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武道をやっている知り合いと最強の武術家は誰だ、といった話をしていたところ、最強は本多忠勝だろう、という結論になりました。
そこで本多忠勝について調べたところ6m以上の豪槍を振るい、一万人の軍勢に単騎で突撃して無傷だったとか、武田軍に敗れた徳川軍の殿を努め、少数の手勢と自分だけで武田軍の追撃を食い止め、その戦いぶりが歌にまで詠まれたとか、いくらなんでも人間を越えているんじゃないか、などと思いました。
あと、ふざけて棒で川原の葦をなぎ払ったら、薙刀で薙いだかのように葦がみんな刈られてしまった、なんて話もあったとか。
本多忠勝が実在の人間で傑出した武人であることは確かなのだろうとは思いますが、彼の活躍として伝承されている逸話は全て本当の話だったのでしょうか。すごすぎて、誇張されているような気もします。果たしてどの程度真実なのか、ご意見をいただけないでしょうか。
個人的にはこういった武人の話は好きなので実話だったらいいなあ、と思っているのですが。

A 回答 (6件)

こんにちは。


本田忠勝が非力だなんて思わないですが、この人が出てくるなら、
北畠具教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0% …
や、
足利義輝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
なども全然劣らないと思うけど・・・?

ちょっと不満な点。
6m以上の豪槍を振るい・・・確かに楽ではないけど、一端振り出してしまうと自重ですごい威力を発揮しますので、コツがあります。
おそらく現在でも伝承されている棒術を学んだ人ならすぐわかるでしょう。
ただ6mもの長さだと普通に木などで作った物では振るだけで簡単に折れてしまいます(私は3m×5cmφの木の棒を振るだけで折りました)ので、鉄などの材料だったのでしょうか。
だとすると力持ちって事はいえますね。

一万人の軍勢に単騎で突撃して無傷・・・
資格なしです。上杉謙信もやってます。
武田信玄の軍配に刀創をつけたとか。

武田軍の追撃を食い止め、その戦いぶり・・・
もっと悲惨な惨敗を来たした軍勢の殿軍を務めて本人無傷(かすり傷などはあったと思われますが)の人がいます。
織田信長が浅井・朝倉連合に包囲された時の殿軍、豊臣秀吉ですね。
彼は武人とはとても言えません。
撤退戦における殿軍は、自身の武術よりは戦略面が重要なようです。

棒で川原の葦をなぎ払ったら・・・
実際にやってみると判りますが、それ程難しい事じゃないです。
あまり太くない丈夫な棒を早く振れば、綺麗に刈る事ができますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
実際に日本の古武術をされている方でしょうか。
私も一応少林寺などをやってきましたが大型の武器術に関しては未経験なもので6mという長さだけで驚いていました。技術と膂力である程度は解決する問題なのですね。
そういえば中国の李書文もかなりの小柄な体格で5m以上の太い槍をハエの群れを打ち落とすくらいに繊細に使いこなしたらしいですし。
北畠具教については初めて知りました。19人てすごいですねえ。剣豪将軍については一応知っておりました。
上杉謙信は女性説もあったらしいですね。もし女性だったらすごいな。
というか戦国時代ではこれくらいの武勇伝の持ち主は珍しくないということですかね。

お礼日時:2007/02/27 21:58

また失礼します。


他の方のお礼に面白いお話がありましたので、参考までに。

>落馬・・・の件ですが、確か柳生心眼流という古流(古流は総合武術が多いので他にもあると思います)に甲冑武者取りというのがあり、鎧装着時の受身の取り方等が残されています。かなりコツがあるようです。
例えば、転がる時には必ず兜の後ろの錣を、あとから着地する側の手で押さえてから転がらないと、錣のパーツの札(「さね」という金属の小片)が立ってしまうと脊髄の椎間板軟骨に刺さって全身不随になる・・・とか。

落馬は戦場では多かったでしょうから、こういう各種のテクニックがいろいろあったはずです。

ついでに6mの件ですが、長柄の槍はそもそも振り回す物ではありません。
本来は、相手に向けて地面に伏せるか立てて置き、指揮官の合図で一斉に穂先側を持ち上げ(立てた場合は前に倒して)、石突を地面に突き刺して足で踏みつけて押さえて、突撃部隊を串刺しにして止めるものです。
特に騎馬隊に有効だったようです。

新陰流で有名な上泉伊勢守なども槍術に長けていたようですが、徒士での白兵戦では長い槍はまず使わなかったでしょう。
棒術の総本山?みたいな存在である竹之内流でも上級者は短い棒を用います。

長い槍が白兵戦で役立つのは騎馬武者が槍を使う時でしょうね。
この場合は主に突くので余り振り回す事はしませんが、穂先でひっぱたくような使い方はあったようです。
先にも書いたように、あまり長いと折れちゃう心配がありますし、振った場合、止めるのも非常に大変で、素人が振り回すと必ず手首か肘か肩を一撃で外します。馬上では自分の馬を殴ってしまうでしょうね。
戦場では相手に叩きつけて止めていたのでしょう。

もう一つおまけに三方が原ですが、家康主従が落ち延びられたのは、家康の陣の後方の橋を守備していた夏目吉信、鈴木久三郎などの旗本が、家康が通るまで橋を死守しようとし、なかなか主が通ってくれないので最後は「われこそは徳川家康なり」と名乗って身代わりで死んだおかげが大きいようです。(忠勝も時間稼ぎはしてくれたと思いますが)
この守備隊は家康の本陣が崩れる前に武田勝頼を主力とする騎馬隊の襲撃を受けていて、肝心の主は橋を通れば命はないと考え、彼らを見捨てて別な細道から大回りをして浜松城に帰ったそうです。
まあ、後の大御所様が馬上でオモラシ(大!)をしたという恐怖の戦だったそうですから、その位は仕方がなかったのでしょうね。

以上、完全に脱線回答でした。m(__)m
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この回答へのお礼

おもしろいお話ありがとうございます。こういう話は大好きなのでうれしいですよ。いろいろためになります(笑)
歴史にも武術にもお詳しいんですね。
槍に勝る刀なしといいますが長すぎるとやはり使いにくくなるもんですね。6mはやはり長すぎるのか。

お礼日時:2007/03/01 19:00

ディフォルメやオーバーを好む主君の元に書かれた記録というのは、多少、眉唾、誇張だと思っています。


実直を好む家康の周囲で、記録されたものは、読み物としては、つまらないくらいのリアリティを感じます。
四天王の中では、新参の井伊直孝は、「向こう傷しかない」という多数の傷を自慢にしていたようですから、傷というのは、ひとつの誇れるアイテムだと思います。
その中で、無傷は、事実かと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。やはり誇張はそれなりにあったのでしょうね。少なくとも誇張されるだけのもとがあったということでしょうけど。
そういえば本多忠勝はどれかの合戦で馬をやられて落馬したそうですが。怪我はしなかったのでしょうか。落馬したあとも平然とそのまま走って突撃したそうですが。
それとも現代人の怪我と戦国時代の人間の考える怪我というのは基準が違ったのかもしれませんね。たとえ骨折しても痛くないそぶりで戦えば無傷、とか。

お礼日時:2007/02/25 17:28

十三歳の初陣以来、57回の合戦に出て、身に傷跡一つ無しと伝わっていますが、どの合戦で誰の首をとったかは、書かれていないようです。


戸部新十郎氏が書かれている、「井伊、本多、酒井、榊原」の徳川四天王の彼らだけが奮励し、功を挙げてきたわけではないが、語り継がれているうちに、「三河武士団」の代表のようになった。  というあたりが正当な評価でしょう。
といっても彼の武勇を低く評価するものでは在りません。
若き家康が清洲の信長に面会に行った時、これを眺めた清洲の群衆が騒いでいるのを、供の14歳の忠勝が「三河の家康が両家のよしみを結ばんために来たりしに、汝ら何とて無礼するぞ」と一喝して群衆が静まったとの話があり、彼の威容を示すものでしょう。
あとはご存知の秀吉との小牧、長久手の合戦で万余の敵に、三百を率いて立ち向かった話は有名です。(異説がありますが実話だと思います)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
14歳で、ものすごい気迫と威厳の持ち主だったのですね。少数で多数を相手どるというのを実際にやってしまうというのは彼が指揮官としても優秀であったことをあらわしているのでしょうね。個人としても強くて、戦術や戦略にも長けているっていうのは、まさしく天は彼にいくつもの才を与えたということでしょうね。

お礼日時:2007/02/25 17:25

何かの本で読んだのですが、戦国時代が終わって、江戸時代になってから、


本多忠勝が強いとの噂を聞きつけた宮本武蔵や佐々木小次郎のような剣術者が、本田忠勝に試合を申し込みにきます。
その剣術者(名前は忘れました。)が本気で果し合いをしようではないかと、本田忠勝を挑発します。

果し合いの当日、その剣術者はバガボンドの宮本武蔵のような格好で、日本刀を持って現れます。
それに対して、本田忠勝は全身に鎧を装備して、長い槍を持って、馬に乗って現れたのです!
もちろん、その剣術者はすぐに降参をして逃げていきました。
という逸話があります。
本当か嘘かは知りませんが。(笑)

江戸時代と戦国時代の意識の差を表しているようで、面白い逸話だなと思って覚えていました。
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この回答へのお礼

その話は始めてしりました。ありがとうございます。
面白いですね。ゴルゴ13というマンガで、格闘家がゴルゴに勝負を挑んだところ、ゴルゴがあっさり射殺してしまった話を思いました。

お礼日時:2007/02/25 17:22

戦国時代の武勇というのは、個人ではなく家を対象にしたもので、一族郎党の働きと考えるのがよろしいでしょう。


本多忠勝の場合、若くして本多一族宗家の当主になりましたので、格別の忠誠を受けたと思われます。
生涯、戦場で傷を負わなかった、との評判が立つだけでも、すごいです。真偽に関わらず。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
彼の武勇伝は個人だけのものではなく一族郎党のもの、ということですね。考えてみればそうですね。
でも逆に言えばそれだけ優秀な武人たちを統率してきた、ということでもあるのですね。

お礼日時:2007/02/25 17:19

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