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No.5ベストアンサー
- 回答日時:
前置 夢を壊すようですが、刀を背負って活躍する、かっこいい女忍者「くのいち」は、実在しなかったと言うのが定説です。
そのような撹乱、破壊工作でなく情報集めの諜報活動には、女忍は重宝されました。
トリビアですが、忍術伝書「万川集海」の中の忍具から一つ。
「聞金 ききがね」上下の材質の異なる薄い金属板で、細い糸でつるして耳に近ずけると、音が増幅して聞こえるとか。?
ご回答ありがとうございます。
夢が壊れるようなネタでも大歓迎です。^^
聞金については、下調べしたときにでてこなかった項目なので
興味深いです。
No.11
- 回答日時:
NO7.です。
これなんかいかがでしょう。
猿飛佐助と霧隠才蔵は「架空の人物」であった。
猿飛佐助・・・真田軍団の立役者――というよりは、むしろ『立川文庫』の大隆盛に貢献した最大の功労者というべきであろう。もちろん、架空の人物であり、真田家の史書にも、『真田三代記』にも、その名は見当たらない。『立川文庫』では、佐助は、信州鳥居峠のふもとに住む郷士鷲塚佐太夫の息子ということになっており、甲賀忍者の戸沢白雲斎の教えを受けて免許皆伝の域に達したとされている。たまたま、鳥居峠に猪狩りに訪れた幸村とめぐり合い、その技を披瀝して郎党に加えられたのが、そもそもの真田との因縁だったという。以後の佐助は、まさに神出鬼没の大活躍で、真田軍団にとってはなくてはならぬ立役者となり、その後の忍者ブームを盛り上げていく。右の写真のような忍者装束を着ていたと思われる。
霧隠才蔵・・・霧隠鹿右衛門という忍者が、幸村の命を受けて家康の動静を探ったのは大坂冬の陣の折りのことである。『真田三代記』の中のこの記述を、『立川文庫』の製作者たちは、巧みに伊賀忍法の名人に仕立て上げ、鹿右衛門というもっともらしい名は切り捨て、霧隠という姓は抜け目なく取り込んで霧隠才蔵なる人物を誕生させたわけである。才蔵は、諸国漫遊中の猿飛佐助と忍術くらべして技を競い合った後、佐助に誘われて十勇士の一人に加わったということになっている。『立川文庫』では才蔵は、伊賀名張の住人百地三太夫を師として忍法を修め、名だたる大盗賊石川五右衛門とも同門だったとされている。
No.10
- 回答日時:
百地(ももち)三大夫は史料には見当たらないそうです。
「絵本太閤記」に初登場しました。 その後物語、小説でもてもてです。
百地家の統領、百地丹波という上忍が実在して墓もあるそうで、これがモデルのようです。
百地家、または百々家といいます。
藤林長門は実在人物で同様墓があるそうです。 だが百地丹波と別人かどうか判らぬ節が多少あります。
戒名は一字ちがうだけで、また二箇所に墓のある例は珍しくないからです。
富士林家ともいいます。
トリビアからすこし外れますが。
No.8
- 回答日時:
忍者といえば、服部くん、猿飛佐助、霧隠才蔵?
時代小説で大活躍します。ビデオで「忍びの者」を見たことがあります。古すぎるか?市川雷蔵主演、山本薩夫監督?
隆慶一郎さんの時代小説に、忍者が登場します。「花の慶次・・・雲のかなたに」ジャンプコミック全18巻。四井主馬、加賀忍群の棟梁、各大名が抱えた地方の忍者、風魔、前田慶次郎は、甲賀の体術を使えた。
くのいち、殿方の夜の接待が、おもなお仕事です。まあ、男勝りの、おんな忍びの者も、いたとは思いますが。
本気で忍術の修行をしたいのなら、古武術の「甲野善紀」さんに弟子入りしてください。手裏剣、体術、居合、剣術、なんでもありです。
http://www.shouseikan.com/
No.7
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
「トリビア」のような意外性はないかもしれませんが、私の知る範囲のことをお話しさせていただきます。
☆忍者とは
起源は、聖徳太子の側近の大伴息人(おおとものそくじん)が記した書の中に「志能便(しのび)」がはじまりとされている。名実ともに特殊技術と認められるようになったのは、奈良朝中期に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が中国からもたらした「孫子」の中にスパイ術が書かれてあり、これを源とする。
☆忍者の原形
修験者が体得し広めていった。貴族が信仰するような優雅な仏教文化と違い、修験者は眼に見える現世的な力を見せて、庶民仏教として受け入れられことを目指した。そこで、山中などの厳しい環境に身を置き、気合術、催眠術、医療術などを体得していった。これらの技術は日々進歩し、長く伝わっていった。
☆「陽忍」と「陰忍」
まず、「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技(わざ)」を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流(ぎけいりゅう)」に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。これに対して、「陽忍(ようにん)」は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流(くすのきりゅう)」を受け継いだといわれている。
☆忍者の格
忍者のランクとしては、「上忍(じょうにん)」、「中忍(ちゅうにん)」、「下忍(げにん)」の3階級に分かれる。「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。
☆伊賀と甲賀
どちらも、自然的条件がそなわっていた。まず、伊賀(三重県)であるが、鈴鹿山系と笠置山系に囲まれ、外界からは隔絶していた。山岳修験者が好む山あり谷ありの絶好の修行場であった。また、京にも近く、古来より戦いの進撃路でもあり、敗残兵の潜入場所にもなった。宗家の「服部家」は、その土地の豪族であった。服部家は家康に仕え江戸時代に全盛期を迎えた。「半蔵門」は服部半蔵から名前をとっている。一方、甲賀(滋賀県)は本来の地名としては「こうか」と言うが、忍法に関してのみ「こうが」と呼ぶのが一般的である。甲賀も鈴鹿山系と信楽(しがらき)盆地とそれらを囲む丘陵地であり、甲賀衆は普段は農業や行商人に身をやつし、「上忍」はおらず、「中忍」と「下忍」だけで構成されていた。甲賀衆は、織田信長を経て豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮した。しかし、忍者は戦陣においても他人に「忍者」とわからないよう、また、同じ忍者同士でも悟られないようにしたという。そして、雇ってくれる者があれば敵味方関係なく働いたので、いちがいに、伊賀は○○方甲賀は△△方と所属を分けることはできなかった。その他、雑賀衆(さいかしゅう、または、さいがしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)なども忍法を駆使して戦いで活躍した。また、一説には「柳生」も剣とともに、忍法を用いたとも言われている。
☆本当に伊賀対甲賀?
本来、甲賀衆も家康に尽くした。伊賀衆は、天正九年(1581)に織田信長が戦のたびに神出鬼没のゲリラ戦に業を煮やして伊賀を攻めた。女、子供にいたるまで容赦なく殺戮(さつりく)したという。通称、「天正伊賀の乱」である。この時、甲賀は家康の「とりなし」で信長に攻められることなく無事であった。したがって、家康には恩義を感じていた。一方、伊賀衆は天正十年(1582)の本能寺の変で信長が討たれた時、家康は信長の招きで堺遊覧の最中であったが、信長の死を聞くや、家康は必死の形相で伊賀、甲賀の山中を逃げ回り、伊賀衆の助けを受けて伊賀の白子浜から海路三河に逃げ帰った。この時の家康は、逃げることで頭がいっぱいで、伊賀衆に導かれながら、山中を必死に走り回り、糞便、小便を漏らしたが、そのままで、とにかく、逃げ回った、と言われている。その後、慶長五年(1600)の関が原の戦いでは、甲賀衆は伏見城籠城に参戦し100人もの戦死者をだした。家康は幕府を開いてから、この甲賀衆の戦死者の子弟100人を召抱え「甲賀百人組」を結成させている。さらに、「伊賀同心」より1階級上の「与力」に任じている。伊賀も甲賀も家康を陰で支えた功績は多大なものであった。忍法的には、さほど違いはなかった。
☆陽忍の七変化
陽忍は、いわゆる、大物スパイであるので、あらゆる人物に化けた。虚無僧、山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)、これらの七種類の変装用具を用意していた。これを「七方出の術(しちほうでのじゅつ)」と呼んだ。もちろん、扮装だけではすぐにバレてしまうので、ふだんから物腰や教養、技術などを身につけていなければならなかった。高級忍者たるゆえんである。
☆陰忍のユニフォーム
忍び頭巾、上着、たっつけ(伊賀ばかま)、帯、忍び刀がユニフォーム。そして、携行品としては、手拭、鉤縄(かぎなわ)、石筆、薬、附竹(発火用具)を必ず身につけていた。よく、黒装束というが、黒よりも柿色が多かった。暗闇でも黒色は割合目につきやすいが、柿色は意外と見えない。さらに、血がついても目立たない。実際に柿の渋で染めたという。
☆くノ一
忍法「くノ一」は、もちろん「女」である。これは、女を敵方の奥向きへ仕えさせて情報を収集するもの。「陽忍」の高等術の一つであった。
☆特訓
忍者の家に子供が生まれると、畳の上に濡れた唐紙二枚を重ね貼りした襖を置く。親の忍者がその子の手を引きその上を歩かせる。子供は襖の端に置かれたお菓子が欲しくて「よちよち歩き」をする。当然、唐紙は破ける。それを叱りつけて唐紙を破らぬようになるまで毎日歩かせる。何千回、何万回と繰り返すうちに「足形」も残さないように歩けるようになるという。忍者が敵方へ潜入したとき、足音を殺し、足跡を残さないための特訓である。真綿からつむいだ細い糸を鼻の穴のすぐ上に貼り付ける。そよとも動かさずに呼吸をする。敵がまじかに潜むとき、息を殺すための修行である。大きな桶に水を満たし、その中に首を突っ込んで長時間耐える。これは潜水のための訓練。こうした幼少からの反復練習が驚異的な体術を生み出すのだ。伊藤銀月著「忍術極意秘伝書」の中に書かれてある。
☆忍法のその後
徳川幕府が安定してくると、戦いもなくなり、当然のことながら、戦場での「忍法」も必要なくなっていった。したがって、「陰忍」はしだいに姿を消し、「陽忍」だけが残るようになった。一説には、寛永十四年(1637)の島原の乱で「陰忍」はすべて消滅したと言われている。それ以後は、「隠密」と呼んだ。
☆お庭番
八代将軍吉宗が紀州から江戸城へ入ったとき、供をしてきた者の内17名が将軍じきじきの命令で働く役目を仰せつかった。普段は平凡な武士の姿で誰が「お庭番」かは見分けがつかないようにした。他の役人とはいっさい交際を禁じられており、世襲制で結婚も同じお庭番同士の家柄で結ばれた。将軍より指令を受けると、帰宅せずにそのまま大丸呉服店の奥の一室で指令の内容に応じた変装をして出発した。そして、半年も一年も帰らないことがあったという。もちろん、忍術の心得を持っていた。また、旅先で死んだり怪我をするようなことがあっても、ご公儀からは何の保護も与えられなかった。いわば、使い捨てということらしい。さらには、時には旗本連中の陰口などを直接公方さまに上申したりもしたので、旗本連中も「あの男はお庭番に違いない、滅多なことは口にすまいぞ、それ来た、油断するでない」と敬遠したという。
☆毒を飲まされた時
仲間や誰かが毒を飲まされて死んだ、と、いう時は、死者の口に粟飯を詰め込んで取り出し、庭に撒き、鶏やすずめなどがその撒き散らした粟飯をついばみ死んでしまうと、毒を盛られた、と判断した。また、ヒ素で死亡したと思われる時は、豆板銀(一朱銀など)を死者の口に入れると、銀が変色する。それによって、ヒ素を飲まされたと判断した。
☆水蜘蛛(みずぐも)の術
忍者は、特殊な丸い板を履いて水の上を歩いた・・・と、言われているが、これは、今日、いろいろな研究者が実験しているが、成功した者は一人もおらず、「謎(なぞ)」と言うよりも「嘘(うそ)」と考えられている。それだけ身が軽かった、と、言いたかったのかも・・・。
☆土を舐(な)める
戦いで敗れた敗残兵などは、正規の道を通らず山中などに逃げ込む。それを追跡する忍者が、途中で道が左右に分かれてしまい、どっちへ逃げたか分からない。そういう時は、土を舐めてみる。人間の通った「証」としては、土に塩味が残る。
☆忍者が避ける五つのもの
月光・・・現代では、どんなに過疎地でも街灯などがあり、人は光に慣れてしまっているが、昔は、もちろん、街灯などはない。月の光があれば、夜道でも歩くことができた。出合った人を識別することもできた。そこから考えると、現代は、人間の五感に頼るすべを失っている。
風上・・・当然、風上に立てば人間の「臭い」がしてしまう。
竹薮、藁・・・笹の葉や藁を踏むと、当然、音が出る。また、敵と対峙した時、竹薮では刀を大きく振り回せない。藁の上では、藁が湿っていると「滑って」しまい十分な動きができない。
水の動き・・・夜道などで逃げたりする時、溜まり水などを踏んでしまうと、その音と波動で逃げた方角がバレてしまう。
まあ、「トリビア」とはいきませんが、「正統派」の「答」かも・・・。
ご回答ありがとうございます。
たくさんありがとうございます。
ヤフーで検索して出てくること以外ということで
「トリビア」募集しました。
No.4
- 回答日時:
こんにちは
あまりにも有名なので、「トリビア」にならないかもですが、
「くのいち」→「くノ一」→「女」
女という漢字をバラして、「くのいち」と言うようになったという説があります。
あと、「奥の細道」の松尾芭蕉や、葛飾北斎、豊臣秀吉、千利休まで、忍者だったのでは?という説が出ております。
あと、忍者でよくあるイメージの鎖帷子(くさりかたびら)は、重いので実際の忍者は使用していなかったそうです。もちろん網シャツもない。(笑)←個人的には残念です。
御庭番は、忍者ではないそうです。←これも残念
あと、忍者は「かたやきせんべい」(伊賀銘菓)を非常食として持ち歩き、食べていたようです。↓コレね。
http://www.ict.ne.jp/~thankyou/
参考に。
「忍者とは」・・・by「伊賀忍者博物館」
http://iganinja.jp/about/ninja.html
「忍者アラカルト」・・・by「甲賀流忍者屋敷」
http://www.kouka-ninjya.com/column.html
ウィキペディア「忍者」の項。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85
No.2
- 回答日時:
20年ほど前に滋賀県の「甲賀忍者村」に行って、トイレに入ったら書いてあったこと。
忍者は、どのようにして「ンコ」するか。刀を鞘から抜いて、それを片手で背中の上に持って、するんです。いつ何処から襲われても、敵方に見つかっても、反撃できるような姿勢でするんです。
よく考えると、忍者だからといって毎回「野糞」するとは限りません。清掃しているハズの敵陣や城内で、便所以外から人糞の臭いがすれば、ダジャレでなく「クセ者が居る!」と怪しまれますから。
寝る時の対策は、そこには書いてありませんでした。
面白い回答ありがとうございます。
忍者村に行ってみたいのですが、
お金がなく行けません。
残念です。
マジメな回答もお待ちしております^^
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