No.1
- 回答日時:
数万vs数万が全部が雇兵というわけではなく、普段は農民として生きている人間が、戦時に一時的に兵として集められる。
戦が終われば元の農民になる。だから、農繁期には戦が少なかったといわれています。
このやり方を改革したのが、織田信長とも言われています。
この回答への補足
umeume7777さん
ご回答ありがとうございます
農民というのは少し検討がついてましたが農繁期に戦が少ないというのは初情報です
ありがとうございました
No.2
- 回答日時:
農兵と傭兵の二種類があります。
農兵は読んで字の如く、領主が支配している土地の村々から身体壮健な者を動員する事で、これ等の兵士は基本的に農民です。小田原北条氏の古文書などで、その動員システムが現在に知られています。
農兵の動員は、領主側が直接村々に乗り込んで来て、「お前とお前は今から兵士になれ。」といった風に連れて行くのではなく、領主が各村の代表者(名主、庄屋など)に文書を送り、村の貫高、石高(簡単に言うと村の豊かさ)に見合った人数を村側が送り出す、と言うシステムになっていたようです。この人数については村の側からも交渉する権利があったようで、領主側も村々に離反されては困る為、あまり強圧的な態度は取れなかったようです。一般的には一万石につき兵300人程度の動員が可能だったと言われています。これ等の農兵は戦闘が終了すると、村に帰ってまた農民に戻ります。
もう一つの傭兵に関しては領主が金で雇った兵士で、農兵と違って常備兵に出来ますが、当然農兵よりも維持費が嵩みます。農兵と違って土地に縛りつけられていない(自分の土地や村などへの帰属意識が無い)ので、一般に結束力が弱く、農民としてまともに食っていけないようなあぶれ者が傭兵になるケースが多い為、モラルも低いのが普通です(これは現代の傭兵も同じ)。しかし、領地内の農民との関係が良くない領主などは傭兵に頼らざるを得なかった事でしょう。兵農分離を進めた事で評価される織田信長も実はその類ではなかったか、とも言われています。
これ等の傭兵達は、豊臣秀吉の惣無事令(国内での私戦禁止)以降、帰農する者もありましたが、東南アジアに進出し、傭兵として活躍する者も出始めます(山田長政が有名)。秀吉やその後の徳川家康も、国内に戦闘慣れした食い詰め牢人がウロウロしていたのでは治安上よろしくないとの考えから、この流れを止めようとはしませんでしたが、国内が安定し出してから鎖国に向かうまでの間にこの流れは止められ、東南アジア各地にあった日本人街も廃れて行き、やがて消滅して行ったのです。
No.3
- 回答日時:
現代的な感覚で言うと「税金」と考えると理解しやすい。
●●家に一万石与えるというのは、奉公として一万石に見合う軍勢を戦争の時に連れてこいということ。
http://www.0105.jp/~mizuki/gunekikitei.html
これは、慶安の段階、つまり戦争が無くなった段階で、それまでの戦国時代のノウハウが固まった段階のものです。
戦国時代の平均的な動員力はNo2さんのご指摘の通り一万石で300名ほど。
戦国時代の上杉謙信、越後の国が40万石に届かない状態。総動員で一万二千、無論、越後をもぬけの殻にするわけにはいかない。なのに、関東攻略では万以上の動員があった。なぜか?農民の出稼ぎがあったから。戦争に勝つと、略奪し放題というのが、当時の常識。なので、越後の農民は喜んで謙信についていったそうだ。んで、勝つと略奪、人さらいです。あんまり勝ちすぎると奴隷相場が下がるという事もあったそうです。
No.4
- 回答日時:
他の方も回答されているように、武士というのは元をたどれば農民です。
これは鎌倉時代から基本的には変わりません。普段は農民をやっていて、暇なときに軍人やるっつうパターンです。ま、いってみれば兼業農家ですね。武田信玄や上杉謙信の軍隊の中心はこういった半農半兵の武士が中心です。こういった人たちは普段は同じ村で生活していますから、合戦が怖いからといって逃げたりすると「あいつはこないだの戦さで逃げやがった」とずーっといわれてしまいます。それに、いつも同じ人たちで戦っているから息も合っています。だから強いんですね。
ただし、やっぱり農家でもありますから、田んぼを放っていくわけにはいきません。だから長期間の作戦が取れません。ただ、お互いがこの半農半兵だと農繁期はお互い忙しいですから、この間は平和っつうわけです。
一方、金で雇われる兵隊もいます。都会をぶらぶらしている若者に「兄ちゃん、ええ体しとんなあ、どうや、織田軍で兵隊やらんか」と声をかけるのです。この軍隊のいいところは、いつでもどこでも、そして長期にわたって作戦が行えることです。だから、敵が半農半兵なら農閑期に攻めていくとか、相手の城を包囲してずーと居座る(向こうは農作業が出来ない)なんていう嫌がらせ作戦が行えます。
欠点は、なんせ金で雇ってるフリーター軍団ですから士気が低い。特に「こりゃヤバそうだ」と思うとみんなすぐ逃げてしまうんですね。初期の織田信長もコレでしばしば痛い目にあっています。
けれどもやっぱり常備軍つうのは便利なので、戦国時代も後期になると、指揮官の武士は軍人を専門にやるようになって、末端の兵隊なんかは金で雇う傭兵にするわけです。つまり、フリーターと正社員に別れるんですね。
関ヶ原合戦の頃になると東軍も西軍も常備のプロフェッショナル軍隊となっており、近隣の農民はお弁当を持って近くの山で合戦見物をしていたそうです。
さて、天下統一されると、フリーターはもう要りません。フリーターだから彼らは解雇され、彼らは次の仕事を求めて浪人となった連中がそこらじゅうにぶらぶらするようになります。戦闘経験のある武器持った連中が失業してそこらじゅうぶらぶらしてるんですから権力者は不安でたまりません。秀吉の朝鮮出兵にはこういった「浪人(失業者)対策」の意味合いもあります。
家康(徳川幕府)はもちょっと違う手段を取りました。まず、大阪の陣で大量の浪人を豊臣側に雇っていただき、それに勝利することでだいぶ「整理」しました。それでも、多くの浪人が不満を持ってウロついていました。彼らは「乱世の世の中再び」と望んでいたのです(そうすりゃ仕事があるから)。
そんな浪人連中が集まったのがあの「島原の乱」です。幕府は、島原で乱が起きるのを知っておきながら放っておいた、あるいは、乱を起こそうと暗に扇動していた、という説があります。食い詰め浪人を「整理」したかったんです。島原の乱鎮圧に幕府軍が苦戦したのも、幕府軍の「正社員」たちはもう戦場の経験のない世代だったのに対し島原の「フリーター」たちは戦場経験のある歴戦のつわものだったせいもあります。
さてさて、問題は「正社員」武士たちです。彼らはいつからか農業からは身を引いたので、「非生産階級」となりました。そして、基本的に解雇はありません。毛利藩は、関ヶ原合戦後領土が半分に減らされましたが、家臣の数は減らしませんでした。ええ、当然おかげで家臣の給料は半分になりました。
上杉藩は、転封(移転)させられる度に領土が減ったので、家臣はその度に減給だったそうです。
さらに、そんな家臣たちにそんなに仕事があるわけではありません。だから、いわゆるワークシェアリングをすることになります。俺はこのふすまの右を開ける役、君は左を開ける役、という感じで、さらにそれでも余るなら、月水金(註・江戸時代に曜日の概念はありません)は貴殿、火木土は拙者、となるわけです。
No.5
- 回答日時:
No2です。
少し書き足りない部分があったので追加します。農兵の供出人数については村側にも交渉権があったと書きましたが、これは農民が基本的に戦を忌避していた訳ではなく、予め負けそうだと予想される戦に村人を出し渋る事がある、と言う事です。その場合、領主の方も劣勢な状況ですので強い態度には出られません。村ごと敵に寝返られたら堪らない訳です。このように戦国時代の農民達は村単位で結束し、かなり逞しく生きていました。
逆に勝てそうな戦の場合、村々は積極的に兵を供出します。No4の方が述べているように敵地での略奪で一財産作れるからです。
No.6
- 回答日時:
当時、一般の民衆の大部分は農民であり、土地に密着していました。
従って、兵農分離が出来る職業と兵農分離が出来ない職業があった。
土地をもった農民兵は、農繁期には自分たちも田畑を守らなければならないので、農繁期は田畑に帰らなければなりません。
よって1年中の戦争はできません。
必然的に兵農分離か可能な雇われ兵は定住地を持たない人々を雇わなければなりません。
当時、土地を持たず、定住地を持たなくても生活を成立させることができる者は数限られていた。
輸送業者、托鉢などを生業とする僧侶、油など特殊な独占事業をもった神社関係です。
(油の専売は八幡神社関係者が独占販売していた。)
信長は熱田神宮に深く関わりを持つ家筋であったため、わたり、山人、坂の者、神社の神人などと呼ばれる農地を持たない特殊な人々を集めるのに極めて優位な立場にあった。
神社の神人は神社に仕える人々で油などの独占商品の販売に携わる人々、わたりは、陸運に携わる人々、山人は鉄鋼や鍛冶、鉱山開発に携わる人々、坂の者は甲冑製造などに携わる人々である。
信長は、坂の者を多く熱田神宮の所領に住まわせ、その棟梁の娘を側室にしていた。(信長公記)
信長軍の遊撃隊はほぼ神道に関わる人々によって構成されていた。
佐治水軍や川並衆などもこの部類の人々に属し、彼らは神社と深いかかわりがあった。
鴨一族の河野水軍が大山祇神社を奉じ、熊野水軍が熊野権現を奉じたように、尾張の物流業者も熱田神宮や津島神社と深いかかわりがあったのです。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
当時の農民というのは現代の3Kに相当する厳しい生活でした。
この境遇から脱出する途は戦争による臨時収入が魅力だったのです。
たのご回答にあるように戦争に勝利すれば略奪がある程度自由ですし、労働力になる捕虜は人身売買で大金がえられます。
兜首などが得られれば、武士に取り立てられるチャンスにもなります。
農民生活から脱出する一番の早道でした。
この様な上昇機運から農民兵は募兵に応じたのです。
さらに農地面積毎に募兵の割り当てがありました。
このように当時の軍隊は自発的な者と強制的なものとの集合体でした。
従って勝利しそうな見通しがある場合は勇敢に戦いますが、退勢となると一挙に崩れることがおおいのです。
敗軍側は落ち武者狩りや残党狩りで命を失う事がおおいのですが勝利者側は武器武具の略奪、捕虜の確保に狂奔するわけです。
戦争が終われば農民兵は故郷に帰り、専業の武士は平時の任務につきます。 敗北側の武士は勝利者側に採用されるか浪人となり次の機会をまちます。
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