デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

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A 回答 (13件中1~10件)

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?



ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過ぎ
今ままでに色んな考え方や哲学が生み出されてきた
デカルトの思想はそのうちの一つでしかない


>・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?

まあ、甘い点があるよね
確かに全ての事柄は無根拠であると言えるけど、それを言ったところで何?って話でしょ
(凄く簡単に説明してます。多分、この辺りを真面目に説明するとここでは書ききれない)
ついでに他の方も回答されているけど、自分自身の存在自体証明不可能なんだよ
であれば、デカルトの思想の根幹が揺らいでしまう


>・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きてい
>る「覚悟の人々」なのでしょうか?

一番最初に答えたように、デカルトの思想自体を知らない人もいるよ
ついでに言えば、その思想を知っていても、覚悟なんかなくても普通に生活できると知っているというところかな

存在の証明ができなくても「実際に存在している物は存在している」
それを前提としなければ頭でっかちの、悲壮感だらけの事しか考えられない人間になるだけ
正確には、時にはデカルトの思考について考えるのは温故知新として必要だけど、古い時代の考えから前に進まなきゃ何も始まらない


ちなみに全ての存在の証明が無いとご質問者様は生きていけないのかい?
自分が好きな物や人の存在が証明できなかったら、ご質問者様はその好きな物を嫌いになるのかい?


また物の価値なんて自分で決める事



PS.哲学する事はいい事だと思ってます。ただし、頭でっかちになっちゃダメだよ。理論じゃ説明(証明)できない事も多々あるって考えていた方が真理に辿り着く早道だと思うしね
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ある本(忘れました)により、まさに”目から鱗”のように凡人なりの理解を得ました。


それまではある種独特な才能の人々の禅問答的なお遊びと思っていました。

重要なのは次の3つの彼の時代背景、彼の職業、彼の研究対象の理解です。

ー1- 彼の時代は宗教が全を支配した時代でした。
      宗教は真理そのものであり、いかなる分野に置いてもその中心は宗教でした。
ー2- 彼は熱心で敬虔な宗教家として地位を得ていました。
      宗教家としてその歴史の研究者、探求者として、自他共に受け入れられていた。
ー3ー 自然の仕組みに鋭い観察力と探求心をもって日々送った。
      今で言う科学者としての資質に恵まれ、現在の数億から数千億の設備に支えられた
      先端科学ではない、多くを自己の五感に頼るしかない時代での自然界の営みと、宗教の教えの
      ”矛盾なき統一問題”が当時の全ての学問の目的でした。

当然 絶対的な宗教と自然観察からなる科学的理解の狭間で生ずる矛盾に悩んだと思われます。
今でこそ簡単に”矛盾”といえますが当時の彼は宗教と自然への理解は当然のごとく矛盾はあり得ず、矛盾があれば、それは宗教か自然か何れかへの自己の理解力の不足としてとらえ、さらに宗教への思索、自然への五感(この時代の科学は五感が重要でした)、自己の全ての思考、感覚を鋭く深く探求したに違いないと思います。

しかしながら矛盾は解消されない。
自己の能力を疑い、五感を含め全ての自己の感覚の何れをも疑う結果、全てを疑う事は、自己の存在でさえ疑うまでにいたり、
その自問自答の末に ”いや私はこうして考えている私は実在の何者でもない”存在そのものである! と確信する事になった。

よって ”我思う故に我あり”と 皆さんとは違った実在を肯定した意味にとらえています。
”私は宗教の導きでは自然を解ききれなかった、自然の理解に私の五感は無力、無意味なのか?
五感の疑いは即、自身の存在さえも疑える結果として 

 宗教 と 自然(科学) の矛盾 ー> 自己の宗教、自然認識への疑い ー> 自己否定
  ー> 探求者の深淵高邁なる導き ー> 結果”少なくとも探求者としての私はここに存在する”

という課程を 私 凡人としての理解があります。

無気力な言葉遊びなどでは決してなく世の中の真実を真摯に探求した苦渋の結果なのです。

現代版ではアインシュタイン(1879-1955)の”それでも神はサイコロを振らない”に通ずるような気がします。
同時代のガリレオ(1562-1642)では”それでも地球は動く”の表明は悲惨でした。
ちなみに デカルト(1596-1650)  ”我思う故に我あり”
おなじく  パスカル(1623-1662)は”人間は考える葦である”も浮かんできます。

以上 凡人の戯言ですのでお手柔らかに、ご容赦を。(年代、格言の参考 Wikipediaより)
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この回答へのお礼

皆さん、回答本当にありがとう御座いました。代表して一つのお礼とさせて頂きます。
僕は全ての回答を読み、色々と考えました。その結果、ある結論が出ました。それは、自分は理性主義に妄信し過ぎていたようだ、ということです。僕は、「AだからB」と言う風に、全てのことに理由があり、それを頼りにしていけば、正しく生きていける!、そう信じていました。そして、理性の極み、と思われた数学や物理に嵌っていました・・。どうやら理性や論理100%のブラック無糖では生きていけないですね。No.1の方の回答にもあるように、今の自分は1秒前は存在していなくて、自分は何者かが「今まで生きていた」という記憶を植えつけられただけの存在かもしれないとか、明日宇宙が消滅するかもしれないとか、ぶっ飛んだことをいわれても、確かに論理や理性はそれを否定することはできないですね。しかし、その可能性もあるのに、私たちは「生きている」んですよね。そんなことは決してない、と「無根拠」ではあるが信じているんですね。そこには、論理や理性などないですね!!ただあるのは、「こうありますように」という、「祈り」のようなものであるはずです。理性だけで生きていける!と思っていた僕ですが、何だか理性の限界を見た気がしました。そういった意味で、僕の世界観はこの「教えてgoo!」で変わりました。
他にも、デカルト解釈の甘さなどご指摘していただけて嬉しいです。これからはもっと哲学にも、精進しようと思います。
これから進学を控える僕は悩んでいましたが、何だか楽になり、スッーとした気分になれました。本当にありがとうございました!!!

お礼日時:2008/08/18 18:45

御質問者様は容認したのでしょうか。

でも、それを私は正しく知り得ないのです。

>本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」

それが、本当に正しく、真理だとは言えるし、ご自身は体感もするでしょう。それが本当に正しく真理だという私からの回答は御質問者様にとって無根拠です。

>なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
 そういう視点においては、人々が平然であるかどうか、人々が生きているかどうか、御質問者様には知るすべはありません。無根拠です。
 完全にこの視点のまま世間に目をやる意味はありません。

 御質問者様が「人々が平然と生きている」と認めているところに1+1=2が成立しているのです。
 だからでしょうね。平然と生きているのは・・・
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・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?



そうだね。 これ疑うのが一番の早道でしょう。
「我思うゆえに我あり」これ自体が子供じみてるし、真理ではないことは確かですね。理由をつけるとしたら、誰しも考えてるから、犬や猫だって考えてるよね、デカルトにいわれるまでもない程度のものだからね。こんな真理でもないものを土台にしたものに真理さえないよね。迷ったときは最初の思想を疑えは基本だね。
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 ANo.3に書いた通りではありますが、modoki666さんのANo.8の中段にあります、『自分が考えていること(事実たる行為)こそ自分の根拠ならです。

』までいたり、デカルトに関する理解を改め、且つ、深めました。
 1. 根拠は創造界におけるDroste効果的にいくらでも主格たる意識性は手繰っていくことになるでしょう。これを終局させるのは、創造という事実認識、事実を根拠とすることから飛び越えることでしょう。でも飛び越えた向こうからきている、主格意識(どこまでも手繰っていく)はそこからきているので、存在する。考えている(意識している)事実者、プロセスが存在する。そのものの確証根拠は得られなくても、それは存在している。ということかな
 2. 死体や物質、他人。自分としての主格意識が中に入っていない存在は、客体対象・objectである。そういう意味では主格は存在しない。確認証の外のものである。意識はない。でもその中に主格たる意識をいれられれば、それの存在は客体ではなくなる。その意味では確認証となる。
 3. 生きて存在している、自己の主格たる意識が依り代としているこの身はいかがか。実は之は自己たる主格の意識が、客体的に知覚・経験(行為を含む、行為には呼吸も入る、知覚も入る)している客体対象・objectである。(この私自身は、そういう瞬間に幼児のときからおちいり、不思議そうに自分の四肢やら体全体、周囲を見回して、奇妙な思いに入っていった) そういう意味で存在は確認証しているということはいえない。そこにころがる他人の死体と同じものである。
 4. そういうことで、デカルトとともに、自分という主格の意識がしている、経験と行為を確認証するだけにとどめています。
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デカルトが生きた時代は、キリスト教の教えが非常に強い時代でした。


キリスト教では、人間は神によって造られたとされています。
デカルトの頭の中に、
じゃあ、自分の全ては、神によって造られて支配されているというなら、「自分って何」という疑問が生まれます。
「自分」という根拠はなに?
「自分」というものはないの
それが、「我思うゆえに我あり」でしょう。
全てのものが人間が考え出したもので、無根拠で論理の裏打ちもなくて、間違っているかもしれない。
でも、自分が考えていることこそ自分の根拠なら、別にふざけるわけではありませんが、赤塚先生が漫画で書いた、「それでいいのだ!」ということでしょう。
それも多くの人たちが「思う」事を積み重ねて、それをデカルトが「思って」それで、デカルトの考えにいたるのでしょう。
永遠に人類が「真理」というものに到達できなくても、そんな能力ないのだとしても、「考えること」が自分の根拠なら考えればいいのではないでしょうか?
人々は平然と生きてもいないし、あなたの考えが間違ってるわけでもなく、デカルトの思想がおかしいのでもないと思うし、「覚悟の人々」でもないと思います。
もちろん、あなたのような疑問を持つ人もいるし他の疑問を持つ人もいる、自分の考え方一つでうれしかったり悲しかったり、人を怒らしたり、喜ばせたりするでしょう。
「真理」を得て、強くなって自分を安定させたい「自己」を強くしたいと考えるよりも、どんな状況でも考え続けた「自己」を持って、未知の事でもぶつかっていけるから、今があるのではないでしょうか?
もちろん様々な問題があるにしても。
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>雷を打たれたようにショック


まぁ~まぁだいじょうぶ?
「私以外の全ては無根拠」であることに、お悩みなのですか。
「私以外」どころか当の「私」自身だって無根拠かもしれません。
で?Et alors?(笑)

そうですねぇ、根拠があることがいいことばかりではないかもですよ。
たとえば…貴方の親御さんに「どうしてボクを産んだの?」と聞いたところ
「産むつもりなんかサラサラなかったんだけど、できちゃったから仕方なく、それだけ!」
とか或いは
「歳とって弱ったらメイッパイめんどうみてくれる人が必要だからねぇ。お前を頼りにしてるんだよ。ぜったい親を見捨てるんじゃないよ。そのために産んで、いっしょうけんめい育てたんだからね!」
とか
「実はね、いずれは秘かに殺してガッポリ保険金を狙うために産んだんだよぉ。。。」とか言われちゃったら。
産んだ根拠は根拠でも嬉しくないでしょう?

私はデカルトなんて難しそうなの読んだことないですから
>・僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など を参考にしたのですが)
>・それともデカルト思想がおかしいのですか?

については何とも申し上げられませんけど
>・人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生 きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

なかには、そんな人もいるかもしれませんが、殆どの人は、そんな悲壮なことはないんじゃないでしょうか。貴方御自身は現に「十字架を背負って生きている」「覚悟の人」ですか?

確かに論理の出発点である前提には実のところ何ら「根拠」と呼ぶに足るものはないのかもしれません。それでも、諸学問とりわけ科学の方面は、前提としての仮説を据えることで出発し発展させてきました。たとえフレイザーいわく
「真理とは結局、最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない」
のだとしても、こんにちに至るまで我々が享受してきた利益もまた大きいはずです。
科学って、すごく緻密なようでいて、けっこうテ・キ・トーかもしれませんよ(笑)
No.1さまやNo.2さまの仰ることも頷けます。

宗教的なあとづけというのも、たいへん伝統的なものですが、それだけ人というものは営々と根拠を求め続けてやまなかったのですね。イジラシイくらいですね。どうしてなんでしょうね~(笑)
宗教でも科学でも結局、出発点は同じことかもしれません。そして最終点においても。

デカルトは「Cogito, ergo sum.」という、あまりにも有名なコトバを残していますが、実は
「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので、論理的に真であるとは認められないのでは~?」(つんつんつんつく☆)
と突っつかれて
「こっこれは!霊的直感によって生まれた真理なのであり!霊的直感に哲学的証明はいらない」と答えてすましていた
らしいのです。(爆)

以下、御参考。
『デカルトの例の一句についてホントのところ、どうなんでしょう?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568

あと数学カテゴリーでの常時人気質問です。
『1+1=2の証明って?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
                    
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 認識の主体について こういう議論が出来るかと思います。



 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
 ▲ ______________________
  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
__________________________
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしています。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。
   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
    (方法序説 4)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
  (方法序説 2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
  ▲ ________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
____________________________________________________
 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしていますが 大目に見ておきましょう。
 《わたし》は どこへも行きません。いま ここに あります。
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その、デカルトと言う人、1+1がなんだかも分からない


ボンクラらしいので、教えてあげましょ。1+1は2ですよ。

1というのは単位です
例えば2+2=4のように
2は1が二つ集まっててそれが二つと二つを足すから4なんだよ
というように1は単位です
a+a=2aのように同じ単位なら計算ができます
しかし
みかんが一つ、みかんの皮をむいてでてきた実が3つだとすると
この足し算はできません
この場合
(1)a+3bとなるので
同じ単位どうしで足し算をするということは絶対条件であり
1+1は互いに同じ単位ということで問題は出されているので
1+1=2になります
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デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」が正しいとすれば、


他人からみればデカルトの存在も無根拠。
そんな人のいうことを素直に信じるほうがおかしいのでは。
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Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Q空海の思想は、梵我一如思想と一線を画していたのでしょうか

私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。
その中に
「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」
とありました。
空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言われる教理面においても、あくまで実修を通してのみ確かな理解が可能のようにも思えます。
一般人が近ずけるのは、実証であるところの現世利益の面に限られてきてしまったように思えます。
学者からの目においても、遠巻きに論じられてきた感があります。
>空海の思想・・・云々・・・と言っても、果たしてそれが正鵠を射たものなのかどうか、疑問があります。
遠巻きの論評を参考にして、空海の思想の本質を探る事には無理があるのではないでしょうか(失礼ながら・・・)

少し大げさな表現かもしれませんが・・・
釈迦と空海は仏教史においての超弩級的な存在のようにも思えます。
空海の般若心経秘鍵に書かれていますが
釈迦が祇園精舎において、天人や菩薩に対して般若菩薩の印、真言、曼荼羅の法を説いたとあります。
これは釈迦が在世中に、既に密教の法を説いたという事にもなってしまいます。
この表現に対して仏教学者は一言も解釈をしていません。
解釈のしようが無いのでしょう、下手な解釈を下せば仏教思想の上で大変な事になってしまうからです。
空海が釈迦に等しい境地を得たことを現したもののようには思いますが
言い切ったところが凄いと思います。

この事一つをとってみても、空海の思想というものは
論評するのは自由だとしても、確かな解釈を下しずらいものだと思います。
しかし、その思想の本質の核そのものについては、一般人でも受け入れられる面があるようにも思えます。

加とは如来の大悲をいう
持とは衆生の信心をいう

空海の教えはこの言葉に尽きているとも言われます。
如来の大慈悲心を信じるという事ならば、我々一般人でも受け入れ易い教えになります。
加持というものを、ある方はこのように分かり易く言われたのを覚えています。
・・・真心で祈る・・・と
仏の大慈悲心を信じて、純粋な気持ちで祈るという事なのでしょう。

学ぶだけではなくて、祈る、というところに空海、お大師様の教えの本領があると思います。
そのあたりの事を念頭において学ばれる事をお勧めいたします。
ご参考になれば幸いです。

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言...続きを読む

Q真理概念について整合説と合意説と存在の真理と…あと一つは?皆さんにとって真理とは?(>0<)

初めまして(^^)最近哲学について勉強する機械があって、「真理概念」というものを知りました(考えすぎるとキリがないけど面白いなぁと思いました☆)。そこで、
整合説(命題と命題の整合・不整合について)と
合意説(合意できるものを真理とする)と
存在の真理(ありのまま)
この3つとあと一つ何かあったき気がするんですが思い出せません…検索しても上手く見つけられなくて…(><)他に何か有名な真理概念があれば教えて頂けないでしょうか?(>0<)
あと、これをふまえて自分にとって「真理って何かな…?」て考えた時、私はこの中では「存在の真理(ありのまま)」が自分の考え方に近いかな~と思うのですが、皆さんは「真理」とは何だと思いますか?(^^)(上記以外の考え方でも良いです!)
好奇心というか参考にしたいなぁと思ってるので、もしよろしければ教えて頂けないでしょうか?たくさんご意見頂けると嬉しいです!(>∀<)

Aベストアンサー

真理とは何か?
これは、認識論のメインテーマでしょうね。

真理=あるがままの現実をあるがままに反映した観念や判断。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、この「あるがまま論」が妥当であろうと思います。
ただ、「あるがまま論=鏡に映った像論」という解釈ではありません。

ところで、あるがままの現実をあるがままに反映するためには何がしかの実践が必ず介在。
で、実践を通じて<本当にあるがままか?>は検証されてより確かになっていくでしょう。
「あるがまま論」が単なる「鏡に映った像論」ではないという理由です。

たとえば、「宇宙の年齢は約130億年」は、現時点での「あるがまま論」が指し示す真理。
私は、30世紀においても、これが真理であり続けている保証はどこにもないと思っています。
真理の実践における検証レベルは、時代的制約、個人的制約などを必ず伴います。
ですから、「これが100%正しい究極の真理」を21世紀の今日で知ることは不可能でしょう。
これは、平安時代や江戸時代の文献にみられる真理と今日の真理を対比すれば判ります。
30世紀の人々も21世紀初頭の真理を同じような思いを持って見ることでしょう。
ですから、「あるがまま論」のいう真理は相対的なそれであって絶対的なそれではありません。

概ね、これが私が納得している真理論の骨格です。

真理とは何か?
これは、認識論のメインテーマでしょうね。

真理=あるがままの現実をあるがままに反映した観念や判断。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、この「あるがまま論」が妥当であろうと思います。
ただ、「あるがまま論=鏡に映った像論」という解釈ではありません。

ところで、あるがままの現実をあるがままに反映するためには何がしかの実践が必ず介在。
で、実践を通じて<本当にあるがままか?>は検証されてより確かになっていくでしょう。
「...続きを読む

Q西洋思想と東洋思想との比較思想について学ぶにはどうすればいいでしょうか

私は西洋哲学(主に分析哲学)や仏教哲学(インド・チベット中観思想、唯識思想、日本仏教思想、西田哲学)に興味を持っており、その両者を比較して研究することにも関心があります。
そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
 比較思想研究を試みている人は多く、仏教学者では中村元、三枝充悳の名が挙がりますが、やはり井筒俊彦の著作は必読です。

 比較思想といったら京都学派の名が挙がりますが、問題も多いです。ハイデガーを禅の用語を使って訳してますが(『時と有』・・・。
 研究は基本的に原典の読み込みから出発しますので、文献学をしっかりと学べる大学が宜しいと思われます(以外に文献を読めない人が多く、特に仏教関係の読みはデタラメで、まともに読めている人はほんの一握りしかいません)。
 

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を...続きを読む


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