
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
西洋では「王権神授説」などという理論を作って君主の神聖化を図りましたが、日本ではそんなことをしなくても天皇の権威が確立していました。
それと同時に天皇の親政は飛鳥時代から(天皇制が確立した時期から)基本的に行なわれなくなりました。親政を行なった最後の天皇は後醍醐天皇だと思いますが、それ以前の天皇の9割は、上皇になってからの治天の君としての院政を含めて、親政を行なわなかったと思われます。即ち、天皇というのは本来が実権を持たない存在でしたので、わざわざ殺す必要もなかったということです。質問者様が例外として挙げた安徳天皇も、平家の海上での滅亡という極めて稀な事態に巻き込まれて死亡(正確には行方不明)となっただけで、「殺された」わけではありません。
天皇在位中に殺された例としては、一番適当なのは崇峻天皇ですね。また、天智天皇の死後に即位したと明治になって認定された弘文天皇は、戦争に負けて自決するという死に方をしました。これは、彼が親政を行なっていて、飾り物ではなかったからです。
あるいは、崇徳天皇や淳仁天皇は、配流後に実質的に殺されたようです。天皇の地位にある間は殺されなかっただけです。
結論としては
「これは広義のシャーマニズムによるタタリを恐れた為でしょうか?」
ではなく
「実権がなく権威だけを持つ存在だから、殺すリスクを犯す必要がなかった」
と考えるべきです。
詳細な事例のご教示有り難うございました。
確かに崇峻天皇の例を見落としていました。
弘文天皇の場合は天皇として殺されたのではなく敗北後の自殺までは勘定に入れていませんでした。 自発的な死亡と他殺とは区別していました。
崇徳天皇の場合は配流後8年を経過しており自然死とみるのが妥当とおもわれます。 殺すならもっと早く処置したとおもうのですが・・。
淳仁天皇は上皇への反乱、配流後脱走を図ったため殺されたとみられます。
万世一系と教わりましたが結構血生臭い歴史の末なのですね。
実権を持たなかったという理由で殺すリスクを犯す必要がなかったというのはやや皮相な結論のように感じますが・・・。
安徳天皇の場合、7歳の年齢で二位の尼に抱かれて入水すれば泳ぎも出来ませんから水死すると見たのですが諸説があるのですか?
No.6
- 回答日時:
基本的に、タタリを恐れたのではないでしょう。
天皇は血統と地位によるカリスマを得ています。
このカリスマは強烈で、どの時代でも、あるていどの教養を得ている人物はなんらかの影響を受けざるをおえません。
そのカリスマを持っている天皇を殺した場合、周りの人物・勢力や世論を敵にしてしまいます。
天皇を殺した事で、周り全てを敵にしてしまったら、割りに合いません。
そのため、幽閉や配流といった形にして実権を取り上げる事で手を打っていました。
外国の場合は、天皇ほどの血統カリスマを得ている王族がいないため、王を殺して、新王家を樹立する事にさほど抵抗がなかったのでしょう。
No.4
- 回答日時:
天皇陛下を殺せば、国民がついてこなくなるからです。
もちろん#1の方の、殺す必要がないというのもあると思います。
祟りは何も天皇陛下だけでなく人を追い落とした人はみんな畏れていたと思います。平安時代は、血生臭い政権争いで貴族は貴族同士争っていましたが、だからこそ余計まじないごとを信じたと思います。
天皇を殺せば国民がついてこなくなるという理由は成立しないとおもうのですが・・・。
天皇の存在がそれほどのものであったのは古代と明治以降で中間期には天皇の存在すら知らない庶民も数多くいました。
彼らは為政者の存在は知っても天皇のなんたるかも知りませんでした。
彼らにとっては税金の取り立て人の一人でしか認識していなかったでしょう。
天皇の意味を理解していたのは公家などの一部の人々だけした。
No.3
- 回答日時:
皇帝:宮女を集めるのじゃ!!!
大臣:ははーー!!!仰せのままに。
天皇:宮女を集めるのじゃ!!
大臣:陛下は気がふれたらしい。放って置きましょう。
とまぁ、こんな感じなのでよほどでない限りスルーされる存在でしたからね。
それと、天皇の直轄はそれほど多くはなく、税収も大臣や豪族が握っていましたからね。
何よりも、天皇直属の軍隊や猛者すら持ってない。
皇帝には禁軍や近衛兵が師団クラスで編成されていたというのに、
天皇にはそんな軍隊も猛者も存在しない。
追放したところで軍隊を率いて逆襲されるわけでもないので放置。
武力を背景にした脅迫が天皇には無いが、豪族にはある。
ここが大きな違いでしょうね。
天皇に屈強な軍隊というプレッシャーが無いから恐れる必要が無い。
結論としてはNo1さんと同感です。
ただ、天智天皇~弘文天皇の時だけは直属軍が存在し、尚且つ重装備だった。
しかも、天皇自らが兵を率い指揮していた。
このときくらいでしょうかね。豪族が天皇を本気で叩こうと思ったのは。
余程でない限り殺す程の理由がないという非力な存在とするのは納得出来かねます。
直属の兵力がなくとも令宣を発して兵力を糾合した例は多数存在します。
後醍醐天皇の場合も一旦は勝利するほどでした。 しかし敗北してとらわれても隠岐に配流されるだけで殺されずにすみ、敵対した足利尊氏は天皇の死後、天竜寺を建立し盛大に回向して天皇の怨念を静める工作を行っています。 これはタタリを恐れる意識があつたと思うのですが・・・。
No.2
- 回答日時:
タタリというものが本格的に政治にまで影響するようになったのは
平安時代の菅原道真からだと言われていますが、その前にちょぼちょぼはあったようで、
例えば奈良時代に藤原4兄弟が相次いで死んだのは不遇の死を得た長屋王の
たたりという見方もあったのではないかとされています。
この長屋王は親王です。
また斉明天皇は暗殺された蘇我入鹿の亡霊を見て気がふれたという記録もあります。
ですのでたたりというのは飛鳥時代から観念としてはあったのでしょう。
この蘇我入鹿の時代にも親王や天皇の親族が暗殺されたりしています。
聖徳太子の子、山代大兄王も殺されたに近い自殺です。
これらの親王たちは、天皇の家来として政治の実権を握ろうとする人たちにとって
邪魔な存在、生かしておくと活躍しそうな人たちだったから殺されたと考えると
つまり天皇になった人というのは政治の実権を握る人たちからは存在自体が
便利な人たちだったといえるのではないでしょうか。つまり殺さなくてもいい人を
天皇にすえているわけだから殺されることが無かったのでしょう。
実際暗殺された崇峻天皇は最初は蘇我馬子にとって妥当な人選だったと思っていたら
自分の地位をおびやかしかねない言動が出てきたので殺したわけですから。
なお崇徳天皇は配流ですが、死後怨霊になることを宣言して死んで実際、
その後の天皇家の不幸はこれに起因するという意識もあったようなので
そういう意味では崇徳天皇以降は天皇の扱いには注意を払ったかもしれませんね。
ご回答有り難うございます。
実権のない存在説は、崇峻天皇の場合、九州に大軍を召集するだけの権力を有していました。
いつの代にも権力闘争はありますから、天皇に限って質問いたしました。
象徴的存在といっても広義ではタタリを起こす存在と思われていたのですね。
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