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「特攻-還らざる若者たちの鎮魂歌」(神坂次郎著)を読んで思ったのですが、
特攻は、通常の飛行攻撃に比べてどう有利だったのでしょうか?
この本に「われ特攻を拒絶せり」という章があり、特攻を拒絶した美濃部少佐率いる芙蓉部隊が奇襲攻撃を繰り返して成果をあげています。
飛行機のまま体当たりするのと、途中で爆弾を落とすのとで、命中精度がだいぶ違ってくるのでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

>飛行機のまま体当たりするのと、途中で爆弾を落とすのとで、命中精度がだいぶ違ってくるのでしょうか?



急降下爆撃(水平爆撃ではない)の命中率で言うと、日華事変当時の艦爆隊の命中率は60~70%、錬度が頂点に達していた昭和17年のインド洋海戦のころは急降下爆撃命中率は80~90%です。
これはインド洋海戦の九九式艦上爆撃機53機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機)の巡洋艦への爆弾命中率88%、九九式艦上爆撃機85機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機、瑞鶴14機、翔鶴18機)から航空母艦への爆弾命中率82%、また17年のコロンボ攻撃などでの江草隊の命中率85%などからも確かでしょう。
恐るべき命中率で、パイロットの高い錬度の賜物でしょう。

ただしその後は激戦を重ねる中で熟練パイロットが消耗し、命中率は低下していったと思われます。
元々戦闘機乗りでWW2では航空参謀、また剣部隊の司令となった源田実は、戦艦・航空母艦の議論の中で、「一方航空機の場合は水平爆撃の命中率が12%,急降下爆撃が50%,雷撃が75%である」と分析していますから、一般的及び充分な錬度での艦爆(急降下爆撃)の命中度は50%ほどと考えるのがいいかと思います。

特攻での命中率ですが、米軍の資料で56%と言う資料がでましたが、これは書類上で正確には命中効果率であり、命中率とは違います。米軍が視認した機数を分母に至近命中まで含んだものです。
下記データの中から
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kamikaze …
日本海軍の特攻機(1944年10月から沖縄戦まで)
出撃数 2,314
帰還数 1,086
損失 1,228
の帰還数は戦闘に参加しなかった数なので、損失(未帰還)1228の中で
損害を与えた322を計算すると26%となります。
日本側の特攻初期の推定26~28%と重なりますね。

また安延多計夫大佐の調査での比島作戦~硫黄島作戦の数字、奏功率(奏功率とは命中機数と至近弾機数の合計)27.1%とも重なります。
命中率では19.5%です。
しかし米軍の特攻対策により、大戦末期の沖縄戦では特攻の命中率も極端に下がり、奏功率13.4%、命中率6.8%となっています。6.8%…もうボロボロですね。
http://d.hatena.ne.jp/fuldagap/20070220

ちなみに水平爆撃と急降下爆撃を混同されがちですが、攻撃目標に対してのベクトルをあわせて急降下し500メートルの高度から爆弾を投下すると3秒後には目標に激突しますので、ある程度の錬度の航空隊ならば急降下爆撃の命中度は非常に高いです。

また特攻を始めた時の急降下爆撃のほうが命中率は数%だったようですから、そうなれば特攻のほうが命中率は高いです。
つまりその当時では、錬度の低い兵士を各地に投入せねばならなかった悲しさですね。
その上で軍内部での対立(陸軍・海軍)などもあり、戦果があがらない上層部が「ウチはこんなにまでしているという」という言い訳、責任回避にさせられた面もあります。

戦略面で言うと、特攻は敵との戦闘までいけば死亡率100%ですから、米軍側からすれば、命中しようが海に落ちようが攻撃機はすべて落ちます。つまり敵機迎撃率100%と同じです。

日本側からすれば、攻撃をするごとに確実に機体とパイロットを失い兵力が減少していくわけで、ただでさえ苦しい戦況がその後どうなるかは自明の理です。正に負ける事を前提に、負けに向かって進んで行くだけの時間稼ぎの戦略になります。そんなものに使われた若者たちはたまった物じゃありません。

もちろん「君たちだけを死なせはしない。最後には私も君たちの後を追う」と言って若者を特攻に向かわせた上層部の多くが、戦後に国会議員や政治顧問になっていたりします。
逆に特攻に批判的だった、あるいは責任を感じていた上官が後を追ったり、腹を切ったりしているのは皮肉です。

という事で単純な比較はできませんが、ある程度の錬度の航空隊なら急降下爆撃のほうが命中率が高い。しかも艦船への爆弾の激突時の速度、ダメージも上です。
特攻を始めた当時のみでみれば、体当たり攻撃のほうが命中度が上です。
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「攻撃態勢をとり、敵の艦船にぶつかるための操縦技術があったとしても」



「どの時点まで、目を開けて、操縦桿を正しく握っていられるのか」

といった観点から、元特攻隊員であった方がお話しをされていました。本で読んだのかテレビであったか、その両方であったかは忘れましたが。

その元特攻隊員の方も、実際には体当たりしていないのですから、絶対とは言えませんが、机上の理論や計算だけでは考えられない状況がそこにあるのだなあと思いました。私は全く思いもよらないことでしたので。

目標に近づくにつれて、高角砲や機関砲などの衝撃・振動などで視界が見えにくくなるわけです。そして、どこまで目を開けて正常に操縦桿を握ることができるのかを考えていると、違った思いが湧いてきました。

むごいことだと。

どこまで考えて、拾死零生の命令を出したのでしょうか。

主旨から少しはずれたかもしれませんが、悪しからず。
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昭和19年6月のマリアナ海戦ですが


戦闘機225機・攻撃機273機
/戦果0(0%)
/損害378機(76%)

昭和19年10月の台湾沖航空戦
340機
/戦果:巡洋艦2隻被弾(0.6%)
/損害312機(92%)
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ある人の理論ですが、


通常戦力が無い状態での特攻戦力は0と見ても良い。
のだそうです。

桜花がその良い例で、攻撃前に1式陸攻と共に殆どが撃墜されていました。

どう考えても、攻撃、帰還、再攻撃の方が有利です。
燃料と爆弾の消耗のみです。
戦線の戦力と兵力を維持出来ます。

何故、特攻にしたのか?
通常攻撃にしろ殆ど帰って来れねーからです。

人間は、良い方を選びます。
どうせ帰って来ないから、命中率の高そうな方法を選んだんです。

計器飛行も満足に出来ないですから、スコールでもう駄目です。

敷島隊の関行男大尉は教官で大ベテランです。
敷島隊が空母をやっちゃったんで行けると思ったんです。

教官がいなければ後に続く人間など育成不可能です。
本人、日本はもう駄目だと名言してます。
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美濃部少佐の意見の方が圧倒的に正しいです。


そもそも現場のパイロットの意見よりも、ド素人の意見が勝ってるなんてことはありえません。
ほかにもベテランパイロットの何人かは特攻を拒否して通常攻撃を行っていたと記憶します。

要するに、誘導機械が造れなかったので、
代わりに人間を使ったということですから
命中率は高かろうと思うかもしれませんが、
パイロットが使い捨てということになれば、パイロットの質は
どんどん低下していくのが必然です。
パイロットの養成には費用も時間もかかるのですが、
大戦末期には水平飛行すら困難なパイロットばかりとなります。
この状況だと、実際、目的地に安全に飛行することすら危うくて
多発した機体の異常と併せて、途中帰還したり、迷子になったり
墜落したりというのも珍しくない状況となります。
大本営などは初期の成果をもとにして、その後の特攻を
それくらいの成果は期待できるという根拠のない予想をもとに続けるのですが
実際に敵艦に与える影響は目に見えて少なくなったということから考えて
命中率も著しく低下したと判断されます。

米軍が対策を取った後の特攻の成功率は、一般に10%前後とされます。
大規模な航空特攻をする代わりに、
通常の爆撃をした方が成功率は30%と三倍も高かったという数字もあり、
美濃部のようなパイロットが熟練者の場合、成功率は60%程度まで跳ね上がり、
夜間攻撃や何らかの奇襲攻撃ならば生還率もさらに高くなります。
通常の爆撃の場合、成功すれば反復攻撃ができるわけで、
あたりまえですが、特攻に比べればはるかに効率的です。

命中精度は練度や状況によって大きく変わってくるので
単純比較は難しいですが、兵器・攻撃というものは常に有効性が
重要な指標になります。
有効性という点において、特攻は大いに評価が低い。

結局、航空機の機体の貫通力はスピードに依存するだけなので、
ほとんどの場合、燃えるだけです。250キロ爆弾のような重い爆弾を搭載しては
ただでさえ強力な近接信管をもつ米軍艦隊には格好のえじきであり、成功の見込みが低い。
特に米軍はレーダー網と上空援護機、対空砲、機銃の組み合わせだったので
接近することも困難だっったというのが実情でしょう。
それに末期の特攻になると、飛ぶだけというような数合わせの旧式機が使われたので
まったく軍官僚組織の害毒というべき、無駄な攻撃が繰り返されたのです。
(軍は攻撃の数を多くして、戦果も過大報告していたので、嘘上の嘘に嘘が乗ってるがごとき意味不明の状況になっていました)

特攻に関する大本営発表のような誇張を信じるのは愚かで、
主要艦艇は特攻によっては一隻も沈んでないし、
せいぜい大破どまりで、後に修理されています。
沈んだのはどれも小型か貨物船を改造したような船ばかり。
特攻とは、精神論偏重の極みであり、非科学的、非効率的、非効果的。”統帥の外道”でした。
もっと有効な攻撃が可能だったのに、あえて、馬鹿なことをしていたというのが事実です。
パイロットの練度を上げ、上質の機体を使って、レーダー網を崩す工夫が必要でした。
しかしそういった正しい分析をしていくと、どう考えても日本は勝つことはできないし、
負けしかないということがわかるので
常識を曲げて特攻にこだわり、嘘を信じさせることによってのみ、
戦争を続けさせられたということかもしれません。
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通常攻撃では戦果は殆ど無く、被害は特攻とあまり変わらないでしょう。


当時、米艦隊に対する正攻法の攻撃では未帰還率は70%以上になるのは当たり前と思われていました。

一例を挙げれば、未だ拮抗した戦力を持っていた南太平洋会戦に於ても
被害は攻撃隊 戦闘機50機中自爆10 不時着3 艦爆57機中自爆31 不時着9 艦攻43機中自爆21 不時着7機でした。(米軍の放棄したホーネットに対する第三次攻撃を除く)

これが18年11月のボーゲンビル島沖海空戦になると
戦果は無く、艦戦33機中2機 艦爆24機中19 艦攻14機全機が未帰還に成ります。

累積する被害によって搭乗員の練度の落ちたマリアナ沖海戦に至っては、数発の命中弾と引き換えに機動部隊の航空戦力は約300の未帰還機を出し、壊滅的な打撃を受けています。

以後は熟練搭乗員はきわめて少なく、急速養成された搭乗員の比率が極端に高くなります。
練度をABCDの4段階に分けるとABクラスは全体の30%に過ぎません。
その練度基準も開戦時の基準から大幅に後退しCクラス(昼間戦線投入可)で飛行学生終了後9ケ月程だった物が3ケ月にAクラス2年9月から1年に
なっています。
以前の基準から見れば殆どがDクラス(要錬成)でC以上は数える程であった様です。

要するに特攻以外打つ手が無かった状況でしょう。
散華された方々に感謝致します。

関東空はゲリラ的な攻撃ですからね。
そしてその殆どは基地の制圧です。
点に等しい機動する艦船と、動かない沖縄の基地では状況が違うでしょう。
又索敵攻撃等での戦果報告は有りますが、米側の被害報告で確認できる
ものは無いのでは?
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私もよく戦記や架空戦記を読んでいるのですが、特攻と普通攻撃で命中精度がどちらが高いのかといえば、言うまでもなく特攻だと思います。


爆弾は投下しても風などに流されて思うように当たりませんし、敵だって回避行動をとります。魚雷ならなおさらです。
が、特攻の場合。大雑把に言えば爆弾や魚雷を操縦して敵艦に突入するわけですから、誘導弾のように当たります(奇妙な表現でごめんなさい・・・)
よくいう話ですが、特攻は初期のころ、志願制でした。が、特攻で戦果が上がるたび、軍の上層部は「特攻こそ確実に戦果をあげられる」といって次々と若者を特攻へ送り出しました。「本当に志望したのか?強制的じゃないな?」と、聞いても「ぜひ特攻に・・・」と言って結局ほとんどの若者が特攻のために散華しました。というより、「特攻など嫌です!」と言えるような雰囲気ではなかったのです。戦局がそうさせました。

しかし特攻の戦果は最初こそ挙がっていましたが、VT信管など対空兵器の発達やレーダーの発達などで戦果はなくなってきました。
結局、特攻と普通攻撃どちらが有効なのかといえば・・・当時の搭乗員の技量などからみても、ベテランなら無論、普通攻撃で若者は特攻が有効だったのではないでしょうか?
訓練するにも油がなく、搭乗員の技量もダメなら、特攻しか手段がない、当時の人間ではないので多くは知りませんが、必然的にそういう結論になったのでしょう。
戦艦大和がまさにそれです。複数出撃できるほど油がないから特攻だ、と。

わけわからない文章ですが(汗)それが歴史の真実だと私は思います。
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「特攻は、通常の飛行攻撃に比べてどう有利だったのでしょうか?」



「体当たりは、急降下爆撃に比べてどう有利だったのでしょうか?」
に置き換えてご回答します。

そもそも、急降下爆撃と言うのは、下記のような手順で行います。
A) 編隊を単縦陣とし、敵艦の後方から接近。
B) 敵艦の後方の一定の場所で、失速寸前まで減速。多くの急降下爆撃機は、急激な減速を可能にするための「エアブレーキ」と言う装置を持っていました。
C) 次いで、敵艦めがけて急降下。ここから後は、照準(機体の向き)を投弾まで変更できません。
D) 投下高度まで降下したら投弾、引き起こし、退避。

「単縦陣で一機ずつ敵艦の後方から接近し、順番に機速を失速寸前まで殺して急降下し、爆撃して去っていく」
のですから、「優勢な対空砲火と多数の戦闘機」を持つ米軍から見れば、日本の急降下爆撃機は「カモ」以外の何者でもありません。
また、「急降下の体勢に入った後は機体の向きを変えられない」ので、その瞬間に敵艦が舵を切れば、空しく海中に爆弾を投下するだけです。日本海軍の戦記には、「敵機が急降下体勢に入った瞬間に舵を切り、爆弾を回避した」という日本軍鑑の艦長の回想が多く残っています。アメリカ海軍も同じでしょう。

特攻が始まったフィリピン戦の時点で、日本の急降下爆撃機は「相手に気づかれずに単機で接敵し、投弾に成功した場合」でなければ、「投弾する前に撃墜される」のが当たり前になっていました。投弾した後は、必ず相手に見つかっているのですから撃墜されないほうがおかしい状態です。
要するに、特攻が始まった時期には「敵への爆撃を試みて生還する急降下爆撃機は皆無に等しい。戦果も皆無に等しい」状況でした。この悲惨な状況を理解しないと、特攻という戦法の生まれた理由は分りません。

さて、熟練したパイロットが、爆装零戦や「彗星」などの十分な運動性を持った飛行機で体当たり攻撃をかける場合、次のような手順となります。

1. 偵察機の情報に基づき、海面を這うようにして、敵のレーダーの探知を避けつつ敵に向う。後方能力に優れた艦攻などが「誘導機」として随伴してくれれば、目標地点に迷わずに向えます。

2. 敵に近づいた時点で高度を上げる。ここからは、敵の対空砲火の網の中に突っ込んでいくことになります。

3. 体当たりの目標を定めたら、「全速」でその目標に向って突入。「敵の後方に回る必要」も「失速寸前まで減速する必要」もなく、体当たりの寸前まで機体の向きを修正できますから、命中率は飛躍的に上がります。

以上の説明で
「急降下爆撃では戦果も生還も期待できない現状。ならば体当たりをすれば戦果は挙げられる。生還はもとより期さない」
という発想が生まれ、「合理性」を持っていたのがお分かりいただけるでしょう。実際、レイテ沖海戦では、「熟練パイロットと第一線機による特攻」が米軍も日本軍も驚くような大戦果を挙げています。

なお、沖縄戦以降は、
「旧型機、練習機、水上機など、飛べる飛行機にようやく単独飛行ができる程度の搭乗員を乗せての特攻」
が行われました。こういった特攻では、多くの飛行機が目標にたどり着けずに水没していったと言われます。「命中精度」などを云々する以前の、「飛行機と搭乗員と爆弾を海に捨てる」に等しい行為でしたので、レイテ沖海戦当時の特攻とは別な戦闘行為と考えてください。
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特攻はWW2当時において最も命中率の高い攻撃方法です。


最後の最後まで目標修正することができることが大きく、通常爆撃以上の命中率を誇ることができます。

また、出撃≒未帰還とすら言える様な厳しい戦況ですので、通常攻撃においても帰還できるかどうかわからない。
敵艦隊まで到達することすら、非常に難しいため少しでも命中率の高い攻撃方法を取りたい。(次の出撃でまた敵艦隊まで到達できるかわからない)
通常攻撃を行えないほど錬度の低下(特攻の方が容易)

以上、通常攻撃を行うに比べての有利を挙げました。
ベテランだろうが敵戦闘機に食い付かれれば落とされることはWW2の戦闘みれば明らかと思います。
私は特攻の是非までは言う気は毛頭ありませんが、特効がなければ沖縄戦であれほどの数の連合軍の艦艇に損害を与えることは無いだろうと思われます。(通常攻撃なら戦果は減るでしょうね)
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> 特攻は、通常の飛行攻撃に比べてどう有利だったのでしょうか?



単純に考えれば、人間が誘導装置の役割を果たしていますから、投下するよりも命中率は高くなる、はず、です。

問題は、有効かどうか、という点ですが、当然の事ながら、爆弾を抱えている分だけ飛行機への攻撃は成功しやすいですし、飛行機が落ちれば爆弾も当たらないわけです。
というわけで、相手が直掩戦闘機をもっていたり、対空砲火を行ったりすると、敵に到達する前に撃墜されるので、全く以て無駄なわけです。
また、爆弾だけ投下してはずしても飛行機は帰ってくる可能性がありますが、特攻だと確実に飛行機は帰ってきません。ということは次回出撃には少ない機数しか出せないことになり、撃墜される確率はますます上がる=攻撃が成功する確率は下がることになります。

というわけで「はずしても良いから爆弾投下」の方が、長い目で見ても命中率は良いし、その場限りだけしかみなくとも命中率が良いかも知れない、ということになります。
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 また最終的に目標に突入段階までこぎつけられた者で生還したものはいません。出撃途中で機体のトラブルや天候不良、さらには目標を発見できずに基地へ戻った者は多数に上ります。

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 もっともこの機体は零戦であるはずもなく、末期に使用された水上機や練習機、さらには時代遅れの複葉機を指しています。そんな機体をあてがわれたパイロットたちは、零戦や他のまともな戦闘機に乗って特攻に行けるパイロットをかなり羨ましがったそうです。
 

1、 神風特別攻撃隊と名が付く部隊はすべてアメリカ艦隊への体当たりを目的としたものです。攻撃隊の正確な機数はいまでも若干のずれがあるのですが(神風以前以後にも米艦隊攻撃時、被弾した機体で体当たりを行った海軍機があったことも関係しています)、神風特攻隊では1298機前後というのが現在ある程度固定された概念です。他に陸軍特攻隊(これは神風特攻隊ではありません)が出動しており、これも正確な機数は確定してはいませんが、1185機という数字が有力視されています。
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木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
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Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「...続きを読む

Q急降下爆撃は何故敵艦に対して縦に侵入しないの?

太平洋戦争での敵艦に対する急降下爆撃機は見てると敵艦の腹に対して向かっています。
でもそれだと、雷撃ならいいけど、爆撃ではちょっと間違うと爆弾が敵艦を素どうりしてしまいます。(飛び越してしまう)

それよりも敵艦に対して縦に侵入したほうが、船は縦に長い長いから外れにくいと思います。

どうして縦に侵入しないのですか?

Aベストアンサー

艦船の甲板は厚い鋼鉄でで守られて、少々の攻撃ではダメージを与えられません。
勿論、甲板上であっても艦載物に被害を与え、操舵室等に命中すれば航行不能には出来るでしょう。
それに対して、側面は大変薄く小さな破壊を受けただけで沈没などの大きなダメージがあります。

さらに、正面からの攻撃は上下は的として大きくなりますが、その代わり少しでも横にずれるとダメージを与えるどころか斜めに滑ってしまいます。
その点側面からの攻撃は、上下の正確さえ有れば左右はかなりずれても確実に大きなダメージを与えることが出来ます。

戦闘機の操縦的にも、左右の調節は機体を傾けるなど難しくなりますが、上下の調節は操縦桿の前後操作だけで瞬間的に調節でき、目標を捉える確立も高くなります。

戦闘機を攻撃する船側にしても、船の構造上縦揺れは少なく横揺れが大きくなります。
当然船の前方から来る敵機には照準を併せやすく、横から来る戦闘機は揺れの関係で狙いにくくなるでしょう。

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Qミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい

ミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい。なぜあんなに強かった日本軍が負けてしまったのですか?理由を教えて下さい。ちなみに僕は戦史に関してはド素人ですので、その辺はご了承ください。

余談ですけど、先日新聞を読んでいたら「アベノミクス第三の矢はミッドウェー」とかいう記事が載っていて、要するに第一、第二の矢(経済政策)はうまくいったが問題は第三の矢で、これが日本の今後の経済趨勢を決するという内容でした。

それで僕は、緒戦の快進撃から一転、大敗北を喫したミッドウェー海戦の敗因とやらをどうしても知りたくなった次第です。

Aベストアンサー

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

この本によると次の6項目が大きな日本軍の敗因として取り上げられています。

(1)情報戦の大敗。日本海軍の暗号が解読され、米軍は日本軍の計画を察知していたのに、日本軍は敵情がよくわかっていなかった。

(2)心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

(3)山本長官の出撃。山本長官が戦艦に座乗して出撃したので、その位置を秘匿するため、無線の使用が制限され、作戦指導に支障を生じた。

(4)航空戦様相の事前研究、訓練の不足。索敵、偵察、報告などの地道な訓練及び、空母の被害局限対策の研究が足りなかった。

(5)5日の航空決戦の指導の誤り。二度の兵装転換によって弱点を作った。

(6)戦艦主兵思想の転換の不十分。戦艦部隊が後方遠く離れて航空決戦に寄与できなかった。


○ちなみに当時、敵であったニミッツ太平洋艦隊司令長官は戦後に出した著書の中で、「勝利は主として情報による。・・・日本軍は奇襲を試みようとして日本軍自体が奇襲された」と述べています。また日本軍が空母戦力を分散してアリューシャン作戦を行った事を批判し、その戦力分散が無ければ米艦隊が敗北していた可能性があると述べています。

○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

○英国の著名な戦史家リデルハートはその著書で日本の敗因について、十分な数の索敵機を出さなかったこと、戦闘機の援護不足、空母の防火対策が不十分、空母での兵装転換時に敵に向かって航行したこと等、他にも色々指摘していますが、最後は「・・・これらの過失は自信過剰から生じたと言っても過言ではない」と述べており、日本軍の「自信過剰」を問題視しています。

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む

Q真珠湾攻撃で空母を大破していたら?

真珠湾攻撃の日に空母3隻は湾にはおらず打ち漏らした事は良く聞きますが、この3隻を大破していたら歴史は変わったのでしょうか? 3年8ヶ月の太平洋戦争が4年になったのでしょうか?? 大勢には影響しなかったと思いますが、実際はどうでしょうか? 歴史にたら、ればで論じても仕方のないことですが、こうなった事には変わりないくらいのコメントでも頂けると参考になります。

Aベストアンサー

>歴史は変わったのでしょうか?

その可能性はあります。
日本の勝算は上がったでしょう。

真珠湾攻撃の時、太平洋にはアメリカの大型空母3隻がいました。
エンタープライズはオアフ島西約200浬に位置し、レキシントンはミッドウェー島南東約420浬に位置し、サラトガは本土のサンディエゴで整備中でした。
これが全て真珠湾で大破し(大破の状況にもよりますが・・・複数の魚雷を受け大きな損傷負って修理に手間取り戦線復帰に半年もかかるとか、そこまでの損傷ではなく2~3カ月で復帰するとか、色々考えられますが)、それと空母に所属する飛行隊も壊滅したと仮定しますが・・・
まず、最初の日本軍の真珠湾攻撃において空母を大破させたなら、日本軍は史実では行われなかった第二撃を行う可能性もあるかと。第二次攻撃を行わなかった理由の一つが敵空母の所在不明です。それが真珠湾で大破し、ましてや史実での戦果予測ではハワイの敵航空部隊も壊滅に追い込んでいる状況です。特に日本側の水平爆撃隊は損失機0でもありました。第二次攻撃を行いさらなる戦果を得たかもしれません。
それはともかく、当然、米国としては空母を大西洋から回すと考えます。

当時、大西洋には就役したばかりで訓練中のホーネット(1942年2月より任務開始)、レンジャー、ワスプ、ヨークタウンの4隻の大型空母がいました。
ただし、レンジャーは防御に問題のある艦であり、史実でも太平洋での戦闘は無理だと判断され主に大西洋で輸送、護衛、訓練、上陸支援などの任務につきました。1942年10月の南太平洋海戦で米国は無傷の大型空母が0隻となる「アメリカ史上最悪の海軍記念日」と米国側が言うほどの最悪の状況だったにも関わらず、レンジャーが太平洋に投入される事はなかった事から、真珠湾で空母3隻が大破してもレンジャーだけは大西洋で任務につくかと考えます。
なお、ワスプは史実では1942年に太平洋艦隊に編入されるまでは、マルタ島への戦闘機輸送任務を数回従事するなどしており、日本との開戦後、すぐに太平洋に投入するとすれば、その分、マルタ島の航空戦力が低下し、地中海を通る北アフリカ戦線のドイツ軍への補給路への攻撃がその分、和らぎ、ドイツ軍に多少有利な状況になるかもしれません。

そんなわけで、おそらくワスプ、ホーネット、ヨークタウンが太平洋に回されると考えます。
そして、ミッドウェー海戦までは史実と同じような展開になるのではないかと考えます。
そして珊瑚海海戦でも史実と同じように米国空母1隻が撃沈され、1隻が中破となり、ミッドウェー海戦になるかと思いますが、ここで仮定の上に推測でしかありませんが、真珠湾で大破した空母が修理を完了し戦線復帰。
米国は無傷の空母1隻に復帰した3隻の計4隻の空母で日本艦隊を迎え撃ちますが、問題は空母の航空部隊です。
史実では、ミッドウェー海戦での米空母部隊は訓練が完了していないパイロットまで作戦に参加させるほど切迫した状況でした。
今回はハワイ攻撃時に3隻の空母の航空部隊は打撃を受けているので、なおさら酷い状況かと思います。空母は戦線復帰しても技量の未熟なパイロットを多数使う事になり、この点において、日本側は非常に有利になるかと思います。

ただし戦争に絶対はありませんから、日本が史実通りミッドウェーで敗北する可能性も充分あります。
その場合は、やはり史実通りの展開となり敗戦の道を辿っていくかもしれません。

しかし、ミッドウェー海戦で勝利した場合は戦局が大きく動くかもしれません。
まず、ミッドウェーで米国側がパイロットの低い技量が災いして敗北し、空母が全滅したとして、日本軍が次に狙うのはハワイです。
これは史実でもミッドウェー海戦前に、9月以降を目処にしてハワイ攻略戦の準備命令が陸軍では既に出されています。
ですが、その前にインド洋が焦点になります。
史実では6月に北アフリカ要衝のトブルク要塞を陥落させたドイツ軍が勢いに乗っており、ドイツとイタリアからインド洋での通商破壊強化と有力な艦隊派遣の要請が来ていました。
この状況に日本もインド洋で潜水艦隊や水上艦部隊を派遣する命令を出し準備していましたが、ガダルカナルの戦いが生じ、インド洋での作戦は極少数の部隊に任される事になりました。
しかし、ミッドウェーで勝利すれば米国はハワイの防備強化と航空部隊、艦隊再建に忙しく、ガダルカナルへの反攻は行わないでしょうから、日本は史実で予定されていた通りか、それ以上の戦力をインド洋に投入して通商破壊戦を行うかと思います。

インド洋は連合軍にとって、北アフリカ戦線、ソ連へのレンドリース(ソ連への軍事援助で全体の約3割がインド洋を通りました)、ビルマ戦線、中国戦線への補給路であるばかりか、インドからイギリスへ戦略物資を運ぶ海上交通路でもありました。
もし、この海上交通路が阻害されれば、各戦線は崩れるかもしれませんし、イギリスは戦争遂行に大きく響くでしょう。
特にイギリスは1942年にはドイツのUボートの通商破壊戦により、穀物などの輸入量が低下し消費量が輸入量を上回り備蓄で何とか凌いでいました。また貯蔵していた商船の燃料も3ヶ月分を切っている危険な状況でした。これにインド洋でさらに大きな被害を被ればイギリスは持ち堪える事ができないかもしれません。
元々日本には政府上層部の言う「通商破壊戦により英国の死命を制し米国の態度を変える」「英米連合軍の弱点は英国にあると考えられる。海上交通を断ち英国を餓死せしめて英国を屈服せしむること最も捷径なり」「英国の屈服に際し之と直ちに講和する事なく英国をして米国を誘導せしめる」という、まず英国を叩き、それにより米国との講和へ持ち込もうと言う戦略がありました。これが実際に成功するかどうかはともかく、英国の死命は海上交通路にあり、もしインド洋を日本が制すれば、前述した各戦線に致命的であり、英国にも大打撃だった事でしょう。

また、日本の潜水艦隊は開戦時に南方とハワイ方面に大きく二分され作戦しており、ミッドウェーで勝利した場合も当然、インド洋だけでなくハワイ~米本土、オーストラリア~米本土間で通商破壊戦に全力をあげる事になるかと思います。
史実では大戦初期は日本の潜水艦も遠く米本土沿岸で暴れ周りましたが、戦局の推移とともにそれもできなくなりました。しかし、ミッドウェーで勝利し米国の大型戦闘艦艇も多くを沈めたとなれば太平洋で通商破壊戦に力を入れる事も可能になるかと思います。
そうなれば、米軍も大西洋にばかり護衛艦を投入するわけにもいかず、その分、大西洋のUボートが楽になり戦果を拡大し英国を一層苦しめる事になるかもしれません。

そして、太平洋ではハワイ攻略戦となりますが、日本の潜水艦の通商破壊戦がうまくいけば、ハワイの防備も思うようには進まないかもしれません。
攻略自体は制海権、制空権をとれれば可能かと思います。あまり陸軍の大兵力を投入できないでしょうが制海権、制空権を握れば圧倒的有利になります。フィリピン攻略戦やマレー攻略戦、ジャワ攻略戦でも日本軍は連合軍より兵力が少ないにも関わらず勝利したのは、そうした要素において勝っていたからです。

ハワイの失陥は米国にとり大きな衝撃となるでしょう。
そもそも開戦前の米国の新聞には「日本は我々を攻撃する事はできない。軍事的にも不可能な事だ。ハワイの基地にしろ日本艦隊の有効攻撃圏の外にある」と載っていたくらいです。
おそらく、ここで活気付くのが米国内の黒人などの有色人種です。
開戦時、米国は一つに纏まっていたかのように言われますが、実はそうでもありません。
第一次世界大戦で黒人は待遇改善、地位向上を目指し、戦争に積極的に協力しましたが終わってみれば何も実りはなく失望だけが残りました。その経験から第二次世界大戦に米国が参戦した時も、有色人種の間では冷ややかに戦争を見ている部分がありました。
また、大戦を勝ち抜くため軍の増強と軍需産業での人員確保に黒人も組み込まれますが、黒人のこれまでの不満を和らげ、また人手不足を解消するために、これまで働けなかった職場や地位に黒人が就きました。
それに反発したのが白人労働者で職場放棄や暴動を起こしています。黒人側も歴史的に差別されている事から当然不満と反発がありました。1943年だけでも全米47都市で100以上もの人種暴動が発生しています。これにより、軍需産業の生産にも影響が出ています。デトロイトの暴動では黒人が軍の武器庫に突入しようとしました。軍内部でも黒人対白人の暴動が発生しています。
暴動で逮捕された黒人指導者の中には「黒人は米国内の日本軍だ」「東条首相に日本の勝利を祈る」と言い放った人もいました。
日本の勝利がこうした米国内の不満分子である有色人種を刺激し、より一層、反政府運動を大きくするかもしれません。
もしそれが広がれば米国内は酷い紛争状態となり兵器や物資の生産は遅れ、生活用品の流通にも影響を及ぼし、市民の不満を更に募らせるかもしれません。ただでさえ戦争で食肉やバター、ガソリンや暖房用燃料等色々な物が配給で不足気味なのです。それが更に悪化したら・・・
そうなれば、米国は日本と戦うより先に国内問題を解決しなければならず、日本に有利な状況で講和という事になるかもしれません。

史実では、前述した1942年10月の「アメリカ史上最悪の海軍記念日」の後に、米国では上下両院議員選挙が行われましたがルーズベルトの民主党は51議席も減らしました。ミッドウェーで負け、ハワイも攻略されたら民主党はもっと大敗し、ルーズベルト政権ももたないかもしれません。

>歴史は変わったのでしょうか?

その可能性はあります。
日本の勝算は上がったでしょう。

真珠湾攻撃の時、太平洋にはアメリカの大型空母3隻がいました。
エンタープライズはオアフ島西約200浬に位置し、レキシントンはミッドウェー島南東約420浬に位置し、サラトガは本土のサンディエゴで整備中でした。
これが全て真珠湾で大破し(大破の状況にもよりますが・・・複数の魚雷を受け大きな損傷負って修理に手間取り戦線復帰に半年もかかるとか、そこまでの損傷ではなく2~3カ月で復帰するとか、色々考えられます...続きを読む

Q空母のカタパルトは、米国でしか造れない?

ここしかないのでお訊きします。だいぶ前なので、現在は状況が違うかもしれないですが何度か空母のカタパルトについて、イギリスやフランス・ロシア等が開発しようとしたけど無理で米国だけだと本で見たような。これ自体は軍事や戦略等から見ると大した話ではないでしょうが、事実ですか?単に、米国以外は大型のジェット戦闘機を空母から飛ばそうとしなかったり目的・戦略が違っただけとか。それに何年か前に、フランスの今までの原・水爆実験で得た情報と米国の情報を交換するとニュースで見たり、エシュロンという世界規模の盗聴網で米・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスの白人クラブがあるとEUの議会で取り上げられたのを見るとカタパルトの技術くらい教えそうですが。
それに現在は、先進国間で留学等の知の交流があるし物質工学や工作機械や設計・加工技術等の差がそんなにあるのか疑問ですが。

Aベストアンサー

シャルル・ドゴールのカタパルトはアメリカ製のようですね。

というか、アメリカ以外の最近の空母でカタパルトで離艦するのってってシャルル・ドゴールだけじゃないでしょうか。
なお、フランスの旧艦ですが、クレマンソー級の蒸気カタパルトはイギリス製のようですから、アメリカでしか作れないと言うことではないようです。

ただ、現在、イギリスやロシアの空母はカタパルトではなく、スキージャンプを使った離艦です、おそらく、今後のアメリカ以外の空母はSTOL能力の高い機材で運用というのが世界的な流れでしょう。アメリカにしても、強襲揚陸艦などにはSTOL+スキージャンプというのが登場するかもしれません。

アメリカ以外で蒸気カタパルトを作らないのは、空母の思想が変わってアメリカ以外での需要がないからだと思いますよ。外国で作ったとしても売れなきゃどうしようもないですから。

Q第二次世界大戦頃までの戦闘機乗りの生還率は?(撃墜王の事が知りたいです)

撃墜王なる言葉がありますが
調べて見ると5機墜とすと与えられた称号らしいです、もちろん諸説ありますが
5機墜とす位は熟練パイロットなら出来るのでは?なんて思いましたが
たぶんこれはTVゲームしてる感覚で捉えての結果だと思います
全然ピンときません
生涯戦闘で5機でエースなんて呼ばれるって事は
ものすごく生還率が悪かったと予想出来るのですが・・・

撃墜王って呼ばれるにはかなり大変だったのでしょうか?
また太平洋戦争までの生還率など
素人に解りやすく教えて頂ければ幸いです
よろしくお願い致します

Aベストアンサー

直接的な回答ではありませんが、
アメリカ軍の集計では
・エースは総パイロットの1%に満たない
・しかし、全撃墜数に於けるエースのシェアは40%位
・トップ・エースは生存率も高い(米軍の場合、20傑中戦死者は3人だけ)
という結果が出ています(これがアレグレッサーなどの摸擬空戦を重視する訓練へと繋がっていく)。

 つまり、パイロットになると、大体は戦果を上げることなく敵に喰われる。その時点で運が良いか、技量がいいものは生きのこり、やがてエースになるか、運が良いだけでなんとか生きのこる「その他大勢」になるか、という事になるわけです。

 ただし、生存率に関して言えば、国によって条件が異なり、落とされても歩いて自陣に返ってもう一回出撃、なんて恐ろしいことが平気で起こるWW2のドイツ(3桁級がゴロゴロ。肋骨負っても再出撃した奴もいた)、ローテーション態勢がしっかりしていて、それほどスコアを伸ばせないアメリカ、洋上を長距離侵攻が多く必然的に死にやすい日本など、「その国の事情」があるので、一概には言えません。

 なお、現在ではそもそも空戦自体がほとんど発生しないので、撃墜経験のあるパイロットの方が希少です。最後のエースは1986年のイラン空軍人でした。もう20年以上前の話です。

直接的な回答ではありませんが、
アメリカ軍の集計では
・エースは総パイロットの1%に満たない
・しかし、全撃墜数に於けるエースのシェアは40%位
・トップ・エースは生存率も高い(米軍の場合、20傑中戦死者は3人だけ)
という結果が出ています(これがアレグレッサーなどの摸擬空戦を重視する訓練へと繋がっていく)。

 つまり、パイロットになると、大体は戦果を上げることなく敵に喰われる。その時点で運が良いか、技量がいいものは生きのこり、やがてエースになるか、運が良いだけでなんと...続きを読む


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