【お題】王手、そして

人生がむなしいです。
人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。
このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。

【回答についての注意事項】
・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。

・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。
これが実感としてわからないなら、参加しないでください。

・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。

・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。

・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。

・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか?

・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

A 回答 (107件中81~90件)

こんばんは。



私は、自分がなにか外れていると感じるとき
むなしさを感じます。
というか虚しさを感じるとき、自分が自分からずれていることに気づきます。

私は30代半ばです。
人生で自分が望んでいたのは、「自分自身でありたい」
ということだけだったように最近感じています。

人間の活動には、虚しさからの逃避ではない、
もっとナチュラルなものもあると思います。
無知だから博学になりたいとか、
醜いから化粧したいとか、
まずいものにごってり調味料をつけるみたいのではなく、
もっと軽く素直に、
ただ、知りたいという気持ち、
ただ、美しくなりたいという気持ち
ただ、おいしくしたいという気持ちって、
あると思います。
「感動から始まる追求」のようなものが。
それは自己否定に立脚していません。

私は派遣社員でメーカーに勤め、風呂なしの部屋に住んでいます。
余暇には整体や体操、発声の勉強をしています。
(まあ、ヨガや太極拳みたいなものです。)
学生時代は哲学的・観念的な探求を多くしましたが、
今は、探求の対象が身体になりました。
探求の対象として身体を発見したとき、これで10年は遊べると思いましたが、
今では一生遊べそうな気がしています。

「それが何になるのか」と問われれば、
返答に窮してしまいますが、
何にもならないからといって、無意味ではありません。
感じること、働きかけること、工夫すること、
変化すること、発見すること、表現すること、
響きあうこと、分析すること、統合すること、
解放すること、集中すること、自分と向き合うこと etc.
そこには私の求める活動の大半があります。

誤解を恐れずにいえば、私には虚しさは
「うっすら」張り付いています。

喜びのほうがかなり豊饒なので、
虚しさは相対的に存在感をなくしました。

念のため付記しますが(すみません、ちょっと借ります!)、
この喜びとは、「日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ!」 とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての答えです。
質というか次元の違う、圧倒的な安心感を伴う喜びの感覚があります。
これが自分だ!という感じです。

環境には恵まれてるのに虚しかった時期もありました。
少年時代は大体そうでした。
社会にルサンチマンを持ち、ほんとうに孤独だった時代もありました。
20代はおおむねそうでした。

あなたの言う「有意義」にあてはまるかどうかは分かりませんが、
意義は分かりませんが価値は感じます。
つまり、生きているということに、崇高な感動を感じます。
それは虚しさ同様、動かしがたい内的な感覚です。
そして世の中にそういう人はい~っぱいいると思います。
何億人もの人が、大なり小なり、虚しさの影から逃れるすべを模索し、虚しさと向き合い、いろいろ見出している人もいると思います。

「世間的な成功や人格の陶冶は虚しさを克服し得ない」というのは
賛同はしますが、
「世間的な成功や人格の陶冶は本質的な生の充実とはそんなに関係ないっぽい」と考えるほうが素直だと思います。

そして、「生の本質的な充実はなにによってもたらされるのか」と問う方が有意義な気はします。

私は、自分のほんとうに大切にしたいこと、ほんとうにほしいものを少しずつ見つけてこれたことで、生が分厚くなりました。
やむにやまれぬもやもやしたものがあり、
形にならず、言葉にできず、ただ「違う!」という心の叫びがありました。どこにいても、水を得てない魚のようでした。
少しずつ自分の内と外との風通しをよくすることができました。

あなたの質問や応答をみていていて少し感じるのですが、
世界を分節化するマトリクスというか枠組みが、
仕事・勉強・趣味・遊び・夢・恋愛・結婚・子育てなどといった、
または成功、貧困といった、極めてステロタイプなものに思えます。

出来合いの服を着ているようで窮屈そうです。
自分にフィットするように、もっと換骨奪胎できると思う。

私は、老荘思想は虚しさを軽く超えていると思います。
身体的論の世界では、例えば野口三千三の思想は虚しさの先にあると思います。
岡本太郎の思想も、ラディカルですが示唆に富むと思います。
クリシュナムルティは虚しさの変容について突き詰めた究明をしていると思います。
李白やシェイクスピアはそこを突き抜けていると思います。
哲学者なら、私はバートランド・ラッセルから多くを得ました(ちょっとバタ臭いですが)。

取り留めの無い回答になっていまいましたが、何かの参考になれば幸いです。
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私の結論は


『自分の人生に意義、意味、結果、成果を見出さない』です。

私の『人生』は私で構成された私の世界です。
一方『意義、意味、結果、成果』は、私の世界を外側から見た
顛末の評価だと思います。

終結してないものを評価しようとする行為に無理があるのでは?
と思うようになりました。

この理論を展開していくと
『今は意味が見出せないけれど、結果的は未知数である』
となり、『むなしさ』も時に、『心の拠所』に感じるように
なりました。空回りの自分を許せるようになりました。

もう刹那の幸福の隙間で『むなしさ』に悩ませされることは
ありません。


わたしも、質問者さまと同世代です。
少しでもお役に立てれば幸いです。
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 いつもなら、自分で選んだ「テーマ」について繰り返し考え、その結論部分を、読む人によく伝わるように言葉を選びながら「拙い文」を綴るのですが、どうも今回は考えがまとまらないようです。

意図しない失礼がありましたらお許しください。

 「むなしさ」について・・・
 大学生のころですからもう随分昔の話です。目の前にぱっくりと口をあけた漆黒の暗闇のような「空虚感」に悩まされていたものです。「いたものです」と過去形で書いたものの、すぐ後で述べるように「現在形」でもあります。
 その「むなしさ」は何であり、それを解消するにはどうしたらいいのか、ということをその時の自分のレベルで必死に考えたものです。

 好きな読書に熱中していてふと気がつくときがあります。友人と談笑していて言葉が途切れたあわいにふと気がつくことがあります。春の麗らかの一日、緑が萌え文字通りの「薫風」を頬に感じ、身の回りの総てが春を「謳歌」しているようなとき。ふと自分の後ろに、背中にペタリと貼り付いていて息を潜めている「むなしさ」に気づくことがあります。夜中に目覚めて真っ黒な深淵の中に落ち込んでいく恐怖に声を殺してただ耐えて、時間をやり過ごし、へとへとに疲れきって泥のような眠りにこれもまた「引きずりこまれていく」。
「むなしさ」はいつも自分の呼吸のように、気がつかなければやりすごし、気がつけば自分の皮膚のようにぺったりと意識に薄いベールとなってはりついているようです。

 子供のころからどうも現実感覚が希薄だったようです。現実と上手く折り合いをつけられない自分がいました。人はなぜ、あのように楽しそうに笑い、目標を持ち、何かに熱中し、このやりきれない「時間」をすごすことが出来るのか。いつも不思議に感じていました。他人にこのことを率直に尋ねても、だれも「納得させてくれる回答」を与えてくれませんでした。

 ふと、思いました。これは「決して癒されることのない宿疴(しゅくあ)」ではないのかと。

 生きている限り、この骨と肉と出来、皮膚でつつまれた身体の中に閉じ込められた「こころ」の足掻きは、自分の本当の顔を仮面だと思い込み、必死で顔から引き剥がそうと顔中血まみれにしているようなものではないかと。この「こころ」は何によって満足を与えられるのか。何によって「安心し、その奥底から本当に安らぐことがあるのか」と、眠れないまま幾晩も輾転反側し答えの出ない問いを延々と繰り返していました。

 この「むなしさ」から開放される手段として、(ありがちなことですが)「自殺」も魅力ある一つの手段だと思いました。この身をすぐにでも滅ぼさないではいられない、という緊急性のない「悩み」(その意味でわたしの病は軽かったのかも)でしたから、自分の手で自らに手を下すという、実に「魅力的な手段」はいまだ採用せずに現在に至っています。

 さて、お示しの「むなしさ」は、わたしとって自分の人生の全篇に亘って幽かに響き渡る『通奏低音』なのだと諒解しています。つまり、このろくでもない人生の基底にあたる「寄って立つ安定しない大地」なのだと。だから、見たくなくても、「むなしさ」はぱっくりと黒い口を開けている奈落のようにいつも側にあります。「ある」という「感触」だけで十分です。
そして若者にありがちな「結論」へと自分を導いていきました。すなわち、「わたしの心はこの世では満たされることがない」と。

 では、そのいてもたってもいられない不安とどう折り合って生きているか?

 ただ時を「やり過ごす」だけがその方法です。自殺しない身であるならば、この脱出不能の牢獄たる肉体が朽ちるその日まで、何かに気をとられ、何かで気を紛らわし続けるのみなのです。

 しかし、人間とは「不遜」なものです。生き続けていると、他人と交わり、好きな人が出来、すきな事ができ、物を集めることが楽しみになり、その集めた物への拘りが、すなわち自己目的たる「やり過ごし」に大きく貢献し、それに気づいて「苦笑する」自分を見出します。
 ですから、質問者さんへの「アドバイス」などありようもないのです。延々と無限に続くかと思われる時間を「創意と工夫」でやり過ごすのです。

 その昔、解答を示してもらえるだろうという期待から「宗教」への帰依も大真面目に検討しました。生来の「なまけもの」だったのか、またそういった「負の情熱」ではこられた「宗教」も困るのか、はたまた、単に出会いという「縁」に恵まれなかったのか、自分の日々衰え続けていく拙い脳細胞で考え続けるという道を選びました。

 はっきり申し上げて、「有意義な人生」などという「まやかし」を期待されているだけこれからの苦労も多いのでは、と思います。でも、ひょっとして何かの拍子に、「あっ、これだ!」というものに巡り会う僥倖が訪れないとも申せません。しかし、直面すれば一歩も身動きのとれぬ呪縛たる「むなしさ」は、「有意義」などという薄っぺらな価値観を吹き飛ばすような「純粋な負のエネルギー」たるものです。あるいはもっともデリケートな部分を非情にも蝕み人生の蓄積も歴史も奪い去る「がん細胞」のようなものです。

 「有意義な人生」を諦めることはないでしょうが、「期待」もしないほうがよほど賢いというものです。でも、思わず「期待してしまう」のも人生であり人との関わりですから、悪戦苦闘の果てに何があるか追求するのも「一つの人生」ではあるかも知れません。その努力に見合う「何か」が見い出されれば、是非ともこういった場でご紹介して頂きたいものです。

 「むなしさ」は現在形です。気を許せば落ち込んでしまう奈落です。そして多分、気を許して落ちてしまうことを許されない「宙吊り状態」が「むなしさ」の実態なのでしょう。

 ただ、最後に一言。「むなしさ」は「絶対無への脅威」ではありますが「絶対無」そのものではありません。考えに考えることで、「むなしさ」を直接克服するという「特効薬」は見つからないものの、世の中を自分なりに解釈する手立てを生んでくれるものだと思います。
 そして、「むなしい、むなしい」と呟き呪詛し続けることからは何も生まれないようです。それはさんざんやりつくした人間である当方が自信をもって「断言」します。

 ですから、「グッドラック」としか言いようのない気分ですね。「そのうちいいことあるよ」てなもんです。太宰治の『トカトントン』に出てくる主人公を悩ませるあの音のようなものです。
 ご自愛くださいますように。

 哲学カテということですが、「文学的」な表現を撒き散らしました。意図あってのことです。お汲み取りください。
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ご質問者様が感じているのは死への恐怖ではないでしょうか?


確かに死は無に帰ります。

聖書には「罪から来る報酬は死です」とあります。
罪(原罪)を悔い改めることで死の恐怖から逃れることが出来ます。

また死が本当の無ではないことを知るべきです。
レオナルド・ダ・ビンチ、モーツアルト、写楽、リンカーン、昭和天皇、あなたの祖父母
死してなお生きる人に影響を与えている人の存在をどう思いますか?
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「むなしさ」が、情緒としての「むなしさ」なら、それを商品として流通させることで、社会的満足を得ることができます。

また、概念としての「むなしさ」、すなわち、「神もいない、仏もいない、人生に意味も目的もない、人は必ず死ぬ、死ねば何も残らない」ということなら、それは、正に自由な精神による創造の出発点だと思います。
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『意味』っていうのは『求める』ところから発生する


『求める』ということは『不満』や『不安』があるからある

生きていれば喉が渇く
喉が渇けば水が要る
だから水には『意味』がある

『不満』や『不安』があって
『~したい』『~すべきだ』と思うところに
『意味』が生まれてくる

世界は公平じゃない、人間は自由じゃない
生きる事は苦痛に満ちている
死はいつも近くにいる

だから人間の世界は『意味』で満たされる

人はひとりではいられない
人は自分に『意味』がないことにたえられない
だから人は人に求められることを求める
人は人を求める、人は互いを求め合う
だから人が生きることには『意味』がある
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生きたいと思えない『生きたくない』


だけど『死にたくない』

生きるというのは結局
『死からの逃避』にすぎないんだ

だけど無意味なことを受け入れながら
生き続けられるほど人間は強くない

だから生きる事に価値があって
自分は『生きたい』と思ってるかのように
自己欺瞞しながら死を遠ざける事で
生をつないでいってしまう

だけどそれは結局欺瞞にすぎなくて
結局いつかは死に追いつかれる

死に追いつかれて、生きる事が結局
『死からの逃避』に過ぎなかったことを
認めざるを得なくなる時を
自ら迎えるのか、逃げ続けようとしてつかまるのか
その訪れが遅いか早いかに過ぎない



…こういう考えは結局
いろんなフランストレーションを
解決できない故の欺瞞なのかもしれない

生きるとは何かを求め続ける事
意味は求めるところから発することを
知っているというのに、全てが無意味だと
思い込むことで、自分は何も求めていないと
思おうとすることで、自分はなんら
解決できない不満も不安もないのだと
思い込もうとしているだけなのかもしれない

ただ無力な自分を正当化したいだけなのかも…


だけど、ならばなおさら
欺瞞しているのだと欺瞞することで
己の無力を欺瞞する欺瞞に満ちた私は
生きていていいのだろうか?
死ぬべきではないだろうか?
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>人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。


人は他人に必要とされることにより、その存在を認められます
不必要と判断されれば、存在を否定されます。
よい例が死刑です
あれは、その人間を不必要と判断し処分します。
生と死については、人生はゲームと違うのです
リセットが出来ません、かならず今の時点からの始動になります。
死は終了ですその後は何も感じません(無です)
ですから人間は、社会に貢献しようとします
自分の存在を示すため、周りの人に自分がいなくなったあとも
覚えてもらうために生きている間に
と思います。
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回答ありがとうございました。

私はむなしさに直面し感じながら生きています。なぜこんなに給料が低いのだろう。なんで人のために仕事をしたり正論を言っても理解されるどころかいじめられるのだろう。なぜ勉強してもお金持ちにならないのに、勉強しない人がお金持ちになっているのだろう。そしてそのむなしさというのが楽しさや多幸感と表裏一体であり、本質的には同一のものであるという真理に気づき、よりいっそうむなしさから永久に逃れられない。つまり「あの世」にいけば「無」むなしさの世界が広がるという諸宗教の教えが正しいのだと気づき、人間の哲学思考が神を超えられないという真実に再びむなしさを感じるのです。現世での人間の存在そのものがむなしさなのです。
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はじめまして。


『人は何のために生きるのか。』
これはもう単純に「DNA(遺伝子?)がそうさせているから」と考えます。
そして人間は所詮DNAが生き延びる為だけの乗物でしかないと考えたとき、私には質問者様の叫びはそのままDNAの叫びのように思えました。
DNAは種を存続させるためだけにヒトからヒトへ宿主を変えながら今もなお生き続け、これからもずっと生き続けていくでしょう。
ゴールもなく目的もなくただ生きるだけ。ヒトが絶滅しないように。
質問者様をはじめ、人生がむなしい・・と感じている人は、古代から生き続けているDNAの血がそう感じさせているのかもしれないな、とちょっと思いました。

『あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか』
主語が「あなた」なので私の独断と偏見に満ちた意見を述べます。
人間には他の動物にはない「自意識」または「心」という素晴らしく厄介なものがあります。
むなしいと感じるのもまさに心があるからで、このむなしさを少しでも忘れさせるのもやはり心(感情)しかないと思います。
ヒントとなったのは散々「むなしい」を連呼していた質問者様の一言です。

>率直に言って、涙が出そうになりました。なぜか。

「なぜか」と書かれているように質問者様はこの時自分がどういう気持ちになったのかうまく説明はできないと思います。
でも涙が出そうになるほどの激しい感情が一瞬にして沸きあがった。
一瞬かもしれませんがこの時には「むなしい」なんて感情は消え去ったのではないでしょうか。
楽しくなくても笑顔なんてすぐに作れますが、正体不明な涙なんて早々流したくても流れません。
この涙は一般的に言う嬉し涙とか感動の涙とかではなく、何と言うかもっと深く高尚な涙です。
このような涙が流せる場面に多く出くわせば出くわすほどむなしさからは少し離れられるような気がしました。

>でも、子どもができたら変化しそうな予感はあります。
私も子供はいませんが、その予感は間違ってないと思います。

専門外の身で好き勝手発言しました。あくまで参考程度に読んでいただければ幸いです。
気を悪くされましたらすみません。
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