ゴリラ向け動画サイト「ウホウホ動画」にありがちなこと

人生がむなしいです。
人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。
このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。

【回答についての注意事項】
・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。

・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。
これが実感としてわからないなら、参加しないでください。

・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。

・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。

・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。

・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか?

・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

A 回答 (107件中71~80件)

訂正します 味噌汁→しじみの味噌汁

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虚しい感情は苦しいので、理屈があっていようがいまいが対処する方法を示さねばならないという立場から一言(鼻息荒く的外れなおせっかいでないように・・・。


実は私も(も?)昨日と今日の夕方に久しぶりにむなしさが起こりました。
(w_-; ウゥ

私の感情については、私なりに解釈はさまざまあるのですが
それがあなたにぴったりくるなんてことは、あまり期待せずに言うと、
(というかそんなとき言葉が通じることすら疑わしく思えます)
まず、体の健康面からして、心のシステムがうまくはたらかなくなっているのかもしれない。生活習慣がいまいちで、早寝早起きができていなくて、ちゃんと栄養がとれていないとか、まず第一に検討すべきはそこだと思います。(私的には味噌汁は結構効きます)

で、次にようやく概念や想像レベルの話として、あまりにも希望や期待を大きく持ちすぎているということがありえます。仮に人並みの期待だとしても、一人でいてさまざまな前提を取っ払うと、常識的なことがすべて虚しく思えます。祭りの後のように。そこでたいていの人がするのは、信頼できる人と話したり、テレビや音楽を聴くことで、「ごまかす」とか言うけれど、心を常識レベルまで持っていくことだと思います。しかし多くを取っ払ってみるとやはりそれはごまかしであり、つかの間の祭りであり、砂上の楼閣であり、妄想に過ぎないという本音が残ります。
そのような時にどう対処すればいいのか、私自身も完全に克服したわけではありませんが、(というかまったく的外れだったりしてね)この問題(理由はともかく、とりえあえず現象としても虚しさをいかにするか)の達人は老人思います。アンチエイジングに精を出しているのではまだまだで、一人で死に向かう準備・覚悟がしっかり整ったこれぞ老人という、老人らしい老人です。そのたたずまいに励まされる気がします。といってもわたしは、老人の友人がいないので確証は得ていません。しかし、総合病院の待合室などでさまざまな人を見て心が安らぐことがありました。試されてはいかがでしょう。

参考になったかなぁ、それではご自愛ください(^^)
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むなしさを感じるのは人間の宿命と思います。


私自身は4歳か5歳頃の方がむなしさに圧倒されそうだったのを覚えています。
今はむなしさを感じられるのは精神的に極上の贅沢だと思われます。

むなしさごと人生に深く深く、感謝してみたら見えてくる景色が違ってくると思います。生きていればこそむなしさを感じられると思うからです。
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こんばんわ。

場違いな私かもしれませんが、迷い込んでここに来ました。皆さんのとても哲学的なお話は私には難しいです。ただ、最近の私の体験をお伝えします。
少なくとも18年は虚しい気持ち、いえ、投げやりに生きてきました。多分今もそうかもしれないです。それでも悲しい事にお腹は空き、家族が滞りなく暮すために渋々、外から見れば普通に生きてきました。ところが、身体がどうにも動かなくなり、家事どころか心臓の発作を毎晩抱え、西洋医学では解決できず(こうなってもやっぱり命が惜しかったのでしょうか?私には判断がつきません)、仕方なく2年前から野口整体に通い始めました。「あなたには夢がない」「老年期をどう過ごすか正念場ですよ」などと言われても、心の中で「うるせえ」と毒づいていました。でも身体が楽になった(寝込まなくなったので家族が行けというから)ので、止めずに惰性で通っていました。先日操法をいつものようにしてもらったその2時間後、歩いていたらフツフツという音というか感覚があって「あれ?」。お腹の底からフツフツと何かが生まれてくる感じ。その時に「小説でフツフツと力が湧いてきた・・」なんてのがよく書いてあるのを思い出し、フツフツって本当なんだなと思いました。力が湧いてきたとは思わないけれど、なんだか嬉しかった。気づけばこの1週間お腹が空くのを悲しいと思っていません。単純おばさんの体験ですから、回答ではありません。物心つく頃(3,4歳だったと思う)から「今まで食べた分がウンチやおしっこになった量はどのくらいになってしまうんだろう?こうやってゴミを吐き出しながら、どうして生きていくのか?」と考え込み、家族に言わせるとフッと気づくと「暗い顔した私」がいたそうですが。今もまだ考え込んでしまいます。不愉快だったら申し訳ありません。なんだか書きたくなってしまったからです。
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生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、


宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。
本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。
しかし、人間始祖の「堕落」によって、人々は、神が分からなくなり、
人生の意味も価値も分からなくなってしまったのです。
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このむなしさは、貴方の心の在るものがそうさせています。

その在るものとは、貴方の無意識の中に在るものです。今のまま、只生活してゆく事です。頭ではなにを考えていても良いと思います。やるべき事を、やる順番に。悩みが在りながら、人生は進んでゆきます。

貴方の悩みは、人生そのものに投げかけられた「問いかけ」と云っても良いように思います。或いは自分の存在そのものと言っても良いかもしれません。本当は誰でもが抱えている「問いかけ」です。悩みは、悩んでいるうちに、今度は、もっとハッキリしたものになるかと思います。

貴方の「問いかけ」は「永遠なるものの」憧れからおきているかと思います。貴方の中の「永遠性」のものからの問いかけが、貴方のむなしさと、悩みなのです。その答えを得る時に貴方は、その事が分かります。その時は、貴方が他の人達と心で繋がっている事が。人は決して「孤独」な存在ではない事を。自分自身をもっと掘り下げてみていく事です。
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《なぜ生きるか。

なぜ必ず死ぬのに生きるのか》
――《生きたいから》で いいのだと思いますが。

ちょっと 言いがかりをつけるようで弱りますが 《むなしい》と《生きたい》との両方があると思います。

《人生がむなしいです》という側面 これも おそらく《自分の全存在を賭けての問い》なのだと思われるのですが それと同時に 《生きたい》というのも やはり《自分の全存在を賭けての》わたしの動きだと思います。

もし《むなしさ》を《ごまかす》ということがあるとしたなら それと同じ程度で 《生きたい》をごまかす側面も持っているように推測します。

わたくしは むなしさを感じることがあるのはむろんですが 《むなしさに囚われている》状態に入ったことはないので もし 筋違いでしたら おゆるしください。

そしてもし《人は何のために生きるのか》 この問いに対してでしたら かんたんに答えることができます。
《自由になりたいから》です。相手と つまり一般に人びとと 対等にして 自由であったら さぞ楽しく愉快だろうと思ってのことです。
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続き、


コップの正体が分かったので報告します。

コップの正体は観念でした。
仕事、恋人、友達、家族、等々
観念がコップとなって、そこにジュースが入る事によって満たされた、或いは所有しているという感覚を生むようです。

awiudyfghaさんの場合は人生という観念がコップになっています。それが満たされないために虚しさを感じていると思われます。
人生が虚しいのと、コップが空っぽというのは違いますね。感じている当人には同じ事のように思いますがこの違いを明確にしておくのは大事なように思います。例えば、花という観念と、今目の前にあるそれは同じではないですよね。それと同じで人生という観念と今この瞬間に生きている私たちの生は同じじゃないと思うんです。
また、今までこの”人生”というコップが満たされた事があったでしょうか、答えというジュースが手に入らないためにこの質問をしたはずです、とすればコップは今までずっと空っぽだったはずです。しかし、虚しさは常に感じていたでしょうか。ほかの人より感じやすいとはいえ四六時中という事は無かったはずです。言うまでも無く子供の頃は感じなかったはすです。という事はコップが空でも気にならなかったか、或いは観念がコップという形態に変化しなかったと思われます。つまり、コップが空でも生きていけるという事ですね。

つづく、
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あえてこのように回答してみます。



質問者さんは暇だから、虚しさをを感じています。

私自身ひどく悩んでいた時期がありました。
ある思想家の書籍を読んで救われたと思っています。
もし、質問文どおりこれが”全存在をかけての問い”でその覚悟があるなら、
まず、全エネルギーをかけて虚しさと向き合ってください。
もしかしたら、晴れるかもです。

一応、念の為、
質問者さんには必要ない文と思いますが、
死ぬ、といっても、自分で自分の肉体を殺したところで、無意味ですよ。またどこかで繰り返すだけですから。
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虚しさとは空のコップに例えることができるのだろうか。



空のコップに常にジュースやお酒を入れている人、或いは入れられる人・・・・・虚しさを感じにくい人
空のコップに時々ジュースやお酒が入るが、空の状態が長い人・・・・・虚しさを感じやすい人

こうしてみると、空のコップこそが本質なのだから虚しさも人の本質の一部ではないかと。
しかし、同時に疑問もわいてくる。

・空のコップは虚しいが、それはイコール人生のむなしさなのか。
・そもそもコップというものは空の状態で初めて役に立つのではないか。
・人生はむなしい、そう感じるのは事実だが果たして本当に虚しいのか。つまり虚しさを発している者がいなくなっても人生の虚しさは実在として残るのか。
・コップとは何だ

等々、
そこで、コップを壊したらどうなるのか、それは死ぬ事ではなく、コップなしに生きることはできないのかと。そもそも虚しさとはコップ自体が発しているのかもしれないし。

と、これまでのQ&Aを読んで思いました。
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