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おそらく中学の歴史くらいで習ったとき感じたことです。
まだ降伏していない国の処分について論じることは、「取らぬ狸のなんとか」じゃないかという気がしました。もし、万が一予定通りの歴史に追い込めなたった場合、世間のお笑い種になるのではないかと言う気がしました。逆にそれほどにも枢軸国はバカにされていたのかと。
こういう「戦後の歴史のために」みたいな戦中会談は、一般的な感覚なんでしょうか。

A 回答 (5件)

とりあえずヤルタ会談の段階では、もはや日本もドイツも、たとえ核兵器といった超兵器を使ったとしてもひっくり返すことは不可能な状況であり、すでに「降伏させられるかどうか」が問題ではなく「いつまでに降伏させることが出来るか」という状態です。



これはソ連の参戦規定(ヤルタでの密約で、ドイツ降伏から90日以内に対日参戦した場合は朝鮮半島及び北方領土をソ連に割譲)などからも、早めに降伏させたいという意図があり、もはや倒すことが出来るのは確実だけれどもさっさと終わらせたいために、ルーズベルトが取り決めてしまったものです。
ちなみにこの取り決めの後ルーズベルトはその後すぐ死んでしまったので、この大盤振る舞いのツケはトルーマンにそのままふっかかり、トルーマンはソ連参戦を防ぐために原爆投下を急がなければなりませんでした。そして広島に落としましたがそれでも降伏せず、結局ソ連参戦を招いてしまい、もう一発長崎に落としましたがそれでも降伏が受諾されるまで数日かかってしまいました。
このルーズベルトの置き土産は北朝鮮、北方領土という形で戦後に居座ることになります。

当時の日本とドイツの状況は完全に死に体であり「降伏以外の道」を取れるということは「絶対にありえない」状態だったのです。あのころの論点は「ベルリン入城はどちらが先になるか(結局ソ連に取られました。英米はマーケットガーデン作戦などの失敗が大きく、ソ連に後れを取ってしまったのです)」と「日本を以下に速く降伏させられるか(結局これも原爆投下まで降伏を引き伸ばさせてしまったアメリカの遅れが大きいです)」。

なお、戦中で領土取り決めをおこなっている例で有名なものは第1次大戦のサイクス・ピコ協定があります。
英仏露の密約でオスマン帝国の領地(主にトルコを除くく中央アジア)の分割が取り決められています(ちなみにこれはフサイン・マクホマン書簡およびその後とりきめられたバルフォア宣言と矛盾し、イスラエル問題を発生させます)。

トップ同士の会談は、おそらく大きなものでは第2次大戦が初めてかと。
というか、それ以前では移動手段が鉄道と船ですから、アメリカからヨーロッパへ行く大西洋航路なんかはどうがんばっても片道10日くらいはかかるわけです。で、向こうでいろいろやって帰ってくるとなれば、最低でも1月はかかります。その間トップがいないという政治的空白はあまりにまずいわけです。

第2次大戦当時、もう一つの脚が登場しました。飛行機です。いまほどではないといえ、第1次世界大戦の時代と比べれば安全性、航続距離、速力の面で大きく飛躍しており、とくにルーズベルトがアメリカとヨーロッパを行き来できたのは航空機の力なくしてはありえません。
結局、トップ会談が可能になった背景には、世界が狭くなったことが大きく、第2次大戦での革新的行動の一つでしょう。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/サイクス・ピコ協定
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この回答へのお礼

なるほど!交通手段によって可能になったわけですか。
ルーズヴェルトのソ連譲歩は歴史的に悪名高いですね。アメリカの犠牲をなるべく少なくと言う付けは、ヨーロッパでもアジアでも高くつく事になりました。

お礼日時:2007/01/31 08:43

すでに枢軸側の敗北が決定的な状況だった点が第一。


そして、勝利のために何度も首脳会談を行なっていた点も大きいでしょう。それまで協力について話し合ってきた首脳会談ですが、勝利が確実になったから、戦後をどうするかが主要議題になったわけです。

1943.1 カサブランカ会談
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5% …

1943.11 カイロ会談
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4% …

1943.11~12 テヘラン会談
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%98% …

1945.2 ヤルタ会談
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB% …
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この回答へのお礼

ヤルタの前にもやっていましたね。気が早いと言うか国際政治の慣習というか。

お礼日時:2007/01/31 08:46

ヤルタ会談 1945年2月


45年1月には、フィリピンがアメリカ軍の手に入り、南方からの資源調達がほぼ不可能になった段階です。
東部戦線では、ポーランドが1月にはほぼ解放、次はベルリンへ!の段階。西部戦線でもバルジの戦いが終わり、組織的なドイツ軍の攻撃ができなくなった(無論、すでにフランスは解放されていた)。
この段階で、捕らぬ狸というのは、言えません。

戦後のための戦中会議というのは、第二次世界大戦がはじめてのような気がします。
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この回答へのお礼

この段階ではそうでしょうね。100-0で終了まで5分というところでしょう。ただ倫理観と言うか、えげつなさは感じます。

お礼日時:2007/01/31 08:37

一般的だと思います。


白黒はっきりついた後では,関連した戦勝国が利益の分配するのにもめるからです。少ししか関与していないのに多くを望んだり,決定打を与えたわけでもないのに多くを要求したり様々です。
 太平洋戦争のソ連の北海道への侵略を急いだことと、アメリカの原爆投下が急がれたことが思い出されます。戦後の世界制覇のため太平洋の主導権をとっておきたいという大国の駆け引きです。
 ですから事前の話し合いを綿密にすることによって,戦後のもめごとを減らすためと考えたらいいのではないでしょうか。
 戦後の体制をどう考えているか(いかに自国に優位な世界にするか)の駆け引きですね。
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この回答へのお礼

先へ先へ動いておかないと後にスムーズに行かない事になるという配慮ですか。なにかシーズン終わってないのに来期の人事発表みたいで。しかし終わり際に大国の暴挙が出てきた歴史からも、前会談は有効だったのかと。

お礼日時:2007/01/31 08:35

戦後処理のための戦中会談は、いつ頃から始まったかは知らないの


で詳しい人に席を譲りますが、そんなに特殊なものではありません。
公式なものだけでなく非公式協議などを含めるならば、広く行われ
ていたと見るべきでしょう。
会談等の中身は「戦後の国際秩序の安定」などをタテマエとしなが
ら、本音は参加国が各国の国家戦略に従って行動や画策を行うもの
です。従って、取らぬ狸‥ということも、戦勝国と敗戦国との関係
だけではなく、戦勝国の中でも明暗が分かれました。日本敗戦後の
分割統治案なども、その一例です。
以下、戦勝国側だけで行われた会談という点では、範疇の範囲外な
のかもしれませんが、蛇足まで。
世間のお笑い種、というか、「世論の激怒」という点では、日露戦
争の「ポーツマス講和会議」がよく知られています。この場合は、
戦勝の内実(戦闘には勝ったが戦勝とまでは言い難い)を正確に知ら
されていなかった世論の方が、戦勝の見返りに過剰の期待をし過ぎ
たことにより起きました。
また、取った狸を後で返す羽目になった日清戦争後の「三国干渉」
などの例もあります。日本は下関条約締結前に各国に意思確認をし
た上で条約締結をしたのですが、条約締結後に態度を変えた国が出
たりして、わずか一週間後に干渉を受けることになりました。
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この回答へのお礼

やはり広く行われている習慣があるのでしょう。国家間協議というのは念を入れてしまいがちですね。挙げていただいた例で、さまざまなケースがあるものだとわかります。

お礼日時:2007/01/31 08:32

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