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第二次大戦で日本は当初は快進撃だったけれども、ミッドウェー海戦前後以降は、どんどん劣勢になり犠牲者を出してしまいましたよね。

そのために、もっと早く降伏の意志を示していれば、日本国民の犠牲者もより少なかったし、もう少し領土を残せたんじゃないか? という見解もいくつか目にしました。
ただ、昭和天皇の訴追を回避できることが明確になっていなかったためなんですかね?
それとも大日本帝国上層部の保身のせいで降伏は遅れたんですかね?

第二次大戦に興味ある人など、皆さんからのいろんな回答を待っていますね。

A 回答 (10件)

国際政治の現状が説明されてないので、その方向から説明します。



まず戦争を終結させるには「降伏」と「講和」があります。「降伏」は対戦相手の主張を受け入れる表明をすることで、相手が戦闘行為をやめることが前提になります。

例を出せば今のウクライナ戦争は、ロシアのいう「クリミアはロシア領、ウクライナ東部などのロシア人居住区はロシア領にする」ということをウクライナが受けいれれば停戦合意できますが、ウクライナ側からすれば「降伏」以外のなにものでもないわけです。

太平洋戦争で日本が選んだのは「ポツダム宣言受諾による終戦」であり、これは間違いなく降伏であるわけです(無条件降伏かどうかは、議論があります)

「日本がもっと早く降伏することはできなかったのか?」という点で言えば、開戦に至ったハルノートを開戦後でも受諾すれば停戦合意が為されたでしょう。ただ開戦して連合軍側にも損害が出ているので、講和に至るまでは賠償や領土確定の協議があり、合意できれば講和ということになったはずです。
 もしこの時、日本がハルノートを完全に飲み込むことで合意するなら、それは日本の敗戦という結果になります。

で、問題なのは、というか非常に重要なのは「講和するには仲裁してくれる国か国際機関が必要」という点です。

とりあえず「ハルノートを受け入れる用意はあるが、協議したい」と言えば停戦合意ができたとは思いますが、そのためには仲裁国が必要だったのです。

実際、日本政府はミッドウェー海戦後に講和するための調査に入った形跡があります。ただ日本がミスをしたのは「ソ連が仲介してくれると思っていた」ことです。

実際、日独伊の三国は同盟関係で連合軍と講和仲介できないし、連合軍はほとんどの国が参加していたので仲介国になれなかったわけで、となると日ソ不可侵条約を結んでいたソ連ぐらいしか仲介してもらえる国は無かったのですが、日本政府自体が「ソ連に仲介を頼めるだろう」と思っていたことがズルズルと敗戦に至った要素の一つである、とする研究もあります。

>ただ、昭和天皇の訴追を回避できることが明確になっていなかったためなんですかね?

この点については、軍部・政府そして宮内庁がそれぞれ調査していたとされていて、天皇がポツダム宣言受諾をご聖断したのも「天皇廃止は無い」という連合軍側の確証を得たからだと言われています。

とはいえ、アメリカ議会などは賛成しておらず、GHQの判断によっては昭和天皇が退位や処刑される可能性もありました。つまり「天皇そのものは廃止しないが、ヒロヒトをそのまま残すという事ではない」という話だったようです。

この点について、昭和天皇はマッカーサーとの最初の会談で「自分を処刑してもいいから、日本国民に食料を援助してほしい」と申し出ていますので、昭和天皇自身は何らかの措置を受け入れるつもりはあったのだと思います。

>それとも大日本帝国上層部の保身のせいで降伏は遅れたんですかね?

定刻上層部と言っても、政府側と軍部では温度差がありました。
もちろん軍部特に陸軍は本土決戦も行うつもりだったようですが、海軍は現実的に戦争継続が不可能なことは理解しており、ただ「面子で敗戦に賛成できない」状態だったと言われています。

政府側については、すでに天皇の意向を受けた東郷が講和というか戦争終結の調査をしていて、広島・長崎原爆投下の直後のご聖断につながったとされています。

その点で言えば、かなりの軍事強硬派だった東郷は政府要人として、また天皇の意向を受けた側としてポツダム宣言受諾を想定して動いていて、文民政府側は軍部よりは早く敗戦を認識していたようです。
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この回答へのお礼

助かりました

ふむふむ、講和と降伏は違っていたんですね、いくらか混同してました。
日本はソ連を信用しすぎてしまってたんですね。

昭和天皇は処刑される可能性もあったようです、昭和天皇がマッカーサーに進言したお言葉は立派であったと自分も思います。

政府と軍部でも温度差はあったんですね、すごくわかりやすい回答でした。
ベストアンサー差し上げますね。

お礼日時:2023/08/17 20:40

米国首脳部が戦争したがっていたことは間違いない。


そして主戦場はマレー・シンガポールとインドネシア、フィリピンが想定され、そうなれば、シンガポールを拠点とする英東洋艦隊・英陸軍とフィリピンのB17重爆撃機部隊を含む300機以上の強力な米空軍が、日本上陸部隊を迎え撃っている間に、ハワイに進出させていた米太平洋艦隊が戦場に向かい、日本海軍を蹴散らして日本遠征軍の補給路を断って勝利するはずだった。

それを日本は、世界初の主力空母6隻を集めた空母機動部隊によって真珠湾奇襲攻撃で米太平洋艦隊を殲滅し、在フィリピン米空軍を台湾南部に集結した500機の陸海軍航空隊が壊滅させた。開戦わずか1日の出来事であり、その2日後には英東洋艦隊の主力戦艦2隻をベトナムから出撃した海軍陸上航空隊が撃沈してしまった。航空機が巨大戦艦を撃沈したのも世界初だった。

米国は失った戦力を回復し、日本軍を叩ける力を持つまでに2年以上かかっている。

講和のチャンスがあったとすれば、緒戦の3日間の奇跡的な大勝の直後辺りだったかもしれない。
実際にそういう意見も国内外から出たらしいが、頭が固く、神掛かった奇跡に酔いしれる東条内閣は耳を貸さなかった。

まあ、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にいきり立った米国相手では講和交渉なんて絶対に無理だったとは思いますが。
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この回答へのお礼

助かりました

アメリカ首脳部もやはり、戦争をしたかったんでしょうね、日本陸軍と同様に。
日本も緒戦は強かったようです、奮戦はしてたんですね。
でもやはり、早期講和はすごく困難だったようです、回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:34

歴史で「もしもこうだったら、ああなった」なんて言うのは全く無意味です。

 そんなことを言い出したら、もっと早く降伏するどころか、開戦しない可能性もあったし、日本が勝つ可能性もありましたね。
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この回答へのお礼

解決しました

歴史でもしもはあまり意味がないんですね、回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:24

保身と面子だけのせいです。

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この回答へのお礼

解決しました

本誌とメンツだったのですね、回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:24

当時の陸軍の勢いは


想像以上です

戦争を続けるために
天皇を暗殺する計画もありました
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この回答へのお礼

解決しました

当時の日本陸軍は、勢いありすぎたんですね、恐ろしいです。
回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:25

物事は集団の勢いで始まりますが、状況が悪くなって、止めるのは


難しいのです、猫の首に鈴をを付けるのは・・・
ましてや、大日本帝国の大本営は、敵を知らず己も知らずの思い上がり
の集団で、孫氏の兵法の真逆ばかりをしてました。
勇気を出して、言い出した者は殺されます、殺されても聞き入れてもら
えれば、犬死にならないのですが、そんな雰囲気では無いので、黙る
だけでした。
天皇の裁可でポツダム宣言を受け入れる形をつくりました。

敗戦とすると負けた責任を負わなければならないので、終戦としました。
終わったので敗戦の責任を問われませんので、大本営の高級将校達は
数多く戦犯を逃れました。
兵卒思いの東条英機は貧乏くじを引かされたのです。
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この回答へのお礼

ありがとう

集団の勢いで始まったものを、状況悪化したからと言って止めるのはすごく難しいんですね。
天皇の裁可でないと、難しいようです。
東条英機は貧乏くじを引かされてしまった一面もありますよね、確かに。
回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:27

対日石油輸出禁止など経済制裁で、長くて2年程度は戦争維持できると、


無理やり、戦争にする状態に追い込まれたのですが、

講和する為には、太平洋でアメリカに圧勝する必要がありました、
なので、アメリカに大損害を与えて講和に強行させる目的がありましたが、

真珠湾攻撃後、半年程度で、ミッドウェー海戦大敗北をし、
アメリカと講和する事は、ほぼ不可能になりました。

アメリカのルーズベルト大統領は、日本と講和するつもりは毛頭ありません、戦争させた張本人ですから。

一方、日本国内でも講和できなくなりました、それは、軍内部の問題です、講和しようとすれば、クーデターが起きる可能性が高かった。

無理です。

もし、講和交渉を始めれば、軍内部で暴動が起き、きっと、とんでもない事になったでしょうね。

アメリカは、満州鉄道など、中国大陸でアメリカ資本を排除した日本を徹底的に潰す目的がありました。【アメリカは中国で経済的利益を得たかった】

陸軍を中心とする徹底抗戦派は、「神洲不敗」をスローガンに本土決戦を掲げて一億玉砕を唱えた。1945年(昭和20年)4月に、戦争終結を胸に秘めて総理大臣に就任した枢密院議長の鈴木貫太郎(元侍従長、元海軍軍令部長)も徹底抗戦派の強硬な姿勢に即時講和を主張することはできず、連合軍に決戦を挑み大損害を与えて有利な条件で連合軍と講和するという「一撃講和」に期待をかけており、それは昭和天皇も同様であった。

↑日本国内では、戦争を止める事も不可能な状態だったんです。

じゃ、なんで終戦、出来たか?

原爆が1発目では、降伏しませんでしたが、2発目を確認し、もうダメだ、徹底抗戦派も言葉を失いました、もはや、誰も降伏に反対できない状態に追い込まれたのでしょうね。【3発目も用意されていました】

【パラオ諸島、硫黄島、沖縄上陸で、大勢のアメリカ兵は死傷しました、なので、日本列島に上陸する計画は見送られ、大型爆弾、原爆を開発、製造したのですね】

ソ連【共産圏】が、北方領土、北海道【阻止】まで攻め込んで来たので、原爆で戦争を早く終わらせる目的もありました。【アメリカの思惑】

ドイツ敗戦で、4か国分割統治になってしまったので、日本はアメリカ単独で占領したかったのでしょうね。

いかがでしょうか。。。
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この回答へのお礼

Thank you

ふむふむ、原爆が降伏を決意させた一面も確かにあるんでしょうね。
回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:28

制空圏とられた時点で白旗が正解です、



エノラゲイが広島上空くる前に
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この回答へのお礼

解決しました

制空権を取られたら、ほぼ決着ついてるんですね、回答ありがとです。

お礼日時:2023/08/17 20:28

色々な作戦は進行中でしたし、


特攻隊はそれなりの戦果をあげつつありました。
何か大きな変化をもたらして交渉しようとするのは解る思想です。
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この回答へのお礼

ありがとう

特攻隊はやはりそれなりの戦果を挙げていたんですね、特攻隊員たちに敬礼です。

お礼日時:2023/08/17 20:31

講和

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