谷崎潤一郎の『青春物語』「饒舌録」に、明治四十年頃、泉鏡花が自然主義のために圧迫され、本を出そうとしたら自然主義一派のボイコットがあって出せなかったと書いていますが、鏡花の評伝(村松定孝、寺木定芳)を読んでも確認できませんし、鏡花は『婦系図』『草迷宮』を刊行しています。そのような事実があったのでしょうか。あるとすれば、そのことが記されている研究書または論文を教えてください。

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A 回答 (3件)

No.1の者です


秋声が硯友社を離れたのは紅葉がまだ生きている時の筈です
殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです
しかし秋声は穏やかな人柄だったので売り出し中の谷崎を同じロマン派の鏡花に紹介したのでしょう、その時から鏡花と谷崎の付き合いが始まって谷崎のお嬢さんの結婚の仲人を鏡花が務める事になったらしいです
前回に秋声とは仇敵と言いましたが周囲がそう見ただけで友情を持ち合っていたのかも知れません、互いに逢うのを避けていたそうですが
自然派で紅葉ー鏡花のラインにもっとも敵意を抱いていたのは紅葉が亡くなった時、読売新聞紙上に鏡花もついでにぶっ潰せと公然とアジつた正宗白鳥(読売の文芸記者でした)でした、当時の狭いジャーナリズムの世界に大きな影響力があったのうしよう
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No.1でお答えした者です


確かに誇張はあるかも知れませんね
でも自然派はロマン主義の硯友社を敵視してその総帥だった尾崎紅葉が亡くなると一番弟子の泉鏡花を文壇から閉め出そうとしたのは事実です
鏡花の郷里からの友人だった徳田秋声は紅葉の弟子でしたが自然派に鞍替えし、その為鏡花は激怒して秋声を人前で殴打して以来二人は仇敵の間柄になりました
田山花袋は当時大手出版社の博文社の有力編集者で何でも出来得た立場です、鏡花自身も師紅葉を慕いその文学を守るあまりに自分を孤立に追い込んだ傾向があったでしょう
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この回答へのお礼

ありがとうございます。秋声の件は何年ごろでしょうか。谷崎『青春物語』では、明治45年1月の紅葉館での会で、秋声が谷崎を鏡花に紹介していますが・・・。

お礼日時:2006/10/18 12:12

芥川龍之介に、その当時文壇を独占した自然主義者のグループに目の敵にされ文壇から追われた泉鏡花に同情した文章があります、確か東京に居られず伊豆の方に隠れて貧乏を余儀なくされたとか



当時の出版界は狭く、博文館とか春陽堂などの大手を抑えれば自分達に同調しない作家への「いじめ」は簡単に出来たのです

自然主義者グループは森鴎外、夏目漱石も目の敵にしましたがさすがに一指も差す事が出来ませんでした

その状態は明治の終わりに白樺や永井荷風などの新文学の出現で打破され、鏡花も文壇に復帰しました

芥川が別の随筆で「武者小路実篤氏が文壇の天窓を開け放って新しい空気を入れた」と言うのはそのことでしょう
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この回答へのお礼

ありがとうございます。しかし鏡花の弟子で、文学的才能に見切りをつけて歯科医となった寺木によれば、鏡花の逗子隠棲は明治38年からで、神経症の悪化のためです。ただ自然主義文学は売れなかったと正宗白鳥が書いていますし、徳田秋声は鏡花とは友人で、鏡花が敵と見なしているのは田山花袋一人ですし、自然主義の猛威についての話はおおむね誇張されているのではないかと思うのです。

お礼日時:2006/10/18 00:12

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Q太宰治と志賀直哉の確執について

最近太宰治の「如是我聞」を読んだのですが、その中で太宰が志賀のことを名指しでけちょんけちょんにけなしていました。
ウィキペディアで調べたところ、太宰が最初に「津軽」の中で志賀を批判し、それに立腹した志賀が太宰をけなす発言をし、だんだんエスカレートして遂に「如是我聞」が発表されたということらしいのですが、この対立の経緯について詳しく知りたいのです。
参考になる書籍やHPがあったら教えてください。また、上に書いたこと以外のことをご存じであれば教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。きっと志賀直哉自身にというより、彼に象徴される世間の偏
った高尚趣味(と太宰は思っている)若い作家達の彼へのとりまき、へつらい、
に嫌悪感を抱いていたのかもしれません。(やっかみも少しはあったかもしれま
せん)(^^) それを読んだ志賀直哉が、座談会の席上で仕返し(?)に
太宰の作風をけなすなどしてバトルが始まったようです。

でも、私は、ことの発端は、有名な、太宰と井伏鱒二との確執のような気がします
。井伏は太宰が故郷青森から上京した時から頼っている文壇の先輩であり、私生
活でもいろいろと面倒をみてもらっていた作家です。太宰は候補になっていた第
一回芥川賞を逸したり、その後もあの手この手で受賞の依頼をするなどしても
(川端康成におねだりの手紙を書いたりしていますね)思うように行かず、また
女性問題等でもトラブルがあるなど、徐々に生活に行き詰まりを感じ、
薬物中毒に陥ったりしていきます。
井伏も当時は貧乏作家で、さほど将来を嘱望されるような作家ではありませんでした。

そんな中、井伏が「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を取りますが、
その作品に盗用が見られるとし(後に大傑作とされる「黒い雨」にも盗用
論争)それに嫌悪した太宰が、井伏批判、そしてその背後にある文壇、世間、そ
の象徴である"老大家"の志賀直哉批判、と日頃の不満が発展し、たまりにたまったうっぷんを
はき出すように、意を決して「如是我聞」を発
表するに至ったのではないでしょうか。
遺書には「井伏さんは悪人です」とありますね。

「如是我聞」で太宰は「その者たち(老大家)の自信の強さにあきれている。
……その確信は……家庭である、家庭のエゴイズムである」などと言ってますが、
私は、津軽の名家に生まれながら真の家庭的愛情に恵まれなかった太宰の本音が
そこに伺えるかなぁという気がしています。

「如是我聞」は、死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で、
新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発刊されていますね。

参考文献といえるかどうか判りませんが、「ピカレスク」(猪瀬直樹・小学館)
にはとても興味深いものがあります。

私見ですが書いてみました。

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。き...続きを読む

Q夏目漱石は森鴎外をどう思っていたか。

お世話になります。
森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。
森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか?
そのような事が分かる本などは有るのでしょうか?
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から)
--------

鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。

後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。

江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。

-----(p.202から引用)-----
「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。

……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる
------

つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。


後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。

このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。

-----「鴎外と漱石」p.160-----
おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。…

では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。
-------

当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。

なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。

二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。

こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。
漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。
ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄に...続きを読む

Q余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。

具体的に谷崎側の主張内容を教えてください。転載して頂けると助かります。
その谷崎の主張が読める書名やサイト名がありましたら紹介も宜しくお願いします。
そもそも芥川はなぜ批判めいた事を口走ったのでしょう(発端は芥川側ですよね)。精神力の低下により谷崎生意気だと発狂し始めたのでしょうか(それこそ中身のない感じの浅い批判文をさらしてまで)。
しかし方や芥川だけに文学史上極めて貴重な論争ではないかと思うのですが、単なる出来事として周知され肝腎の議論の行方についてどうなったか私は全く知りません(芥川賞は知名度があるのに。矛盾を感じます)。
ちなみに当方は読書家ではありません。でもこの二人の文学論争は近代文学(作家)の本性を伝える重要な資料になると思うのです。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとする新感覚派の提唱があって、それを明治以来の自然主義の系統とそれにつづく白樺派といった「主流」が迎え撃つ、といったものでした。

大正十四年、その「主流派」である久米正雄が『私小説と心境小説』として、自らの小説観を発表します。久米はここで「私はかの私小説なるものを以て、文學の、――と云って余り広汎過ぎるならば、散文藝術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思う」(引用は『現代日本文学論争史』からの孫引き)という主張をおこないます。

久米は、芸術が真の意味で別の人生の「創造」だとはどうしても信じられない、そういうのは一時代前の文学青年の誇張的至上感にすぎない、自分にとっての芸術は、たかがその人びとの踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない、というのです。

「私」を「コンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する」、そうした意味で、真の意味での私小説=心境小説こそが芸術の本道であり、真髄である、と主張したのです。

この発言を受けて、中村武羅夫や徳田秋声や田山花袋、佐藤春夫や宇野浩二などがこの「私小説論争」に加わって、心境小説とは、本格小説とは……と活発に議論されるようになります。ただ、本格小説(あるいは客観小説)、心境小説といっても、それらの意味するところはきわめて曖昧で、曖昧な概念用語を用いての議論でしたから、どうしてもとりとめのないかたちになっていかざるをえませんでした。

そのさなかに(論争に加わるかたちではなく)自然主義の陣営の外から出されたのが、谷崎の『饒舌録』でした。

「いったい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、そうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」(『改造』1927年2月号:以下引用はすべて『現代日本文学論争史』からの孫引き)

谷崎にとっては、当時論争の焦点であった心境小説と本格小説の優劣など眼中になく、

「…そんな主義でも抱いているように取られそうだが、決してそういう次第ではない」
「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好くようになった」
「此れは或いは良くない趣味だと思うけれども、そうなって来た以上仕方がないから、まあ当分は此の傾向で進んで行こう」

これを見てもあきらかなように、自分の考えを述べたというより、ただ小説についての自分の好悪を吐露したものでしかありませんでした。

それについて、雑誌『新潮』の合評会で芥川龍之介が言及したのです。批評しようとしたものではなく、たまたまそれにふれて、自分の気持ちを述べた、という性質の、文字通りの「言及」です。

その背景には、かつての芥川自身が誰よりも谷崎の言う「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだもの」を書く作家だった、ということがあります。

初期から中期にかけての芥川は、王朝もの、キリシタンもの、開化ものと呼ばれている、技巧を尽くした作品を発表する作家でした。そうして「技巧派」「理知派」という批判を浴びることになったのですが、それに対しては「芸術活動は意識的なものなのだ」と反駁してきたのです。

けれども後期に入ると(といっても芥川の作家活動自体が大変に短いものでしたが)、次第にそうした自分の作風に反発を感じるようになって、作風に変化が生じてくるのです。そうして、たとえば志賀直哉の『焚火』のような小説に、自分には決して書けないがゆえのあこがれを持つようになります。

谷崎の『饒舌録』の主張は、まさにその芥川の思いとは逆の主張だったからこそ、合評会でそれにふれずにはいられなかったのでしょう。それがこのような発言となりました。

「芥川:僕は谷崎氏の作品に就て言をはさみたいが、重大問題なんだが、谷崎君のを読んで何時も此頃通説に感ずるし、僕も昔書いた「藪の中」なんかに就ても感ずるのだが話の筋と云うものが藝術的なものかどうかと云う問題、純藝術的なものかどうかと云うことが、非常に疑問だと思う。」

「芥川:筋が面白いために藝術的の価値が低下すると云うことはない。それは積極的ではない。併し谷崎氏のは往々にして面白いと云う小説と云うものに、其筋の面白さで作者自身も惑わされることがありやしないか。」(「新潮」1927年2月号)

これに対して谷崎は翌月の「改造」でただちに反論します。

「筋の面白さは、云い換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに藝術的価値がないとか云えない。(材料と組み立てとはまた自ら別問題だが、)勿論此ればかりが唯一の価値ではないけれども、凡そ文學に於いては構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである。そうして日本の小説に最も欠けているところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何學的に組み立てる才能、に在ると思う。」(「改造」:1927年3月号)

その谷崎に答えるかたちで、芥川も同じ「改造」に『文藝的な、余りに文藝的な』の連載を始めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html

あれこれと弁解の続く文章ですが、谷崎に対する回答となるのは、以下の点です。

「「話」らしい話のない小説は勿論唯ただ身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙はるかに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。」(「改造」:1927年4月号)

こうして芥川は、谷崎の「構造的美観」に対し、「詩的精神」を対置しようとするのですが、その「詩的精神」がどういったものか、芥川自身にもはっきりとつかめていたわけではなかった。ただ、「話」のある小説しか書いてこなかった自分にあきたらなくなって、なんとかして転換していこうとした先に見えていた(あるいは見ようとしていた)かすかな光、という程度のことだったのではないでしょうか。

それに対して、迷うことのない谷崎の回答は容赦ないものでした。(「改造」5月号)

「私には詩的精神云云の意味がよく分からない。」
「私は斯くの如く左顧右眄している君が、果たして己れを鞭うっているのかどうかを疑う。少なくとも私が鞭うたれることは矢張り御免蒙りたい。」

けれどもその谷崎自身

「藝術は一個の生きものである」
「実際人を動かすような立派なものが出て来れば、いいも悪いもあったものではない」
「現在の日本には自然主義時代の悪い影響がまだ残っていて、安価なる告白小説体のものを高級だとか深刻だとか考える癖が作者の側にも読者の側にもあるように思う。此れは矢張り一種の規矩準縛と見ることが出来る。私はその弊風を打破する為めに特に声を大にして「話」のある小説を主張するのである」

というように、それ以上の考えがあったわけではなかったのです。

芥川はこれに対して『再び谷崎潤一郎氏に答ふ』を書きましたが、特にこれといった主張があるわけではない、儀礼の域を出るものではありません。

この論争も、論争によって互いの思想を確固たるものにする、とか、議論を先に推し進めていく、といったものではなく、あるいは何らかの解決や一致点を見るものではありませんでした。単に、両者の作家的資質のちがいを鮮明にするにとどまるものだったのです。

> 文学史上極めて貴重な論争ではないか

と質問者氏は書かれておられますが、果たして「貴重な論争」というものが、少なくとも日本文学史上、あるものかどうか(いや、誰かに怒られるかもしれませんが)。

実際、過去の「論争」の多くは果たして「論争」と呼んで良いものかどうか迷うほどなのですが、ひとつ指摘しておきたいのは、その多くが実作者によるものであって、理論家によるものではなかった、という点です。この点に関しては批評理論とも関連してくるので、ここではふれませんが(そうしてまたその能力もわたしにはありませんが)、少なくとも作家にとって、理論を構築するのが目的ならば、小説など書く必要はありません。

けれども、多くの作家にあっては、創作を書かずエッセイを書く時期というのは、意識的である場合もそうでない場合もありますが、その作家が転換期に入ったことを示すものといえます。過去の自作の再生産に終わらず、新しい方向を模索するとき、作家というのは「文学とは」「小説とは」と考える。そうしてそれが「論争」というかたちで今日まで残っている、と考えるのが妥当ではないのでしょうか。

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとす...続きを読む

Q泉鏡花 筆名 由来

泉鏡花の筆名の由来をご存知の方がいらしたら教えてください。

Aベストアンサー

↓に『鏡花の名は、「共に美しいがそれを手中にはできない」の意味を持つ「鏡花水月」の語からきています』とあります

参考URL:http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11020/bungaku/writers/izumi/izumiJ.jsp

Q文豪たちの血液型

福沢諭吉
菊池寛
遠藤周作
森鴎外
志賀直哉
樋口一葉
島崎藤村
金子みすず
の血液型をどなたかご存知の方教えてください。

Aベストアンサー

遠藤周作: AB型
 言及 → http://www.hatirobei.com/%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99/%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

志賀直哉: AB型
 言及 → http://blog.alc.co.jp/blog/2000455/3250

森鴎外: B型?
 言及 → http://yaplog.jp/mnbvcxz1/archive/351

明治の人は、そもそも血液採取することが稀であったろうし、病院のお世話になったにしろ、「あなたの血液型は * 型です」といって、いちいち患者に教えることもなかったろう(今もそうだろうけど)。
だから、本人も知らないことが多かったと思われます (まして他人は知らないから、記録にも残らない)。
例外は、先の太平洋戦争を経験した人たちで、いつ負傷するか分らないから、イザという時の輸血の便のために自分の血液型の札を首にかけたりしていた (だから、少なくとも親や本人は知っている)。
それと、侍の時代を生きた人たちの中には、血判状を書いた人もあった (赤穂浪士など)。それが残っている人は分析できる。
それ以外は、ほぼ勝手な推測によるものがほとんどであると思われます。

遠藤周作: AB型
 言及 → http://www.hatirobei.com/%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99/%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

志賀直哉: AB型
 言及 → http://blog.alc.co.jp/blog/2000455/3250

森鴎外: B型?
 言及 → http://yaplog.jp/mnbvcxz1/archive/351

明治の人は、そもそも血液採取することが稀であったろうし、病院のお世話になったにしろ、「あなたの血液型は * 型です」といって、いちいち患者に教えることもなかったろう(今もそうだろうけ...続きを読む

Q出版社に就職するにはどうすればいいですか

出版社に就職するにはどうすればいいですか

Aベストアンサー

元、中堅の出版社の編集者です。

講談社・小学館・集英社などの大手の出版社は、就職活動生にとって人気ですよね。
が、それだけ人気があるため、多数の学生が応募してきます。就職倍率は高く100倍? 以上はザラです。←100倍と適当に書いてみて、その数字に不安になったので軽く調べたところ、

【2010年度の出版社別の内定率予想】
小学館:約8000名? が応募。うち13名が内定
講談社:約8000名?、21名内定
集英社:約7000名?、17名内定

上記の平均合格確率は0.22%程度。つまり500名にひとり内定が出る確率です。

よって出版社は優秀な学生を選び放題選べるわけです。(学歴フィルターもあるとこはある)

上記の大手3社の場合、内定者のほとんど(おそらく8割程度)は東大・京大・早稲田・慶応……etcなどの学力レベルの高い大学の卒業生で占められてます。


なかには文学や漫画が好きで、驚くことにすでに賞を取っている就職活動生もいます。(賞といってもいろいろありますが、小さな文学賞や俳句の入選者やら、読書感想文の入選者やら大学で文学研究しているひとやらが大勢いる)

あなたが上記に挙げたような大学の卒業生で、かつ他者からの評価をすでに得ているならば、内定が出る可能性は高まります。もしそうならば、普通に試験対策を十分行って、まずは一次試験を通過してください。一次通過がとりあえず勝負です。


それ以外の水準の大学ならば、履歴書・面接にてあなたの個性を前面に出し、覚悟をもって奇抜に振舞ってください。(奇抜に振舞えといっても、礼儀は欠いてはいけない)また、面接官に情熱の大きさを伝えてください。


※私は低ランクの国立大卒ですが、出版社に受かりました。


【出版社の現実】
出版社の現実は非常に厳しいです。
斜陽産業で、大手のいく社かも赤字を計上しています。
2ヶ月休みなし、毎日平均15時間労働をあなたができる! という覚悟があれば、出版社に就職してください。
実際に出版社就職前にバイトをそのくらいの時間、休みなしでやってみてください。バイトできないなら、毎日4時間以内睡眠を2ヶ月は続けてみてください。それで体を崩さない、精神が崩壊しないのであれば、あなたには素質がありましょう。

就職したら本当に奴隷のように、または奴隷以上にきっっっつい労働環境があなたを待ってますから。
私のいた部署は、全編集部員6名のうち2名がうつ病に。1名が過労で倒れて点滴しながら編集。私もうつ病寸前になって辞めました。就職前までは、毎日徹夜してでも仕事はできる! と思っていたにもかかわらずです。

また編集者の代用はいくらでも存在することもあって、大手以外はとんでもなく薄給です。私は時給換算すると350円程度でした。

よって、ホンネをいえば、出版社に就職なんて絶対におすすめはできません。文芸が好きなら、本屋に就職とか、他の仕事をしながら出版社の賞に応募するとか、雑誌カメラマンになるとか、文学サロン・文学愛好会に入会するとかしたほうが、絶対にいいですよ。

これらを踏まえて、あなたがどうしてもやりたいならば、さらに具体的な案を追記します。

どうです、それでも出版社に行きたいですか? (辞めといたほうがいいよ。本当に)

元、中堅の出版社の編集者です。

講談社・小学館・集英社などの大手の出版社は、就職活動生にとって人気ですよね。
が、それだけ人気があるため、多数の学生が応募してきます。就職倍率は高く100倍? 以上はザラです。←100倍と適当に書いてみて、その数字に不安になったので軽く調べたところ、

【2010年度の出版社別の内定率予想】
小学館:約8000名? が応募。うち13名が内定
講談社:約8000名?、21名内定
集英社:約7000名?、17名内定

上記の平均合格確率は0.22%程度。つまり500名にひとり内定が出る確...続きを読む


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