デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

A 回答 (13件中1~10件)

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?



ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過ぎ
今ままでに色んな考え方や哲学が生み出されてきた
デカルトの思想はそのうちの一つでしかない


>・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?

まあ、甘い点があるよね
確かに全ての事柄は無根拠であると言えるけど、それを言ったところで何?って話でしょ
(凄く簡単に説明してます。多分、この辺りを真面目に説明するとここでは書ききれない)
ついでに他の方も回答されているけど、自分自身の存在自体証明不可能なんだよ
であれば、デカルトの思想の根幹が揺らいでしまう


>・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きてい
>る「覚悟の人々」なのでしょうか?

一番最初に答えたように、デカルトの思想自体を知らない人もいるよ
ついでに言えば、その思想を知っていても、覚悟なんかなくても普通に生活できると知っているというところかな

存在の証明ができなくても「実際に存在している物は存在している」
それを前提としなければ頭でっかちの、悲壮感だらけの事しか考えられない人間になるだけ
正確には、時にはデカルトの思考について考えるのは温故知新として必要だけど、古い時代の考えから前に進まなきゃ何も始まらない


ちなみに全ての存在の証明が無いとご質問者様は生きていけないのかい?
自分が好きな物や人の存在が証明できなかったら、ご質問者様はその好きな物を嫌いになるのかい?


また物の価値なんて自分で決める事



PS.哲学する事はいい事だと思ってます。ただし、頭でっかちになっちゃダメだよ。理論じゃ説明(証明)できない事も多々あるって考えていた方が真理に辿り着く早道だと思うしね
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ある本(忘れました)により、まさに”目から鱗”のように凡人なりの理解を得ました。


それまではある種独特な才能の人々の禅問答的なお遊びと思っていました。

重要なのは次の3つの彼の時代背景、彼の職業、彼の研究対象の理解です。

ー1- 彼の時代は宗教が全を支配した時代でした。
      宗教は真理そのものであり、いかなる分野に置いてもその中心は宗教でした。
ー2- 彼は熱心で敬虔な宗教家として地位を得ていました。
      宗教家としてその歴史の研究者、探求者として、自他共に受け入れられていた。
ー3ー 自然の仕組みに鋭い観察力と探求心をもって日々送った。
      今で言う科学者としての資質に恵まれ、現在の数億から数千億の設備に支えられた
      先端科学ではない、多くを自己の五感に頼るしかない時代での自然界の営みと、宗教の教えの
      ”矛盾なき統一問題”が当時の全ての学問の目的でした。

当然 絶対的な宗教と自然観察からなる科学的理解の狭間で生ずる矛盾に悩んだと思われます。
今でこそ簡単に”矛盾”といえますが当時の彼は宗教と自然への理解は当然のごとく矛盾はあり得ず、矛盾があれば、それは宗教か自然か何れかへの自己の理解力の不足としてとらえ、さらに宗教への思索、自然への五感(この時代の科学は五感が重要でした)、自己の全ての思考、感覚を鋭く深く探求したに違いないと思います。

しかしながら矛盾は解消されない。
自己の能力を疑い、五感を含め全ての自己の感覚の何れをも疑う結果、全てを疑う事は、自己の存在でさえ疑うまでにいたり、
その自問自答の末に ”いや私はこうして考えている私は実在の何者でもない”存在そのものである! と確信する事になった。

よって ”我思う故に我あり”と 皆さんとは違った実在を肯定した意味にとらえています。
”私は宗教の導きでは自然を解ききれなかった、自然の理解に私の五感は無力、無意味なのか?
五感の疑いは即、自身の存在さえも疑える結果として 

 宗教 と 自然(科学) の矛盾 ー> 自己の宗教、自然認識への疑い ー> 自己否定
  ー> 探求者の深淵高邁なる導き ー> 結果”少なくとも探求者としての私はここに存在する”

という課程を 私 凡人としての理解があります。

無気力な言葉遊びなどでは決してなく世の中の真実を真摯に探求した苦渋の結果なのです。

現代版ではアインシュタイン(1879-1955)の”それでも神はサイコロを振らない”に通ずるような気がします。
同時代のガリレオ(1562-1642)では”それでも地球は動く”の表明は悲惨でした。
ちなみに デカルト(1596-1650)  ”我思う故に我あり”
おなじく  パスカル(1623-1662)は”人間は考える葦である”も浮かんできます。

以上 凡人の戯言ですのでお手柔らかに、ご容赦を。(年代、格言の参考 Wikipediaより)
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この回答へのお礼

皆さん、回答本当にありがとう御座いました。代表して一つのお礼とさせて頂きます。
僕は全ての回答を読み、色々と考えました。その結果、ある結論が出ました。それは、自分は理性主義に妄信し過ぎていたようだ、ということです。僕は、「AだからB」と言う風に、全てのことに理由があり、それを頼りにしていけば、正しく生きていける!、そう信じていました。そして、理性の極み、と思われた数学や物理に嵌っていました・・。どうやら理性や論理100%のブラック無糖では生きていけないですね。No.1の方の回答にもあるように、今の自分は1秒前は存在していなくて、自分は何者かが「今まで生きていた」という記憶を植えつけられただけの存在かもしれないとか、明日宇宙が消滅するかもしれないとか、ぶっ飛んだことをいわれても、確かに論理や理性はそれを否定することはできないですね。しかし、その可能性もあるのに、私たちは「生きている」んですよね。そんなことは決してない、と「無根拠」ではあるが信じているんですね。そこには、論理や理性などないですね!!ただあるのは、「こうありますように」という、「祈り」のようなものであるはずです。理性だけで生きていける!と思っていた僕ですが、何だか理性の限界を見た気がしました。そういった意味で、僕の世界観はこの「教えてgoo!」で変わりました。
他にも、デカルト解釈の甘さなどご指摘していただけて嬉しいです。これからはもっと哲学にも、精進しようと思います。
これから進学を控える僕は悩んでいましたが、何だか楽になり、スッーとした気分になれました。本当にありがとうございました!!!

お礼日時:2008/08/18 18:45

御質問者様は容認したのでしょうか。

でも、それを私は正しく知り得ないのです。

>本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」

それが、本当に正しく、真理だとは言えるし、ご自身は体感もするでしょう。それが本当に正しく真理だという私からの回答は御質問者様にとって無根拠です。

>なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
 そういう視点においては、人々が平然であるかどうか、人々が生きているかどうか、御質問者様には知るすべはありません。無根拠です。
 完全にこの視点のまま世間に目をやる意味はありません。

 御質問者様が「人々が平然と生きている」と認めているところに1+1=2が成立しているのです。
 だからでしょうね。平然と生きているのは・・・
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・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?



そうだね。 これ疑うのが一番の早道でしょう。
「我思うゆえに我あり」これ自体が子供じみてるし、真理ではないことは確かですね。理由をつけるとしたら、誰しも考えてるから、犬や猫だって考えてるよね、デカルトにいわれるまでもない程度のものだからね。こんな真理でもないものを土台にしたものに真理さえないよね。迷ったときは最初の思想を疑えは基本だね。
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 ANo.3に書いた通りではありますが、modoki666さんのANo.8の中段にあります、『自分が考えていること(事実たる行為)こそ自分の根拠ならです。

』までいたり、デカルトに関する理解を改め、且つ、深めました。
 1. 根拠は創造界におけるDroste効果的にいくらでも主格たる意識性は手繰っていくことになるでしょう。これを終局させるのは、創造という事実認識、事実を根拠とすることから飛び越えることでしょう。でも飛び越えた向こうからきている、主格意識(どこまでも手繰っていく)はそこからきているので、存在する。考えている(意識している)事実者、プロセスが存在する。そのものの確証根拠は得られなくても、それは存在している。ということかな
 2. 死体や物質、他人。自分としての主格意識が中に入っていない存在は、客体対象・objectである。そういう意味では主格は存在しない。確認証の外のものである。意識はない。でもその中に主格たる意識をいれられれば、それの存在は客体ではなくなる。その意味では確認証となる。
 3. 生きて存在している、自己の主格たる意識が依り代としているこの身はいかがか。実は之は自己たる主格の意識が、客体的に知覚・経験(行為を含む、行為には呼吸も入る、知覚も入る)している客体対象・objectである。(この私自身は、そういう瞬間に幼児のときからおちいり、不思議そうに自分の四肢やら体全体、周囲を見回して、奇妙な思いに入っていった) そういう意味で存在は確認証しているということはいえない。そこにころがる他人の死体と同じものである。
 4. そういうことで、デカルトとともに、自分という主格の意識がしている、経験と行為を確認証するだけにとどめています。
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デカルトが生きた時代は、キリスト教の教えが非常に強い時代でした。


キリスト教では、人間は神によって造られたとされています。
デカルトの頭の中に、
じゃあ、自分の全ては、神によって造られて支配されているというなら、「自分って何」という疑問が生まれます。
「自分」という根拠はなに?
「自分」というものはないの
それが、「我思うゆえに我あり」でしょう。
全てのものが人間が考え出したもので、無根拠で論理の裏打ちもなくて、間違っているかもしれない。
でも、自分が考えていることこそ自分の根拠なら、別にふざけるわけではありませんが、赤塚先生が漫画で書いた、「それでいいのだ!」ということでしょう。
それも多くの人たちが「思う」事を積み重ねて、それをデカルトが「思って」それで、デカルトの考えにいたるのでしょう。
永遠に人類が「真理」というものに到達できなくても、そんな能力ないのだとしても、「考えること」が自分の根拠なら考えればいいのではないでしょうか?
人々は平然と生きてもいないし、あなたの考えが間違ってるわけでもなく、デカルトの思想がおかしいのでもないと思うし、「覚悟の人々」でもないと思います。
もちろん、あなたのような疑問を持つ人もいるし他の疑問を持つ人もいる、自分の考え方一つでうれしかったり悲しかったり、人を怒らしたり、喜ばせたりするでしょう。
「真理」を得て、強くなって自分を安定させたい「自己」を強くしたいと考えるよりも、どんな状況でも考え続けた「自己」を持って、未知の事でもぶつかっていけるから、今があるのではないでしょうか?
もちろん様々な問題があるにしても。
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>雷を打たれたようにショック


まぁ~まぁだいじょうぶ?
「私以外の全ては無根拠」であることに、お悩みなのですか。
「私以外」どころか当の「私」自身だって無根拠かもしれません。
で?Et alors?(笑)

そうですねぇ、根拠があることがいいことばかりではないかもですよ。
たとえば…貴方の親御さんに「どうしてボクを産んだの?」と聞いたところ
「産むつもりなんかサラサラなかったんだけど、できちゃったから仕方なく、それだけ!」
とか或いは
「歳とって弱ったらメイッパイめんどうみてくれる人が必要だからねぇ。お前を頼りにしてるんだよ。ぜったい親を見捨てるんじゃないよ。そのために産んで、いっしょうけんめい育てたんだからね!」
とか
「実はね、いずれは秘かに殺してガッポリ保険金を狙うために産んだんだよぉ。。。」とか言われちゃったら。
産んだ根拠は根拠でも嬉しくないでしょう?

私はデカルトなんて難しそうなの読んだことないですから
>・僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など を参考にしたのですが)
>・それともデカルト思想がおかしいのですか?

については何とも申し上げられませんけど
>・人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生 きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

なかには、そんな人もいるかもしれませんが、殆どの人は、そんな悲壮なことはないんじゃないでしょうか。貴方御自身は現に「十字架を背負って生きている」「覚悟の人」ですか?

確かに論理の出発点である前提には実のところ何ら「根拠」と呼ぶに足るものはないのかもしれません。それでも、諸学問とりわけ科学の方面は、前提としての仮説を据えることで出発し発展させてきました。たとえフレイザーいわく
「真理とは結局、最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない」
のだとしても、こんにちに至るまで我々が享受してきた利益もまた大きいはずです。
科学って、すごく緻密なようでいて、けっこうテ・キ・トーかもしれませんよ(笑)
No.1さまやNo.2さまの仰ることも頷けます。

宗教的なあとづけというのも、たいへん伝統的なものですが、それだけ人というものは営々と根拠を求め続けてやまなかったのですね。イジラシイくらいですね。どうしてなんでしょうね~(笑)
宗教でも科学でも結局、出発点は同じことかもしれません。そして最終点においても。

デカルトは「Cogito, ergo sum.」という、あまりにも有名なコトバを残していますが、実は
「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので、論理的に真であるとは認められないのでは~?」(つんつんつんつく☆)
と突っつかれて
「こっこれは!霊的直感によって生まれた真理なのであり!霊的直感に哲学的証明はいらない」と答えてすましていた
らしいのです。(爆)

以下、御参考。
『デカルトの例の一句についてホントのところ、どうなんでしょう?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568

あと数学カテゴリーでの常時人気質問です。
『1+1=2の証明って?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
                    
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 認識の主体について こういう議論が出来るかと思います。



 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
 ▲ ______________________
  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
__________________________
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしています。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。
   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
    (方法序説 4)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
  (方法序説 2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
  ▲ ________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
____________________________________________________
 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしていますが 大目に見ておきましょう。
 《わたし》は どこへも行きません。いま ここに あります。
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その、デカルトと言う人、1+1がなんだかも分からない


ボンクラらしいので、教えてあげましょ。1+1は2ですよ。

1というのは単位です
例えば2+2=4のように
2は1が二つ集まっててそれが二つと二つを足すから4なんだよ
というように1は単位です
a+a=2aのように同じ単位なら計算ができます
しかし
みかんが一つ、みかんの皮をむいてでてきた実が3つだとすると
この足し算はできません
この場合
(1)a+3bとなるので
同じ単位どうしで足し算をするということは絶対条件であり
1+1は互いに同じ単位ということで問題は出されているので
1+1=2になります
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デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」が正しいとすれば、


他人からみればデカルトの存在も無根拠。
そんな人のいうことを素直に信じるほうがおかしいのでは。
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Qデカルト and self

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).

蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).
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Aベストアンサー

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。しかし、自然界が数学的に観測可能なものであるためには、それが生き物のように不規則な変化をしない、という前提を要求します。すなわち、後の時代に「ラプラスの魔」と評されるように、自然界は、(人間の肉体をも含めて)数学的必然性と原因性とに支配されていなければならなかったのです。
 ところが、当時の自然界についての考えの正当な流れは中世以来のスコラ哲学であり、その考えに従えば、自然界は神の意志に充たされたものであり神の意志によって息づいていました。福音書の言葉で言えば、神の許しがなければ一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)、ということになるのです。そのため、デカルトは自然の諸現象の説明原理から、物体に内在する意志とか魂のようなものを払拭する必要があったのです(また、デカルトよりも少し前の、ルネサンス期は、自然界を汎神論的に捉える神秘主義的傾向を強く有していたという問題もあります)。
 そのため、デカルトの、cogito ergo sum はデカルト自身の身体(物体)と思惟とを媒体にして物体と精神との分離を試みる考察をなしています。デカルトは、自分自身の身体が無かろうと疑っているかぎり思惟する精神は存在するのであるから、精神は物体とは独立に存在するとし、精神が物体とは別物であるならば、物体(身体)には何の精神的属性も、例えば、意志だとか欲求だとか思惟だとかいったものは属さない、とすることによって物体から精神的性質のすべてを除去することができると考えたのです。このような証明が果たして妥当なものかは、大きな疑問を残しますが、物体から精神的なもの全てを取り除くことによって、数学的要素、デカルトが重きを置くものとしては、特に幾何学的性質、すなわち、幅とか長さとか奥行きなどによって、自然界を精密に観測することが可能になると考えられていたのです。
 ですから、デカルトは、self と world とを、より厳密には、mental なものと corporeal なものとを分けて考えていましたし、少なくともそれらを分けて見せようとしていました。
 それゆえ、また、肉眼によって何かを見てそれが心の中に入ってくる、という立場は、基本的には、デカルトの存在論に反するものです(とはいえ、デカルトの研究には視神経がどのように脳に情報を伝えるのかを扱ったものなど、『省察』とは異なった性格の著作物もあります。私は、これらが、一体どのような企図からなされた研究なのかちょっと分かりません)。デカルトの認識論は、心の中に散在する様々な観念のうち、正しい観念とは何か、宇宙を忠実に再現(represent)している観念はどれなのか、を見出すことに終始しておりそれは一貫して心の中でのみ展開されます。
 示して下さったテクストのラテン語原文が手もとに無いのでちょっと自信がありませんが、英文テクストで指摘させていただくと、

what i believe i saw with my eyes

となっており

what i saw with my eyes

とはなっていないことがポイントです。つまり肉眼で何を見ていようとそれはどうでもよく、私が肉眼で見ていると「信じている」もの、心の中のものが認識の直接的な対象なのです。デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです。デカルトは、このような立場を支持する例として幻影肢すなわちケガや手術などで失った手足の感覚を持つという奇妙な現象を挙げていたと思います。すなわち、身体は感覚を持っていないのにもかかわらず、心はその感覚があるという観念を抱くのです。
 したがって、デカルトの理論によれば、自然界には魂を抜かれたパペット人形のようなものが練り歩いているのであって、その心はどこか別のところで自然界とは関係ない観念をあれこれと抱いているのです。このような結論は、あまりにも非常識で、デカルトという一人の人間が全面的にこれを支持していたとは少々考えにくいところがありますが、自然界を数学的に観測可能なものとして捉え直すというデカルトの哲学の動機に基づくかぎり、理屈上、物体(身体)の中に精神の諸属性を溶け込ませるわけにはいかなかったのです。
 そしてまた、この理論には、重大な欠陥がありました。それは、心の中において正しい観念を捉えたとして、それは、自然界とどう関わっているのか、それが自然界についての数学的な認識である以上、何らかの仕方で自然界と関わっているはずなのに、心と自然界とが完全に切り離されているとしたら、数学的な自然科学の基礎付けはやはり不可能になってしまうのではないか、という問題です。デカルトは、この問題を意識していた著作を残していなかったようです。それゆえ、これらの問題は、マールブランシュ(「すべての事物を神において見る」)、スピノザ(神という一個の実体の中での精神と物体という二つの属性)、そしてライプニッツ(予定調和説)といったいわゆる大陸合理論の大家に引き継がれていきます。なお、subject という哲学用語を今日のように「主観」「主体」の意味へと転換したのはライプニッツの業績です。それ以前は、subjective というと主観的なものではなく人間の思惟とは独立にある実体に関するものを指していたのに対し、objective というと客観的なものではなく人間の思惟に現れてくるものを指していました。

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。し...続きを読む

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Q空海の思想は、梵我一如思想と一線を画していたのでしょうか

私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。
その中に
「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」
とありました。
空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言われる教理面においても、あくまで実修を通してのみ確かな理解が可能のようにも思えます。
一般人が近ずけるのは、実証であるところの現世利益の面に限られてきてしまったように思えます。
学者からの目においても、遠巻きに論じられてきた感があります。
>空海の思想・・・云々・・・と言っても、果たしてそれが正鵠を射たものなのかどうか、疑問があります。
遠巻きの論評を参考にして、空海の思想の本質を探る事には無理があるのではないでしょうか(失礼ながら・・・)

少し大げさな表現かもしれませんが・・・
釈迦と空海は仏教史においての超弩級的な存在のようにも思えます。
空海の般若心経秘鍵に書かれていますが
釈迦が祇園精舎において、天人や菩薩に対して般若菩薩の印、真言、曼荼羅の法を説いたとあります。
これは釈迦が在世中に、既に密教の法を説いたという事にもなってしまいます。
この表現に対して仏教学者は一言も解釈をしていません。
解釈のしようが無いのでしょう、下手な解釈を下せば仏教思想の上で大変な事になってしまうからです。
空海が釈迦に等しい境地を得たことを現したもののようには思いますが
言い切ったところが凄いと思います。

この事一つをとってみても、空海の思想というものは
論評するのは自由だとしても、確かな解釈を下しずらいものだと思います。
しかし、その思想の本質の核そのものについては、一般人でも受け入れられる面があるようにも思えます。

加とは如来の大悲をいう
持とは衆生の信心をいう

空海の教えはこの言葉に尽きているとも言われます。
如来の大慈悲心を信じるという事ならば、我々一般人でも受け入れ易い教えになります。
加持というものを、ある方はこのように分かり易く言われたのを覚えています。
・・・真心で祈る・・・と
仏の大慈悲心を信じて、純粋な気持ちで祈るという事なのでしょう。

学ぶだけではなくて、祈る、というところに空海、お大師様の教えの本領があると思います。
そのあたりの事を念頭において学ばれる事をお勧めいたします。
ご参考になれば幸いです。

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言...続きを読む

Q原爆はデカルトがつくった?

原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。
デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。

もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、
近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かったことを言い出したことが、本質的に重要なことだと思います。この神懸かりは多分西洋文化を除いて、他の文化には出て来なかった不思議な視点だと思います。確かに、ピタゴラスがそのことについて触れておりますが、ギリシャも凋落し、アラビヤが辛うじてギリシャやローマの知的集積を細々と伝えていた状況でした。やはり、それより千数百年を隔てたガリレオの数学に対する神懸かりを待つしか無かったのでしょう。ガリレオがその当時知っていた数学は、現在日本で言う、足し算引き算掛け算割り算の算数と、幾何学と言う超初等的な数学だけでした。微分積分などの高度な数学は、ガリレオより数十年後に生まれたニュートンを待たなくては,生まれて来ませんでした。こんな未熟な算数しか知らないガリレオが、「数学は自然を記述する言語である」などと、ほとんど証拠もなしに言い出し狂気が、現在の技術と原爆への道を切り開いたのです。デカルトは、ガリレオの引いたレールの延長上を歩いていただけです。

また、近代科学と近代資本主義を並列に置くとは、何とも乱暴な対置ですね。例えば、現在の銀行制度のほとんど全ての制度が、戦国時代の堺の町で存在していたそうです。その堺人で知らなかった制度はクレジットカードだけでした。何故なら、その時代まだプラスティックが発明されていなかったからだ、という古典的なジョークがあるくらいです。

金儲けの資本主義制度と、科学的認識を一緒くたにするとは、何ともはや、乱暴と言うか、物の本質を見ていない見解ですね。経済活動は合理的でなくては出来ませんが、必ずしも科学的でなければ出来ないわけではありません。非科学的ではあるが合理的である社会の良い例が、現在のアメリカです。今現在アメリカ人の80%以上がダーウインの進化論を認めておらず、キリスト教の神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。しかし、アメリカ人は本質的にビジネスマンですので、彼らは大変合理的です。合理的でなければ,ビジネスは出来ませんからね。また、経済活動は軍事力の発展も促すのもであり、その結果、欧米が経済的にも軍事的にも覇を握っているのです。覇権を握っていることと、高度な知的文化を持っていることを混同しては行けません。

こと程左様に科学的であるとこと、合理的であることは,同じことではないのです。それなら何処が違うのか、質問者さんご自身でその答えを見付けて下さい。我々は、科学的な社会を目指しているのか、合理的な社会を目指しているのか、それともそれとは何か違った社会を目指しているのか、面白い問題ですね。

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かっ...続きを読む

Q西洋思想と東洋思想との比較思想について学ぶにはどうすればいいでしょうか

私は西洋哲学(主に分析哲学)や仏教哲学(インド・チベット中観思想、唯識思想、日本仏教思想、西田哲学)に興味を持っており、その両者を比較して研究することにも関心があります。
そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
 比較思想研究を試みている人は多く、仏教学者では中村元、三枝充悳の名が挙がりますが、やはり井筒俊彦の著作は必読です。

 比較思想といったら京都学派の名が挙がりますが、問題も多いです。ハイデガーを禅の用語を使って訳してますが(『時と有』・・・。
 研究は基本的に原典の読み込みから出発しますので、文献学をしっかりと学べる大学が宜しいと思われます(以外に文献を読めない人が多く、特に仏教関係の読みはデタラメで、まともに読めている人はほんの一握りしかいません)。
 

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を...続きを読む

Qチョムスキー「デカルトの問い」

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの問いであり、それは我々が、言語使用の創造的一面とでも呼ぶモノを説明している。
(大雑把な解釈で申し訳ありません)
その後に、
Descartes and his followers observed that the normal use of language is constantly innovative, unbounded, apparently free from control by external stimuli or internal states, coherent and appropriate.
(訳:デカルトと彼の弟子たちは、通常の言語使用は制約がなく、斬新で、刺激や抑制から独立したものだが、それでいて、首尾一貫して状況にふさわしいものであることを発見した。)

とあります。
デカルトの思考は
「無生物の物体や生物の世界と人間の身体の作用のあらゆる現象は、機械のふるまいという観点から説明することができ、すべて機械の部分部分の振る舞いと外部環境から決定することができる」
(デカルトの身体論より引用)
ではないのですか?
これでは上記の文と相反する内容になってしまうと思うのですが…

デカルトの問いに関して、チョムスキーが何を述べているのかよくわかりません。
ご回答よろしくお願いします。

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの...続きを読む

Aベストアンサー

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門ではないので、あまり深入りしないことにしましょう。

さて、チョムスキーが「言語使用は創造的だ」というとき、それは、「人はこれまでに見たことも聞いたこともない文を発することができるし、理解することができる」と言う意味です。

また、「言語使用に制限がない」とは、「人は無限の数の文を発する(理解する)ことができる」ということです。

とすると、人間の「心/脳」(mind/brain)の中に、全ての言語表現が収められているはずがない。では、「心/脳」には何があるのか? 無限の数の文を発する(理解する)ためのシステム、つまり文法である。言い換えれば、無限の言語表現を生成できる有限の計算機構である。

システム(文法)自体は一種の機械のようなものです。
これでつながりませんか?

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門では...続きを読む

Qあなたが生きていくゆえで、大切にしたいものを教えてください。

あなたが生きていくゆえで、大切にしたいものを教えてください。

まだ、人生経験が乏しい私ですが、今現在の私が、大切にしてゆきたいものは、「家族」「穏やかな暮らし」です。

今は、未婚なので、親元で暮らしています。

いつかは、結婚し、愛する人と家庭を築き、その人の子供を宿し、生み育て、一緒に親業をつみたいです。
つつましい暮らしでも良いので、家族仲良く、元気で、笑いがあり、温かく穏やかな暮らしをしながら、双方の両親を大事にして、暮らしてゆきたいです。

まだ、発展途上の未熟な私です。
人生経験豊富な皆様、ご意見、他にも大切にした方が良いもののアドバイス、お考えを教えてください。

Aベストアンサー

自分自身です。
傲慢なように聞こえるかもしれませんが、
意外に大事にしていない人が多いように思います。
自分を大事にすることは他人を大事にすることと同じことだと思っています。
自分を大事にできない人は結局環境や他人に依存しすぎるため、
周りに迷惑をかけてしまいます。

例えば、自分を押し殺してまで他人に合わせて、
はたして合わせてもらった相手は貴方が合わせていたことを知って喜ぶか。
私だったらどんなに相手が好きでも無理しているなら言ってほしい、
またはそんな付き合いだったらいりません。
自己犠牲する人は見せかけは良い人のようですが、結局は自分が嫌われたくない、
自己保身が根底にあることが多いです。
悪いことは悪いと相手に言ってあげることが本当の優しさでもあるのに。

家族を大事にするということもしかり、
人とかかわっていく上で、重要なことだと思います。
自分を大事にせず、他の人ばかりを大事に扱う人は、
結局のところ他人も大事にしていないことと同じなんです。
深い人間関係を構築していくには自分を持ち、
相手と同じだけ自分を尊重することが必要だと思います。
その上で初めて他人の気持ちを推し量ることができるのだと・・。

本当に自分自身を尊重し、大事にし、見つめている人は、
真摯で周囲との調和を気にし客観性を持つ性根が優しい人が多いです。
なので「自分」を大切にすることで
その「自分」と関わったすべての人や物事を大事にしたいです。

自分自身です。
傲慢なように聞こえるかもしれませんが、
意外に大事にしていない人が多いように思います。
自分を大事にすることは他人を大事にすることと同じことだと思っています。
自分を大事にできない人は結局環境や他人に依存しすぎるため、
周りに迷惑をかけてしまいます。

例えば、自分を押し殺してまで他人に合わせて、
はたして合わせてもらった相手は貴方が合わせていたことを知って喜ぶか。
私だったらどんなに相手が好きでも無理しているなら言ってほしい、
またはそんな付き合いだった...続きを読む

Qデカルト主義者について教えて下さい

 質問はタイトルどおりなんです。
デカルト主義者と呼ばれる人たちが、近代科学の
発展にいかに貢献し、またときには邪魔してきたか
ということ知りたいのです。

1)デカルト主義者とはどうゆう人たち(その定義は?)
2)デカルト主義者と呼ばれた人には具体的に 
 どんな人がいたのか?(具体的名前、その活動)
3)デカルト主義者たちは、アイザック・ニュートンの
 物理学書プリンキピアをどう捉えていたのか?

 以上の3点、もしくは3点の参考になりそうなこと
お教え下さい。
 また、私の疑問に答えてくれそうな本などありました
ご紹介下さい。洋書、和書を問いません。英文はOK
ですが、フランス語の文献も、それが1番いいと
お勧めならトライしてみます。ドイツ語は専門書の
レベルは今すぐ読みこなせないと思いますが、
これがお勧めということでしたら、ご紹介下さい。

Aベストアンサー

1)「デカルト主義者」(Cartesian)というのは、本来はただ「デカルトの思想あるいは方法を信奉する人」という意味で、それ以上の定義はありません。

1.一番狭い意味での「デカルト主義者」というのは、「17世紀後半から18世紀前半にかけてのフランス、オランダで、デカルトの思想を支持した人たち」のことです。その中には、日本でよく知られている人はほとんどいません。

2.広い意味で「デカルト主義者」という場合、デカルトの思想のどの部分を重視するかによって意味がちがいます。比較的共通する特徴は
(1)理性によって吟味して確実と思われることしか信じない。(感覚や経験や常識を疑わしいものとする)
(2)感情に左右されず、理性と意志に基づいて生きる。
(3)精神と物質を全く違ったものとみなす。
(4)「考える私」の存在を絶対に確実なものとする。
といったところでしょうか。

2)「狭い意味でのデカルト主義者」は、フランスでは、レジス、アルノー、フォントネル、マールブランシュ
オランダではレギウス、ゲーリンクスなど。
「広い意味でのデカルト主義者」ということになるといろいろで、極端な場合は、(経験主義者でない)「合理主義者、理性主義者」のすべてを指すこともあります。
20世紀の哲学者では、「現象学」の創始者であるフッサールに『デカルト的省察』という著作があり、彼は自分がある意味でデカルト主義者であることを認めています。
また、文学者、詩人として有名なヴァレリーも、デカルト主義者であることを自認しています。

3)デカルトの自然学では、「真空」というものはなく、力は接触している物体の間でしか働かないものとされていました。だからデカルトの説の支持者たちは、力を伝える物質なしに離れた物体に作用する万有引力は、神秘的で不合理なものであるといって、プリンキピアを批判しました。

3)のように、自然学(物理学)の上でデカルトの思想が果たした役割が知りたいのであれば、次のような本が参考になるでしょう。

山本義隆『重力と力学的世界』
バターフィールド『近代科学の誕生』
コイレ『コスモスの崩壊―閉ざされた世界から無限の宇宙へ』

1)「デカルト主義者」(Cartesian)というのは、本来はただ「デカルトの思想あるいは方法を信奉する人」という意味で、それ以上の定義はありません。

1.一番狭い意味での「デカルト主義者」というのは、「17世紀後半から18世紀前半にかけてのフランス、オランダで、デカルトの思想を支持した人たち」のことです。その中には、日本でよく知られている人はほとんどいません。

2.広い意味で「デカルト主義者」という場合、デカルトの思想のどの部分を重視するかによって意味がちがいます。比較的共通す...続きを読む

Qスピリチュアリズム・スピリチュアは根拠のある理論・思想だと思いますか?

スピリチュアリズム・スピリチュアは根拠のある理論・思想だと思いますか?
根拠を添えてお答えください。

Aベストアンサー

一部の人の妄想・幻想

魂があるという根拠の理論・思想であり、確立されていない根拠の下で派生した一部の人々の想像や妄想の集合体がスピリチュアリズム。

人生論など、一部生きる上での格言めいた正論を織り交ぜて語られていることから現在信奉者は多いが、この手の妄言は山ほどある。

例えれば創価学会やオウムなどと同じ危険思想もはらんでいる。


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