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既出ならすみません。


イスラームがキリスト教徒を批判する理由で、

キリスト教はイエスを「神の子」とする教義が一神教に反する

というものがあります。これが自分の中できちんと消化できません。
これはキリスト教徒がイエスを神の子として信仰している点に問題があるんですか?
つまり、一神教としてはあがめるべきは、信仰の対象としてはアッラー(ヤハゥェ)だけであり、それ以外は存在しない。なのに、キリスト教徒はイエスを信仰している。これはおかしい!

ということなのでしょうか?もしそうであった場合、キリスト教徒はどのようにしてこの論理に反論しているのでしょうか?

よろしければお教えください。

A 回答 (8件)

クリスチャンはイエスを神と信じています。


それは、イエス自身が、自分のことをそういったこと、そして、旧約聖書の預言と、イエスの残した数々の奇跡がそれを裏付けたから、そのような信仰が起こったのです。

そうでなければ、「三位一体」などという難解な教義が生まれるわけがありません。イエスを、預言者と考えればよっぽど多くの人が信仰したでしょう。そうならなかったのは、初期のクリスチャンが、固く「イエスは神であった」と信じていたからなのです。

そして、イエスの登場は、旧約聖書の中で、繰り返し預言されていました。その数は300にもおよび、その中でも有名ないくつかの預言は、まさに奇跡としか思えないような不思議な正確さと、驚異的な内容を細部にまで記述しています。つまり、イエスは、旧約聖書の前触れどおりに登場したのです。

そして、イエス自身が、旧約聖書の権威を認めていて、自分が旧約聖書の示したメシアであることを繰り返し語っています。

だが、ここで問題が生じます。旧約聖書は繰り返し「神は私しかいない」と、唯一神であることを説いています。
それでいながら、イエスは、「私は神である」と言ったのです。(この部分は説明が長くなるのでここで詳しくは述べられません)
ですから、イエスは何度もユダヤ人に殺されかけました。最後は本当に殺されました。神を汚したからです。

死後、弟子たちは「イエスは受肉した神であった」という強い信仰をもつようになります。これが、三位一体の根本をなす部分です。つまり、初期のクリスチャンは、神の実体は一つでありながら、父なる神、子なる神、聖霊なる神の3つが存在すると考えるようになったのです。

これは本当に一般人に理解されにくいところです。
が、このような教義が広まったこと自体が、初期のクリスチャンの信仰がこうだったということを裏付けています。

何度も言いますが、ただ単に信者を獲得するためだったら、このような教義は捨てられていたでしょう。
これが生き残っているのは、これが真実が、そうでなくても初期のクリスチャンが固くこれを信じていたからです。
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この回答へのお礼

みなさんありがとうございます。
宗教はいくら勉強しても興味が尽きませんね。
もっと勉強していきたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/04 14:23

>キリスト教はイエスを「神の子」とする教義が一神教に反する


キリスト教の見地から
意味がわからないけど救いというのはイエスを信じるのみで
そう意味で一神教です。ほかには救いがない
イエスを信じている人は その後ろにいる神をも信じています
イスラムの人からみれば
 神というものがありまながらイエスを信じている
だから反するというのでしょうかね?

まあほっときましょう。争っても、しかがないしあんまり書くと削除してしまいますからね。
愛の神様 すべてを許してますから 反論なんてしてません
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>信仰の対象としてはアッラー(ヤハゥェ)だけであり、それ以外は存在しない。


>なのに、キリスト教徒はイエスを信仰している。これはおかしい!
>ということなのでしょうか?

その通りです。
イスラーム教徒がよく言うキリスト教の「欠陥」指摘ですね。
私は、中東イスラーム圏での在住経験が結構長いのですが、イスラーム教徒は、そういう言い方を確かにします。

>もしそうであった場合、キリスト教徒はどのように
>してこの論理に反論しているのでしょうか?

私はあまり反論を聞いたことがありません。

キリスト教の教義には有名な「三位一体」教義があり、「父(創造主)と子(イエス)と精霊」は3つにして1つだとします。
しかしこれは、一神教の建前と、実際の信者のイエス崇拝との矛盾の説明に苦しんだ古代キリスト教会が、いわばこの問題についての思考や論争を封じるために強引に決めた教義(ドグマ)で、要するに『三位一体の定義は、その理由や正しいかどうかは考えずに、とにかくそう信じろ』ということでした。(論理的に最初から破綻しているわけですが、宗教信仰じたいがそもそも論理じゃありませんから。)
三位一体論は所詮キリスト教徒以外には非論理的決めつけにした見えないので、キリスト教徒からの反論としてはあまり強い武器ではなさそうですね。(キリスト教の中にも、イエスは神ではなく人間であると考えた流派が古くはいくつもありましたが、皆異端として追放されていきました。)

そもそも、違う宗教どうしですから反論しても議論がかみ合うわけもなく、キリスト教徒側にしてみれば、いちいち反論しないからと言って、イスラーム側の批判が正しいと認めたわけでもない。

確実なことは、仮にキリスト教が三位一体論を捨ててイエスを単なる人間として創造神だけを崇拝する厳格な一神教になったとしても、イスラーム教徒は別の理由でキリスト教の欠点をあげつらうでしょうし、永遠に双方の主張がかみ合うことは無い。
宗教だから、そんなものでしょう。
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こんにちは。


ユダヤ教と同じ唯一神を信仰しつつイエスをその神が遣わした救世主と信じるがキリスト教ですよね。ですがユダヤ教や後に預言者ムハンマドによって開かれたイスラム教から見ると、救世主はまだ登場していないのにただの人間でしかないイエスを神と同列に扱うとはとんでもないことに見える訳です(イスラムではイエスも預言者の一人ですが飽くまで人間です)。何しろ神は唯一にして絶対の存在な訳ですから。
キリスト教もずっと長いことこの矛盾に悩んできました。そして辿り着いたのが「三位一体」という考えで、イエスも見えない存在である聖霊も唯一神の現れ方が異なっているだけで本当は一つのものであるというものです。日本で神仏混交を説く際に「日本の神さまというのは仏さまが人々を救う為に仮の姿で現れたものだ」とする本地垂迹というものに似てなくもない宗教がよく編み出す手法なのでしょうが、やはりちょっとこじつけというか無理があるようでキリスト教内でも宗派によって「三位一体」をどうするかということは違ったりするようです。
個人的にはイエスどころか聖母や聖人なんかも信仰の対象にしてしまっているのはやっぱりかつての多神教の影響が残っているというか、「神さんも仏さんも」という日本人には理解し易いですがそういう形態のほうがより自然な信仰形態だからなのかなと思わなくもないです。
でもやっぱり頑なに唯一絶対の神のみを拝んでその為に自らを厳しく律しているような人から見たら無節操に見えるんでしょうね。特にユダヤ・キリスト・イスラムはお互い同じ唯一神を信仰しながらそのやり方が違うので余計に許せないんじゃないんでしょうか。
非常に大雑把ですが何かの参考になれば幸いです。
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イスラム教の中でも、イエスキリストは存在するのですよ。

偉大な「預言者」の一人です。

旧約聖書以降の考え方がイスラム教とキリスト教で変わってきます。
ちなみに、キリスト教ではイエスキリストは人間の姿になられた"神"であるのです。姿だけではなく、人間として痛みを受けられたわけです。
"アラー"="神"であって、これはキリスト教の神と当然のことですが同一です。
イスラム教の場合、何が何でも神は神という形でしか存在しない、そしてその存在は人間の想像を超えたものであるからいかなる肖像物も作ってはいけない、という考えです。
キリスト教も基本的には同じなのですが、人間の姿をした神であるイエスキリストを、思い起こすために偶像や絵を用いて祈りを捧げるのであって、決してその偶像や絵がが崇拝の対象になっているものではなく、使徒、乙女マリア、その他聖人は、神になったのではなく神を崇める人間のリーダー的立場の人々として敬う、という感じでしょうか。
両教とも当然ですが神が最大の存在であって、その同等の立場の物は誰一人として存在しません。
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キリスト教(特にカトリック)においては、神には「崇拝を」、三位一体(キリスト)には「礼拝を」、聖人には「崇敬を」、聖母マリアには「超崇敬を」行うとしています。


但し、実際問題として、崇拝・礼拝・崇敬の違いなど、当のキリスト教信者にもわかりません。
そのため、イスラムの人から見ますと、神やキリストばかりではなく、本来人間である聖人までも崇拝しているように見えてしまうのです。

また、キリスト教にとって、「キリストとは何者なのか」は、キリスト教成立当初から問題となっており、それゆえ多数の分派が生じました。
「崇高なる精神と俗なる肉体」を基本とするグノーシス諸派。
「キリストは人間であり神ではない」するネストリウス派。
「キリストは神の一部であり人間ではない」とする単性派。
「キリストは神に限りなく近い存在である」とする単意志派。
「キリストは神と人間が交じり合った者であり聖霊(天使)の使命を帯びた存在である」とするカルケドン派(三位一体派)。

三位一体派の中でも、西方教会(カトリックやプロテスタント)は、キリストの神性と人間性を半々としているのに対し、東方教会(ロシア正教やハリスト教会など)は、神性が2/3で人間性1/3としています。

そのため、イスラムなどへの反論のしかたも、教派ごとに異なっています。
グノーシス系の諸派の多くが、十字架を含むあらゆる偶像を崇拝しない事を旨とし、イスラムからのイチャモンがつかないようにしています。
そのため、西欧諸国でグノーシス派系の教派が起こると、十字架破壊運動などが起き、徹底的に弾圧されました。

ネストリウス派の場合、現在ではイスラムと混じってしまい完全な形として残っておりませんので、状況がわかりません。

単性派の場合、神 = キリスト ですから、キリストへの崇拝には全く問題がありません。

単意思派は、過去のレバノンのマロン派がそうでしたが、現在では東方典礼カトリックとなってしまっておりますので、実際どういった考えであったのかのは分かりません。

東方正教会は、イスラムと対峙した時間が長いため、この問題が深刻な事態を招きました。
偶像崇拝問題がそれで、結局聖画はOKだが、聖像はNGとなりました。
基本的に、キリストや十字架を拝むのではなく、それらを通して神を拝むとしました。
イスラムでは、室内などで礼拝する時メッカの方向を示すマークがありますが、それは単なるメッカの方向を示すマークでしかなく、そのマークに礼拝しているのではないのと同様、十字架や聖画も、神のいる方向を示すマークだとしました。

カトリックでは、崇拝は神のみとして、キリストには礼拝、聖人には崇敬とする一方、聖像や十字架に向かって崇拝するのではなく、神やキリストへ向かって崇拝や礼拝をするマークにすぎないとしています。
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この回答へのお礼

丁寧な解説ありがとうございます。
キリスト教について、三位一体についての知識を深めることができました。

お礼日時:2007/03/03 19:48

三位一体とかいう奴でしょう。



まぁ、別にそんな問題じゃなくて、
アッラーにせよヤハウェにせよ、
いないモンは想定しなくていいんじゃないですか。

三位一体だろうが純粋な一神教だろうと、問題はそんなコトではなくて

「絶対神を好きか嫌いか」
というタイプの問題です。

好きか嫌いか、ですよ。

地球人類が
一神教的な世界観が好きなら
イスラムかユダヤ(かキリスト)、
そうでないなら
無宗教かその他、
(宗教的でも科学的でも哲学的でも。色々な思想があり。)

色々選択肢があっていいんじゃないですか。
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この回答へのお礼

自分はこの考え方好きですよ。
世界がこうなら平和なんですけどね。。。

お礼日時:2007/03/03 13:56

私がイギリスにいたときイスラム教徒の人と対談した限りでは、


彼らがキリスト教を批判する論拠は、イエスは神ではなくて、
神の子供でしょ? ということでした。
つまり、神そのものをなぜ信じないで、その子供を信仰してい
るのか、我々は神との直接の関係で結ばれているということです。

>キリスト教徒はどのようにしてこの論理に反論しているのでしょうか?
三位一体(トリニタス)です。3にして1ということで、神と子と
聖霊は一体であって、同じものである、と。
つまり、「父なる神」とその子であるイエス・キリスト、そして聖霊
の三者はいずれも尊さが等しく、神は固有の三つの位格(ペルソナ)
でありながら、実体(スブスタンティア)は同一であるという論法に
よってです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
えっとここで疑問があるのですが、なぜ三位一体であると神とイエスと聖霊が同一である)といえるのですか?

お礼日時:2007/03/03 13:53

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