好きな和訳タイトルを教えてください

日本の都は東京遷都されるまでは
朝廷がある都(京都の平安京、それ以前に平城京や長岡京など)ですが
実質の政権は朝廷ではなく幕府ですよね
鎌倉時代は鎌倉幕府で鎌倉、江戸時代は江戸幕府で江戸
(室町時代は室町幕府で京都ですけど)
室町幕府が織田信長に滅ぼされて信長が天下を握っていた安土桃山時代は桃山城で安土ではないですか?
なぜ平安京以後は明治時代になるまで1000年以上首都は京都なのですか?

A 回答 (9件)

No.5の方とほぼ同じですが…。



既に他の方が回答された通り、武家政権の時代に将軍がいたところを首都と呼ばない人にとっては、『形式上は天皇が主権者であり、よって天皇がいるところが首都である』と考えるからですが、これは首都をそのように定義したからそうなるだけの事で、例えば、辞書をひいたら普通に出てくる『一国の中央政府のある都市』(goo辞書)という定義からすれば、江戸時代の首都は間違いなく江戸ですよね。当時の『法律』に沿って考えても、幕府が禁中並公家諸法度を制定しそれが有効だったのだから、幕府が朝廷に対して上に立っていたのは明らかです。(将軍が天皇に『任命』されていた、というのは、実態社会に影響がほとんど無く、実態社会に影響を及ぼす部分では幕府がはっきりと優位でしたから、歴史では、幕府が自己の権威付けの為に利用していた部分を取り出して、形式上は朝廷の方が優位だった、とはあんまりいいませんね。所詮、形式に過ぎませんから)

応仁の乱以降の室町幕府は中央政府と呼べる実態はあまりなかったので、積極的に京都を首都と呼びにくいですが、それでも他の場所に比べれば明らかに「政治の中心」として認識されていましたから、京都を首都と呼んでも、それ程おかしくないでしょう。

ただ、歴史では、どこが首都だったか、という事よりも、どこに政治権力の中心があったか、という事の方が肝心なので、あんまり真剣に「日本の首都はどこだったか」という議論はされません。簡単に言えば、あんまり興味をもたれていません。だから、「どこが首都か」というのは、歴史とはまた別の議論なので、「天皇がいたところが首都なのだから、江戸ではなく京都が首都」、「中央権力があるところが首都なのだから、江戸が首都」のどちらも正しい、でいいんじゃないでしょうか?
「天皇がいる所が首都である」という定義を採用している人に、「何故幕府所在地が首都ではないのか」という議論をふっかけても、最初から定義が違うので、噛み合わないと思います。どちらが間違いというわけでもないのだから、それはそれでよいのではないでしょうか?どちらをとろうが、天皇がいる所よりも、幕府所在地の方が政治の中心であった事は間違いないのですから…。
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>日本の都は東京遷都されるまでは



遷都の詔書は発せられていないので、「東京遷都」はされていません。

「江戸ヲ稱シテ東亰ト爲スノ詔」
朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東亰トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ

という詔書が発せられただけ。
現行法でも首都を定めたものはありませんね。
ま、東京が事実上の首都であることはたしかですが。

昔の幕府は、都におわす天皇から官位を与えられて行政を任されていただけ。
実質はどうであれ、制度的には都は天皇のおわす場所ということです。
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1:首都という概念


幕末まで日本には首都という概念がない。明治以降西洋基準にするために、西洋基準から東京が首都ですと言うことにした。
その根拠が、元首のいるところ、だろうということで、逆算して、明治以降元首と言うことにした、天皇がいたところが明治以前の首都であるとした。よって、1000年以上首都が京都と言うことになった。

2:幕府という概念
将軍の現地政庁がもともとの概念であり、征夷大将軍は、臨時職であり、天皇に近侍する必要がなかった。つまり都にいなくてもよかった。
※このへんが頼朝が征夷大将軍位にこだわった理由とも言われています。

3:安土桃山時代
桃山城とは、伏見城の江戸時代の通称であり、本来で言えば、安土伏見時代あるいは安土大阪時代というべきであるが、美術史上の慣用句が政治史に転用されたため。
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素朴な疑問ですが、何故「東京が首都」なんでしようか?



実は、東の京都(東京)が、首都となっている法的根拠は存在しません。
(確定した理論・解釈が存在しないのです)
天皇が住居している都市が「首都」と解釈すれば、現在でも「京都が首都」なんです。
明治時代以降、天皇は旧江戸城を皇宮と定めて住んでいます。
が、法律的には「東京に行幸中、つまり出張中」なんです。
明治政府が、幕府崩壊を諸藩・庶民に知らしめる為に江戸へ行幸したした事実が(現在も)続いているのです。
今でも、天皇家のお帰りを待っている京都市民団体が存在しているようですよ。

何故、幕府所在地が首都でないのか?
簡単に言うと、幕府は「政治の現場」という意味しか存在しません。
幕府の長である「将軍」は、天皇(京都)から(形式上)「任命」されます。
天皇から政治(政権)を「委任」されているだけで「移譲」ではありません。
同様に、各藩主の叙位も天皇からの(形式上)任命です。
将軍といえども、独自(勝手に)に叙位を与える事は不可能でした。
このように、形式上は京都側に政治的実権が存在したのです。
昔から言いますよね。
京都へ行く事は「上る」、江戸へ行く事は「下る」。
当時では、この認識が一般的だったようです。
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日本全体の政治を行なう中枢を、首都と定義するなら、


鎌倉時代:京と鎌倉に分立
室町時代:京(無政府状態の時期が、長期間あり)
安土桃山時代:信長の安土城→秀吉の伏見城(後の桃山御陵)
江戸時代:江戸
と、動いています。
ところが明治維新の際、江戸幕府から権力を奪った行為を正当化するため、一貫して政治の中心が天皇、すなわち京であったかのような、建前の方を重視しました。歴史を学ぶなら、建前よりも現実に、どこが日本全体を動かしていたか、いなかったか、を重視する方が面白いです。
江戸時代に、江戸でなく京が、日本全体を動かしていたと考える人は、まず、いないでしょう。
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徳川家康、足利、源、、、かれらは征夷大将軍(時代により異なる)という、朝廷から任命された人たちです。



将軍という名前の通り、軍のリーダーであり、いわば軍事政権。

その本拠地が江戸(とか鎌倉とか)にあっただけの話で、首都は京都であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …
抜粋・・・
形式的に言えば、朝廷が正規の政府で幕府は地方における臨時の政府であると公家の間では認識していたが、武家の間では必ずしもそうであるとは限らなかった。


いかがでしょうか。
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現行憲法では天皇は国の象徴ですが、英語では国家元首と聞いています。


当然、戦前までは日本の元首が住む都は京都ですから、京が首都であるのはごく自然です。
敢えて江戸に移さなくても、行政権を掌握し、何ら問題はなかったのです。
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征夷大将軍は武士の棟梁です。

中身はどうあれ朝廷(天皇)より任命され、はれて幕府を開く事ができるのです。
武士のトップとしてあり、実権はどうあれ形式上は天皇が国のトップだったからなんです。
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天皇が居る場所が首都だとすると、現代も体制は変わってませんよ。


江戸に幕府があっても公家の殆どは京都にいました。寺社の力も同等に全国にありました。そうすると武士しかいない江戸は政治としては集権していないのではないでしょうか?
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