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こんにちは。今回は俳句の季語について質問させていただきます。
教科書に「分け入っても分け入っても青い山-種田山頭火」
とあり、この俳句の季語について教科書ガイドで調べてみました。
すると、
「季語・・なし。無季自由律俳句。「青い山」は夏の季語ともとれるが、ここでは無季とする」とありました。
何故、「青い山」を無季とするのでしょうか?
ご解答、宜しく御願いします。

A 回答 (3件)

作者が、有季定型というルールに従って詠んだ句か、無季自由律俳句として詠んだ句なのかを考えてみるのがよいのではないかと思います。



有季定型というルールを重んずる人は、必ず句の中に季語を入れます。しかし、無季自由律俳句を詠もうとする人は、句の中に季語を入れません。このことは中3の授業で教わります。

さて、種田山頭火は荻原井泉水という人の始めた新傾向俳句(無季自由律俳句)の機関紙「層雲」に寄稿し(1911年)、彼の門下になります。(1913年)そして「層雲」の撰者に参加します。(1916年)

こんな経歴の人ですから、種田山頭火は無季自由律俳句を詠む人と考えてよいと思います。ですから、彼の句に季語がないと考える方が自然でしょう。たとえ、この句が、夏に山を歩きまわった時にできたものだとしても、「青い山」を季語と考えてはいけないと思うのです。作者が季語として使っていないのですから。

これと同じく、尾崎放哉の作品に「咳をしても一人」というのがありますが、尾崎放哉も山頭火と同じく荻原井泉水の門下で無季自由律俳句を詠んだ人ですから、この句にも季語はありません。「咳」は冬の季語と考えてはいけないのです。まあ、この句の場合は結核で尾崎放哉が亡くなる前に詠まれたものですから、風邪の咳ではなく、結核で血を吐きながらする咳ですので、「冬の代名詞=風邪の人の咳」にはあてはまりませんね。

中学生には一番めんどうなのは、河東碧梧桐かもしれません。彼は高浜虚子と仲が良く、有季定型の句を詠んでいた時期もありますが、途中から荻原井泉水の門下になり無季自由律俳句を詠むようになりましたから。ちょっと乱暴ですが、彼の場合、575で詠まれている句には季語があり、575で詠まれていない自由律の句には季語がないと考えてはいかがでしょう。
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自由律俳句だからといって、「青い山」を季語とするか、しないかは作者以外どうでも良いことなのに、なんでそんな分類を教科書ガイドに書くのか、気が知れません。



柳田國男の言うには、俳句とは珍しい芸術で、本来人に読ませるために創られているのではなく、本人がそれを創って自分で楽しむために書かれているそうです。私もその主張に賛成です。事実、俳句を創る人口はそれを読んで楽しむ人口より、何倍も多いのです。

ですから山頭火がそう言ったというなら、季語無しと言っても「ああそうですか」と言って私も文句は言いませんが、どこかの先生がそうだなどと言ったら、その先生は俳句ってなんだか判っているのかと逆に質問をしたくなります。

こんなことをテストに出して、たまたま「青い山」を夏の季語とした学生にバッテンを付け、その学生に対して国語嫌いにさせたり、試験で落としたりして、将来希望を持った若者の人生を狂わせてしまうのは、国語本来の目的を弁えない似非学者のやることだと思います。

ですから、何故「青い山」を無季とするかには、説得力のある何の根拠も無いと思います。
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自由律俳句は、五七五の定型俳句対し、音数にとらわれない作品をいう。

季語にも縛られず、心の動きをそのまま自由に、かつ自然に表現するとする。 文語や「~たり」「~けり」「~かな」などの古典的な言葉遣いを避け、現代口語で表現するということも特徴の一つです。
そういったことで、「青い山」を夏の季語に限定しないということで無季とするのです。「青い山」は「木々が青々と茂っている山」の意ですからまさに夏とも言えますが、「青山(せいざん)」に掛けているいるという捉え方もできます。「人間(じんかん)到る所青山あり」という表現もありますが、「死に場所」の意です。死に場所を求めてもがき苦しむ様(生きるということは、いずれは死に至る過程であり、もがき苦しみが続くことを暗示)を読んだ句というふうに捉えることもできるわけです。
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