ、忘れ去られてしまいます。

>この疑問を持つ人と、持たない人との違いはなんでしょうか?
つまり「原体験」を覚えている人と、忘れ去ってしまった人の
差ではないでしょうか?

こういった「原体験」を、その理不尽さや残酷さを
ファンタジックに語りついだものが「伝説」や「民話」「昔話」というものです。
その理不尽さや残酷さに教育的配慮が加わると
伝説・民話・昔話は「童話」に書き換えられてしまいます。
このような教育タンとしての「童話」を読まされ
倫理や道徳を植えつけられ
科学教育を刷り込まれていくるうちに
多くの人は「原体験」を忘れてしまうのでは
ないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど・・・大変参考になります。
「原体験」は解釈されないことで、消化不良のように残り(忘れない)、私のような者は、消化不良を残して大人になった・・という解釈は近いですか?
この見地から一度じっくり考えてみたいと思います(初めて伺ったご意見でもあり現時点では、理解を得ておりません)。
非常に新鮮なご意見、ありがとうございます。

お礼日時:2002/03/30 01:26

想像力の差だと思います。


自分の存在する世界を疑ったとき、その先に何があるのか、あるいは何も無いのか。
そういうことをリアルに想像すれば、恐ろしくなりますよね。
自分の認識している以外の世界を想像できるか否か。
その想像をどれだけ、自分の近くに引き寄せるか。
そういうことではないかと思いますが。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
無限への想像などと結びつくのかも知れませんね。
自分が何なのか?と同じで、恐ろしさを感じる疑問です。
また、我々のほうが想像力が豊か・・と取っていいのでしょうか?
そうだとうれしいですね。
けど、こんな苦しい疑問が湧いてくるのなら、あんまり想像力はなくていいのかも・・とも思います(笑)
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/30 01:15

 日蓮大聖人は依正不二という法門を説かれています。


 依とは、私たちが生活するこの国土をいい、正とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという“不二”の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、悠久の平和社会を実現するためには、正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。
 如何でしょうか? 
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
odd-artさんのご意見は、私のような者の理解を超えたものなのかもしれません(失礼な印象を持たれたのであれば申し訳ありません)。
このような高い理想を持つ方に、私の非常に個人的な悩みにご意見が頂けたことをうれしく思います。

お礼日時:2002/03/30 01:01

 思わない人がいる、というのが逆に驚きだったことがありますが(笑)



 俺が思うに、俺自身こんな考えを持った理由が、「日常生活での自由度」が大きく関わっていた気がします。
 小さい頃はとかく何でも親がしてくれたので、自分の自由になったものですが、次第に親が目をかけなくなったりして自由度がなくなると、自分を保護してくれるものに対する不安から、このようなことを考えていたようです(少なくとも俺は)。

 特に小さい頃は、周囲の人からチヤホヤされるような人間でもなかったので、言葉に少しでも悪意が含まれていると、(本人はお世辞で言ったとしても)少々ナーバスになってそんなことを考えていたようです。
 高校生くらいになって、特技に関して周囲から一目置かれるようになると、いつの間にかなくなっていたんですけどね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
質問にも書いたように、ほとんどの人がこのようなことを考えないように思います。不思議ですね。
共感いただいてうれしく思います。

お礼日時:2002/03/30 00:55

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おもしろに限らないのですが、関西で起こったここ最近の全国ニュースで流れたような有名なニュースを教えてください。

例えば阪神優勝フィーバーや、USJでの飲料水問題や。これは古いのですがノック府知事など。
なるべくここ数年で、全国的に有名なニュースをお願いします!

Aベストアンサー

>>全国的に有名なニュースをお願いします!

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和歌山カレー毒物混入事件の林真須美死刑囚(住宅跡地競売の話を先日見ました)

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関西のほんわかとしたニュース 
http://www.nikkansports.com/osaka/wak/wak-top.html

参考URL:http://www.nikkansports.com/osaka/wak/wak-top.html

Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

 1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

 2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 


 




 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

 4. 孤独どうしであり 孤独関係である。

 5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不自由や不安やまた孤独関係に向き合ってあゆむものか。

 6. それとも われが孤独関係なるわれに立つとき おのが孤独なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

 7. 固有なる《とき》こそが われのわれなる所以である。か?




 【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】
 その回答No.7をめぐって考えようとする問い求めです。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8580531.html

Aベストアンサー

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ死んでもおかしくないし、かまいもしない存在です。でも、そのような覚悟を理想的に完了すれば、他人のそれぞれが、それぞれに唯一無二である事も了解できるはずです。それは対話への契機だと思います。


>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

という問いは、たぶん無意味だろうというのが、自分の意見です。

>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか?

 そういう意見です。


[追伸]
 あなたとのやり取りは、個人的にはけっこう長いと思っているのですが、過去の会話に鑑みて、真意を汲み取って頂けませんかね?。都合の良い話だとは思いますが・・・(^^;)。

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ...続きを読む

Q世界で有名な嬉しいニュース

2013年も終わりに近づいてきましたが、みなさんはこの一年で世界的有名なニュースはなんだと思いますか?
私は東京オリンピックが決まったことと15歳の少年がすい臓がん早期発見に貢献したニュースを聞いて気持ちがほっこりしました。
ニュースや新聞記事は殺人事件などの悲しいニュースばかりです。
世界的発見のニュースなど、2013年の世界で有名なニュースを教えてほしいです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

やっぱりヒッグス粒子がほぼ発見されたことじゃないですかね(今年のニュースじゃなかったらすいません)

Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たる
ことが出来る。と見るべきか? 


 




3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びするこ
とである。

4. 孤独とは 孤独関係である。

5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不
自由や不安やまた広く孤独関係に向き合ってあゆむものか。

6. それとも われが社会にあって孤独関係なるわれに立つとき むしろおのが孤独
なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

Aベストアンサー

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにないことを、予めご了承ください。)



>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

「孤独って?」

孤独とは、物理的に、肌寄せ合う人がいないことか?

或いは精神的な繋がりを誰とも持つことが出来ないという感覚か?

では「孤独」の対義語はなにか?「帰属」?「社会」?「集団」?

個人的には「孤独」と対の言葉は「友」

孤独からの帰還を切に願いますが、それは「誰それへ」或いは「どこそこ」への帰属ではなく、
自分が自分でいることを保証してくれる「Someone」との友好関係です。

『孤独はいいものだ。けれども、「孤独はいいものだ」と、語り合える誰かがいることはもっといいことだ』(バルザック)
これが理想です。


>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 

帰属することによって、個が埋没してしまうことは避けなければならないと思います。
これは「孤独のパラドクス」ですが、「わたしが完全にわたしであることを容認してくれる相手」が友と呼びうる人であり、
わたしが殺人を犯していようと、ジャンキーであろうと、受け容れる人です。(わたしは「友」が犯罪者であっても一向に構いません)

>ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。

これは全く同意見ですが、その前提としては、孤独地獄からの帰還イコール「社会への帰属」ではない、ということかと思います。


>3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

>4. 孤独とは 孤独関係である。

無論そうでしょう。孤独の状態こそわたしが完全にわたしである状態だと思っています。(で、あるから「孤独」に陥るのですが)
その「わたしがわたしである」状態を認めてくれる相手との交流、それが「孤独」の交流ではないかと思います。

5.は解読不可能

6は7と同じように思うので

>7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

わたしがわたしである状態は「孤独」に立脚するとはいえ、それをサポートしてくれる存在=愛が必要です。

つまり「わたし」が「わたし」であるためにはそれを認め、支えてくれる存在が必要です。
無論これを一般化するつもりはありません。あくまでわたしの個人的な意見に過ぎません。

結論としては、先ほどのバルザックの言葉のように、「孤独を認め合える友」が理想です。

『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 (俵 万智)

孤独を考えるなら、その片割れである「友」とは何かをも同時に考えなければならないのでしょう。
(孤独の対概念が友と考えているのはわたしですから、それを考えるのもわたしですね)

以上、完全なる「非哲学的」私見を述べさせていただきました。

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにない...続きを読む

Qインターネットで見る世界のニュースのサイト

日本の人はテレビのニュースかあるいは日本のポータルサイトの世界の経済ニュースや政治のニュースを読んでたりすると思います。

日本人の視点で重要とか興味あるものと思われるように編集していますが、世界のニュース、流れを知ろうとするとどのようなサイトを読むべきでしょうか。(外国語のサイト含めて)

ブルームバーグやロイターでは不十分でしょうか。

自分の興味ある外国の情報という動機をのぞいて、世界の流れを知りたければということです。

Aベストアンサー

NY在住です
たとえばYahoo.com のトップページをブックマークしておくとか。

有料でもよければ、
New York Times 新聞のオンライン版もいいですね 日本がトップページにあることは滅多にないです

テレビも最近は簡単ですよ
iPadなどのdeviceをお持ちでしたら、application をダウンロードすればいいですね。
NBC や CBS, CNN, FOX
色々やまのようにあります。通常のインターネットからでも上記のオンライン版いけば、ビデオクリップを見ることもできます。

日本では、よく報道で
「アメリカでも大きく取り上げられています。」
アメリカ人ほとんど誰も知らないということ多々あります。

Qyoutubeのシバターは「説明責任」を若干果たしていない、と考えた。有識者はどう考えますか?

シバターはyoutubeにおいて、ルールは守っている。しかし、説明責任を果たしてはいないのではないか?と考えました。youtubeの利用規約を全部読んでいないので、確信的な断言は出来ない。
おそらくyoutube japanの利用規約を全て読んでも、「有権者の立場としては」判断は難しいケースです。

日本国民全員はyoutubeの利用者として、規約の定める限り、権利を執行する権利がある。
どう思いますか?

Aベストアンサー

>日本国民全員はyoutubeの利用者として、規約の定める限り、権利を執行する権利がある。
どう思いますか?

日本国民は関係ありません。この場合正しくはyoutubeの利用者という「ユーザー」です。
それで、答えですが規約の定める「範囲に限り」権利を執行する事は出来ます。

動画の削除要求とかクレームですね。ただし、不満を言う権利があるだけで、誹謗中傷を言う権利はありませんし、削除要求やアカウント削除を出してもそれを採用するかどうかの判断は、youtubeの運営が決める事です。

それと、youtubeの利用規約に反していなくても、刑法などに反している場合は訴訟可能です。ま、この辺はそもそも、youtubeの利用規約事態が、日本の刑法を適応したものになっていると思うのでそう言う事態はないと思いますが。



>説明責任を果たしていない事実を、運営が、あえて承諾していました。

となると、その「責任」が果たされない限り、アカウント削除などの措置がとられるでしょう。これは、ユーザーがクレームを言う権利を行使した賜物ですね。お疲れ様です。

>日本国民全員はyoutubeの利用者として、規約の定める限り、権利を執行する権利がある。
どう思いますか?

日本国民は関係ありません。この場合正しくはyoutubeの利用者という「ユーザー」です。
それで、答えですが規約の定める「範囲に限り」権利を執行する事は出来ます。

動画の削除要求とかクレームですね。ただし、不満を言う権利があるだけで、誹謗中傷を言う権利はありませんし、削除要求やアカウント削除を出してもそれを採用するかどうかの判断は、youtubeの運営が決める事です。

それと、yo...続きを読む

Q北欧メディアによる、英語の世界ニュースのインタネット配信

日本では、朝日でも読売でも、「英語」で「世界のニュース」を「インターネット」で配信しています。また、イギリスやフランス、そして中国メディアも同じ様な形でニュースを配信しています。
しかし北欧の場合、「英語」でニュースを発信しているメディアが少なく、特に「世界のニュース」(WorldやInternational)をカテゴリとして設けているメディアは見当たりません。
そこで質問です。なぜ、北欧メディアにはWorldやInternationalといったカテゴリがないのでしょうか。aljazeera(サウジアラビア)のように、ニュースという概念の中に既に「世界」が含まれているのでしょうか。北欧の人は英語のニュースを閲覧する場合、BBCなど他国のメディアを参照する(傾向がある)のでしょうか。そもそも北欧の人はニュースを英語で読まないのでしょうか。

なお、私は濃縮還元ニュース(http://jp.newsconc.com/world/europe/)やnewspaperindex(http://www.newspaperindex.com/)というサイトを参考して調べました。この他に、世界のメディアについて参考になるサイト(できれば日本語)があれば教えてください。

よろしくお願いいたします。

日本では、朝日でも読売でも、「英語」で「世界のニュース」を「インターネット」で配信しています。また、イギリスやフランス、そして中国メディアも同じ様な形でニュースを配信しています。
しかし北欧の場合、「英語」でニュースを発信しているメディアが少なく、特に「世界のニュース」(WorldやInternational)をカテゴリとして設けているメディアは見当たりません。
そこで質問です。なぜ、北欧メディアにはWorldやInternationalといったカテゴリがないのでしょうか。aljazeera(サウジアラビア)のように...続きを読む

Aベストアンサー

朝日新聞や読売新聞の発行部数は1000万部レベルといわれますが、
これほどの部数を発行するマンモス新聞は世界でも例外的な存在です。
北欧の各国は人口自体がこれらの発行部数より少なかったりするため、
読者数は言わずもがな…何でも英語に翻訳するのが当たり前というわけにもいきません。
フランスのLe MondeやドイツのDie Zeitのような著名紙さえも
英語版をインターネットで配信してはいなかったと記憶しております。

■世界の巨大新聞部数トップ100
トップ1-5は日本、北欧は該当なし?
http://www.wan-press.org/article2825.html

日本の新聞・ニュースの世界報道でも全部自前というわけでもなく、
アメリカの著名新聞・ニュースの報道の影響は大きく受けています。
特別に世界情勢に関心のある読者を対象としない小さい新聞では尚更、
各国に多数の特派員を派遣するわけにもいかないので、
ロイター、AFP、AP通信などの海外通信社の情報を引用することが多くなりがちです。

北欧の英語使用の状況は、勉強するために英語ニュースにチャレンジするというよりも、
普通の子どもが娯楽目的に英語の番組を見て楽しんでいる位です。
英語で海外の情報源が豊富に提供されていればそちらに流れるのではないかと…。

対して、北欧内部のニュースとしては北欧ローカル紙の情報が欲しくなります。
オンラインニュースのサイトなら色んなものがあるため、
各国のローカルニュースを英語で読むことくらいなら可能なはずです。
もっと詳しい情報を得たい場合は、機械翻訳で出鱈目な英語に
翻訳してから何とか収集・・・という手もあります。

■ABYZ News Linksより、"ENG"印がついたサイトが英語
・スウェーデン
http://www.abyznewslinks.com/swede.htm
・デンマーク
http://www.abyznewslinks.com/denma.htm
・フィンランド
http://www.abyznewslinks.com/finla.htm
・ノルウェー
http://www.abyznewslinks.com/norwa.htm

朝日新聞や読売新聞の発行部数は1000万部レベルといわれますが、
これほどの部数を発行するマンモス新聞は世界でも例外的な存在です。
北欧の各国は人口自体がこれらの発行部数より少なかったりするため、
読者数は言わずもがな…何でも英語に翻訳するのが当たり前というわけにもいきません。
フランスのLe MondeやドイツのDie Zeitのような著名紙さえも
英語版をインターネットで配信してはいなかったと記憶しております。

■世界の巨大新聞部数トップ100
トップ1-5は日本、北欧は該当なし?
http://www....続きを読む

Q純白の純粋性に疑問を持っています。

赤と、緑と、青を混ぜて白になるらしいですが、

混ぜられている白が純粋だというのがどうも腑に落ちません。

純粋とはいったいなんですか?

Aベストアンサー

純粋だと突っ込みようがないこと。

例えば白いノートに白鉛筆で描く用途が不明なこと。

Qアメリカのおもしろ発明、企業ニュース?

アメリカのおもしろ発明、企業ニュース?などのホームページ
探してます。テレビ東京のようなニュースで、こんな新しい企業ができたとか、こんな商品が新たにでたとか、ユニークな発想で、注目集めているとか。いままでの歴史じゃなくて、リアルタイムに話題にのぼる、外国の穴場サイトありますか?

Aベストアンサー

参考URLには、有料のメルマガもありますが、穴場的なものではないようですし、趣向がご希望のものとは違うかもしれません。

参考URL:http://www.getglobal.com/venture/venture.html

Q【疑問】 周囲から理解されない思考を持つ私は、知的障害者なのか?

【質問者】 大学4年生 女性

長文の内容となります。真剣に考えていることなので、変な回答はやめてください。

ここ最近、自身の人生について何が幸福なのか?という疑問に悩まされています。
私は、人生とは己の価値を見出すために与えられた時間であると認識しています。なので、現代社会で求められる普通の生き方に賛同することができません。この意見に対し、周囲といつもぶつかってしまい、己は集団に溶け込めない人間なのではないかと不安を感じます。

当方は、大学4年になり、就職活動を経て自分が本当にやりたいことを見つけることができました。この点に関しては、就職活動にとても感謝しています。しかし、周囲の方にこのことを相談すると、反対意見が多く、自身が選んだ道が間違いなのでは?と考えてしまいます。
普通に就職して、普通に会社で働き、恋愛をして、家族を持ち、周りに看取られてこの世を去る。これが幸福になる生き方なのか疑問に思います。限られた人生のなか、本当にやりたいことに挑戦することで生きているという実感が沸き、己は幸福であると感じられるのではないでしょうか。

そもそも、いったい誰が、就職すれば幸せになれると定義づけたのか。人間の幸せとは、社会が決めるものでもなんでもないはずです。それなのに、何故周囲は、就職した方があなたにとって幸せであると決めつけるのですか?
確かに、就職すれば安定した収入が得られ、ひもじい生活を送らなくて済むかもしれません。しかし、そこに己の意思がないのなら生きている実感を得ることは難しい気がします。誰も、周囲と同じ安全な道を選べば幸せになれると保障できないはずです。
おそらく、私は一度しかない人生で、魂が輝く瞬間を感じたいのだと思います。この瞬間こそ、己が幸福であると感じることができると信じています。

もちろん、人それぞれ思考が違いますので、行動でしか判断ができない他人から理解されることは難しいことだと思います。ですが、社会や周囲で定義づけられている幸福に対し、どうしても賛同できません。
つまり、何が伝えたいのかというと、上記のような思考を持つ私は異常者なのか?ということです。

長々と綴ってしまい申し訳ありません。とても難しい問題なので、意見をくださると幸いです。
ご回答よろしくお願いします。

【質問者】 大学4年生 女性

長文の内容となります。真剣に考えていることなので、変な回答はやめてください。

ここ最近、自身の人生について何が幸福なのか?という疑問に悩まされています。
私は、人生とは己の価値を見出すために与えられた時間であると認識しています。なので、現代社会で求められる普通の生き方に賛同することができません。この意見に対し、周囲といつもぶつかってしまい、己は集団に溶け込めない人間なのではないかと不安を感じます。

当方は、大学4年になり、就職活動を経て自...続きを読む

Aベストアンサー

>人生とは己の価値を見出すために与えられた時間
>現代社会で求められる普通の生き方に賛同することができません
>魂が輝く瞬間を感じたいのだと思います

承認欲求が強い人なのだとお見受けします
しかもそれが肩書を求めるのではなくあなたの名前が認められるようでなければならないとなると
自己愛か自己に対する強いコンプレックスからその欲求がきてるのであろうと推測します
そしてどこに就職したのかはわかりませんが、少なくとも就職したのであれば
あなたの欲求は社会との関わりの中で満たされ、また満たすためには他者が必要であるのでしょう
そういった心の働きと選択は異常ではないですが
あなたの周囲の人間から反対される程度にはあなたの心は変わっていると言えるかもしれません

ただ、ここが重要なところだと思うのですが
周囲から反対されたことで気の迷いが生じましたね
もしも徹頭徹尾あなたがご自身の考えを信じて、覚悟を決めて選択をしたことであるならば
きっとこの迷いは生じないと思うのです
あなたは選択をして今新たな道へ踏み出そうとしています
ここがあなたの人生の分岐点かもしれません
だから気の迷いがなぜ生じたのか考えてみてはどうでしょうか
例えば経済的な不安だとか先行きが見えない不安だとかを気にかけての気の迷いならば
無視してもよいでしょう
でもそうでない心の働きから、あなたの意識していない心の働きから出てきた気の迷いであったならば
重要な選択をするだけによく見極めておいた方が後々後悔がないかもしれませんよ

>人生とは己の価値を見出すために与えられた時間
>現代社会で求められる普通の生き方に賛同することができません
>魂が輝く瞬間を感じたいのだと思います

承認欲求が強い人なのだとお見受けします
しかもそれが肩書を求めるのではなくあなたの名前が認められるようでなければならないとなると
自己愛か自己に対する強いコンプレックスからその欲求がきてるのであろうと推測します
そしてどこに就職したのかはわかりませんが、少なくとも就職したのであれば
あなたの欲求は社会との関わりの中で満たされ、また...続きを読む


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