東急青葉台駅の近くのパルテというビル付近が江戸時代の刑場跡だと聞きました。
本当でしょうか。その付近で仕事をする予定ですが、霊に弱いので心配です。

A 回答 (2件)

あったらしいですね。


オカルト好きの間では、知っている人も多いようです。
裏手の丘、通称「仏山」に関しては、郷土史にものっているそうですが、
伝聞ですので、ちょっと定かではないです。
行ったことありますが、私は何も感じませんでした。
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詳しいことは忘れてしまいましたが


東急デパートの外壁部分に青葉台の歴史について書いてあったような気がします。
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Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の「江戸」以外

最近では江戸時代について書かれた本が多数出ていますが、
大多数が「文化が熟した頃の江戸」の話で、他所の話はあまり書かれていません。
そして内容も「江戸礼賛」のようなかんじのものがほとんどです。
もちろんそれはそれで構わないのですが。
例えばイザベラバードの旅行記には、明治に入ってもなお東京を離れたら、
不潔、不衛生のオンパレードのような様子が醒めた視点で書かれています。
江戸時代の地方に関して、できれば江戸と対比するようなかんじで、
詳しく解説された本がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

Q江戸時代以前の江戸

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

Aベストアンサー

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。

 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む

Q江戸時代の江戸での墓は両墓制でしたか?

江戸の長屋はずいぶん狭かったようで、
それだけ土地が足りなかったのだと思います。
江戸では、両墓制だったのでしょうか?
「捨墓」と「参り墓」があったのでしょうか。
又、火葬はしてましたか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

両墓制かどうかは知りません。

荒川区の荒川ふるさと文化館に参考となる展示があります。
江戸では火葬と土葬の両方があったようです。
安政年間のコレラ(ころり)流行のとき、火葬場に次々と運ばれてきて、焼き待ちの棺おけが並んでいる絵が展示されていました。
火葬場と各寺院が経営している火葬寺と呼ばれていました。コレラ菌を殺すために火葬したとのことです。
現代と同じく大都市江戸も墓不足でした。土葬は場所もとるし、墓穴を掘るのも大変なので、火葬も増えてきたようです。

参考URL:http://www.city.arakawa.tokyo.jp/a002/d05200001.html


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