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プラトンはたしか、人は幸せになるために生きているんだ。と言っていた気がしますが、もう一つ質問があります。

人はなぜ死ぬ前に何かを残そうとするのでしょうか??

名誉であったり、財産、子孫であったりとなんで生きた証を残したいと思うんでしょうか?動物として産まれて、そして生き延びるための本能なんでしょうか???

もし本能だとしたら、なんで本能だといえるんでしょうか?

考えていたら分からなくなりました。どなたか教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

ANo.10さんと同じです。

 ANo.11さんの 「死んでも(肉体を脱しても)自分は存在する」、はごもっともですし、私のそのことを潜在意識の向こう、存在の向こう、ここに来た向こう、宇宙の根源において認識し、実現するべく精進しています。到達の途中とはいえ、ANo.10さんと同じです。何かを残そうと顕在意識でも潜在意識でもありません。「死んでも(肉体を脱しても)自分は存在する」ことを終局に認識・実現は未だ途中です。多くの方もそうでしょうが、いつも何かを残そうとして、呼吸や生命活動などの行為は勿論、手足や感覚での行為、頭脳の行為をしている人、それが出来ている人などはそう多いものとは存じません。「死んでも(肉体を脱しても)自分は存在する」と、意識でかくしんしてなくても、人はどこかで確信しているものと存じます。
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そう思うのはおそらく死んだら終わりだと思っている人でしょう。


 「自分が消えて無くなってしまうから、せめてもの慰めに」、と!

 「死んでも(肉体を脱しても)自分は存在する」、と
思っている人は、地位とか名誉とか財産に執着しないと思いますし、
そういうものを残そうともしないでしょう。
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私は、死ぬ前に何も残そうとは、思いません。

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ANo.8の続き。

実際、浄土到達以前の孫悟空や世の普通の野心家のようには無理かもしれないが、常に何か遺そうなどと考えて呼吸を含めた行為をしている人は、あまり多くないでしょう。人のあり方として、創造主が作った仕方には合わない不自然だからでしょう。薄らぼんやり、その日暮らしでいる人も何か残そうとなど考えていないでしょう。でも、自分の至らない所を何とか改善しようとか、みんなに尽くしていきたいとか、自分のしなければならないことは何かを思い、自分の生きている役目、仕事をしていこうという事は、寝る間も、排泄や呼吸をする間も考えている事ができるし、疲れることはありません。人の当然のありようなのですね。西洋の考えは概してどえらいことをやろうという傾きがありますが、その傾向をそのままでは、今後の人間には後進的といわざるを得ません。、
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悟ったことを謂うようですが、最初の方の通り、人みな何か遺そうなどと考えている人ばかりではありません。

自分の至らない所を何とか改善しようとか、みんなに尽くしていきたいとか、自分のしなければならないことは何かを思い、自分の生きている役目、仕事をしていこうという人も中には居ましょう。そういう人に、金も、地位も、力も、名誉も、業績も、家族がどうのも、勢力がどうのも何も無用でしょう。そういう人も中にはいるというという、自己内での経験をされることをお勧めします。誰それがどうだとかではなく。
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>名誉であったり、財産、子孫であったりとなんで生きた証を残したいと思うんでしょうか?動物として産まれて、そして生き延びるための本能なんでしょうか???



子孫に関しては本能です。子供を残したいとかっこいいことを言うのは本能に理性で意味づけしたに過ぎません。人間は意味を考える知性を備えてしまったため、意味がないことを極端に嫌います。本能的行動は意味がなく人間にとって忌むべき存在です。ですので子孫繁栄の本能に対しても理性的な(人間らしい)意味を付けます。それが愛であったり、生きた証という表現であったりするわけです。

名誉、財産に関しては本能ではありません。上記と同じ理由で自分に対しての意味づけに過ぎません。意味のないことを嫌う生物である人間は自分が生きた意味に異常なまでに執着します。しかし、理性による意味づけを(こじ付けともいえる)するのは逆に言えば意味がないということに実は気づいているということです。だからこそ自分が生きたということに意味を付けたいのです。その欲求は死を身近に感じれば感じるほど強くなります。

ですが最大の問題は、自分自身が自分に意味がないことに潜在的に気づいてしまっているというところです。もし意味を付けたいだけなら、自分で自分に意味を付け(見出して)死ねばいいんです。ですが自分は騙せない。所詮はそんなものは後付けの偽物でしかなく自分自身による自分への意味づけは暗示もしくは言い訳でしかない。だから自分への意味付けを他人に求めます。ですから、名誉や財産など形あるものや他人の記憶に残るものとして何かを残そうと必死になるのです。

人間は賢い生き物です。(語弊はありますが)自分が死ねば何も残らない、死後の世界はない、死ねばすべてが無になることを理解しています。これは宗教に所属されてる方もそうです。むしろ、宗教に入ってる人の方が実は、死ねば何もないということを感じているのかもしれません。だからこその宗教です。宗教とは死への恐怖への処方箋のようなものです。

人間は賢いです。賢いですが弱いです。賢いがゆえに気づくことに、弱いがゆえに耐えられない。人間が人間である以上、宗教は切り離せないのかもしれません。賢くないほうが幸せなのかも知れません(幸せという価値観がすでに賢いがゆえのものであるため、この発言は矛盾しているわけですが・・・。)

ではなぜ、何事にも意味を求めるのか?
それは、理解する知性をもったがゆえ、理解できないということに耐えられないからです。理解できないと不安になります。だから理解できないものは嫌いで恐いです。暗闇を人が恐れる理由もそれです。暗闇にお化け(理解を超えたもの)がいるかもしれないと本能的に感じてしまうのは、暗闇の中は見えない→見えないから理解できない→不安になる→不安な気持ちで暗闇を見る→その結果、何かがいるように感じます。お化けがいるかもしれないと思うのは不安の象徴なんですね。不安が見える形なったものがお化けです。

死後の世界は何もないことを潜在的に気づいているといいましたが、これは理解にまでは至っていないとも言えます。よって死後の世界は理解できない→死ぬということに不安を感じる、というメカニズムもまた同時に働いていると考えられます。

子孫繁栄にもまた理性による意味づけはされていて、本能で子供を残す以外にも形あるものとして、他人に意味を付けてもらうためなどの理由もまた含まれています。

色々矛盾しているとこもありますが、それは両方が同時に成り立っているからです。細かくすべて言ってると長くなるので敢えてこれで終わります。
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団塊の世代です。


わたしは一時死にそうな病気にかかり死ぬことを予測し、なにかを残そうとしました。子孫がいないので本を書こうと思っていろいろ小説を書きましたが、落選しました。
自費出版も考えてみましたが、自費出版をしても縁故者に配るだけですからあまり意味がない。つまり残すものはなにもなく、人生を生きている間謳歌すれば良いと考えるようになりました。そう考えるようになったら体調がよくなり、テニスができるようになり、この調子で死ぬまで楽しく生きようと思った次第です。(笑)
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前半と後半の問題は別のもののように思いますが、前半については人間の過度に発達した脳は自分がいつかは消えてしまうことが納得できないからだろうと思います。

後半については動物は自分が死ぬことを予期して悩むことはないと思います。むしろ本能とはこのような悩みを持たない状態のことではないかと思います。
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生きてる間は常に自己表現してますが死んでしまうと一切なにもできないので最後になにかしておきたいと思うのではないですか?


実際明日、あなたが死ぬとしたら何かいつもと違う行動をとると思いますがどうですか?
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子孫を残すのは生物共通である種の存続の本能、名誉や財産などは死んでから残そうと欲するというか、どっちかというと生前に求める人間本来の名誉欲や金欲つまり欲望といえるのではないでしょうか。


逆に考えると自分が生き続けるためには名誉や財産を投げ出す人は多いと思いますが、我が子を投げ出す人はほとんどいないと思います。
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