「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

人生がむなしいです。
人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。
このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。

【回答についての注意事項】
・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。

・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。
これが実感としてわからないなら、参加しないでください。

・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。

・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。

・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。

・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか?

・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

A 回答 (107件中41~50件)

質問


 あなたの感じる「むなしさ」は、次のような「むなしさ」の特徴があります。
・個人的かつ感覚的なものである。
・「フランス語の勉強」などによっては紛らわすことのできない重篤なものである。
 そして、あなたは次の問いに対する答えを求めています。
・この「むなしさ」を抱えながら、なお生きるべきか。
・なお生きるとして、どのようにすれば生きることができるのか。

回答
 あなたはこの質問を発することによって、この問いが不特定多数の見知らぬ他人と共有できるのかということを確かめようとしています。しかし、あなたの感じる「むなしさ」は、不特定多数の他人と共有できるものでしょうか。特殊な状況による特殊な「むなしさ」は、不特定多数の他人と共有することはできないので、同じく特殊な状況にある者に問うしかありません。その場合、不特定多数の者に問うことは無意味です。

 そこで、あなたの感じる「むなしさ」が、一般的な人生の過程で誰もが感じる「むなしさ」であると仮定します。そのような「むなしさ」は、多くの人は「フランス語の勉強」や「真理の探究」などによって紛らわしながらその人生を過ごしておりますが、あなたの場合は重篤なようです。もっとも、その「むなしさ」が一般的なものであることに違いはありませんので、多くの人と同様に「フランス語の勉強」や「真理の探究」などによって紛らわすことができるのであれば、それに越したことはありません。

 では、「フランス語の勉強」などによって紛らわすことができない場合には、なお生きるべきでしょうか。なお生きるべきでしょう。なぜなら「フランス語の勉強」や「真理の探究」では紛らわすことができなくても、「古代ラテン語」や「ありふれた家庭生活」では紛らわすことができるかもしれないからです。人生は本当に短いので、その間にいろいろな可能性を試してみるべきです。もっとも、あなたは「古代ラテン語の勉強」や「ありふれた家庭生活」などで「むなしさ」を紛らわすくらいなら死んだ方がましだと思うかもしれません。

 その場合、それでもなお生きるとすればどのように生きるべきか、という問いに答えたいと思います。残念ですが、あまりよく存じ上げないあなたに対する積極的な回答は持ち合わせておりません。しかし、少なくとも、なるべく他人に迷惑をかけずに生きるべきではないでしょうか。そのような人生が積極的な意味で「有意義な人生」かどうかは分かりません。しかし、他人の『有意義な人生』を阻害しないという意味では、消極的な意味においては相当に「有意義な人生」といえるでしょう。

 では、どのような生き方が他人に迷惑をかけない生き方なのかというのは、やや複雑な問いです。なぜなら、個人だけでは完結しない問いだからです。ですから、どうか不特定多数の他人ではなく、ご自身の周りにいる特定かつ少数の他人に尋ねてみてください。「どうすればあなたに迷惑をかけないで生きられるのでしょうか」と。それによって、あなたがどんなに「むなしく」ても生き続けなければならない答えが見つかるかもしれません。あるいはひょっとすると、無理をして生き続けなければならない理由が見つからないかもしれません。しかし、その場合にもそのような問いをしながら生き続けられることをおすすめします。なぜなら、人生は本当に短いから、そのような問いをし続けただけの人生でも、それだけで十分に「有意義な人生」だと私には思えるからです。

まとめ
 あなたの悩みが一般的な悩みであれば、ご自身の周りにいる身近な人に問うてみてはいかがでしょうか。「人生がむなしいにもかかわらず、何のために私は生きなければならないのか」と。
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むなしいきもちがとてもわかります。


私は虐待を受けて育ったのでひとよりそういったきもちが強いほうだと思います。

何故生きるのか。
この世は儚い幻想みたいなものだといつからか思うようになりました。

新しいことや感じたことのない感情を楽しむようにしています。ただそれだけ。

哲学にはしったり、仏教にはしったりしたけれど答えは自分が出すのだと思います。
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何のためでもありません。


ただ生まれ生きて死に行くのです。

私は、作品を創作する音楽家ですが、創作は自分の生きた証の足跡です。

強いて言えば作品を残すことは未来の人類のためとも言えなくはないですが、未来のために足跡を残すことを意図することはあるがままの自分を表現することにはならず、創作を通して未来を画策してしまうことは人類の一員としての本来の足跡にはならないでしょう。

ですから、何のために生きるのではなく、ただ生きることを全うするのみです。

工業製品や農作物を作ることに関わることも、その実は「人のために」と言い聞かせながら、ただ生きている過程を全うしているだけではないでしょうか?

少なくとも創作人生を通して、私はそう考えます。
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人間は説明不能に生まれ説明不能に死んでゆくのだと思います。


DNAに操られているという仮説もありますが、自分の納得のいく答えを探すには色んな世界を見ることだと思います。
国の法律の違い、性の違い、育った環境などの違いによって個々の答えは様々です。
時代によって常識も変わりますし、言葉よりも身体や心で感じるほうがいいと思います。
あなた自身が納得するだけでいいか、価値観を共感するかは自由です。
ですが後者のほうが一般的に何かが変わっていきそうですね。
死という共通のものも、人によって憧れだったり恐怖だったりするので、未練を残さぬように生きることが大切だと思います。
なので、私はそれまで幸せや不幸と感じる感情を客観的に楽しむことにしています。
体や容姿は天からの借り物で魂だけが唯一、個々のものという仮説に共感した私は魂が喜びを感じるように生きようと思います。
大富豪や有名人、犯罪者、偉大な人物、私には興味がありません。人類がバランスを保とうとしてる感じがしてて、その一部にされてる感が不愉快なんです。
そういう意味では、無意味な死のほうが好ましいかもしれませんね。
また生まれてきた意味を自ら残すことは可能です。
子孫を残すという行為だけでも、どの生命体も自然に成すことです。
色々、理屈を述べましたが成るように成れの精神がシンプルでいいと思います。
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私も、人生の空しさにさんざん苦しみました。


高校のときに嘘の友達ごっこに嫌気がさしてから対人関係について一考するようになり、それがきっかけで一人でいることが多くなったのがきっかけだったかもしれません。そのうえで、大学に入ってから余暇ができて考える時間が増えたからともいえます。
それについてネットで相談したら、「趣味に没頭しましょう」みたいなことを言われてますます苦しくなっただけでした。そこできわめて刹那的・世俗的に楽しく生きる同年代の友達にありのままを相談したところ、その反応でなんとなく自分はおかしいのではと感じました。どうやったらあんなふうに何も考えずに人生の一瞬一瞬をただただ快楽と美だけを追求していけるのだろう?むなしさにとらわれないというのはなんて素晴らしい才能なのだろうか。などと日々悶々としていました。

私の場合、すべてのことはそこに見えている単なる現象にすぎない。ということからむなしさが恐ろしさに変わりました。わくわくさせられる、たとえばディズニーランドなども、なんでもない物理的現象(コンクリートやペンキや音響効果など)によって引き起こされている錯覚なのであると思った瞬間、恐怖でどうしようもなくなりました。感情さえ作られている。むなしい世の中でこわいことは山ほどある。そのようなを友達に絶望しながら語ると、えぇ~そこまで追い詰められてたんだ、というような驚きがかえってきました。救われません。それどころか話す前より絶望していました。なんとなく友達が引いているのがわかったからです。昔から、いつも私の話をわかってくれていた友達のいる場所から遠くなってしまったと思ったら、このままではいけないと思いました。

そこで私は、いっそ世俗的に生きてみよう。と思ったのです。見かけの現象にだまされて、何も考えていない、考えることがあることすら知らない幸せ者のふりをし始めたのです。
最初のほうは、こんなことをしてもどうにもなるまいと自嘲気味でしたが、世俗的に生きている友達の楽しみ方、人への接し方などを真似て、できるだけ面白おかしく対応することを思い出し始めました。中学生くらいまでは自然と考えていたことを意識してやるようになりました。最近あった面白いことは?とかを、暇な時に考えておいたり、まずは対人関係を取り戻すことをしました。すると、昔のようにだんだん友達が増えてきました。

そんなふうにしていたら、今まで「趣味に没頭してみては」なんて言われてもまるでする気がおきなかった趣味への意欲が復活し、もっと上達したいという向上心がわきました。私はまだまだだなぁと痛感し、向き合ったとき、生きる時間が残っていてよかったと思いました。それから、精神医学のようなものに興味を持ったとき、私はこんなことも面白いと感じるのか。と思い、こんな風にもっと知りたいと思うものが、知りきれないほどたくさんあるから、時間がたくさん残っていてよかった。と思いました。それらはとても具体的かつ奥深いものなのです。
むなしさをごまかしていたら、自分なりの生きる意味を見つけることができましたよ。もっとできるだけたくさん知ること。その中で押し付けられない趣味で自分自身を癒すこと。
新たな知識の吸収に没頭している時、目的ある知的な思索の中にあるとき、わたしはむなしさから解放されるどころか、生きる楽しささえ感じていました。

むなしくて怖くてなぜか孤独で、ああ、海に入って死のう、と思っていたこともありました。これから先、もしかしたら、またそんなふうになることもあるでしょう。しかし私は、それでも一応生きてみようと思います。だましだまし生きていく中での圧倒される発見があるかもしれませんから。
人はそれを希望と呼ぶのかもしれませんね。
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むなしさについて考えていたら、とてつもなく虚しくなってきました。




好きな人に突然告白されて付き合うことになった、宝くじで1億円当たった瞬間、人生のむなしさについて考えるでしょうか?
1分後でも2分後でも3分後でもなく、その瞬間ですよ。


人生は、瞬間をどう生きるかの積み重ねです。
また、人間は時間を感じることができる生物です。


頭の良い人ほど、むなしさを感じることもあるのでしょう、それにむなしさを感じていたら、限りある一瞬一瞬がもったいない、

ふいに生じる虚しさを許して、流して、新たに喜びや幸せの種を探して蒔いていくほうが、息がしやすくなるのでは?

苦しんでも苦しまなくても、望んでも望まなくても、人生はいつか終わります


意味ある時間(人生)=人生の意味は子孫のため。にしたいですね。
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私は中学生の頃に同じ様な事で悩んだ。

人がこの世で生きる事にどういった意味があるのか?なぜ纏綿と未来に向かい親、子、孫…と関係を持たせるのか。

私の場合、生きる事に虚しさを感じた時、夜空を眺め、宇宙の広がりに目を向ける。今、この時も宇宙は膨張し、星が誕生、消滅している。生物が誕生し、もしや自分と同じ様な人間がいるかも知れない…!?それは、何億光年先か、いや、もっと近く…?など、考え出したらきりがなくなってくる。
宇宙や物の誕生は、そもそも原子から出来ている…

など想像し、疑問点は調べてみる。そうすると、今まで知らなかった事が理解できたりする。結構、新鮮な喜びがあったりする。

そこで初めて、「虚しく」無くなります。

自分の世俗的な生活の中に、答えは無いと思います。
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人生のスタートは自分の無意識の中で切られ、人生は自分の意識の中で存在する。


そもそも無意識の中で始まったことに虚しさを感じない鈍感な人間ほど理解出来ないが。

私は生まれること自体、動物の性欲の後の残像みたいなくらいにしか思ってない。
そしてその繰り返しの中の1人。


確かにリアルに背を向けた時、現実逃避の中での快楽や楽しみ喜びなどもあるが…
現実生まれてしまった事実。
私はいかに心地よく生き死んで行くかと思っている。

虚しさは馬鹿馬鹿しさとも似ている気がする。
自分を理解してもらえない虚しさではなく。どうせ死ぬのに人間は何を繰り返すのか?
と言うような。
人は生まれながらに死刑囚などゆう言葉もあるのに。


愛だの夢みる人か
何も考えずにかは知らないが命は繋がれ生きている。
無意味だと虚しいと思う私みたいな人は子供を産まずに負のスパイラルを断ち切るべきだろう。
そうすれば人類は生きることは素晴らしいとゆう煩悩しかいなくなり幸せになるんでは。


話が反れすぎましたが、虚しいけど自分で命を絶つとか苦しんだり痛いことはせず。
どうせ死ぬんだし、虚しいんだしその答えは変わらない。
だから死ぬまで生きるしか仕方ない。
人の迷惑にならないなら好きなことを気の済むように気の済むまでやればいいと思う。

価値観の違う人や感情論や流動的な人間には近寄らない。
そうゆう人にこの種の話をしたところでダークだの冷めてるだのまた感情論を突き返されるだけ。
また虚しくなるだけ。

でも虚しさを抱えながら向き合い生きている人もいる。
私はそこで癒やしになる。
そうゆう人間が一人も居なかったら死んでたんじゃないかな。経験も何度かあるので。



質問者の何のために生きるか。は親が性欲の結果自己満足の中で誕生されられたから。
血縁の自己満足を引き受けるなら生きる。
それが馬鹿馬鹿しいなら生きられない。

私は前者をとりました。

あとよく死ぬのが怖いくせに。みたいな煽る人が居ますが。
死ぬのが怖いとゆうよりも、死ぬときの痛みの恐怖などだと思います。
まぁそれがなけりゃ安易に死ぬ人が増えるか…
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人生は、むなしいです。

誰も、自分を評価しないからです。評価しないばかりか、馬鹿にします。なめてきます。ヤクザのように、詫びを入れても、はじき返します。ですから、頭に来るのです。むなしさは、私も同様に、感じる日々続いております。紺のような人生が、続くのならば、いっそ、誰かを道連れに、大暴れしてやりたいくらいです。むなしいのが、世の習い。むなしさに耐えろと言うのは、死ね!というに等しいのです。困ったことに、希望を持てとか、我慢しろ、そんな青春ドラマみたいな、チープなことしか言う人がいないから、気にくわないのです。人生にむなしさを感じすぎれば、秋葉原のような事件が起きます。未来永劫続きます。有意義な人生なんて、送れる人は、皆無に等しいです。仕方がないが、そう思って生きるしかありません。
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この質問を見た時、私と同じような人が他にもいるということにビックリしました。



普通に仕事をし生活もしていますがいつもむなしい気持ちがベ-スにあります。
楽しく過ごしたあとでさえむなしさがしのびよってくることもあります。なにかの資格に合格したあとの達成感の高揚が静まればまたむなしくなります。仕事をやりとげたあとも同じです。
ベ-スにあるむなしさを満足感やら達成感やらでぬりつぶしていったとしても所詮ごまかしているだけです。本当に堪能しえいるのとは違います。
どうしたら心から人生を楽しみ本当に有意義にすごせるのか、それができない自分に嫌気さえ感じることがあります。人生を全うしていないことを申し訳なく思います。

私の場合むなしさの原点に死への恐怖があります。
人(生物全て)はなぜ必ず死ぬのに生まれてくるのか、なぜ自分はここにいるのか、数々ある命の中で自分はなぜ人間に生まれたのか、なぜこんなことを考えながら生きていくのか、小学4年生の時にこの疑問をもって以来50年たっても(笑)答えらしいものは見つからなかったのでこの先もヤレヤレです。

「むなしい」と検索する人は形はちがっても皆むなしさを抱えていると思うのです。
質問や回答を読むことで気持ちが共有できるかもしれないし、少しの救いを感じてくれるかもしれません。この方の質問を読んだとき衝撃を受け、教gooに初めて登録しました。
回答欄に書きましたが独りよがりで求められている答えになっていません。
質問された方には大変申し訳ありません。どうぞお許しください。
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