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私はクリスチャンです。

神とイエスの関係が理解
できていません。

イエスが神なのか、神の一人がイエスなのか??
聖霊と神は同じなのか??

イエスが神なら旧約聖書では誰が神だったの
でしょうか?

クリスチャンの一員であるかぎりそこのところ
は自分のなかで知識として知っておきたいです。

信じるのは神ですのでどの宗教でも否定はしません。
あとは信じ方の問題であると思っています。

A 回答 (23件中11~20件)

すでに、優れた回答が提示されていますので、三位一体説とはちょっと違った視点から。



まず、学術的には二つの論争があると思ってください。

1・史実のイエス論

これは、「歴史学的観点」からイエスやその信者・使徒・聖人を捉えよう、研究しようという立場です。
残された史料から、「イエスは本当にいたのか・イエスという人物が実在したとすれば何を言ったのか・どんな人生を歩んだのか」を、あくまでも「歴史科学」的観点から捉えようとする事です。
人間イエスを知ることにより、キリスト教の本質を解明しよう(奇跡はあるのか・人は何故キリスト教を信じてきたのかetc,,,)とする立場だと考えてください。
たまに、「史実のイエスはいない=イエスが実在しないのだからキリスト教自体を否定」という論理に持って行こうとする人が居ますが、それは一面的しかみていない論理です。
「史実のイエスは証明できない」としても、「人がイエスを信じてきた事」は揺るがないわけです。
そして、もしイエスが証明できなかったとしても「人がイエスを信じてきた理由」を解き明かすことは、宗教の本質に迫ることでもあるのです。
この立場は、神学と近現代歴史学が結びつくことによって生まれていった、ごく最近の研究部門です。


2・宗教としてのイエス

これは、「イエスはすでに存在している」という事から出発します。
イエスそのものの存在を疑う事は、まずしません。
その上で、「イエスの言葉」「イエスの行動」「イエスと神の関係」「イエスと人間の関係」「神と人間の関係」etc,,,を考えようとします。
そのなかで、「三位一体説」や「単性説」などが争われました。
そして、これらの意見の相違から、カトリック・プロテスタント・正教会etcと、宗派が分かれていきました。
この論争自体は、キリスト教が一つの宗教として成立する過程で争われてきており、今なお続いていると言えます。

これら二つは、お互いに補完関係にあると言えます。
史実のイエスを理解しようとすることで、より信仰を深められた方もいらっしゃいます。
逆に、神学論争に飽き、棄教者(=信仰を捨てる)人もいます。

こういった論争は、なにもキリスト教だけでなく仏教やイスラム教にもある事です。
いずれの宗教にせよ、宗教指導者と信者という立場では、あまり話されない事かもしれません。
むしろ、A宗派とB宗派との論争という場合が多いかもしれません。

無用な争いを生むというのもどうかと思いますが、ringomsさん自信が神やイエスを理解したいと望むのであれば、牧師さんや他の信者さんの意見を求めるのも良いかもしれませんね。
さらに、色んな宗派の意見や神学者・歴史家・宗教学者の意見を聞くのも良いかもしれません。

取り合えず、遠藤周作の『イエスの生涯』と『キリストの誕生』をお薦めしておきます。
彼は、カトリック信者の作家なのですが、彼が一信者として史実イエス及びキリスト教とは何か?という疑問に迫った名著です。
元が小説家なので、文章も結構平易であり読みやすいです。

『イエスの生涯 』(新潮文庫) (文庫)
遠藤 周作 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82 …

『キリストの誕生』 (新潮文庫) (文庫)
遠藤 周作 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82 …

この回答への補足

ありがとうございます。

参考に読んでみたいです。

補足日時:2007/09/28 03:12
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>すべてのことが三位一体。



それと同じ言葉が<梵我一如>じゃないかなと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91% …


>しかし、これほど多くの神話があると
>真実はどれになるのかがわからなくなりますね。

確かに。
イエスが本当に言った言葉がどれなのか。
イエスは実在の人物だったのか。
聖書の通りの人生を歩んだのか。
実のところ誰も知らないんです。

新約聖書の内容の多くは旧約聖書の言葉を借用している。
有名な「父よ 何故私を捨てたのですか」も旧約聖書に書いてある言葉。

イエスが言ったとされた言葉は、イエス独自の言葉ではなく、旧約聖書やラビ文学に既に書かれていた言葉ばかり。

何も新しいものは無い。

食物の規定はユダヤ教とキリスト教では違いがありますが、あれはイエスが決めたことじゃない。
信者の一人が決めて、それに他の信者が賛同したからそうなったわけで。

神が食物に関する規定をしたと旧約ではなっており、新約でも神からのお告げだと、預言として書かれていますが、、、、、、


福音書は4つだけではなく、何百と本当はあったらしいです。
今でもキリスト教はいろいろ宗派がありますが、2千年ほど前は今と比べ物にならないくらい、もっと多くの宗派があったそうです。

それを一つだけにしようとして、新約聖書が作られたのだそうです。
その新約聖書を作るにあたって、どれを取り入れどれを捨てるか決めたのは、エイレナイオスら。
彼らが支持する派閥が主張する話のみを真実としたくて、新約聖書は作られたのだそうです。

彼らはギリシャ系だったようで、ヘレニズム文化で育っている。
そこには三位一体の女神の概念が残っていた。
キリスト教は女性を悪魔として嫌っていたので、摩り替えて女神の概念を男神の概念として取り込んでいったと思えます。

女神の三位一体の概念は、「私はある」つまり 過去にありて 現在にありて 未来にありしもの、なので、ユダヤ教の「私はある YHWH」と同じなわけです。

こういったことを考えると、人の思想・信仰の移り変わりが見えてくるが、基本的な考えはどれほど年月が変わっても、トップが変わっても、普遍なのだなぁ・・と思います。

この回答への補足

信仰を持ってまだわずかですが、教会でこのような話を
したことはないです。

もちろん、信者なのでしないのでしょうが
信者の皆さん牧師さんなどはこれをどのように
思っているのでしょうか。
こんなこともちろん聞けるわけがないんですが
・・・。

聖書を書いている人、聖書の中でイエスと共にした人は
だれなんでしょうか??
小さなことまでもその方はイエス
のことを観ていたのでしょうね。

補足日時:2007/09/27 22:42
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>信じるのは神ですのでどの宗教でも否定はしません。


>あとは信じ方の問題であると思っています。

貴方が勝手に自分の信じている宗教側から
信じるのは神ですのでどの宗教でも否定しません
とその違いも判らない人から偉そうに言われたってね。

フィルターがかかっていると何も見えなくなるんだね。
あとは信じ方の問題で
じゃないんだよね。

改心により
もしくはその理解の深度により回心といえばいいのか
人一人が救われていくのも
ある宗教団体が救われていくのも過程は同じかも知れない。

この回答への補足

信仰の自由ですよ
フィルターがかかっているの
かもしれないですね。

過程は同じかもしれないですね。

補足日時:2007/09/27 22:47
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No.8です。

できるだけ、わかりやすく質問にお答えします。

最初に質問をまとめますが、質問は二つだと思います。
1)父なる神とキリストが一体であるなら、どうしてキリストが十字架の上で、神に見捨てられたと思ったのか。
2)キリストが神ならどうして罰を受けるのか。

最初に、2つ目からお答えします。
キリスト教では、人間は皆「罪人(つみびと)」であると、考えます。この罪人というのは、犯罪者という意味ではなく、神さまの考えから遠い存在だという意味です。
人類が救われるためには、その罪人の状態を解除されなければなりません。

ユダヤ教(旧約聖書)では、その状態が解除されるために、神様の教えを厳格に守らなければならないと、考えます(その教えが十戒に代表される律法です)。
一方、キリスト教では、その教えを厳格に守り通すことは、不可能であると、考えます。
では、どうすれば罪人の状態が解除されるのか。しかも、人間の努力では、不可能であるとしたら…

その状態を解除する(罪が赦される、罪があがなわれる)には、神の側からの働きかけが、どうしても必要です。そして、その働きかけが、人類の罪の代償として、神自身がいけにえとなることでした。それがキリストの十字架の死だったのです。
キリストの十字架の死は、キリストへの罰ではなく、人類への罰を身代わりになって受けてくれたということなのです。

神が、全知全能ならばそんなまどろっこしいことをする必要がどうしてあるのかと、考えられるでしょう。そこで最初の質問に移ります。

問題は、イエスが「神の子」であると、自覚していたかどうかです。これは、新約聖書神学における難しい問題提起の一つです。偉い神学者の中にも、自覚していたと考える人もいれば、自覚していなかったと考える人もいます。

もし、自覚していなかったとしたら、十字架のイエスが神に見捨てられたと考えることは、自然です。そして、甘んじて自分の生命を犠牲にして死んだので(しかも神自身が死んだ)、その代償として人類が赦されたのです。「あがなう」「あがない」という言葉が使われる理由です。同時に、神様がまどろっこしいことをした理由にもなります。

イエスが、もし神の子だと自覚していたとしたら、十字架の上で神に見捨てられたと考えたのは、確かに不自然です。聖書の、その箇所だけを見れば、自覚していなかったと考えるべきでしょう。ただ、それでは、イエスが自分を救い主と考えていたかどうか、神学的な命題になるはずがありません。

難しくというか、細かくなるので詳述はしませんが、詳しく知りたければ、「補則」にどうぞ。ただ、回答が長くなりますので、細かい質問にしていただければ、ありがたく思います。

この回答への補足

聖書を読むと自覚まではいかないにしろ
使途たちよりも不思議なことをいろいろやって
いますよね。
それに使徒たちもイエスに「あなたはなぜそのような
ことがおできになるの??」とありますよね。

僕は聖書を物語的に読んでいましたが
事実を書いているとしたら不思議ですね。

信仰がある私としてはっきりさせたいところです。

補足日時:2007/09/27 17:22
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Aの家族に母と父と子供がいます。


Aさ~ん家族は誰でしょうか?
父も母も子供も含みますよね?
家族を分解して考えるなら母父子供三人で一つの家族になります


ユダヤ教はAさんといえば主人だけをあらわし
キリスト教はAさん家族をあらわす。
主イエスを見たものは、父なる神を見たのである。
天に神が座り その右の座にイエスがおり イエスが地上から天に上がった後 聖霊を私たちに送ったと聖書に書かれています

三浦綾子さんの旧約聖書を読んでください

この回答への補足

三浦綾子ってしってます。
読んでみます。

補足日時:2007/09/26 23:32
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三位一体に関する質問ですね。


誤った理解も含まれていますが、おおむねこれまでの回答で、答えは出ていると思います。
ただ、かなり難しい情報も含まれているので、わかりやすい喩えで説明します。
三位一体のそれぞれを位格といいます。もともとはペルソナというギリシャ語でパーソナリティなどの英語の語源となるものです。ペルソナの本来の意味は、役者が舞台でかぶる仮面のことです。

さて、わたしは一人の男性ですが、結婚していますし、また子供もいます。つまり、妻に接するときは夫であり、子供と接するときは父親です。けれど夫であるときも、父親であるときも、「わたし」という一人の人間は、「わたし」であることに変わりありません。
わたしの長男は、わたしの前では子供であり、次男に接するときは兄であり、中学校の先生の前では生徒です。けれど、一人の人間であることに変わりはありません。

要するに、正統的なキリスト教では、神・キリスト・聖霊は本質的には同じもので、働きや見え方が違うだけだということなのです。
基本的な理解はこれで十分だと思います。

どの程度深く知りたいかわからないので、一番簡単な答えをさせていただきました。それぞれの位格の違いや関係など、もっと詳しく知りたければ、「補則」で聞いてください。
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この回答へのお礼

例をもちいてくださって大変ありがとうございます。

神もイエスも聖霊も簡単にいうと
一人ということですよね。

もうひとつよろしいですか?
これがひとつであるならイエスはなぜ十字架に
つけられる時に「神よ、なぜ見捨てる?」??
といったのでしょうか?

もし、イエスが神ならその場で神の力を
施し罰を受けることはなかったのでは
ないでしょうか?

私は何も神も聖書も疑っているわけではないです
真実を理解したいのです。

お礼日時:2007/09/26 23:38

《神とイエスと聖霊》については 経験思考によって分かるか分からないかが分からない領域(もしくは非領域)を扱っていますから――つまりはドグマを容れた信仰の問題ですから―― おとぎ話としての説明になります。

 

長いおとぎ話になります。
(すでに回答したものですが:《キリスト教徒にとっての聖霊》ANo.2http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3203077.html)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。

父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。聖霊と呼ばれる。

子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。

この父と子と聖霊の三つの位格(ペルソナ)のしかも一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられる。三位一体とは 位格の各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在である。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛である。

人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。

神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその一定の記憶内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。それゆえ この人間の 記憶と知解と意志の一体性(ただし 時間的な間隔あり)は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。

人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。

人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)をかたちづくり 一つの本質(存在) 一つの生命である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なおほかにも過去に回答した内容で該当するものがありますので 横着なかたちになりますが 挙げておきます。

・《なぜ神はイエスをこの世に送ったのか》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html
――ANo.4(神の存在・ちから・はたらきは 人びとはすでに気づいていた)
――ANo.17(人類の歴史から犠牲をなくすことができる)
――ANo.19(人間として死を死んだ〔聖霊の宿ること〕しかも神が肉となった人間としてであった〔神は人間の精神ではない〕)

・《神が創造した人間は神を裏切った》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2912541.html
――ANo.13(絶対の問題〔何を絶対として表現するか〕および善悪の問題〔悪は存在しない〕)

・《聖書についてあなたの解釈を教えてください》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1482950.html
――ANo.4(エレミヤ書31:31以降〔もはや《主を知れ》と言って教えることはない〕)
――ANo.23(旧約と新約を結ぶ道)

横着な回答の仕方になりますが おゆるしください。
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[イエスが神なのか、神の一人がイエスなのか??


聖霊と神は同じなのか??]
キリスト教系(ユダヤ教系を含む)には霊界構造の教えがないのですね。キリスト教系にも霊界を研究する神秘主義系もあったのですがみんな異端審問にかけられ火あぶりにされてしまいましたからいまやなにがなにやらわからないんですね。そこで仏教系からどのような関係かを回答しておきましょう。信じるかどうかは質問者さん次第ですけどね。
この地球はM-10の星なんですね。M-10というのはメッサイア(救世主)が10人いる星ということですね。霊界の最高峰を救世主界といいます。その世界に10人の救世主がおりその一人がイエス様ということは間違いないですね。だから神様の一人です。ではイエス様がなぜわが父といったかというと10人の救世主のなかの1番ではないからですね。そこには一番古い大霊がいるということですね。旧約聖書にはエルの神とかエロヒムという名で出てきますね。このお方が一番古い大霊ですね(仏教では盧舎那仏といいますね)。10人のなかにはたたり神風の通称エホバという神もいます。ちょっと個性が強い大神様ですね。つまり救世主界から降臨されるお方には救世主界から指導があるということですね。指導霊は何人かいらっしゃるのでGODでなくGODSでしょうね。聖霊とは何かですが。この救世主界を頂点としてピラミッド構造が霊界構造ですね。救世主界の下を仏教では如来界、その下を菩薩界と分類してますが、キリスト教的にいえば大天使界、その下を天使界とでもいうのでしょう。イエス様に従う大天使は有名なミカエルですね。大天使界には500名ほどいます、旧約聖書の預言者は殆どこのなかのひとですね。天使界にはもっとたくさんのお方がいますが、この霊を総称したのが「聖霊」ですね。イエス様が十字架にかかったとき、イエス様が迎えを頼んだのは大天使界の方々、エリア、ラファエエルだったですね。
旧約聖書に登場するモーゼも救世主界の大霊ですから、モーゼを神とするユダヤ教にも正当性があることは事実ですね。ただユダヤ教徒が期待したモーゼのような救世主とはまったく異なる救世主イエスが降臨したところに不幸があったということでしょう。これも計画なんでしょうがね。
簡単な説明まで、

この回答への補足

私の中では真実がつながります。

イエスが天の父よ??天の神よ??と
およびになったのは霊界にいらっしゃる神をお呼び
になったんですね。

深いです。とにかくおくが深いです。

補足日時:2007/09/26 23:43
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まず遡ると、ユダヤ教の神はどこからきたのか、、、ですが、一つの説に



http://delightchannel.tea-nifty.com/delightchann …

があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86% …

太陽みたいな概念。
(女神アテナには太陽みたいな概念はなかったと思うのですが、ひょっとしたら影響を受けているのかもしれません。)


モーセのエピソードとして語られる中に、隠されているのではないかと。
負けた側がエジプトから持ち出しパレスチナに移住し信仰を続けたのではないかと。


絶対的な唯一神でアテンのみを拝んでいたので、ユダヤ教は唯一神信仰になったわけです。

ユダヤ教は排他的といわれますが、彼らから宗教を取り上げるような行為さえしなければ、穏やかな宗教。

取り上げようとしたため、ユダヤ戦争が起こってしまい、死を覚悟で信仰を守り抜こうとして、大惨事になったようです。

イスラム原理主義の人が、信仰を守るために自爆もいとわないように、信仰を守るために、ローマに立ち向かったのがユダヤ戦争。

ローマはエルサレム神殿にユピテルの像を置こうとしたんだったと思います。
それでユダヤ教徒はブチきれた。
(ちなみにローマは神をデウスと呼び、キリスト教も神をデウスという)

ユダヤ教のたびたちヘレニズム文化の影響を受けていったので、思想が分裂していき、ヘレニズム的ユダヤ教派閥も必然的にできるようになったのではないかと思います。

キリスト教が成立した地域はヘレニズム文化が盛んなパレスチナの地域だったということも忘れてはならない。


ローマ時代以前のラティアムでは、三相一体の女神は、ヨーニと同語源のウニ(一なるもの)という集合的名称の元に、カピトリヌス神殿に奉られていた三神女神として崇拝されていた。
この女神の3つのペルソナは処女ユーウェンタス、母親ユノ、賢い老婆メナルウァまたはミネルウァだった。
ローマ帝国治下では、ユーウェンタスは追放され、男神であるユピテルが代わりに入った。

現代の学者のなかには、この後期の、2柱の女神と1神の男神からなるカピトリヌス神殿の三柱神を「三柱の男神」と呼ぶものもいる。

キュモンによれば、「東洋の神学者達は、世界は三相一体を形作り、一体にして三相、三相にして一体となり、という概念を生み出した」という。

創造者、維持者、破壊者という三相一体を確立したのはほかならぬこの太母神の概念。
例えばバラモンはこれら3つの機能を果たすブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという男神の三相一体神を考え出したとしても、タントラ経典は、三相の女神こそがまず最初にこれら三神を創造したと主張している。

ヘレニズムもインド方面の宗教の影響を受け、三相一体という概念を信仰に取り入れていたのだと思います。

そしてパレスチナでもヘレニズムに入っていたその概念の影響を受け、唯一神に3相のペルソナをつけていったと思えます。

では三位一体とはなにか。
日本の政府は三位一体を掲げ、3つがそれぞれ機能して日本(一体)を作り上げているとしている。
独立しているが、日本という社会を支える柱となっている。
この柱により日本という国が建っているってわけです。

ギリシャの神殿にも3女神だったか4女神だったか忘れましたが、柱となり何かを支えている像があったと思います。

日本の鳥居も昔は3柱だった。

華道も裏千家は3柱が基本。
一度華道の先生に何故3なのかと聞いたところ、この世を構成する最低限の数字が3だからと教えていただきました。

確かにこの世は三次元。

何故1にして3、3にして1なのかですが、この世がそうだから、、、というのが一番納得がいく気がします。

で、キリスト教ではこの世の概念の構成をアウグスティヌスが「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えた。
三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一である。

日本という共同体は1つです。
でも、地方はそれぞれ独立して営んでいる。
独立していても日本を構成していることに変わりは無い。


イエスは神の子ともされているので、神(父)、イエス(子)、聖霊 これがキリスト教の三位一体じゃなかったでしょうか。

キリスト教が一。
それを構成しているのが神、イエス、聖霊。
それぞれ独立しているが、キリスト教という集合体1である。

と私は理解していますが、違ったらすいません。

この回答への補足

ありがとうございます。
三位一体がどのようなことかわかりました。

これこそ真理ですね。
すべてのことが三位一体。

しかし、これほど多くの神話があると
真実はどれになるのかがわからなくなりますね。

補足日時:2007/09/27 17:30
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イエスが何者であるかは、クリスチャンの教派により見解が異なります。



ネストリウス派教会、(アッシリア教会)においては、「イエスは単なる人間にすぎない」という見解に立っています。
当然イエスの復活も有りません。
奇跡を起こした事もありません。
ただ、神の啓示を人々に伝えたのみです。

単性派教会、(コプト教、エチオピア教会、ヤコブ派教会、シリア正統教会、アルメニア教会)におきましては、「イエスの人間性は神性に吸収され神そのものになっていた」という見解に立っています。
イエスの姿は、神が人間に見せた幻であり、十字架にかけられたのも幻にすぎないししています。

単意志派教会、(旧マロン派)においては、「キリストは、神に限りなく近い人間であり、精神は神そのものである」と考えます。

グノーシス派においては、キリストは上位神(大宇宙の大いなる意志ソフィア)の子であり、下位神(エホバ)を補完する、または対立する(派により異なる)存在であると考えます。

カルケドン派のカトリック、プロテスタントでは、「キリストは、神と人間の中間的存在であり、精霊(天使)の役割を負っている」としています。(三位一体)
カルケドン派でもギリシャ正教やロシア正教、ルーマニア正教などでは、キリストの神性を2/3、人間性を1/3としています。
これは、精霊(天使)が、カトリックなどでは、人間と神の両方から創られたとするのに対し、正教会では、もっぱら神の側から創られたとするためです。
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