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大辞林は「最も」と「尤も」をそれぞれ見出し語として、あたかも二つの文字を単一の語「もっとも」の二側面に対応するものとして使い分けることを推奨するかのごとくに見えます。

これを私ははなはだ疑問に思います。「最尤」という語があること一つをもってしても要らざる区別立てだと思うのですが、どうなのでしょう。大辞林は何を根拠にかかることを主張するのか、教えてください。

A 回答 (6件)

>まことに申し訳ありませんが何をおっしゃろうとしているのかわ私にはわかりません。


質問者にこう言われるのでは、まったく意味のない回答でしたね。(苦笑)古文書などを見ていると、古来から自由自在な表記法が用いられてきたのだなと、感慨しきりです。しかし、現代になるとある種の規範的なものに向かおうとしている傾向は見えます。特に漢字に関しては、漢字本来の意味をなるべく生かそうという傾向はあるようです。その一方で、国語審議会(現在の文化審議会)で方向性は打ち出されたものの、それでもそれを無視して独自の表記をするのは自由です。ただ、読む人がどういう感想を持つかは別として。
 「広辞苑」(第二版、古くて済みません)も、少し内容は異なりますが、「もっとも(尤も)」「もっとも(最も・尤も)」の二項目を立てています。わたしは「最もらしい事を言うな」という表記法には組しない者の一人です。
 今回の回答も、お分かりいただけ無ければ、無視してもらって、お礼等を付けて貰わなくて結構です。

この回答への補足

はあ、もう何がなんだかいっこうにわかりません。私の質問に答えてくださるおつもりがあるのでしょうか。

広辞苑のやり方と大辞林のそれと、「少し内容が異なる」とはどういうことなのか頭を抱えます。ぜんぜん違うじゃありませんか。広辞苑のほうは「書き分けられない」ということを間接的に告げるものではありませんか。

どうして「最もらしい事を言うな」という表記を不可となさるのか、その理由をいったいどうしておっしゃってくださらないのですか。そう主張するひとが多いのは承知の前です。そういうひとが多いから大辞林を代表者として立てた質問です。ここにおよんでなおそれは駄目だと理由も根拠もなしに言われてもこちらは困惑するばかりです。最初から私はその理由なり根拠なりを問うておるのですから。

補足日時:2006/10/25 14:31
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わたしは、「大辞林」の編集関係者ではありませんから、以下の回答は推測に過ぎません。


 「大辞林」が「もっとも(尤)」、「もっとも(最)」の二つの項目を立てたのは、どちらの漢字で表記してもかまわないと思われと困るためと考えます。和語としては共通の意味を表す場合もあるが、別の意味を表すこともあるためというのが、一つの理由。(これは、理由として同列にはいえないのですが)「尤」の字が常用漢字表に入っていないことも、考えられます。「国語辞典」としてはよくあるやり方で、他にも「はかる」という語も二つの項目が立ててあります。ただ、「計・測・量」と「図・謀・諮」がどうして分けられたのか、ちょっと首をひねるところではあります。
 一方、「漢和辞典」の立場から言えば、「字統」・「漢字源」の両方とも漢字の成り立ちや意味に明らかな差があるように書いています。ところが、「漢字源」の「最」の説明の中に「類義」として「尤」を挙げ、「尤最」という熟語を載せています。漢字の熟語の中には、こうした類語を並べて作られた二字熟語が多数存在するように思われますから、特に不思議な存在ではないでしょう。また、「尤」の用例として
 汝時ニ尤モ小ナリ(韓愈・祭十二郎文)
も挙げられています。(漢文の引用ができないので悪しからず)この例からみれば、漢語としても二つの字が無縁のものではなかったようです。
 しかし、もう一度国語としての用法に戻って考えると、
 「君の言うことももっともだが…」「ごもっとも」などにたとえ常用漢字であっても、「最」を当てるのは無理があるようです。
 
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この回答へのお礼

まことに申し訳ありませんが何をおっしゃろうとしているのかわ私にはわかりません。ごもっともは「ご最も」でなぜいかんのですか。

お礼日時:2006/10/25 00:07

#2です。

ご返事ありがとうございました。
「尤」の『そのとおり・道理に合う』は、かなり以前の漢和辞典を参照したものです。
用例として「ご尤も」となっていますが、ここで私が注目したのは意味が「絶対正しい・一番道理に合う」などではなかったという点です。
無論、意味を参照した後だからこそ注目できたわけで、幾分詭弁めいた解釈になってしまう可能性は否定しません。ただ、
「今、口にしたことは特に優れている内容(論理)の部類に入ると言っていいと思うよ。」
「今、言ったことは特別優れた道理の範疇に含めても良いと私は感じているよ。」
といったような意味に解釈することができるのではないか、という感じがします。

矛盾した表現ですが、
「尤も」は「最も優れていること」を広義に解釈している、という印象を受けます。
第一項の意味にしても「一番」ではなく「第一に」となっています。
first ではあっても best ではない、といった逡巡すら伝わるような解釈のように思いました。

「最高の夏休みでした」の例は面白く拝見しましたが、
このような場合の「最高」は厳密に「最も」の意味を踏襲してはいないと思います。
恋人が「あのアーティストは私にとって最高に素晴らしい人です」と言った時、怒る人はあまりいないと思いますが、
「あのアーティストは私にとって最も素晴らしい人です」と言うと少し眉間の皺が増える方は多いのではないでしょうか。

私自身は「尤も、そういう場合は~」などというような使い方より知らず、「最」と同義の(あるいは同義に近い)意味があるとは思っていませんでした。
今回のmannequinkatzeさんのご質問をきっかけにして、
【彼女は私の知っている中で最も人間的な女性だ。】
【彼女は私の知っている中で尤も人間的な女性だ。】
という2文を比較した場合、
「私はどうなるの? 」
「無論、君もだよ。」
という会話が許されるのは後者の場合、といったようなニュアンスがあるのかもしれないと感じています。
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この回答へのお礼

重ねてありがとうございます。

古語辞典を見ると「もとも」や「もっとも」は最字と尤字と、まったく区別していません。そして和語「もとも(もっとも)」の意味場の中心は「イッチバーン」にあるようです。正しさであれ美しさであれ善良さであれなんであれ。

漢字制限以前に尤字を音で使う語は文語口語ともに複数ありました。まずユウブツというのは多少教育のある者なら舌頭に上す語でありました。美人のことですからね。これがあるからか、ユウナルモノなどという言い回しもとくに異なものではありませんでした。落語などでも耳にした覚えがあります。優かもしれぬとは思いましたが、紙面でも「尤なるもの」というのは気にかければざらに見かけるものなのでした。

ある字の使い道を一つしか知らないなら、その字は死物となりましょう。いろんな使われ方の中で字義は明らかになります。漢字制限の罪は限りなく重いと言わねばなりません。

英語のような窮屈な言語でも最上級は最上「級」です。唯一絶対をとくに求めません。わんのぶざなんかえすと、なんてのが当たり前なことからも自明です。なぜかこれを訳したところから成立したと思われる「もっともなんとかのうちのひとつ」を文法的錯誤とか主張する質問がこのカテゴリでしばしば見られることを私は不審事に数えます。

お礼日時:2006/10/25 00:00

大辞林の「尤も」の記述には、「推奨」ではないとは思いますが、少し問題がありますね。



ただ、言葉というのは、生きものですから、時代時代で変わります。

mannequinkatzeさんのおっしゃるように、「尤」の字の漢語における意味には「そのとおり・道理に合う」はありません。

しかし、実際上は「ご尤も」とは書かれることはあっても、「ご最も」とは書かれないように、日本では「そのとおり・道理に合う」には、尤の字を使っている場合があります。
辞書に、「国語に限られる用法」と書かれていることは、それを意味するのでしょう。

ですから、場合により、日本で使い分けをしても仕方のないことではありますが、大辞林で使い分けを推奨しているわけではないと思います。

その理由としては、次の二つがあげられます。
1.尤の字は当用漢字・教育漢字に入っていない。
2.最近では、どの意味の時でも、「最も」も「尤も」も使わないで、「もっとも」と仮名で書くのが普通になってきている。
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この回答へのお礼

何をおっしゃってるのかよく分からないので、しちくどい返答になりますが悪しからずご了承ください。

>大辞林の「尤も」の記述には、「推奨」ではないとは思いますが、少し問題がありますね。

日本語として体をなしていないようですが。私も「推奨している」と言った憶えはござんせんし。

>言葉というのは、生きものですから、時代時代で変わります。

言葉は生きもの、ってよく聞く比喩ですがほんとですかね。操り人形のほうがましなたとえのような気がしてなりませんが。それに日本語そんなに変化してないでしょ。ここ千年くらい。

とは言え多少は変化するのが言葉です。そしてそれを記録するのが辞書の本務であるのは言うまでもないことのように思いますが。むろんドタキャンとかドンビキとか採録立項してそれを良いことのように宣伝する心意とは無縁の話として申しております。なぜなら、

>実際上は「ご尤も」とは書かれることはあっても、「ご最も」とは書かれない

ってそりゃ本当ですか、と問い返したいくらいだからです。「最も」を「尤も」と書くことは昔ならざらでした。その逆は確かに少ないと思う、でも皆無じゃない。稀ながらに見覚えはある。そして、「もっとも」と最字尤字を宛てたのは両字の重複部分においてとしか思えない。最に尤を代えることは間違いなく許される、その逆は頻度が落ちるゆえ可とすべきか否かよくわからないけど、そうしたとして深く咎めるべき理由が見出せません。

>1.尤の字は当用漢字・教育漢字に入っていない。

意味不明です。

>2.最近では、どの意味の時でも、「最も」も「尤も」も使わないで、「もっとも」と仮名で書くのが普通になってきている。

これも意味不明です。辞書に今現在のことを尋ねたりなさるんですかあなたは。

お礼日時:2006/10/23 18:46

曖昧な印象でしかありませんが、


「>二側面に対応するものとして使い分け」るのが妥当であるという仮定で推測を述べさせていただきます。
自分で比較し易いように、漢和辞典に載っているそれぞれの意味を列挙してみました。

【最も】
1、第一に・とりわけ・この上なく・一番
2、一番優れているもの・首位
3、集める・取りまとめる
4、締め・総計
5、すべて
6、整う

【尤も】
1、第一に・はなはだ
2、ことに・優れて
3、そのとおり・道理に合う
4、とはいえ・ただし・はたまた
5、すぐれる・なみなみではない
6、特に優れた人・物
7、咎める・責める・なじる
8、恨む
9、咎・咎め・あやまち・過失

【尤】という字には、
『特に優れている、と判断できる』というニュアンスが濃厚なように思います。
それに対して【最】には、
『ある範囲における頂点』というニュアンスを感じます。
たとえば「尤者」という言葉もあるようですが、「最も優れた者」という表現と比較した場合、後者のほうが優れている度合いは大きくなるような気がします。
「尤者」は複数であっても構わないが「最も優れた者」は一人に限定される、という印象を受けました。

あまりお役に立てないとは思いますが、素人の感想として述べてみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

尤字の解の第三項として挙げられた「そのとおり・道理に合う」が不審です。角川大字源、白川字通、どちらにもそれに類するものは見えませんが。さような意味において使われる用例も見出すことができません。大字源にはそれを国語に限られる用法とわざわざことわっているくらいです。どこでごらんになったか教えていただければ幸いです。

もし尤字にさような意味があるなら話は早いんで、大辞林の処置はただちにそれなりの正当性を持つことになりましょう。

「最高の夏休みでした」と言ったら、本当か、絶対だな、俺のより良かったとどうしてわかる、などと嫌味を言われても仕方がないのでしょうか。最字やもっともを使うと唯一つの事柄になるとは限りますまい。頂点と言うても数学的に定義される点ではありますまい。

お礼日時:2006/10/23 15:55

ああ…どうやら私の記述が波紋を呼んでいるようで。



とりあえず、同源であることは否定しません。本来、日本語としては一つの語だったのでしょう。
しかし、漢字表記は話が別です。漢字は元々中国のものですから、この使い分けは中国語に従わなければなりません。
もっとも、自国語で文章を書くときになんで一つの語を外国語に訳して書かなければならないのかという批判はあります。
高島俊男氏は以前週刊文春の連載でこの滑稽さについて英語に直して「I take服 the medicine」「I take受 the class」のようなことを書いていました。
ただ、私が思うに日本人は漢字を使い分けているうちに外国語としてのその字のニュアンスを理解し、自国語に取り入れてしまったため、もう既に別の語としての認識がされているように思います。これを別見出しにするのは問題がないでしょう。
もちろん一つの見出しにする事も間違いではないと思います。程度の問題ですから。
例えば「書く」と「掻く」は同源ですが、現在別の単語として認識されていると思います。このようなものまでまとめるのは少々行きすぎな気がします。

>最尤
これは「もっと(最)ももっと(尤)もらしい」の意味の副詞-形容詞型と思います。よくある同義反復型の熟語とは違うのではないでしょうか。
それに、同義反復の字ですら使い分けは必要です。摂取しかり創造しかり。

この回答への補足

>漢字は元々中国のものですから、この使い分けは中国語に従わなければなりません。

そらそうです。ですから

>これは「もっと(最)ももっと(尤)もらしい」の意味の副詞-形容詞型と思います。よくある同義反復型の熟語とは違うのではないでしょうか。

ってこれはいったい何ですか。手元の漢和辞典三つ、すべて最字と尤字を同義か類義と書いておりました。いったいどこの誰が、いかなる根拠にもとづいておっしゃるような解釈をしたのか、それを私は尋ねているのです。

書字と掻字は支那語において別の語です。音はどうでもいいとして、意味がぜんぜん違うということです。なればこそ邦語「かく」の二つの側面を書き分けることができるわけで。

漢和辞典は最と尤を同義・類義としている、そして、戦前にはまさにそういうふうに用いられていた(ということを私は承知しているし、今も国語辞典はたとえば新明解なら「最も」は「尤も」とも書くと説いている)。にも関わらず、最と尤で、支那語で同じかほぼ同じ意味の字であるのにそれをもって何を書き分けようというのか、というのが私の疑問です。支那語としても日本語としても根拠が知れないから質問しているのです。

書き分けられると主張するなら、自分がそう思うという以外の、確固たる根拠を教えてくれ、という質問です。もう一度読み返してみてください。

もっとももっともらしい、って一体全体なんですか。漢和辞典や国語辞典にあたったうえで回答なさってますか。いまやそこが疑問です。教えてください。

補足日時:2006/10/23 04:31
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この回答へのお礼

ああそうそう、尤最という語も存在することはご承知でしょうか。辞書を引けば載ってます。

お礼日時:2006/10/23 04:53

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