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 自分も詳しくは覚えてないんですが、家康と秀忠とのシーンで家康が「徳川、幕府の天敵になりゆる大名はおるか?」と聞いたら、秀忠は「福島正則、吉川広家、黒田如水、加藤清正・・ 北は伊達政宗、上杉景勝」
 そして家康が「身内はどうじゃ?」と問い、秀忠は「・・・・・」と沈黙し、家康が「秀康はどうじゃ?太閤殿下の養子故、淀殿にそそのかされて謀反になるとは?」

 仮にこの話が現実に起きた場合、西軍→東軍に寝返った諸侯達が揺らいで波乱が起きたでしょうか?それとも婚儀等で諸侯と縁を結んでいる為に、そういう波乱は起きなかったと思いますか?

A 回答 (5件)

関が原ですけど、戦力的には西軍が勝って当然で、負けたのは事前の根回しの差だったと思います。


つまり、家康は勝てるような体制を整えて上杉攻めの軍を挙げ、大丈夫と考えて反転させて関ヶ原に向かったのですから、秀康に関しても何らかの手は打ったからこそ裏切らなかったのではないかな。
もし秀康が裏切ったら、恐らく江戸で暗殺されていたのではないかと思います。
確かに秀忠の軍勢が来ないうちに戦ったのはアクシデントですけど、案外想定内だった可能性はありますよ。

戦国大名はリアリストですから、情で動くよりも利害関係を優先させるので、縁戚は見せ掛けだです。
家康も長男信康を殺し、秀康を人質に出し、忠輝を幽閉し、親子の情など水ほどにしか感じてないようにも思えます。

他の大名も同じことで、真田もどちらかが生き残れば家名が残ると、兄弟親子は敵味方になり、他の大名も一族を分けて保険をかけるものも少なくなく、大勢に影響はなかったような気がします。
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幕府の天敵 黒田如水


とあるからには、1603年の将軍任官から如水死亡の1604年の間の発言と見ます。

この段階ですと
福島正則、吉川広家、黒田如水、加藤清正・・ 北は伊達政宗、上杉景勝 そして秀康
全員、領地が変わったばかりで、領地の仕置きで大変だったんじゃないかな。西日本のいわゆる豊臣恩顧系だと、領地が二倍、三倍されて、家臣も二倍 三倍。実際の戦闘する 揃 の単位を指揮する指揮官不足じゃないのかな。当時の戦争は現代の戦争のように統合されたものではなく、揃の指揮官の戦闘能力の総和みたいなものだったからまだ練度がたりないかも。
伊達は一揆をそそのかして、裏切った場所に移動になったばかりだから、地盤がガタガタ。
秀康の配下も実態は徳川本家からの出向組だから、トップの個人レベルの判断では本家、特に家康には逆らえないような気がします。

婚儀の拘束力よりも、戦国武将達のリアリズムが強いかと。
あと、婚儀でどんな人が付いていったんでしょうかね?不明です。
宇喜多家には、前田家から豪姫が入っています。関ヶ原の直前に、豪姫と一緒に宇喜多家に入った人物が実権を握り、それまでの宇喜多家の家臣と内紛を起こしていますよね。そのくらいのレベルの人間が婚儀で相手方の家に入っていると、反抗もしづらいだろうな。
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現実の歴史を見てください。


関ヶ原の合戦以降、家康に反抗した大名以上の武士は一人もおりません。強いて言えば、淀殿という「女」がたった一人家康に反抗し、潰されました(大阪の陣に際して豊臣秀頼が主体的に意思決定したという記録はありません。全て淀殿が決裁していたようです)

さらに言えば、秀吉の死後も、家康が上杉討伐に出かけて上方を留守にするまで、家康に逆らうことが出来た者はいませんでした。家康の天下への睨みは、関ヶ原の合戦以前に既にそのくらい強かったのです。

石田三成が決起した時、家康は「石田と大谷が決起したようだ」と、ごく小規模な事態を想定していたそうです。石田・大谷・宇喜多が固く結ばれ、毛利輝元とその5万の軍勢を担ぎ出し、西日本の大名のほとんどが西軍となる事態は「想定外」だったようです。家康にとっての「想定外」はこれくらいでしょう。

そもそも、家康は家督を継いだときは西三河の小大名に過ぎず、石高で表現すれば10万石くらいです。その身から、天下人信長の同盟者となり、その地位をずっと守って信長の生前には三河・遠江・駿河の3国を領し(今川義元の最大版図と概ね同じ)、信長の死後には三河・遠江・駿河・甲斐と南信濃の兵をもって、尾張と北伊勢を領する織田信雄と共に豊臣秀吉を迎え撃ち、一歩も引けを取らず、結局は秀吉を撤兵させました。長久手の局地戦では、秀吉軍別働隊を殲滅しています。

1600年以降、家康のキャリアは他の大名とは隔絶したものです。誰も謀反など考えられなかったのも無理ありません。

「秀康が淀殿について謀反を起こす」
家臣が誰もついて来ず、謀反は不発に終わり、家康が何もしなくても秀康の身柄が江戸か駿府に送られてくるでしょう。
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秀康は1607年に梅毒が原因で没していますが生前、幕府が大阪に攻め入る事があれば秀頼を守る為大阪城に入ると言ったとされ秀忠より武勇の優れている秀康が大阪方につく様な事があれば家康の心境は複雑なものがあったと思われます。

ただ豊臣恩顧の大名と秀康とは関係が薄く弟に将軍職を奪われた惨めな兄秀康の動向に左右されることはなかったと思われます。その秀康は大阪の陣の7年前に没しています。
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 「葵 徳川三代」はほとんど見ませんでしたので、該当の場面は分からないですので、文面のみで回答します。



 ウィキペディアによると、文面にある武将の内最初に亡くなった黒田如水の没年は1604(慶長9)年だったようです。幕府の名前があることは徳川家康が征夷大将軍になった1603年以降でしょうから、会話があったのは、その間の1年位の間だったことになります。

 その1年位の間に限定すれば、仮に結城秀康が謀反したとしても(それ自体が波乱ではありますが)、それ以上は何も起こらなかったと思います。徳川家康は豊臣秀吉自身が豊臣秀頼成人までの間、政務を託した大老ですから、名分上は豊臣家への謀反にもなります。また関が原の戦いの結果、徳川家の政治力が大きくなっていた時期ですから、諸大名は反抗も困難であったでしょう。

 ちなみに「西軍→東軍に寝返った諸侯達」を字句どおりに解すると小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱を指すと思いますが、小川・赤座は関ヶ原戦後改易、小早川秀秋は1602年に死去し小早川家は断絶しています。脇坂・朽木は小大名ですので、仮に同調しても波乱要素にもならなかったでしょう。
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