誕生日にもらった意外なもの

人生がむなしいです。
人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。
このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。

【回答についての注意事項】
・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。

・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。
これが実感としてわからないなら、参加しないでください。

・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。

・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。

・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。

・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか?

・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

A 回答 (107件中11~20件)

2007年4月3日に質問されて、4月4日で返事を書いただけ。


私の直前の最終回答が2010年。。。

質問を締め切ることもなかったのですね。

それでも100件近くの書き込みがあり、中には中々示唆に
富んだ豊かな見解もあります。

多分もうご自分の相談を見る機会はないのかも知れませんが、
要するに、世界の中心たる絶対的自己、という視点を捨てて
自分も他人同様、無に等しい個体に過ぎない、ということに
いかに現実的な理解を得るか、に過ぎないのですが、中々
現実世界から遠ざかって頭の中の思考実験だけで理解
しようと考える人は、それが他人に否定されたり、他人に
認めてもらえない不快感、自虐感を感じることからの逃避で
あるのですが、それに向かい合いながら他人という存在を
通じて自分なりのテツガクテキコタエを発見していくという
痛みのあるプロセスを拒絶し続けているに過ぎません。
標準的な答えとしては、我をつまらぬものとして捨てて、
他利、或いは群の中の束の間の自分のすべきこと、
したいことに自分の命というリソースを集中させること
なのですが、中々自分は絶対的存在だ、という超人願望が
全く満たされないという極めて個人的な欲求充足が
得られない不満、という仕組みに気付かない限り、
自分が取るに足りない存在で、あっという間に消滅し
存在そのものに意味など最初からない、という真実を
納得しない限り、この堂々巡りの自己撞着は続く。

自分を捨てて他人を活かす。

そういう視点の遷移が出来れば、自分で自分を
締め付けるがごとき無駄な苦しみは減るのですが。
ご質問者のように考えることでリソースを使い切って
しまう人は、ご自分の考え自体に矛盾があることに
どうしても気づかない。

まさか、この私が幻だなんて、ということを
どうしても理解したくない。
だから、苦しいのに。

批判として書き込んだのではなくて、私同様にこの厭世的
設問に対して、興味深い見解が見つかるかな?という
期待で拾い読みしている方もいらっしゃるでしょう。

この手の質問は本当に多いですから、逆に書きこまれる
回答がデータベースとして価値を持っているように思います。

エントリー・フィーとして、些少なり、書かせて頂きました。

質問者さんにではなく、回答者さんに、私は関心がある。
こういう価値もあるのですね、消えない相談板というものには。

流石に、眠い。今深夜です。

推敲なしは危険ですねー。。。

沈没。
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虚しさを覚える前にまずやることがあるんではないでしょうか?


人生はそんなに甘くありません
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あまり考えすぎず肩の力の抜いて生きてみてはどうですか?


案外楽しいですよ。
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生きている意味が解ってしまったら、生きていられないんじゃないですかね?


解らないからこそ人は生きるのです。
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自分を好きになることからはじめましょう。


卑屈になっては駄目です。
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物質に「目的」はありません。


しかし、本質的に目的はなくとも、それゆえに二次的に生じる目的、というものもあるのです。

「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(意志の強さ×その達成度×それを把握する認識力×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×寿命)に収束します。

たとえ死に瀕していても、その残りの時間の中で、最大限に喜びを感じる(あるいは苦痛を少なくする)方策を目指すものです。
とはいえ先の関数に認識の深まりが複数表れている事から分かるように、「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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気楽に行けばいいんですよ

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たまに僕も同じような感じになります


でもその時は趣味に没頭しますね
そうするといつのまにかその気分がなくなってます
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まだ質問者様が見られているかわかりませんが締め切られていないので回答させていただきます。



自分もむなしさを感じる時が今もよくあります。
ふとした瞬間に急に感じます。

何故これほどストレスを感じてまで仕事をするのか?
頑張って仕事した金は税金という使途不明金になるのに
何故働かなければならないのか?しかも低賃金。
一緒に遊びに行っても不快な思いをすることが多いのに
なぜ友達や職場の人間と交流も持たなければならないのか?
若いころは楽しい事ドキドキすることも多かったが
成人し社会的立場を気にしなければならくなり、
楽しみも減った今生きるとは?
なぜこれだけ我慢して生きる意味はあるのか?

稚拙な文になりましたが、よくこんな感じに考えてます。
最終的に生きがいを見つける事なんだろうなって自分の中で答えがでます。
自分の場合は尊敬している人物(亡くなりましたが)に良く頑張ったねって誉めてもらえるような人生を目指したいと
思います。それが自分の生きがいです。

ただそうは思っていてもエンドレスでこの思考が繰り返されます笑
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全く共感できる疑問です。


気持ちが奮い立ちます。
「人生のむなしさ」について、日々思案しております。
以下、所見を。

人生がむなしく感じる理由は
やはり人生には終わり(老と死)があることを認識しているからでしょう。
例えば、とても面白い出来事や宴会でも、それが終わりに近づくとなんだか寂しくなる。
でも、日常の出来事や宴会はまた開催すればよい。だから、空しさも一時である。

されど、人生の終わりは一時ではない。万事それでおしまいであり、取り返しがつかない。

例えてみれば、それは「硫黄島の戦い」に似ているかもしれない。
日本の敗戦直前に硫黄島を死守する日本軍。されど圧倒的な米軍には勝てるわけがない状態。しかも補給も援軍も期待できない。
つまり、米軍が島に来ることはすなわち死を意味する。全滅である。

逃れられない死を直前にして多くの兵隊さんはやはり「人生のむなしさ」を感じたに違いない。
この島に明日は見いだせなく、やりなおしは出来ないのだから。

現代において「人生のむなしさ」とは、あたかも自分が「人生ってむなしいな」と感じた時に自分の周囲に援軍や補給といったものが何も見当たらないことが原因と考える。

つまり、人生のむなしさ=圧倒的な死の恐怖と不可避な死への歩み について、誰ひとり一緒に戦ってくれる人もおらず戦うことはできず、誰ひとりその恐怖を理解してくれる人はおらず、誰ひとり、その死の恐怖から救い出す術を持ち合わしていないのだから、圧倒的な死の恐怖とたった一人で向き合って足がすくむ状態となる。

しかも、硫黄島と違う点は、硫黄島には多くの同じ境遇の兵隊さんがいた。されど、現代では「人生のむなしさ」なんてことを真面目に考える人よりもむしろ、その時代の享楽にふけってお祭り騒ぎしている人ばかりが目についてしまう。
あたかも「死の恐怖なんてみんな感じておらず、自分だけがそれをたった一人で感じているのでは」という孤立感にさいなまれるがごとく。

さらに、現代の「死」は個々別々に生じえる。つまり、自分が死んでも周りは死なず、周りが死んでも自分は死なない。ということは厳密な意味で周囲と「死について」の共感や共同戦線は組めない。

例えて言うなら、「硫黄島の戦い」は本土の家族を一日でも長く米軍から守るという大義こそ存在し、わずかながらのむなしさの解消が出来たかもしれないが、現代の「むなしさ」の原因は「自分が硫黄島で戦って死ぬ運命が迫っているときに、本土ではお祭り騒ぎと享楽にふけっており、島を守る自分のことを全く気にもしてくれない」というとりのこされた感じに近いのではないだろうか。

私の思案はここまでである。それ以降はまだまとまらない。

時に、誰かを救うために自分の命を投げ打って誰かを助けようとする人が居られる。
私はその行為に心がとても衝撃を受ける。
誰かのために「犠牲になれる」。つまり「犠」の心。「犠」の精神。

恐らく、自他ともにそして社会全体に「利己主義」よりもむしろ「犠」の精神が広まるならば私の中の「むなしさ」は多分減少すると思う。
その行為は確かに「死」という強大な力に対して集団で立ち向かっているということになるので。

だから、私は「犠」の精神を大事にしたい。俗っぽく言えば「自分の損をかえりみず、相手を助ける行為」と言えよう。
そういった「犠」の精神が共有できる人が増えてほしい。お互いが譲り合い、助け合い、利己主義に走らなければ、精神的な共同戦線がいつか死の恐怖に立ち向かう力を与えてくれる。

今は、ここまでの思案だが、より深めていきたい。
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