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私の父は太平洋戦争中、昭和18年~19年ごろ、東部六部隊、近衛歩兵第三聯隊補充隊に所属していましたが、その後、「照7713部隊」付きの軍事郵便が届いており、パラオに出動したことがわかっています。
いわゆる<照部隊>と<近衛聯隊>との関係が、不明のままです。
どなたかご存知の方がおられましたら、是非 ご教示賜りたいと思います。

A 回答 (2件)

 あまりに質問のデータが少ないために、わたしは「こういう経緯でこうなった」ということを説明することが出来ません。


 
> <照部隊>と<近衛聯隊>との関係‥‥ 

 ただ、単にこれに関していうと、「関係はありません」ということになります。理由は、それぞれの部隊の徴募区域が異なるからです。

 まず、<近衛連隊>から申しますと、「近衛歩兵第3連隊補充隊」は正確には「近衛兵」だけの補充隊ではありません。

 ちょっと専門的になりますが、そもそも東京・千葉・甲府地域は「第1師団」の管区でしたが、同師団が満洲永久駐屯となったために、これ等の地域は「第61独立歩兵団」(歩兵第101連隊・歩兵第149連隊・歩兵第157連隊)が代わって管区の徴募業務を行なうことになりました。そして、1943年(昭18)3月に同歩兵団を基幹に「第61師団」が編成され中国へ派遣されたため、同管区に「近衛師団」を改編して編成された「留守近衛第2師団」が駐屯したのです。そして師団隷下の「近衛歩兵第3連隊」(東部第6部隊)は東京地区の徴募業務を担任しました。因みに「近衛歩兵第4連隊補充隊」(東部第63部隊)は甲府、「近衛歩兵第5連隊補充隊」(東部第64部隊)は佐倉にありました。したがって、「近衛連隊」といっても近衛兵だけの徴募を行なったのではありません。

>「照7713」‥‥
 
 つぎに↑は、第14師団司令部の通称号で、同師団は満洲派遣前まで茨城・群馬・栃木地域を管区としていました。したがって、直接の関係はないことになります。

 さて、異なる管区の部隊へ転属したことについてですが、これもいろんな可能性が考えられます。
 まず、師団司令部に勤務していたということから推察すると、お父さんは将校か、将校担当官、あるいは技能職の下士官だった可能性があります。そうであれば管区に関係なく転属したはずです。
 
 二番目に44年(昭19)頃は、兵員の補充が間に合わず異なる管区から補充しており、その要員だったこと。例えば同年ボルネオ島(現カリマンタン)へ派遣された独立混成第56旅団司令部は、将校を姫路・岡山から、准下士官を熊本から召集して編成しています。
 
 三番めに東京編成の部隊でパラオに行き、現地で転属になったこと。当時パラオは南方派遣の中継地でしたが、船便がなく滞留した補充要員を以て独立混成旅団一個を編成した程でした。そのほかにも理由が推察されますが、はじめに書いたように情報がないために決定的なことはいえない、というのが結論です。

この回答への補足

yatiyochan様

 私のいささか、舌足らずの設問の対して、精緻なご回答をお寄せ頂き、まことに恐縮でした。
厚く御礼申し上げます。

 初めての投稿で質問設定の仕方が、よくわからいまま やや思いつき加減で投稿致しましたこと、ご無礼不躾の段、どうかお許し下さい。

 勝手ながら、今回の質問設定に至りましたことについて、若干補足させて頂きます。

 私の父は、大正14年(1925年)20歳で近歩三聯隊に初年二等兵として入営。 現役除隊後、日中戦争勃発時 近歩三原隊に復帰、特志将校として奉職しました。

 私事で恐縮なのですが、私の父が「近衛兵」として存在した経緯などを、孫達に語り伝えておきたいと、手元に散逸を免れた僅かの写真などの資料を 整理・編集して ブログなどに 入力準備をしております。

 その、最終段階の資料が、「照7713部隊・多田隊」付きという 父からの軍事郵便なのです。
 
 この「多田隊」というのは、パラオ本島守備・独立混成第53旅団、司令部参謀 多田重中佐が隊長の部隊のようです・・・

 近歩三については、「近衛歩兵第三聯隊史」という 分厚い書物があり、現在九段下の「国立・昭和館」に通って その本を読み込んでいるのですが、
いわゆる「照兵団」(14師団)と「近歩三」(東部六部隊)との関連・結びつきが 何処にも 出てこないのです。

 ちなみに、上記「近歩三聯隊史」の中で、昭和18年、朝香宮孚彦(中佐)近歩三第二大隊長のお写真とともに、私の父が写っております。

 従って、私の父が「照7713部隊」員となったのは この時より あとのこととなるわけですね・・・・

 長々と 第三者から 見ればどうでもいいこと なのかも知れませんが、「私の父の近衛聯隊史」の中で サイパン・硫黄島に劣らぬ激戦であった 「パラオ諸島戦記」 は欠かせない部分ですので、敢えて 設問致した次第です。

 冗長・拙文 何卒 ご海容賜りますよう 伏してお願い申し上げます。   岡田義明 
  

補足日時:2008/04/23 13:36
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 bayaron様、「補足」を拝読してあるていど状況が判明しました。

できれば最初からなるべく情報を添えていただければ当方も明確に回答できたかな? と思います。

 前回の回答の繰り返しになりますが、「東京師管区」(東京・千葉・甲府)の留守業務(留守管理・補充)を担任する部隊が、本来の「留守第1師団」(のち満洲へ永駐)、つづいて「第61独立歩兵団」(のち師団となり中国へ出陣)となり、さらに「留守近衛第2師団」となったために1944年(昭19)当時の「近衛歩兵補充隊」というのは、近衛兵だけでなく一般兵の徴兵・召集業務を担任していました。

 例えば、「野火」や「武蔵野夫人」を著した大岡昇平は、44年3月、35歳で「近衛歩兵第1連隊(東部2部隊)」に教育召集で入隊し、6月に補充要員としてフィリピンに送られています。

 さて、あなたのお父様のばあいは、すでに回答に述べたように将校、しかも「特志将校」であったことから、原隊に関係なく転属したものの、と考えられます。
 ご存知のとおり、「特志将校」は、支那事変に際して、予備役将校のうち、特に志願して現役将校とほぼ同等の勤務を行なった将校でしたから。

>最終段階の資料が、「照7713部隊・多田隊」付きという 父からの軍事郵便なのです。この「多田隊」というのは、パラオ本島守備・独立混成第53旅団、司令部参謀 多田重中佐が隊長の部隊のようです

 これも、前回書いたとおり「照7713」は「第14師団司令部」の通称号で、「多田隊」というのは、同師団参謀長 多田督智大佐を指します。なお多田大佐は「第14師団司令部調査研究隊」隊長も兼任していたようです。

 独立混成第53旅団司令部の通称号は「備14653」でしたから、この部隊ではなかったはずです。
 
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この回答へのお礼

yatiyochan様

 重ねてのご懇篤なご教示を賜りましたこと、 まことに有り難く、 改めまして厚く御礼申し上げます。

 yatiyochan様の精緻な記述を拝読致し、ひとつひとつ 目から鱗が落ちる思いです。

 「多田隊」 については、 パラオ本島防衛軍 「独混53旅団」 に拘泥した私の全くの錯誤でした。

 私の長年の疑念、 「照7713部隊・多田隊」 について、やっと霧が晴れた思いです。 重ねて御礼申し上げます・・・

 「照兵団」 はパラオ諸島において、極めて流動的に作戦展開をし、そして、甚大な犠牲を払われたのですね・・・

 当時より65年、もはや皆 忘却の彼方に消え去ろうとしておりますが、 「照兵団」 の勇士をはじめ、旧日本軍将兵の魂に対し、愛惜、追悼の念 止みません。  謹んで 合掌・黙祷致します。

 

お礼日時:2008/04/27 11:03

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