『L・DK』上白石萌音&杉野遥亮インタビュー!

ここで、織田信長についてかなり論じられていますが、
織田信長の性格、考え方を深く知りたいと思っています。他人がどう思っているかの洞察力はかなり長けていたようです。豊臣秀吉、徳川家康よりも実際はそれ以上の大きな器の人物ではないかと思っております。

 まあ人生訓的水先人の師的にもこの人物を深く知りたいと思っています。大雑把なことはなんとなく評判だった行動(実父の死の墓前での行動、坊さんへの討伐等でわかりますが)で推測がつきますが、それ以上つっこんだ記事を見たことがありません。
 ぜひ、思われていることがあればご意見をお聞かせください。
 また、くわしい文献も知りたいです。
志半ばで倒れたので文献的には書かれたのが少ないのかもしれませんけど。

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A 回答 (10件)

いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。

当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍が厳重に野戦築城された織田、徳川連合軍を正面突破せざるを得ない状況に追い込まれたからです。織田、徳川連合軍は第三次川中島の戦いに於いて武田軍の採用した啄木鳥戦法と同じ方法をもっと堅実にやったとも言えるでしょう。
このように、信長と雖も情勢を読み違えることもありましたし、軍事的には割合常識的な作戦行動を取る事が多いです。さらに、美濃攻めや長島一向一揆相手の戦闘で何度も敗北している事を考えると、兵農分離が精兵を養うのに有効だったかも疑問です。実際に、当時の人口構成では農兵の方が精強だったと主張する論者も存在します。信長の行った合戦で勝ちが多くなったのは、上洛以降圧倒的大軍を動員出来るようになってからです。このように見ますと、安易に信長を軍事の天才と称えるのは早計かと思います。
人材を抜擢して競争させる人事方針も、組織の膨張期には威力を発揮しますが、安定期に入ってからは害になる事もあります。どこかで方針転換が計られなければ、永久に膨張を続けるしかありません(ナチドイツと似た構造)。この点をどうするつもりだったのかは、信長勢力が安定期に入る前に信長が死にましたので、何とも言えません。
最後に参考になりそうな書物としまして、藤本正行氏著、信長の戦争-信長公記に見る戦国軍事学 をお勧めいたします。

この回答への補足

詳しい解説ありがとうございます。書籍も機会があれば見たいとおもいます。

補足日時:2007/01/14 13:30
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「信長公記」は、身内が書いたものだから、多少の割引はして、読むとしても、まず、おもしろいです。


堅実な人間であろう家康の身内の書いたものは、まぁー、つまらない。
おねさんが、夫婦げんかのいきさつを訴えた時、書簡を出して、ていねいにたしなめているというエピソードが好きですが、これが、とてもきれいな字。
こういう字を書く人間と、狂気が結びつきません。
自分を神と信じていたとしたら、全ての言動が理解できる感じです。
どこまでが、デフォルメか、後世の脚色か、見極めるのも大事なことだと思います。

この回答への補足

ありがとうございます。そうですか。そういう部分もあるのですね。
信長公記まだ時間がなく読みきっていません。できるだけ早く読みたいとは思っています。

ここの紙面を借りて申し訳ないですが、A9のところで回答をいただいた歴史改定は歴史を再発見して改定したということで、それを必ずしも教科書に載せる事柄があればおこなうでしょうけどすぐ反映はしてないですね。
A9でお礼(補足)で教科書改訂まで話をのばしましたが、余計でした。あしからず。

補足日時:2007/01/17 13:13
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この回答へのお礼

皆様、回答をたくさんありがとうございました。
テレビ・映画では前面に気が強いというイメージが出ている織田信長公
ですが、研究してみたいと思います。
 織田信長公ならばどうするかということも・・。

お礼日時:2007/01/20 11:15

No4です。


最近の歴史の改訂が凄まじくて,昔私が習ったものとは大きく変更されています。No5さんのご指摘通りです。
今年に入ってからもお馴染みの「源頼朝像」が改編されたようです。

斉藤道三について油売りから西村勘九郎になり主家の土岐家を乗っ取った下克上の代表格として我々は学びましたが,最近の説ではこれも否定されているようです。

歴史の変更については
http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/1106kousin/47 …
も参考になるでしょうが,これも私見が多いようです。

しかし,信長の革新的,進歩的な業績を否定する説はないようです。間違いなく日本史上で,最大に天才であると思います。

この回答への補足

歴史改定は、文部省とか教科書作成委員とか、時の政府の方針も関わりがあるのでしょうが、近代戦争について、180度変わったことをかかれると私など年ですから面食らいます。第2次世界大戦は、アメリカが大きく日本に不利になるように動きました。対外国が絡んでおれば事実をそのままとか書くのは難しいのでしょう。教科書に書くのは自国民が優先されるとはしょうがないし、でも今の年代になってみると余裕が出て100%は過去の教科書に書かれていたことを信じてはいません。
 ネットで過去の知られざる事実を見ると、公表をしないにつけてもフーンと思うことはあります。
 この前、ある施設で第2次世界大戦の時の日本の新聞を復刻か?またはコピー?したのを30枚くらい綴じてあるのを見ました。
 娯楽欄など全然なく薬も貼り薬とか古風なものが多い。まあ、戦争一色(70%)記事でした。

補足日時:2007/01/16 12:05
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この回答へのお礼

源頼朝像 とはこのことなのでしょうか?http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistor …

お礼日時:2007/01/16 15:15

信長は世界的に見ても天才です。

もっと評価されてもいい。あの時代に政教分離を進めた政治家はいませんし、現代でも政治と宗教が強く影響し合っている国は多いのにです。

信長が本能寺で暗殺されたのも、宣教師らによる爆殺で死体が出なかったという話があります(八切史観)。

それから晩年、イライラしていたというのは糖尿病によるものかも知れません。糖尿病だったとすると、本能寺で炎に焼かれて死んだといいますが、糖尿病性の神経障害で熱さを感じなかったのかも知れません。

歴史上の人物の血糖を測ったわけではないので推測ですが、藤原道長の糖尿病だったといいますし、宣教師から金平糖をもらってボリボリ食べていた、というので糖尿病になっていても不思議はないです。

この回答への補足

ありがとうございました。

補足日時:2007/01/14 21:43
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すばらしく理論的な考えを持ち、迷信のたぐいを一切受け付けなかった天才。


宣教師が信長に地球儀を献上し、「これが我々の住んでいる世界である。」と言ったところ、信長は直ぐ理解したそうです。この時代に世界は球形であり、日本はこんな島国であることを理解し得る人間は他に居るでしょうか。かつてウツケと言われていたのは本人が才能を隠していたのではなく,周りの人間が彼を理解できなかったと思います。
ただ、器が大きいか,というのはちょっと疑問です。確かに信長は,才能があれば身分に関係なく、かつて敵対した人間さえも用いました。しかし、才能が枯渇すれば、どんなに功績があっても簡単に捨られてしまいます。本能寺の原因はこの辺にあると考えます。

この回答への補足

ありがとうございました。

補足日時:2007/01/14 21:42
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理想はかなり高いが、現実を有る程度理解はしている。


ある意味、長所ではなく短所を見破る能力に長け短所のカバーが上手い。
明確な目的を持ち、目的を達成すれば固執せずに引く。
正確に情報を収拾し分析力も高い。

尾張兵のや国力の弱さを以前よりも痛感している。
親が美濃に攻めた時に道三の手勢数百騎に歯が立たない10倍の尾張兵。
洞察よりも観察眼はかなりのモノだと思います。

おもしろいのは当代の名将である斉藤道三の存在でしょう。
自分の親、今川義元は生まれながらの豪族であって道三のように当代髄一の英傑ではありません。
その当代の名将を親父とともに見てきたのですから。
恐らく、桶狭間は信長にとっては道三の亜流をしてみせただけでしょう。
道三は幾度も危機を乗り越えてきた武将です。
道三ならどうするか。弱兵寡兵でどうやって打ち破れば良いのか。
その危機の脱し方。構え方は身をもって知っていたと思います。
家督争いも道三に倣っていると思います。

桶狭間の勝利の割りには、道三が居ない美濃の攻略には約十年かかっています。
龍興の代でも中々打ち破る事は出来ませんでした。
何よりも道三が作り上げた美濃の国力は尾張には到底及ばなかった。
当代の名将が居ないのにその強固さの秘訣を自分で調べ上げ自分の物にしました。
かなりの勉強家であったと思います。
美濃攻略により、自分の師と慕う人物を超えれた事が覇者の道を切り開いたのだと思います。

比叡山の焼き討ちですが、北条早雲がすでに神社仏閣への焼き討ち行為と坊主の首はねをやっています。
性格もありますが、世論を考えて比叡山を攻撃しています。
昔から、サイコロの目、鴨川の水、叡山の坊主はどうにもならん。
と言われるほどの政治団体でしたので、何の問題はありません。
政治に口出しする宗教団体は民衆から嫌われます。
カルト教団の本願寺には徹底抗戦。

やはり、師とあおぐ道三との早すぎる別れが信長の決断に大きく関わっていると思います。
中国の覇者毛利元就も尼子経久を師とするほど実の親に対する感情よりも、師と仰ぐ人物の方に並ならぬ感情があります。

ハッキリ言って真似できません。
一流の師を傍に持ち、早くに先立たれる。
この現実の非情さが本人の性格の非情さにも影響しているんですよ。
信長の中には「道三ならばどうするか」が頭をめぐらせていたと思います。

この回答への補足

 道三さんは、初め商売人でしたね。その経験から得たのも兼ね備えた戦略的にもすぐれたすごい人物です。解説の終りの方は誠によくわかりました。
 ちょっと外れますが、道三を殺すのは、織田信長が私ぐらいなものだと、縁組をした際に面と向かっていったそうですが、なんとも恐ろしい時代ですね。
 休戦かおびやかされない目的のために縁組をする。目的は、このあたりで
果たされたと早く感じて準備が整った方から戦争をしかける。
 なんとも時間稼ぎとしかいいようのない時代ですね。

 現代は、結婚も見合いの場合は、その習性なごりが残っているような気もしだいでもないですが。でも、相続とかお金を残すとみにくい争いになるのは現代でもいっしょかなと思っています。

補足日時:2007/01/14 13:48
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No1さんが信長像を詳しく述べられています。


別の解析をすると信長は日本の歴史上では軍略と政治面を兼ね備えた希有の人物ではないでしょうか。

軍略面では未だ尾張の少領主であった時代に今川義元の上洛戦に際して,密偵という情報を駆使して桶狭間で大逆転劇を行いました。また戦国最強と言われた武田騎馬軍団に対して鉄砲という近代兵器の威力を始めて実体化した等があげられます。

一方,政治面では楽市楽座を設けて経済の活性化を計るとともに平安楽土を願って安土とい街を作りました。

戦国時代を終わらせるため古いものは打ち壊す必要性から,叡山焼き討ちや一向宗への弾圧を行った事のマイナス面もあった事は当時としては致し方なかったと考えますが。

この回答への補足

そうですね。近くに見た本当に!!新規な部分にすばやく反応し、求めて馬上で走る血気さかんなイメージですね。

補足日時:2007/01/14 00:22
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織田信長ですけど、一言で言えば「世紀末覇者」という役割ではないかと思います。


時代が閉塞感に満ちると、それを打ち破る人物が登場します。
既存の制度や仕組みを一旦壊して、新しい秩序を作る人物、こういった人物は幾らでもいるのにも関わらず、条件が揃わないと世に出ないのか、それとも突然変異的に出てくるのか分かりませんけど、歴史を振り返ると、器の大小はありますけど、節目には出現するような気がします。
藤原不比等、持統天皇、源義経、後醍醐天皇、足利義満、徳川綱吉etc。

さて、彼の場合幼児体験にあるのかも知れません。
よく知られるように、母親の土田御前は弟の信行を可愛がり、家臣たちも江戸時代のような主従関係ではなく、非常にドライな連中で、父親の信秀は成り上がりですから、いつ寝首をかかれるか分からない、不安定な地位にいます。
こういった環境ですから、腹を晒せる人物はいませんし、隙を見せられない。
彼がウツケと呼ばれたのは、正体を隠すためだったと思います。
江戸初期の大名達は、幕府の目を逃れるため、態と鼻毛をのばして愚かなまねをして、無能な藩主を装ったり、精神的に切れてしまってめちゃくちゃなことをするものもいましたが、信長も自分の本性を隠し、周囲によく分からない人間と不気味に思わせたのでしょう。
彼の真骨頂は、桶狭間の合戦を否定することと不要なものを捨て去ること。
桶狭間の合戦は、大軍を擁した今川を、小勢で破った、将に誇るべき勝利で、常人であれば戦巧者はかくあるべしと、これを手本に難しい戦略を練りますが、信長はこれは偶然の産物と考え、大軍で敵に当たってこれを打ち破るを座右の銘にしました。
また、大将が生き延びれば捲土重来をきせるというのも彼の考えで、不利になれば部下も何もかも捨てて、真っ先に逃げ出します。
これは武士としては寧ろ恥ずかしいことで、大軍で勝っても誰も感心しませんし、逃亡中に土民に殺されれば、不名誉な話で、いっそ華々しく戦って散るという選択肢を、常人ならするでしょう。
そしてこの桶狭間ですが、東の今川が壊滅したのですから、当たり前の武将なら東に向かい、三河を併呑し、浜松まで勢力化に置いたでしょうが、彼はそうせず、西に向かう、これは出来ないことです。
もし東に向かえば、豊かな旧今川領を支配し、東海一の大大名となりますが、彼の代ではここまで、天下を狙うことは出来なかったと思います。

要約すると、彼は目的をしっかり持ち、それを実現するために常識を捨ててこれに当たる、そして見極めが巧い、これに尽きると思います。

この回答への補足

ありがとうございます。なかなか信長という人物は隠すということが
大きくその裏がはっきりと見えてこない。対何々がその裏側がよく見えない。今まではそんな気持ちにさせられていました。誰かに仕えたという出発点が秀吉、家康とはケースが違う側面があったからかもしれませんね。
 参考になりました。

補足日時:2007/01/13 22:34
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この回答へのお礼

>彼の場合幼児体験にあるのかも知れません。・・・
こういった環境ですから、腹を晒せる人物はいませんし、隙を見せられない。彼がウツケと呼ばれたのは、正体を隠すためだったと思います。

 自分の周りの状態が、人に与える影響というのは、測りしれない大きな
ものですね。戦国の世は、そんな状態が普通だったのでしょうが、とりわけ
厳しい環境だったのでしょうね。解説本当に本当に参考になりました。これでほとんど人となりが50%わかったような気になれました。

お礼日時:2007/01/14 13:40

それでは文献の方を。

かなり有名ですが、『信長公記』のご一読をおすすめします。

■町田家本の読み下し
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html

■私的現代語訳
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html

■アマゾン
http://www.amazon.co.jp/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85 …

http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA …

首巻廿八「火起請御取り候事 」、巻八五「山中の猿御憐愍の事」などいろいろ逸話が残されています。

この回答への補足

ありがとうございます。じっくり推測もしながら読んでいこうと思います。

補足日時:2007/01/13 22:31
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小生の信長像を参考までに


1.迷信の類は一切信用しない及びそれらを言いふらす連中は大嫌い
2.自信過剰と言ってしまえばそれまでだが、家臣からの進言を重く用いない。
3.モノに執着が殆ど無い(使えるモノは惜しげもなく使うし、本拠地もかなり変えています。人に至っては言うに及ばず)
4.人を懐柔しようと言う考えが殆ど無い。(浅井長政ぐらいではないだろうか?)
5.恐怖と言う感情を持っていなかった。(恐怖が分らないから当然他人が感じる恐怖も分らない=敵になると言う事が分からない。当時の武田ですら『強敵』と考えこそすれ恐怖or脅威とは感じていないと思われる。)
6.強運の持ち主(信長ほど絶体絶命と言われる状況を幾度と無く切り抜ける奴も珍しい)
7.怒りっぽいが、怒りに任せると言う感情的な所は殆ど無い(プライドで敵が殺せる訳が無い事を知っている。)

その他にも細々ありますが大雑把に言ってこんな所です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。歴史については、前に家康の譜代、外様討論で参加(純粋討論)させていただいたことが、あります。
 syuitilwoさんが、感じられたのはどういった文献からでしょうか。すみませんがよろしかったらお願いいたします。

 私ども、10年前くらいは、家康に気がひかれましたが、最近は信長に心境が近く親近感が沸いてまいりました。質問でそのこともチラと記入しましたのでちょっとひねくれた気分でしたのもあり、ご回答をいただけないかなと本当は心配しておりました。重ね重ね大変ありがとうございます。


つい先ほど発見しましたが、下記のような回答がありまして感心しました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa839656.html
信長について
質問者:noname#6213 信長についていくらか気になることがあります。
教科書とかにのっていた信長の絵は色白で華奢で神経質そうですが、

信長」の姿を書き記したものですが、ルイスフロイスがローマ教会に送った書面には
「・・・長身でやせている。髭は少なく、声は高い。非常に武芸を好み、粗野だが、
正義と慈悲を楽しみ、
傲慢にして名誉を重んじる。・・・理解力はあり、判断は明晰。・・・
彼の事業は完全で巧妙をきわめ
ており、人と話す時には回った言い方を嫌った。」
また日本西教史には
「性格は、勇猛強忍、英慢果断、道理を守る良将である。」
などと記されています。

補足日時:2007/01/13 21:45
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最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
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タイトルの通りですが、人格、意外な一面、暖かい話を知ってる方何が教えて下さい!最近一気に小説など読んだのですが、裏切りや残酷なことが多く少しぐったりしています…
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 信長のはなしをひとつ 将軍義昭を奉じて 上洛し 諸事万端の段取りを済まして 岐阜に帰還 ところが それを見越して また
そぞろ 三好の一党が京周辺で動き始め 不穏な情勢に 義昭は不安になって 岐阜の信長に来援を要請しました 雪の積もる季節でしたが
ものともせず 急ぎ急行の指令を城下にだしました
そのときの顛末が信長公記にあります
荷の運搬に対して 信長は信玄や謙信のような 伝馬制度は採らず 馬借でした 城下で営業を許可しておりまして 通常は一般の請負ですが
いざというときは 独占貸切になり どこの誰が何をどれぐらいのものを積むかは すでに決めてありまして ほら貝とともに 短時間で出発できるようになっていました が そのときは何がたりなかったのか
少々混乱しまして (既定の人数にたりなかったようです)いつもより
たくさん積もうと(積めば積むほど金になる)荷持の取り合いがどうもあったみたていで 混乱したんです
信長は じきじきに 出て行って こういったそうです
京は 急いでいかなければならないので けんかするな
濃がいちいち見て採決してやるから さわぐな と
いちいち点検して これでよし  いくぞといって 出発したそうです
今で言うところの宅配便です
信長は もちろん京に間に合い 蹴散らしたそうです
馬借の人夫らと雪のちらつく中 馬の背に荷持を担ぎ上げたりしていたわけです
この距離感が信長なんでしょうね
支配するものと支配されるものの間の中間を排除しょうとした
行動の一端がかいまみれる思いです
  

 信長のはなしをひとつ 将軍義昭を奉じて 上洛し 諸事万端の段取りを済まして 岐阜に帰還 ところが それを見越して また
そぞろ 三好の一党が京周辺で動き始め 不穏な情勢に 義昭は不安になって 岐阜の信長に来援を要請しました 雪の積もる季節でしたが
ものともせず 急ぎ急行の指令を城下にだしました
そのときの顛末が信長公記にあります
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いざというと...続きを読む

Q『桶狭間の戦い』の謎???

『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは

1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。
2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。
3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。
4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。
5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。

などが書いてあります。

特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。
つまり兵力の逆転現象が起きています。
ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか?

司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては
「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。
また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。
モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか?

あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは

1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。
2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。
3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。
4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。
5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。

などが書いてあります。

特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。
つまり兵力の逆転現...続きを読む

Aベストアンサー

桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。

さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。

これらを払拭し、桶狭間=正面攻撃を唱えた最初の本が藤本正行氏の「信長の戦国軍事学」(現在は講談社から「信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学」というタイトルで出版されています。)ご覧になってみてください。超お勧めです。

なお、個人的には、こういう流れであったと考えています。
・義元本陣(5千くらい?)が桶狭間山に布陣。
・信長、桶狭間山の西方麓まで達する。
・西から東に向け暴風雨が吹き荒れ、雨は止む。
・義元本陣は暴風雨を避け、隊列が乱れ、しかも西に背を向けていた。(まだ風は吹いていた?)
・西より信長突撃。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061595784/qid=1130160241/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8123918-5272219

桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。

さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。
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徳川秀忠 O型 
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西郷隆盛  B型
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だそうです。

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q長篠の戦いについて。

長篠の戦いについて、簡単かつ詳しく、中学生にもわかるように説明してください!!

 お願いします

Aベストアンサー

長篠の戦いとは・・・
1575年5月21日、三河の設楽原(したらがはら)で行われた「織田信長・徳川家康」連合軍と「武田勝頼」軍の戦いのことです。
織田側の『鉄砲隊』が、めざましく活躍したことでも有名です。

戦いは、織田・徳川の連合軍が、設楽原へと進出。「馬防柵」を設け「鉄砲
3000挺」を配備しました。それに対し、武田軍は、無敵といわれた騎馬隊に
よる波状攻撃を繰り返しましたが、馬防柵にはばまれて敵陣に突入できず、
そこへ鉄砲隊の一斉射撃をあび、壊滅的な打撃をうけました。

この戦いで、武田方は信玄以来の有力部将をほとんど失い、勝頼も敗走し、
織田・徳川・武田3氏の勢力関係は一変しました。また、この戦いを機に戦
闘の形態も、騎馬による個人戦から鉄砲隊を組織した集団戦法へと移行して
いくことになります。


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