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松尾芭蕉は身を野ざらしになってまでもと、悲愴な決意で旅に出ています。
奥の細道のたびは半年がかりでした。
そして死の床でも「旅に病んで夢を枯野をかけめぐる」と読んでいます。
どうして旅に執着したのでしょうか?
旅をしないとよい句ができなかったのでしょうか?
漂泊のおもいはどこから生まれてきたのでしょう。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

芭蕉の旅は俳諧を極めて行くうちではやむを得ぬ必然性がありました。

深川あたりで点者生活でもなんとか生活は出来ましたが、問題は作品についての不満が多く、また芭蕉の一番の得意は「連句」でした。連句はご案内のように千変万化する特異な形式で、これは当然同じ連衆ではマンネリなってしまいます。芭蕉はこれを一番嫌いました。その根底には大きく「西行」も関与してきますが、なんと言っても作品の停滞を恐れたのです。弟子に「季語の一つも見つたる手柄」ともで言っているように、定住する事による作品の停滞を嫌いました。さすれば「旅」という「非定住」な生活形態を「定住」としたのです。旅することが棲家なのです。山頭火などと決定的に違うのは放浪ではなく、旅が「定住」であった事です。このほか多々ありますが、ここの字数では蕉風山脈にとても分け入る事はできづ私見だけお答えいたしました。
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種田山頭火のように、ひとところに落ち着くことに憧れながら、漂泊してしまう人と、松尾芭蕉のように、仮住まいでもひとところにいる自分を本来の自分では、ないと思う人がいると思います。


伊賀の出身であることと歩くスピードが速いことで、忍者説もあるくらいですが、あれほどの才能を持った割りに見合った生き方ではないように思います。
旅に執りつかれていた・旅への依存体質になっていたのでしょうか。
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少なくとも、日本の芸術においては、旅をすることが伝統だったから。


在原業平、西行など、旅に出なければ、本物の歌人にはなれなかった。
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