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日ソ独伊連合構想という本を読んでいたら、独ソ開戦に際して1941年6月22日朝の4時に、ドイツ外務大臣リッベントロップは、駐独ソ連大使デカゾノフを呼びつけて、宣戦布告をしている。

ところで、日本の対米宣戦布告はワシントンで行われており、翻訳作業が時間がかかったなどで、不意打ちの汚名を着させられました。これに関して、駐米大使館の人員を国賊ものと指摘する向きもあります。

だが、リッベントロップの手法、つまり東京で駐日アメリカ大使グルーを12月8日未明に呼びつけて宣戦布告すればすむ話ではなかったのか?
その手法をとらなかった、日本政府の判断ミスこそ、駐米大使館員への国賊呼ばわりより、もっと重大な問題では無かろうか?

ちなみに、時の駐日アメリカ大使グルーは、翌42年の6月に交換船でアメリカに帰国しており、開戦後に日本に来たのでない限り、開戦時には日本にいたはずです。(ここの部分は、ネットで調べきれなかった)

なぜ、日本政府は、ワシントンで宣戦布告をするという愚策を採用してしまったのであろうか?

A 回答 (7件)

 ご質問にお答えするというよりは、参考資料の提示と私の感想を一言。


 下のURLは明大文学部日本現代史の講義録要旨のようなものだと思います。この内容が正しいかどうか、検証する能力は私にはありませんが、ご疑問を解決するためのとっかかりにはなるだろうと思います。
 すでにご存知でしたらごめんなさい。
 要旨は
(1)翻訳に手間取った「対米覚書」は「宣戦布告」及び「最後通牒」には当たらない。単なる交渉打ち切りの通告である。
 私もそんな感じがします。すなわち、仮にこれが間に合っていたとしても、アメリカは「これは最後通牒ではない」と主張し、やっぱり「リメンバーパールハーバー」になったのではないかと。
(2)なぜアメリカだけに通告したのか、国際法を無視したのかについてはいくつかの理由が書いてあります。
 私は日本側各部の考え方の摺り合わせが十分でなかった。各部が自分の都合のよいように解釈していたのではないかと想像します。
(3)12月8日11時45分 宣戦布告書を駐日米英加豪各大使に手交したと書いています。
 これは開戦の詔勅の発表日時と符合します。

 私の大雑把な感想ですが、マレーコタバルの上陸が真珠湾より早いということから、陸軍は宣戦布告の時間までは神経を使っていなかったように思います(陸軍には伝統的にそういう体質がある)。
 日本政府は戦後も一貫して例の覚書を条約に基づく最後通牒と主張、釈明していますが、当時の日本の各部の思惑はどうであったのか怪しい感じがしますね。

 http://homepage3.nifty.com/a-yamada/gendaisi2002 …
 
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私がいろいろ読んだ本で得た知識では、ご質問自体に少し疑問点があります。


「ところで、日本の対米宣戦布告はワシントンで行われており」の部分ですが、国際的にも国内的にも認められた日本の宣戦布告は、12月8日11時40分に渙発された「詔書」です。
#6の方の回答の資料14-3に「朕茲に米国及英国に対して戦を宣す」と明確な文言があり、これが電波に乗って敵国に通達されました。

ワシントンでハル長官に渡した「覚書」には、開戦宣言を意味する言葉はありません。
同じ資料14-1「対米覚書」末文に明らかなように、単なる交渉の打ち切りを通告しているだけです。
「覚書」原案には、当初、宣戦布告を含む文言が盛り込まれていたが、最終文書では消えています。
だからこの「覚書」は、閣議決定、上奏、裁可の手続きを経ることなく、外務大臣の権限でもって、ワシントンへ訓電されています。
なお、「覚書」の写しを8日、朝7時半になって、駐日米・英両大使を外務省に呼び手渡しています。当時の外相・東郷茂徳は自著の中で「宣戦の通告を手交するためではなかった」と述べています。

ご質問の「東京で駐日アメリカ大使グルーを12月8日未明に呼びつけて宣戦布告すればすむ話ではなかったのか」について。

私の投稿は、文藝春秋2006年7月号に掲載された中央大学教授・佐藤元英氏の論文「騙し討ち65年目の真実・外務官僚たちの真珠湾攻撃」を基にしています。

佐藤氏は公開された外交機密文書を精査して「日本側には敵対国への最後通牒を通告する意思がなく、開戦宣言は戦闘開始後におこなう計画をたてていたことがわかる」とし、
「最初から無通告開戦を企図していたのだから、ハルへの覚書手交が遅れたことなど、彼らにとってはさしたる問題ではなかったはずだ」と結んでいます。

「駐米大使館の人員を国賊ものと指摘する向きもあります」
私は、東郷外相が12月8日の攻撃地域が真珠湾であることを知っていなかったのではないかと、思っています。
駐米大使館は攻撃の事実を知らなかっただけでなく、開戦日がこの日であることを知らなかったわけですから、大使館を責めるのは酷ですね。
ところが、ハルは「騙し討ち」されたことを知っていましたから、「覚書」を持参した野村駐米大使、来栖特命大使は、ハルが激高するのが理解できなかったそうです。

この回答への補足

語句上の理解不足がありました。
最後通牒をなぜ、ワシントンで出したのだ?
という質問になります。
No6でもご指摘された資料を読みまして「最初から欧米式外交プロトコルを無視することにした」というような事を指摘されています。
太平洋戦争における日本の惨事は、日本の政軍指導部が、落とし処を考えずに始めてしまったものと考えております。落とし処は、ルール、それが実定法であろうと自然法であろうと、相手側と交渉するヨスガがあって産まれるもの。最初から最後通牒を出すつもりもなかったと言うでは、どんな言いがかり(騙し討ち)を返されても返答のしようがない。

というようなところですね。

補足日時:2007/03/03 21:41
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ご存知だとは思いますが、当時の日米両国は戦争回避のため(正確には経済制裁解除)の外交交渉中でした。

交渉の中で米側からの提案(ハルノート)が提示され、12/8はその提案に対する日本の回答期限です。
この日米交渉は、日本側全権が野村大使、米側はハル国務長官で行われ、交渉場所はワシントンです。

なので日本は、宣戦布告よりもまず交渉打ち切りの通告をする必要があったのです。交渉は野村大使が行っていたので打ち切り通告も野村大使がワシントン行うのが自然です。
戦争回避のための交渉を打ち切るのですから、打ち切り通告がすなわち宣戦布告となります。
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文庫本の中野学校?


とか日本軍小失敗の・・・・
という文庫本 あたりに関係する記述が
あったような 無かった様な気がしますが・・・・
真珠湾攻撃察知の連絡が3重の米側のエラーで
伝達されなかった そこに関係する中野学校の記述で
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質問者様の問題提起は鋭いですね。

確かに、宣戦布告を敵国の首都でやらねばならないいわれはありません。自国の首都に敵国の特命全権大使がいるのなら、彼に対して行えばよいのです。実際、ヒットラーのドイツだけでなく、スターリンのドイツも断末魔の日本に対してモスクワ駐在日本大使を外務省に呼び、外相モロトフが宣戦布告を行いました。

「 大使は1人しかいないので、予定を押さえる必要がある。「明12:00に外務省に来られたし」なんてあの局面で言いだしたら、即座に警報が飛ぶと思われる。」
と言うような心配はありません。仮に米国大使が「都合があるので行けません」と言えば、誰か代理の者を差し向けさせれば良いのです。現実には、二国間に何かが起きて大使ではなく公使や参事官といった「外交団の長でないもの」が外務省に呼ばれることもあります。今でも良くあることですから、新聞を注意して読んでください。

仮に、アメリカ大使館が「公使から採用したての見習まで全員手がふさがってます」と非常識なことを言うのなら、日本の外務省職員がアメリカ大使館に出向き「アメリカ大使館の外交官は全員多忙で面会できないそうですので、この手紙を大使に渡してください」と守衛に押し付けてきても良いのです。

残念ながら、質問者様の素晴らしい疑問
「なぜ、日本政府は、ワシントンで宣戦布告をするという愚策を採用してしまったのであろうか?」
の答えは、当時の日本の指導者に聞かないと答えは出そうもなく、永遠の謎になりそうです。

ところで、質問者様は良い歴史センスをお持ちですね。もし高校生等であれば、ぜひ「歴史研究者」への道を検討してください。質問者様が研究者になり、自ら史料を捜索して答を出すのも良いでしょう。

「文学部国史学科、西洋史学科」などへの進学に加え、法学部や政治経済学部の「政治学科」も、「政治史」を扱う学科です。法学部や政治経済学部なら、いわゆる「つぶしが利く学部」で就職の幅も広いのでお勧めです。
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この回答へのお礼

○ 教えてGoo 30年前にありせば。
残念ながら、高校は30年近く前に卒業してしまいましたので、定年後に再入学になります。
田舎の高校なもので、賢い人は理系に行くという変な風潮。流されるままに、工学部に行ってしまいました。(まぁ今は文系就職者ですが)

お礼日時:2007/03/02 20:16

 開戦時期の欺瞞の為。



 大使は1人しかいないので、予定を押さえる必要がある。「明12:00に外務省に来られたし」なんてあの局面で言いだしたら、即座に警報が飛ぶと思われる。
 本国の国務省には、長官の代理者がだれかは居るはず。
 事実、ワシントンでは物凄く急なアポを入れて面会している(翻訳遅れなどで、設定したアポに遅刻したりしているが・・・)

 独ソ戦の場合は、一応、不可侵条約中だし、フデヒゲの大将が「チョビ髭がうちに攻めいるのはもーちょっと先」と考えていた為、開戦情報を聞かず、油断しまくり。それに奇襲とはいえ、真珠湾ほど投機的でもピンポイントなモノでもなかった。

 日ソ開戦の時は、驚くべき事にソ連に終戦の斡旋を依頼しており(! しかも外務省は最後の綱と確信していた)、大使の日程を押さえても不自然ではないし、別にばれたからと言ってあの時点で大したことができたわけではない。まあ、連中はそんなこと気にもしないだろうが。
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大使を呼ぼうとしたら、たまたま外出中でいなかった、これも予定通りいかないで、時間がかかった可能性があります。

翻訳に時間がかかるなら、あらかじめ封筒に封入して現地大使館に渡すなど方法は色々あります。別に宣戦布告の一言だけ先に伝え、子細はあとで伝えてもよかったのです。責任は大使館より本国政府のほうがより重いとは思いますが、スケジュールを重視するなら、相手の行動次第となる、大使を呼びつける方式は最悪に思えます。(むしろ相手大使館に電報打てば?)
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この回答へのお礼

○ご指摘の点からも、駐米大使館員、国辱モノ説というのは、筋違いでございますね。

○ 語句の訂正
宣戦布告は自国民および中立国に対して、戦争状態に入ったことの宣言。
最後通牒が、平和交渉打ち切りの条件出し。
期間を定めない最後通牒が即時の宣戦布告とみなされるとのことのようでした。

お礼日時:2007/03/02 19:26

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