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お世話になっております。
こっぱずかしい質問ですが。
「愛」って何ですか?
与?求?受?認?赦?欲?奪?交?・・・?

A 回答 (17件中1~10件)

こんにちは。


やはり「欲求」でしょうね。
回答暦によりますと、質問者さんは心理学にたいへん広い知識をお持ちのインテリ・ママさんお見受けします。質問に参加させて頂くのはこれで二度目になりますが、また生理学の立場から回りくどい話を致します(すみません、また長いです)。

さて、それは我々動物が与えられた「報酬刺激」に対して適切な「接近行動(報酬行動)」を選択するための、主に「大脳辺縁系」に発生する「情動反応」に宛がわれた「概念」です。
反応を発生させる対象によって恋愛、母性愛、友愛、あるいは物質愛、信仰心などといったものに分類されると思います。それは食欲や性欲、親和欲など、生得的に定められた「一次欲求」を基盤に生後学習によって多様化されると共に、そこには個人体験や文化的価値観などが「個体差・個人差」として反映されます。
報酬刺激に対して大脳辺縁系に発生した情動反応が「腹側皮蓋野DA(ドーパミン)含有神経核」に出力されますと、前頭前野に対するDAの投射が行われますので、これにより「達成報酬」や、あるいは「未来報酬(期待)」に対しても相応の「満足感」や「幸福感」が伴います。そして、生後環境から学習によって獲得された多彩な「反応基準」によって本能行動を補佐し、個体維持及び種の存続という目的をより効率良く達成するというのが、その「生物学的意義」です。従いまして、高等動物にとって「愛」といいますのは生存手段のひとつでありますから、我々が肉親を愛し、恋人を守り、同胞を理解することによって、必然的に人類の未来は保障される、ということになるのではないか思います。

「摂食行動」といいますのは、「餌という報酬刺激」と「空腹状態」、このふたつの条件が整うことによって初めて実現する本能行動です。つまり、目の前に餌があっても、食欲という「欲求」がなければ摂食行動・接近行動は選択されないわけですね。
このように、我々の行動といいますのは必ず複数の条件の下で実現されるものであり、如何に生得的な本能行動といえども実際の反応や行動が選択されるためには、それを報酬刺激として受け入れるための条件がきちんと整っていなければなりません。
このため多くの場合、それは「外的要因」と「内的要因」の組み合わせということになるわけなのですが、報酬刺激とはこの名の通り「満たすため外的要因」であるのに対しまして、「欲求」とはその全てが「満たされるべき内的要因」に当たり、こちらは「行動選択の動機」として必須条件となります。そして、それが与えられた報酬刺激に対して接近行動を選択するための情動反応であるならば、「外的要因」としての知覚情報とは飽くまでその対象でしかありません。ですから、「愛」というのは決して環境や他人によって生み出されるものではなく、即ちその根源とは、すべからく己自身の「欲求という内的要因」ということになります。

ではこのように、脳内では知覚入力に対する「利益・不利益の価値判断」が予め定められているにも拘わらず、「欲求」というものが不足しているために実際の反応が発生しないということでありますならば、果たして愛というのは、飢えていなければ生み出されないということになってしまいます。
快情動を発生させた大脳辺縁系からの入力に対して脳内に幸福感をもたらす「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA投射路)」は、「報酬回路(幸福回路)」などと呼ばれており、「達成報酬」や「未来報酬」が想定されることによってより強く反応します。「一次欲求」と異なりますのは、この反応はDA(ドーパミン)が枯れてしまわない限り幾らでも継続・反復が可能であり、食欲や性欲のように一定の物理的あるいは生理的条件によって終息・抑制されるものではないということです。つまり、我々は常に飢えているというよりも、愛というのは永続的に満たされるものではないというのが、少々微妙ですが妥当な解釈ではないかと思います。
逆に言いますならば、それは如何なる生理状態であろうとも常に受け入れが可能であるということです。ですから、特に性欲が伴わなくとも恋愛をすることはできますし、お金持ちに恋をしてしまうというのも然して珍しいことではありません。因みに、とある「高齢者カップルの支援団体」の話では、お年寄りというのは「幸福回路(A10腹側皮蓋野―前頭前野投射路)」を働かせて実際に恋をしているということだそうです。

「報酬回路(幸福回路)」と呼ばれる「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA(ドーパミン)投射」といいますのは、確かネズミの実験が元で発見されたのではなかったかと記憶しています。心理学でも有名な実験ですから質問者さんもご存知かも知れませんが、ある意味では、我々が子供の頃に執り憑かれてしまったガチャンコのようなもので、レバーを押せば餌が出て来るという装置に実験ネズミがのめり込んでしまうという話です。果たして我々は、中身のおもちゃが欲しかったのでしょうか、それともガチャンコそのものに快感を覚えていたのでしょうか。やっていたことは実験ネズミと大して代わりありませんね。
出て来た餌によって食欲が満たされますと、それが達成報酬となって「報酬回路」を刺激します。やがて刺激の対象が単なる餌から脳内に発生する快感に代わり、実験ネズミは食欲が満たされてしまっても尚、無心にレバーを押し続けることになります。
このように、学習に伴い、行動選択の動機が間接的な達成報酬に代わってしまうというのは、私は我々人間の生得的な一次欲求が個人的価値観や文化的価値観に従った後天的な二次欲求に発展する過程と上手く対比することができるのではないかと思います。この発言にはあまり自信はないのですが、まず、報酬反応が生理的にも物理的も満たされるものでない以上、それには上限というものがありません。欲は幾らでも膨らみます。更に何よりも、単に食欲や性欲が消化されるのとは異なり、ひとたび反応の基準が獲得されてしまうのであれば、これを元に「報酬の大きさと」いうものがしっかりと評価されることになります。従いまして、我々は嫌でもそこに損得・好き嫌いといったものを学習することになるわけです。つまり何れにしましても、抜本的には贅沢になるわけですね。愛というのは「際限のない欲求」であると共に、たいへん自分勝手でわがままな側面を、本来の性質の中に持っています。

「三つ子の魂百までも」
「赤い糸の伝説」
「あばたも笑窪」
「恋は盲目」
このような昔からの言い伝えは、みな情動反応を司る大脳辺縁系の性質に基づくものです。
「食べ物の好き嫌い」や「異性のタイプ」など、「個人の好み」といいますのは生後三歳頃までの体験にたいへん大きく影響を受けると考えられています。生後三歳といいますのは脳の発達では「人格形成期」という特別な時期であり、古のひと曰く「三つ子の魂」といいますのはズバリこれに当たります。ですから、この頃の体験によって大脳辺縁系の扁桃体に獲得される「情動記憶」といいますのは、情動反応の基準として生涯に渡り末永く運用されることになります。
やがて成長し、好みの異性に心惹かれるのは、大脳辺縁系が過去の体験に基づいて強い反応を示すからなのですが、ひと目合ったそのときに、まるで運命の赤い糸で結ばれていたかのように思えてしまうのは、それは生後三歳では大脳皮質の方がその経緯を全く憶えていないからです。ところが、誰が見たってあれは笑窪なんかじゃない、とは言いましても、それは個人体験なのですから仕方がありません。当人の大脳辺縁系は「それがいい!」と反応しているのですから、他人が何と言おうと大きなお世話ですよね。

もちろん、この世の全てのカップルが生後三歳の情動記憶という赤い糸によって結ばれるわけではありません。ですが、何れにしましても恋愛感情といいますのは大脳辺縁系の情動反応であり、そのひとの体験・学習に基づくものです。そして、それが特定の異性に対して発生するためには、一緒にドライブをしたり食事をしたりといった、何らかの体験が報酬刺激として情動記憶に「上書き」されなければなりません。つまり、如何に赤い糸の運命といえども、愛というのは育むか、反復学習をさせなければ成長はしないということです。このため、私は実際に試したことはありませんが、相手に報酬刺激を学習させる「プレゼント作戦」といいますのは、小遣いが続くならばたいへん効果があります。
恋愛というのは理屈でするものではありません。つまり、それは大脳皮質で行われるのではなく、大脳辺縁系という無意識の領域に発生するものです。このため、それによって選択される反応や行動は、しばしば自分の意思では抑制することができず、昔から良く「恋は盲目」などと言われています。

愛とは育むものであります。我ながら上手いことを言います。それは成長・体験に伴い、大脳辺縁系の学習機能によって獲得されるものです。このシステムによって我々は、自分を生み育ててくれた両親に対する揺ぎ無い愛情を形成することができました。これには、次の三つの段階を経ています。
まず、生まれたばかりの頃、我々はおっぱいをもらうとか、苦痛や不快を排除してもらうといった一次欲求に対して反応を発生させていました。大脳皮質とは違い、大脳辺縁系というのは出生時にはほぼ正常に機能できる状態にあり、目や耳など、抹消神経系の特化機関は発達を待ちますが、空腹や痛覚などの知覚入力は既に始まっています。
とはいえ、快感や苦痛が生物学的に定められた反応であるにしましても、取り敢えず体験をしてみないことには報酬とも賞罰とも学習することはできません。これが第一段階です。もしかしたら、抱かれ方や乳首の感触などといったものは学習しているのかも知れませんが、目が開き、耳が聞こえるようになりますと、全ての欲求の対象が両親の姿や声に集約されます。このような経緯を辿り、この段階でそれが特定の刺激に対する反応、即ち「両親に対する愛情」と分類することが可能になります。
やがて成長を致しますと、おっぱいをもらったり、危険から身を守ったりしてもらう必要はなくなり、当然のことながら最終的には、両親は社会的にも法的にも保護者としての役割を終了することになります。ですが幾らそうなったとしましても、我々にとって両親が報酬刺激の対象であることに全く代わりはありません。
本来でしたら金の切れ目が縁の切れ目、それが物理的な欲求である限り接近行動はその場で解除されます。にも拘わらず、この反応基準が変更されないということは、それがおっぱいをもらったり、身体を支えてもらったりといった一次欲求の実現ではなく、生後三歳という学習のかなり初期の段階で既に「愛情」という、上限の伴わない「達成報酬」にクラスチェンジされているからです。そして我々は、この反応基準を生涯に渡って無条件に運用することになります。

このように、愛情といいますのは育まれ、成長するものであると共に、それは欲求の達成でありながら基盤となる一次欲求とはひとクラス上の状態で存在するものです。では、新生児が愛情の起因である一次欲求の達成を両親に依存しなければならないというのは当たり前のことですが、両親の子供に対する愛情というのは、いったい何を根拠に発現するものなのでしょうか。
ちょっとばかり前のことなのですが、とあるHPで「子供を可愛いと感じる遺伝子」というのが特定されたという記事を目にし、個人的にはこの疑問が解けました。なるほど、それは母性本能の因子ではないか考えられていますが、人間の場合男女を問わず存在し、「小さい」「丸い」「やわらかい」といった子供の特徴に触れることによって報酬反応をもたらすものなのだそうです。このため、子犬も子猫もみな可愛いと感じられるんですね。
子犬や子猫はともかくと致しまして、それを我が子への愛情として育むためには、新生児と同様に、親にも学習というものが必要であり、特定の対象に対して上限のない報酬を想定するための「クラスチェンジ」が行われなければなりません。
あれ以来、この遺伝子が母性本能の因子であるという事実を確認してはいませんが、少なくとも何らかの形でこのような、親にも一次欲求の達成というものが課せられているとしますならば、これを基盤とし、子育てという心労が返って必然的に、我が子への欲求を愛情にクラスチェンジし、鋼のように焼成させるのだという説明が可能になります。

では最後に、我々は最愛の子供や両親と生活を共にすることによって「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA(ドーパミン)投射」を行い、常に至上の幸福感を達成させているのでしょうか。さもなくば、これが欲求の実現や満足感として自覚されることはないはずです。ところが、毎日がばら色のように燃え上がる熱烈恋愛中のカップルならばいざ知らず、実際の生活といいますならば、目に見えない当たり前の幸福でしかありません。ではそこでは、いったいどんな欲求が達成されているのでしょうか。
これもたいへん微妙な解釈ですが、我々は普段、それを鮮明な幸福感として自覚することはほとんどありません。ですが、少なくともこれが紛れもなく欲求であり、極めて強い情動反応であるということは皮肉にも、それが阻止されることによって初めて明確に推し量ることになります。
欲求の阻止とは「愛の苦しみ」です。
「何時まで経っても実らぬ私の恋は、どうしてこんなに辛いのよ」
「ちょっと帰りが遅ければ子供が心配で仕方がない」
達成できないと分かっていても逃れることが許されない、片思いとは拷問に近いですよね。また、目の届くところに子供がいないだけで不安になる。このようなものは全て、欲求が阻止されることによって大脳辺縁系に発生する「不快情動」です。
このように、「愛」といいますのは明らかに「欲求」です。何故ならば、欲求としてそれを持ってないのであるならば、何かによって阻止されるということはあり得ないからです。そして、その大きさというのは反動です。
失恋とは、どうしてあんなにも苦しいものなのでしょうか。あるいは、肉親を失うことの反動とは、いったいどのくらいのものなのでしょうか。帰らぬ肉親を想う心の痛みとは、それは、無限大の欲求が永遠に阻止されてしまうということではないでしょうか。

もうひとつウンチクを述べますと、大脳辺縁系の機能という観点から見ましても、「愛と憎しみ」といいますのは表裏一体です。
欲求の実現をもたらす刺激に対しては「快情動」が発生しますが、それが阻止されますならば大脳辺縁系は反応を一転させ、「不快情動」となります。大脳辺縁系に発生した不快情動は、それまでの快情動のように報酬回路の腹側皮蓋野DA含有核には送られず(厳密には受け取らず)、「中脳中心灰白質」に送られます。この「中脳中心灰白質」が、大脳辺縁系に発生した不快情動を「怒り」や「恐怖」「悲しみ」といった感情に分岐させる機関であるというのが、最近の脳医学の比較的新しい発見です。これにより、不快情動に基づく回避行動は、「攻撃」「逃避」「泣く」「諦める」といった選択肢を持つことになります。
このうち、「攻撃行動」といいますのは「回避行動」なのですが、物理的にはどうしても相手に接近することになります。これは、「攻撃」や「逃避」といいますのは、積極的に問題を解決するための「能動的回避行動」であるからと解釈されます。これに対しまして、「泣く」「諦める」というのは「受動的回避行動」ということになるわけですが、何れにしましても、選択肢といいますのは即ち「生物学的な状況判断」でありますから、後者では絶対に問題が解決されない、生き残れない、ということではありません。
愛とは欲求であり、それが阻止されますと憎しみが発生し、戦争が起こります。現代社会では欲求が多様化し、愛がたいへん複雑で分かりづらくなっています。このように考えますと、愛によって支えられる人類の未来といいますのは、あまり安定したものではないように思えてしまいます。

また長くなってしまいました、ゴメンなさい。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。前回もお世話になりありがとうございました。
こういうの生理学っていうんですか。
おもしろそうなので、また時間をかけて読解してみます。

補足日時:2006/09/28 12:14
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
今回も、脳内にこのようなシステムがあることに、かなり感激しました。
正直、欲求でよいのだ・・といいますか実際に欲求(しかも必須条件)なのだと思うと、安心して、少し笑ってしまいました。
私は、高校を出てから教育を受けたことがなく、学問的なことはまるで知りません。ねずみさんの実験のことも知りませんで
した。生理学的に証明されていることなのですね。私は、このねずみさんと同じ病気で、この実験の続き(ねずみさんが学習
したことをリセットする実験が行われたのか、再学習することで、求める対象を「快感」から「満腹感」に戻すことができる
のかなど)に興味津々です。後日、生物学のカテ(でよいのでしょうか)に、新しく質問を立てます。
>DA(ドーパミン)が枯れてしまわない限り幾らでも継続・反復が可能
>一定の物理的あるいは生理的条件によって終息・抑制されるものではない
:なるほど。ありがたいことに「愛」は「ごちそうさまですもういりません」という状態にはならない(なったら困りますね)
ということが納得できました。どんなに満たされている状態でも、与えられるとうれしいのも納得できました。
>「報酬の大きさ」というものがしっかりと評価されることになります。
:動物は常に(無意識だと思いますが)自分の利益になる情報をキャッチして記憶しているということでしょうか。
>生後三歳では大脳皮質の方がその経緯を全く憶えていないから
:そうなのですか。「ものごころがついていない状態」のことですか。
もうひとつ、わりと切羽詰った疑問があるのですが、この頃に獲得される「情動記憶」を後から気に入らないと思った場合、
(リセットするのは無理としても)後から変化させることは可能なのでしょうか。
>この段階でそれが特定の刺激に対する反応、即ち「両親に対する愛情」
:対象恒常性のようなものでしょうか。常にそこにある報酬刺激というイメージが定着するということでしょうか。

親に必要な「クラスチェンジ」には、注意を払いたいと思います。
これがうまく行かずに、「愛」という名目の支配・依存が横行しているように思うからです。
これは、私にとっても他人事ではないように思うからです。

「愛」を確認するためにわざとイタズラをする子どもの行動もうなずけました。
大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/01 01:50

相手を信頼する行為じゃないかな?

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
信頼ですか。よく耳にする言葉なのですが、念のため辞書を引いてみますと
「信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。」
とありました。
「頼り」も、念のため辞書を引いてみますと、「何かをするためのよりどころ」の他に
「寄る辺 導(しる)べ」という説明もありました。
こういうものを自分の中に見ること・他人の中に見ること・・でしょうか。
これ、生きるために、どうしても必要なものですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/08 21:06

こんにちは。


#12です。
あの長ったらしい回答からここまできちんと理解をして頂き、たいへん感謝を致しております。はっきり言って感激しました。

>こういうの生理学っていうんですか。

そうですね。従来、心理現象といいますのは哲学や心理学で扱われていたものですが、現在では医学の発達は元より分子生物学やコンピューター解析技術などを応用して「脳医学」や「認知科学」といった、より科学的なアプローチが成されており、更には「人工知能」なんてものも盛んに研究されていますよね。
このようなご時勢で心理現象を神経系の反応として捉えますならば、やはり「神経生理学」という言葉が最も基本的な範囲を示すものではないかと思います。ここでは我々の心理というものが、その結果であります反応や行動を分析・分類するだけではなく、解剖学的事実などと積極的に付き合わされることによって実証されます。但し、「生理学的な立場から」と申し上げましたのは、私は古典心理学の基礎というものを、実はこちらの方をきちんと勉強したことがないからなんです、すみません。

>>この段階でそれが特定の刺激に対する反応、即ち「両親に対する愛情」
>:対象恒常性のようなものでしょうか。常にそこにある報酬刺激というイメージが定着するということでしょうか。

説明不足でした、申し訳ありません。質問者さんがきちんと解釈して下さいました通り、それは正に「対象」ということで良いと思います。
これが食欲という一次欲求でありますならば、極端な話、おっぱいをもらえるならば相手は誰でも良いということになります。物理的・直接的に欲求が満たされるならば、質問者さんが仰る通り、それは「ごちそうさま」で終わってしまうわけですよね。これが恒久的な愛情に変わるということは、取りも直さず「報酬刺激の対象」が学習によって両親に特定されるということでありまして、これが間接的な対象であるため、同時に物理的な上限というものも取り払われてしまいます。
ところが、それが生後学習によるものであるという考え方自体は間違ってはいないと思うのですが、ですが、おっぱいをもらえるならば誰でも良いということでありますならば、では、これでは「親子の血の繋がり」というのはいったい何だということになってしまいます。
血は水よりも濃い? 果たして、これを単に生後学習で済ませてしまって良いものでしょうか。
とは言いましても、私も勉強不足のため、これに就きましてはきちんとした説明することができませんので、今回はちょっとカンベンして下さい。

>>「報酬の大きさ」というものがしっかりと評価されることになります。
>:動物は常に(無意識だと思いますが)自分の利益になる情報をキャッチして記憶しているということでしょうか。

それが利益であるかどうかは、取り敢えず何らかの判断基準というものがなければどうやっても決められませんよね。我々動物の価値判断には、生まれながらにして備わっているものと生後の学習によって獲得されるものがあります。
空腹や苦痛、あるいは性的快感といったものは、生得的に定められた反応基準であり、これに従って選択されるのが「本能行動」です。ですから、全ての動物はこれによって利益・不利益の判定を下し、生きるための選択を行うことができます。但し、この価値判断は生涯に渡って変更することができません。
これに対しまして、生後体験によって作られる判断規準に基づくものを「学習行動」といいますが、こちらは生まれながらに持っているものではありませんので、最低でも一度は体験しないことには獲得することはできません。ですから、この世に生まれたらまず何をするのかと言いますならば、それは生得的に定められた反応基準によって選択された本能行動の、その結果を学習するということです。この結果の良し悪しによって、我々は生後体験に基づく「自分にとっての利益・不利益」という、新たな判断規準を積み重ねてゆくことになります。

「苦痛」といいますのは生得的な反応基準ですから、危険から自分の身を守るために生まれながらにして持っているものです。ですが、何が危険であるのということは自分が産み落とされた環境から学習するものであり、これに基づいて判断を下さなければ状況に応じた正しい行動を選択することができません。つまり、生き残れないわけですね。そして、この与えられた状況に応じた柔軟な行動選択を行うために発生するのが「恐怖」という情動です。
順番を整理しますと、苦痛という刺激に対しては全ての動物が無条件で回避行動という反応を示します。情動機能を有する高等動物では、これに基づいて大脳辺縁系に不快情動が発生しますので、それは「同時体験した回避行動」と結び付けられ、恐怖という身体反応のパターンとなります。これが学習されることにより、次からは同様の状況に対して恐怖という情動が発生しますので、我々は実際に苦痛を体験しなくとも回避行動を選択することが可能になります。
このように、情動反応といいますのは我々動物が過去の体験に基づき、与えられた状況に応じた、より適切な行動の選択を行うためにあります。この「より適切な」といいますのは、臨機応変で融通が利きますので、本能行動よりも効率が良いということです。

「報酬の大きさ」といいますのは、複数の体験を積み重ねることによって必然的に学習されるものではないかと思います。例えば、空腹と摂食行動の関係といいますのは、これそのものは如何なる動物でも変更されるということはありません。ですが、苦痛によって恐怖を学習するのと同様に、我々は摂食に対しても新たな情動の発生パターンを獲得することになります。そして、「美味しかった、不味かった」あるいは「食べやすかった」「採りやすかった」といった結果が学習されますならば、これに対して発生する情動反応は強い弱いが異なるはずです。
食べ物の好き嫌いというのは情動反応を司る大脳辺縁系の生後学習によるものです。ですから、空腹という生得的な規準は絶対に変更されるものではないにも拘わらず「僕はセロリが嫌いだ」、我々は食べる前にその価値、即ち報酬の大きさを評価することができるわけですね。「抜本的には贅沢になる」というのは、このような意味で使いました。

では、人間以外の動物にはこのような偏食はあるのかと言いますならば、それは間違いなくあるはずです。ただ、野生動物はそのような贅沢を言っていられる環境ではないということですよね。
しかしながら、逆に野生動物であるからこそ、彼らはそこで生きてゆくための食料を自分自身の力で見付け出さければなりません。つまり、環境の中に生きるための糧をできるだけ多く開拓するわけです。このためには、上手い不味いは元より、これなら何とか食べられる、これは食べては危険だ、このようなことをひとつひとつ体験し、確実に学習してゆく必要があります。全ての動物にとって、学習とはたいへん重要なことです。さもなくば、自分に与えられた環境の中で有利に生きてゆくことはできません。このように、学習とは本能行動では対応のできない状況の変化に柔軟な価値判断を実現するものであり、情動反応とは、本質的には生命活動を補助するためにあります。

>私は、このねずみさんと同じ病気で、この実験の続き(ねずみさんが学習したことをリセットする実験が行われたのか、再学習することで、求める対象を「快感」から「満腹感」に戻すことができるのかなど)に興味津々です。後日、生物学のカテ(でよいのでしょうか)に、新しく質問を立てます。

この実験ネズミが社会復帰できたかどうかはちょっと分かりませんが、私もたいへん興味があります。生物学のカテでご質問なさるならば、心理学とはまた違った面白い情報が得られるかも知れませんね。私に分かることでしたら、またご一緒に考えてみたいと思います。

>>生後三歳では大脳皮質の方がその経緯を全く憶えていないから
>:そうなのですか。「ものごころがついていない状態」のことですか。

「もの心が付かない」というのは、まだ幼くて、自分を取り巻くもろもろの事情に判断が付けられないといった状態を指すものですよね。ですから、これは基本的には大脳皮質における「発達」と「経験」に比例するものです。ですが、質問者さんの目の付け所はたいへん鋭く、実はこれは極めて重要なポイントなんです。
どうして重要かは次の「>」で纏めますが、大脳皮質が経緯を憶えていないのは、それは単に古い記憶であるからと解釈して下さい。ただ不思議なのは、同時期の古い体験であるにも拘わらず、大脳皮質では忘れてしまっているいのに大脳辺縁系の情動記憶は健在で、成長してからもそれに基づいて反応はしっかり発生してしまうということです。
考えられる原因としましては、以下のようなものが挙げられます。まず、大脳皮質の記憶と大脳辺縁系の情動記憶では、
「内容の単純さが違う」
「適応の広さが違い」
「想起、使用される頻度も違う」
「神経細胞組織も違う(これ難しすぎて説明できません)」
「分かんないけど、あと色々違う」
といった、同じ学習記憶でもその性質が全く異なります。そして、当然のことながら両者は互いに信号をやり取りしているのですが、大脳辺縁系は生後、既に正常に機能できる状態でありますが、生後三歳ではその相方、つまり大脳皮質の方がまだ「もの心」が付いていないということです。このため、大脳皮質の体験記憶よりも情動記憶の方がしっかりと形成されるのかも知れませんし、当然のことながら情報交換の結果も成人のものとは大分異なるわけです。

>もうひとつ、わりと切羽詰った疑問があるのですが、この頃に獲得される「情動記憶」を後から気に入らないと思った場合、(リセットするのは無理としても)後から変化させることは可能なのでしょうか。

これは可能です、できます。
原則的には、本能行動を実現するための生得的な反応基準には「個人差・個体差」というものはなく、こちらは生涯に渡って絶対に変更することはできません。ですが、生後学習によって獲得された価値観は新たな体験によって幾らでも変化しますし、当然のことながらそこに様々な個性というものを反映します。但し、それを自分の意思によって思い通りに書き換えるというのはたいへん難しい注文です。
ひとつの方法としては、大脳皮質からの信号によって大脳辺縁系の反応を繰り返し学習させるという手段がありますが、これは決して特別なことではなく、我々が成長の過程で幾らでもやってきたことです。例えば、親から注意されたり、恥ずかしいと自覚することによって指をしゃぶるなどの行動が抑制されるようになるのは、大脳皮質からの信号入力によって大脳辺縁系がそれに優先する新たな判断規準を学習・獲得したということです。

ここで、以前から申し上げております「大脳皮質には行動選択の権限が与えられていない」ということに就きましてちょっと整理をしておきますと、大脳皮質といいますのは実際の行動を実現するのではなく、飽くまで行動を立案するものであるということです。
大脳皮質は「過去の体験を基に未来の結果を予測する」というたいへん高度な情報処理によって「計画行動(意識行動)」を立案し、行動選択の決定権を持つ大脳辺縁系に提案をしてお伺いを立てるというのがその役割です。でから、それが大脳辺縁系に送られ、情動反応によって利益と判定されますならば計画行動や理性行動は「報酬行動」あるいは「未来報酬行動」として実行に移されますが、大脳皮質が如何に人間的で理性的な提案を行おうとも、肝心の大脳辺縁系が首を縦に振らなかったために感情行動が優先されてしまった、そんな経験は多くのひとが持っているはずです。
ですから、大脳辺縁系は未来の結果を予測して直接的な行選択よりも価値の高い提案を繰り返すことによって大脳辺縁系の学習を促すことができるわけですが、これによって本能行動が抑制されたり、情動行動に対する計画行動の比率が高まることを、これを即ち人間の成長と言っても間違いではないと思います。

このように、大脳皮質は大脳辺縁系の学習を促すということができるわけですが、大脳皮質の提案そのものが間違っているのでは話になりませんよね。例えば、「お化け」というのは意識現象を伴って形成される概念です。そして、それが怖くてトイレに行けないというのは、トイレにはお化けなんてものはいないという一般常識が欠落しているために間違って学習されてしまった、実際の体験とは異なる情動反応です。ですから、大脳皮質にきちんとした認識が獲得されるならば、それは成長と共に矯正されることになります。
ところが、このように原因がはっきりと分かっているのでありますならば比較的に変更もしやすいですし、放っておいても治ってしまうのですが、多くの場合、大脳辺縁系はいったいどのような体験を基にその反応を発生させているのかが分からないというのが、またややこしいところです。
果たして、自分は何故セロリが嫌いなのか――、
いったい、どうしてこんな女が好みなのか――、
原因の分からない現象にどうやって対処したら良いのでしょうか。
セロリを食べられるようになることと、セロリに対する反応を変更するというのは同じではありません。まして、恋の意味さえも知らない生後三歳で獲得してしまった価値判断に基づいて、あろうことか顔から火の出るような凄まじい恋の過ちを犯してしまうだなんて、どうでもいいからオレの青春を返せ! 

「パニック症:鮮烈な体験に基づく反応」
「トラウマ:深層的な体験に基づく反応」
「うつ病:反応の慢性化」
原因や症状は違いますが、これらはみな大脳辺縁系の情動反応が日常生活に支障をきたす状態に達することによって病症と診断されるものです。
このうち、パニック症といいますのは状況判断によってほぼ原因の特定が可能です。これに対しまして、トラウマといいますのは主に幼年期の体験に基づくものであるために本人もその原因を思い出すことが中々できませんし、仮に何らかの体験が基になっているという本人の自覚があったとしましても、それが事実であるとは限りません。このため、医師やカウンセラーは患者の幼児体験を探り出そうとします。
原因が分からなければ対策が困難ですし、何よりも、「お化けが怖い」のように、それがまだ正しい認識の備わらない幼年期であったために学習されてしまった反応である場合、成長した現在であるならば本人の力で克服できる可能性が十分にあるからです。ですから、そのとき大脳皮質にもの心が付いていたかいなかったかというのはたいへん重要なポイントでありまして、しっかりとした事実を思い出すこともできませんし、これによって大脳辺縁系に学習獲得される反応様式も様々に異なってしまうというわけです。

このように、大脳辺縁系に獲得された価値判断は変更も治療も可能です。ですが、意図的にそれを矯正しようとするならば、原因を特定した反復学習や、たいへん長い治療時間を伴います。ですから、実験ネズミがそれを克服して社会復帰を遂げるためには、それなりの時間と、担当するカウンセラーとの確かな信頼関係が必要なのではないかと思います。

できるだけ短くしようとはしているのですが、ゴメンなさい。

この回答への補足

再びお付き合いいただきありがとうございます。
すみません、理解するのに時間がかかるので、例によってプリントアウトしてゆっくり読解してみます。

補足日時:2006/10/04 23:30
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この回答へのお礼

お世話になっております。本当にいちいち感激します。「脳医学」「神経生理学」、興味津々です。私はドーパミンに作用する薬
とセロトニンに作用する薬を愛飲(?)しているのですが、その薬がどこにどのように作用してその結果、何がどうなって反
応や行動に変化をもたらしているのか、まるで分からないので、これも後日、生物学のカテに質問してみます。

>間接的な対象であるため、同時に物理的な上限というものも取り払われてしまいます。
:この上限のない要求に、どこまで、どのように応じるのが「愛情的(?)」なのかな~と時々考えます。また、要求する人は、
この上限のない要求とどのようにお付き合いしているのかな~とも時々考えます。多分、大事なことだと思うので。
>生得的に定められた反応基準によって選択された本能行動の、その結果を学習する・・
:適応して行くということでしょうか。これが、大脳皮質が発達していない状態で行われるのですね。親としては、子どもが
間違った学習をしないように(親の都合で怒りをぶちまけて余計な恐怖を植えつけないように)気をつけたいと思ってはいる
んですけどね・・。親自身が必要以上に恐怖を持たないことが大切なのでしょうね。親が「これは恐怖だ」と感じて回避行動
を取れば、子どもも「これは恐怖だ」と学習してしまいそうですし。
>より適切な行動の選択を行うため・・・本能行動よりも効率が良い・・・生命活動を補助するため・・・
:正しくない方向に「効率が良い」というのは、「効率が良くない」ことよりも、さらによろしくないと思うので、正しく学習
してほしいと思ってはいるんですけどね・・。
>抜本的には贅沢になる・・
:これの極みが「食わず嫌い」の、常に有益か無駄か考えて行動する、「省エネな人」でしょうか。
>本能行動が抑制されたり、情動行動に対する計画行動の比率が高まることを、これを即ち人間の成長・・・
:なるほどです。私は今のところ、自分の情動行動に慣れる努力を始めたところでして、大脳皮質が困惑しているみたいです。
>成長した現在であるならば本人の力で克服できる可能性が十分にあるから・・・
:それが何に対する反応なのか「分かる」ことができて、新しく、正しく学習できるから、ということでしょうか。
とても参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/06 17:58

私は仏教大好き人間です。


仏教では「愛するな」というのですから、「愛」について語るのはちょっと違和感もあるんですが、「愛」ってやっぱり良いと想うので回答してみますと、言葉の定義にもよりますが、私なりのイメージでいう「愛」とは、『人の心を安定にする働き(仕事)をするエネルギー』です。

いきなり話を飛ばすと、私は「愛」=「気」だと想っています。
気功法の「気」です。


だって愛が足りないと、気が弱くなりますよ。。。
孤独に耐えかねて気が狂ってしまう人だっていると想いますね。
愛を沢山貰っていると、気も強くなります。
勇気百倍になります。
また、ちょっとした気配り、誰かに気にかけてもらうだけでも、なんか嬉しいものです。

愛が物理的な量を持つのであれば、愛の量が、人の心を安定させたり、不安定にさせたりするのではないかと想うんです。

だから気功法なんかやっていると、手から出る気で病気を治してしまったりするのではないでしょうかね。
まあ、「気」という概念でなくても、日本でも「手かざし」なんていいますよね。

あれは、実際に手から気(愛)が出ているのではないかと想うんです。

昔、「気」についてもかなり本を読みました。
「気」を科学している科学者も実際にいるんですね。
そして「気」は物質であると言い張っている先生もいるんです。


仏教では「慈悲喜捨」が、「愛(気)」に該当すると想います。
慈悲喜捨のことを四無量心と言います。
「愛」という言葉は人間同士の関わりについてのみ語られています。「慈悲」は人間だけではなくすべての生命との関わりです・・・となっています。
それって「気」にも似ていると想うんです。

・・と、思いつくままの乱文で申し訳ないですが、愛とか気、慈悲喜捨って、全ての物質の安定、不安定を決めている大切なエネルギーではないかと想います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご紹介いただいたサイトも拝読しました。そのサイトからの引用ですが、
「世間の「愛」にいたっては、その定義は全くない状態」
「各自の個人的な価値観で「愛」を捉え、「愛」を実行しようとする」
「「あなたのために」と自分の価値観を押しつけて、人に迷惑をかけるのはよくあること」
まったくその通りだと思います。だから質問させていただいたわけですが・・。

>仏教では「愛するな」というのですから・・
:そうですか?執着するな・のめりこむな・とらわれるな、というようなことを言ってい
るようには思うのですが、「愛するな」と言っているわけではなくて、むしろ「愛しなさい」
というようなことを言っているようにも思えます・・。

>「愛」とは、『人の心を安定にする働き(仕事)をするエネルギー』
:なるほどです。「安定」についてイメージしてみたのですが、不安や恐怖のためにエネル
ギーを消耗しすぎていない状態・・という感じでしょうか。

「慈悲の瞑想」の言葉は、すばらしいですね。ありがたくいただき大切にふところに入れ
ておきます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/04 10:27

No.3です。



>何の存在ですか?存在に対してどうするのですか?

あなたがこの世に「存在」してくれてありがとう、という気持ちです。
唯一無二の「存在」ということです。
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この回答へのお礼

再びご回答をいただきありがとうございます。
なんとなく分かったと思います。存在自体を喜んでいる状態、という感じでしょうか。
存在をまるごと「受け入れ合っている」状態、という感じでしょうか。

お礼日時:2006/09/30 00:58

決して妖しい者ではないですが(汗)、


お忙しいところ度々失礼します。

>結果として「自分を観察している」のですが、動機はたぶん「人を求めているから」です。

これは本当に私もそういう感じで回答してますね、
「プログとかで持論をやれ!」と言われるんですが、
自発的に問題を提示するのって苦手で
誰かが質問してくれていると
質問を利用して自分探求できるという他力本願ですね。
でもそれでお礼なんか貰えると
余計満足するのは私の方です!(笑)

自己満足の為だから質問履歴も
恩知らずにも忘れてしまってました(謝)。


愛は動詞で形でなく、
「与えたい、許されたい」が心のどこかにあって、
その突破口となる依存心が解放される瞬間、
残念ながら情動的な愛は燃えつき終わります。
情動が主人の恋愛ならばですが、
理性が主人の関係では火を守るのではなく
燃えているものを一緒に見つめるものだと思います。
愛の燃えカスの中に光るもの(昇華したもの)があるとすれば安心感という家。

愛は仕事を終えて「ただいま」
ずっとよろしく「おかえりなさい」である。

抽象的な回答ばがりですね。
これも自己満足でいいからなんです。
ありがとうございます。
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この回答へのお礼

たびたびありがとうございます。
>質問を利用して自分探求
:「誰かの質問」は、いわゆる他人事で、私の現実ではないのですが、移入して拝読し、考
えていると、私自身にいろいろな感情が発生し、その感情は私の現実であるところが面白
く、ついつい観察しては「生きてるな~」などと思うのです。

やっぱり「製造元」は「与えたい、許されたい」みたいな「欲求」なんですかねえ。
やっぱり「入り口」は「依存心」なんですかねえ。
>燃えているものを一緒に見つめるもの
:時間とか空間とか・・つまり人生を共有することにお互いが賛成している状態かしら。
>安心感という家
:そこに安住したいという欲求も「愛」なのかしら。
>「ただいま」「おかえりなさい」
:なるほどです。これは洗練された「甘え合い」「甘えの受け取りあい」という素晴らしい
やりとりですね。やっぱり愛はある程度スキルなのかしら。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/30 00:51

愛とは理想的な精神状態です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
理想的な精神状態ですか。
幸・温・安心・満足・平穏・解放感なんかを想像したのですが・・。
そういう感覚を他人と共有しようとすること、かしら・・。

お礼日時:2006/09/28 12:11

愛の実態は無いと思います。


 性欲、責任、友情、思いやり、心、本能、・・・・etc
これらの言葉は愛の本質ではないと思います。しかしこれら
言葉が愛の皮であり、肉でありような気がします。
愛とはこれらの内側にあるのかもしれません。
その真髄を知るためにこれらのベールを一枚
一枚はがしてゆきます。
するといつしか剥がす物が何も無くなってしまいそうな気がします。
愛とは玉ねぎの芯のようなもの。その場所はなんとなくわかるけど
その本質をつかんだ者はいないのです。 と思いました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>玉ねぎの芯のようなもの。
なるほどです。私は玉ねぎ自体をまるごと「愛のようなもの」とぼんやり思っていたので
すが、皮をはがした内側にあるものを見てみたいと思って質問した次第です。
性欲・所有欲・支配欲・責任・義務なんかを取っ払って残ったものがどんなものなのだろ
う、そもそもそれだけで成立するのかしら、ということに興味津々でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/28 12:03

しつこくすみません。

お返事ありがとうございます。

neutralさんのプロフィールも読ませてもらいました。
ACというのは環境的にしょうがないようなものがあった
のかもしれませんが、
素直に愛情一杯受けて育ってきたような感じさえしてました。
感情も思考豊かで、
底辺をも知ってしまったからこそ、喜びが深いとか
よい機会に恵まれたかもしれませんね。

子供を持つと価値観が変わらされるもので、
というか限界を知らされるもので(苦笑)
そのことで完璧が判らなくてもこなせた安堵は
自信も遅れ馳せながら貰えるようです。

挫折もしたり
足りない事に負けないよう無理を頑張ったり
繰り返しもありますね。

回答で並んだりするといつも参考にさせていただいてます。
私は「アダルトチルドレン」というより
「チルドレンアダルト」です。(体格が成熟しないせいかと)

表現がおかしな面も多々ありますが、
「人類最強の武器は笑いである」by財津一郎
ということで
自己満足で、それもneutralさんにも共感すべく
こういう質疑のサイトは
自分の経験値や勉強になるからやってます。
人のこと実はどうでもいいです冷めてます私(爆)
neutralさんはそういう部分を感じないのです。
暖かそう。

そんなに難しくも深くもなく、
動機は誉めたものではないのに
高尚なヒューマニズムに合致する偶然もあったりるする。
ギブアンドテイクは「優性思想」だからとか
気に留めることなく
一人で物事を成し遂げることも無理なのだから
皆で楽しめるっていいですもの。

愛は恩返しである。
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この回答へのお礼

たびたびありがとうございます。
>素直に愛情一杯受けて育ってきたような感じさえしてました。
:よく分かりません。今もときどき、後天的に身に付けたらしい「心の悪癖(?)」を恨めしく思ったりもするので(つまり解
放されていないので)「ACではなくなりました」とは言えないような気もするのですが・・。
ただ、「愛のようなもの」を、かなり図々しく求めるようになったのは確かだと思います(笑)。こういう場所で活字を生産し
ているのも、実は(結果として「自分を観察している」のですが)動機はたぶん「人を求めているから」です。

私もmiko-desiさんのご回答はいつも参考にさせていただいてます。
私の質問にも何度かご回答をいただいていますね。
以前「無意識を意図的に止めることはできますか」というような質問をしたときに「退屈と戦おうとする意識が強すぎるので
は?」「良い順で、投資→消費→浪費」「遊びは当たり前のリラックス法」というご回答をいただき、目からウロコでした。
こうして私の質問にご回答をくださる方がいるということ自体に「愛のようなもの(No6様がおっしゃるところの『他人への
●●』)を感じます。ありがとうございます。
>暖かそう。
:そう言っていただいて「うれしい」と感じることを不思議に思います。いつも「そんなことないですよ」などとと言って「困
ったように逃げて」ましたから。
>愛は恩返しである。
なるほどそうかも。与えようと思う前に、拒否しないで受け取らないとな~なんて思いました。
No6様のおっしゃるところの「自分がしてもらいたいこと」を「分かる」ことからしないとな~とも思いました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/28 11:48

古い話ですが「宇宙刑事ギャバン」の歌では


「ためらわないこと」「悔やまないこと」と言っていました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほどです。

お礼日時:2006/09/27 11:43

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