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日本人の勤勉さが生んだもののように語られることが多いようですが、私は諸所の事情から背中を押されたものだったような気がするのです。つまり、植民地の消失、人口増加、敗戦民主化、農地改革、都市人口増加などの諸事情政策の結果、工業化産業化して生きるしかない、なんとか狭い国土に多大な人口を養っていかざるを得ない、大いに働け働けしかほとんど生きる道がない、という構造なんじゃないでしょうか?

A 回答 (2件)

高度経済成長の時代は戦後の昭和30年から48年の石油ショックの時まででしょう、この時代のエネルギーは石炭から石油に産業界は転換が


石炭業界の反対を押し切って国内の石炭産業を犠牲にして、三池争議や炭労の抵抗に反しても石炭産業を切り捨てて今の夕張市を作ってきましたが、しかし全国の農家を味方にするため毎年米価を経済成長の比率で上げてきたのが現在の米価です。従って世界の米価の10倍の価格になっています。大きな労働争議も無く10倍以上の経済成長するにはそれを支える政権が無ければ持続できないものです。その政権を支えてきたのは農家の自民党支持です。そのため毎年米価は上がりつずけてきたわけですが、しかしその米を購入する都市労働者は毎年給料が上がっているので米価アップ反対運動は起らず農民の要求は満たされて来たことは
政権を維持するには必要なことであった。一方の石炭産業は如何していたかと言えば会社側は政府の方針に正面から反対も言えず労働運動を傍観するしかなく、労働組合は敵対勢力の社会党支持であるからどのような要求も受け入れなくともよいので、どんどん政策追行が出来た。もともと農業国の日本が工業国になり経済成長するには人口の半分以上の農民を豊かにする方策が米価であることを忘れてはならない。現在米価は
世界標準と比べると10倍近い価格であることは国民は知っているが安全な食物なら米に限らず野菜も肉も外国のものより国内の物の方がよいとの認識ができつつあり、これから成熟した農家が育成された時が高度経済成長国家の完成といえるでしょう。
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この回答へのお礼

農家からの視点ですか。たいへん重要な点に気づかせていただきました。第一次産業の強大だった時期の考察は必要でした。

お礼日時:2007/10/14 09:08

いろいろな事情があったとおいますが、「大いに働け働けしかほとんど生きる道がない」などという状態は1950年代初期に抜け出してますから、少し時代が違っています。



高度成長の時期は大体、昭和30年代~40年代の20年間(1955年-1975年)です。

1950年代の初期に朝鮮戦争特需で日本の経済は回復し、戦後の混乱から回復します。
その後、自律的な回復からさらなる成長を遂げ、そこに折よくベトナム戦争の特需が発生しますから、その特需によって得た外貨によりさらなる成長を果たすことができた。
というのが高度成長の概観です。

ベトナム戦争が大きいんですよね。逆にこの戦争で資産を大量に流失させたアメリカはニクソンショックを引き起こしてしまいます。
そのあおりを食らう形で日本も高度成長の終息を見るわけです。

なお、「植民地の消失」はそももそ海外植民地は戦前の日本経済を考えても持ち出し分が多く大きな経済基礎とはなっていませんし、むしろ植民地への持ち出しがなくなり、植民地から優良な人的資源が内地に来たことは高度成長のおおきな要因の一つですし、「人口増加」は生産力アップの原動力ですし、「敗戦民主化」と「農地改革」による財閥解体と農地解放が良くも悪くも高度経済成長の外形を形作ったもので、これらの政策なしに高度成長はあり得なかったでしょうし、「都市人口増加」は高度成長の原因というよりはむしろ、結果の部分が多いですし、ということで質問者が挙げた「諸事情政策の結果、工業化産業化して生きるしかない、なんとか狭い国土に多大な人口を養っていかざるを得ない、大いに働け働けしかほとんど生きる道がない」という理解は現実とは180度違うものであると申し上げます。

質問者のおっしゃる「植民地の消失、人口増加、敗戦民主化、農地改革」といった「諸事情政策の結果」、高度な「工業化産業化」に成功し、また「狭い国土に多大な人口」が存在したことが経済成長を短期間で成功させ、「働け働けしかほとんど生きる道がない」なんてことにならなくて済んだというのが高度成長ですよ。
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この回答へのお礼

朝鮮特需、ベトナム特需が大きいのですね。その外国の悲劇に乗って成長していったという真実があります。うまく時期に乗った、ということなんでしょうね。

お礼日時:2007/10/14 09:10

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