こんにちは
このうたですが、背景をご存知の方教えてください。
悲しみと、華やぐ命という矛盾の意味を。

年々に我が悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり   岡本かの子

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A 回答 (2件)

悲しみを知ってるからこそ、輝けるという意味合いでとらえてました。


どう説明したらいいのか 難しいですが、人は、悲しみを知れば知るほど、
他人にやさしくしてあげられると思います。
悲しみを知るからこそ 思いやりが深くなる。
そういうことなんじゃないのかと思います。

悲しみを知らなければ、表面的なやさしさで止まってしまうんじゃないのかと
思います。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。

>悲しみを知るからこそ 思いやりが深くなる。悲しみを知らなければ、表面的なやさしさで止まってしまうんじゃないのかと
思います。

大変よくわかりました。
恋の悲しみとしてとらえると理解できないのですね。
もっと本質的な人間としてのものなのですね。
なんか急に目の前が開けたように感覚的にわかりました。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/12/26 21:58

悲しみが深いほど、命が輝くという意味らしいですね。



http://www.asize.net/~tirara/butoku/sandan06.htm

参考URL:http://www86.sakura.ne.jp/~yamaguchibetsuin/houw …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
回答が全然こないのでダメかなと思っていました。

サイト行ってみました。
でもなんだかわかったようなわからないような・・・。どうして悲しみが深いほど命が輝くのか・・・
川端康成でもわからなくて悩んだことが私にわかるはずはないかなとも思うのですが。もうちょっと理解したいと思うのです。

お礼日時:2002/12/26 20:23

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Q岡本かの子

こんにちは
このうたですが、背景をご存知の方教えてください。
悲しみと、華やぐ命という矛盾の意味を。

年々に我が悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり   岡本かの子

Aベストアンサー

悲しみを知ってるからこそ、輝けるという意味合いでとらえてました。
どう説明したらいいのか 難しいですが、人は、悲しみを知れば知るほど、
他人にやさしくしてあげられると思います。
悲しみを知るからこそ 思いやりが深くなる。
そういうことなんじゃないのかと思います。

悲しみを知らなければ、表面的なやさしさで止まってしまうんじゃないのかと
思います。

Q「よごれちまった悲しみに」の悲しみは

詩の解釈なんて好きにすればいいのでしょうが

中原中也の「よごれちまった悲しみに」は、中也自身が世間で生きてきて純粋でなくなった、つまり「僕が汚れたことが悲しい」という意味だと思ってました。

悲しみが主語で、「悲しみが汚れた」とも取れるなと気づきました。
愛する人の死の席で、遺産争いを見ているような場合ですね。

一般的にはどちらの意味にとられているのでしょうか。

Aベストアンサー

はじめまして。
この詩、私も、昔昔、読みました~。大好きでした(なぜか私は、悲しみが汚れたと・・・読んでいました。)

別冊国文学の「中原中也必携」吉田熈生編を、持っていましたので、調べてみましたら、吉田熈生さんはこの詩について、ーーー「私が汚れた悲しみ」とも、悲しみ自体が汚れているとも、両義的に理解できるーーーと書かれています。また、--ーしかし、いずれにせよ、「汚れ」の原因は何であるのか、明示されていない。人間関係の中での悪しき傷つき方であろうか。ーーーとも、書かれています。

ご参考になると良いのですが・・・・。

Q岡本かの子の作品?

以前読んだ短編で鑑賞用の鯉を育てる青年の話を読んだのですが、何という本に入っているかわかりません。
確か「長年夢見た理想の鯉をどうしても完成せず諦めてしまったとたん、偶然にその鯉ができてしまう」といった話で岡本かの子の「鯉」という作品だったと思います。もう一度読みたいのでどの本に入っているか教えて
いただけないでしょうか?全集にしか入っていないのであれば何巻かわかるとうれしいです。

Aベストアンサー

お探しのお話が鯉の話だったのであれば違うと思いますが…。
金魚の話であれば、あらすじが全く同じ話を知っています。
「金魚繚乱」という小説です。
恋しい女性のイメージに似た新しい金魚をつくり出そうとするが、思うようにいかず、失敗した金魚を投げ捨てたところ、数年後理想の金魚となって泳いでいた…というような話です。
ちくま文庫の「岡本かの子全集4」に入っています。

岡本かの子の「鯉魚」という小説もありますが、こちらは読んでいないので分かりません。ご参考までに。

Q「散りゆくものは我が身なりけり」

上の句がなんだか思い出せません。
気持ち悪いのでぱっと出てくる方
お教えください。

Aベストアンサー

ん? これは小倉百人一首(もとは『新勅撰集』雑・1054)にもある

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
 ふりゆくものは 我が身なりけり
(入道前太政大臣/藤原公経)
「花を誘って散らす嵐が,庭一面を雪が降るように白くしているが,その「フル」ではなく年々フルびていくのは我が身だったのだなぁ」
では?

ま,本歌取りの狂歌で

ぬば玉の 黒髪山もしら雪と 
 ふりゆくものはわが身なりけり

というのもあるようですが。

Q岡本かの子「鶴は病みき」ついて

http://www.aozora.gr.jp/cards/000076/files/1283_5365.html
岡本かの子「鶴は病みき」を読んでみた外国人です。
いくつか分からないところがあります。

1.「むしろ懐しまれるものを」の「懐しまれる」は、どういう意味ですか。辞書を引いても出てきませんでした。亡くなった人を懐かしくと思うことですか。

2.「結局葉子がふかく麻川氏を想うとき場所」の「ふかく想う」は、「不覚想う」か「深く想う」ですか。「想う」って異性に思慕する感情を指すか、あるいはただ憧れることですか。

3.「小松林や海岸の一端に出逢ったりして尋ね廻った」の「出逢ったり」は、誰に出逢ったんですか。

4.「神楽堂のような建て前の棟」のところがわかりません。「神楽堂のような建物の前の棟」という意味ですか。

5.「若主人は(好いお連れ様で)と云わんばかりに」の「好いお連れ様で」は何の意味ですか。お連れ様というのは誰のことですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。

「懐しまれる」(現代では「懐かしまれる」と書くのが一般的です)は、この場合、「あんなこともあったなあ、こんなこともあったなあ」と亡くなった人のことを思い出して、懐かしく感じる、ということです。

「ふかく想う」――この場合の「想う」は「思い出す」と同じで、「印象深く思い出す」という意味です。

「小松林や海岸の一端に出逢ったりして尋ね廻った」という個所で「出逢った」のは、人ではなく、「小松林や海岸の一端」です。なぜ「出逢った」という言葉を使っているかというと、葉子たちが借家を探してあちこち歩き回っている途中で、思いがけず小松林や海岸の一端に出た、偶然そういう場所に来た、という状況を説明するためです。(その直前の「群る向日葵を処々の別荘の庭先に眺めたり」というのは、「群る向日葵が処々の別荘の庭先にあるのを眺めたり」という意味です。)

「神楽堂のような建て前の棟」――「建て前」は、建物の構造、様式、形などの意味です。「神楽堂のような造り方の棟」ということです。

(好いお連れ様で)――これはちょっとわかりにくかったでしょう。借家を探していた葉子たちがH屋へ来てみると、神楽堂を文士の麻川荘之介がすでに借りていました。葉子は作家で、葉子の夫も文芸誌に戯画を描く仕事をしていたので、すでにそこに住んでいた文士の麻川荘之介は、二人とほぼ同業者ということになります。それで、H屋の若主人が、「ちょうどよい借り手が来た」と言いたそうに二人を見た、という情景です。つまり「好いお連れ様」というのは、「麻川荘之介とちょうどよい組み合わせの借家人」ということになります。

御参考になれば幸いです。

こんばんは。

「懐しまれる」(現代では「懐かしまれる」と書くのが一般的です)は、この場合、「あんなこともあったなあ、こんなこともあったなあ」と亡くなった人のことを思い出して、懐かしく感じる、ということです。

「ふかく想う」――この場合の「想う」は「思い出す」と同じで、「印象深く思い出す」という意味です。

「小松林や海岸の一端に出逢ったりして尋ね廻った」という個所で「出逢った」のは、人ではなく、「小松林や海岸の一端」です。なぜ「出逢った」という言葉を使っているかというと、葉子...続きを読む

Q徒然草 第六十六段 岡本関白殿・・

岩波の原文で読んでいるのですが、
この段で何を言わんとしているのか、よくわかりません。

そもそも、岡本関白殿(近衛家平)が、
キジのつがいを木の枝につけて差し出すよう
武勝に命じたことにどのような意味があるのでしょうか?
その後に繰り広げられる武勝の薀蓄もいまいちわかりません。

Aベストアンサー

有職故実、わかりやすく言えば作法の世界です。鷹狩の獲物をプレゼントするにはそれなりの決まりがあったのですが、ここでは主君が作法を無視したプレゼント方法を指示したのに対して、家来が作法に則ったやり方を主張し、結局主君も折れた、家来が作法を縷々説明した。兼好もこの家来を指示しつつ若干の疑問を呈しているものです。
沼波瓊音(ぬなみ・けいおん。1877-1927)の『徒然草講話』(大正十四年。修文館)の「評」には次のようにあります。
鷹の取つた鳥を枝に着けて進物にすると云事即ち所謂「鳥柴(としば)」に就ての叙説である。武勝は唯鷹飼である。しかしこの式法のオーソリチーなるが故に、主人関白の命を峻拒し、「花に鳥つくるすべ知り候はず、一枝に二つつくることも存じ候はず」と毅然として言放つたここの点が、先づ兼好の大いに気に入つた所である。なに事にまれ一事に通じた人には兼好は敬意を表するのである。(下略)

Q岡本かの子「新茶」 さなりき の意味

題名のとおりですが、「さなりき」の意味を教えてください。
前後の文は以下の通りです。さなりきは2行目に出てきます。



色がいゝ。白磁の茶椀(ママ)の半を満してゆらめく青湖の水。
  さなりき、誘ふニンフも
  誘はるゝ男妖精も共に髪ぞ青かりし
揺曳とした湯気の隙間から、茶椀の岸にさういふ美麗が見えるやうな気がする。

Aベストアンサー

「さ」:前に述べられた語を指示していう語。そう,そのように。
「なり」:助動詞。断定の意をあらわす。~だ,~である。
「き」:助動詞。[過去]過去のことを,直接経験したことあるいは確実に存在したこととして回想する意をあらわす。
 
「さなりき」=そうなのだった,そうだったのだ 

Q汚れつちまつた悲しみに・・・

中原中也の、汚れつちまつた悲しみに・・・、という有名な詩の意味を、どなたか教えてください。この詩は、いったい何を表現しているのでしょうか?伝えたいことはなんなのでしょう。ひたすら悲しい、ということは伝わってくるのですが、あまりよく分からないのです。

Aベストアンサー

 
詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。

作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。

造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。

中原中也の詩は、その点、少し問題があるのです。読んでも、よく意味が分からないとか,何を言っているのか感興がないという人がかなりいるのです。その他方、中也の独特な作風というものに惹かれる人がかなりいるのも事実なのです。

幾つかの作品を読んでみて、中也は、その言葉にどういう思いを込めたのだろうか、と考えていると、ある程度,何かが分かってきます。無論、分からない、感じられないということもあります。

この作品は、著作権が切れているはずで、引用してもよいはずです。全文は、下の参考URLにありますが、一行置きに繰り返される、「汚れちまった悲しみに」と「汚れちまった悲しみは」をはずしてみます。次のようになります:

>汚れつちまつた悲しみに

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

>たとへば狐の皮裘(かはごろも)
>小雪のかかつてちぢこまる

>なにのぞむことなくねがふなく
>倦怠(けだい)のうちに死を夢む

>いたいたいしくも怖気づき
>なすところなく日は暮れる……

「汚れちまった悲しみに」という表現が、自嘲的で投げやりな表現だという感じは確かにあるのです。「悲しみ」が「汚れる」とは、何と気障な、とも感じるのですが、他方、これは非常に自嘲的な言葉に響きます。それでは、「汚れちまった悲しみ」を除くと、詩はどうなるかというと、上のようになります。

二連目の「たとへば狐の皮裘(かはごろも)」というのは、何を言っているかよく分からないのです。感覚的に分かるか分からないかの問題のようになります。

しかし他の行は、通俗的な言葉のようで、しかし、

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

ここには、何か痛々しい感情の苦痛と絶望のようなものが、造形されています。この表現自体、まだ自嘲的な感じがしますが、中也の他の作品を見ると、やはり、こういう自嘲的な感じの言いまわしが出てくるのですが、しかし、他方、その部分だけを見ると、高度に冷静に緻密に彫琢された、詩的形象が含まれています。

中也の詩は、どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしと、綺麗な詩的形象と、そして悲哀というか、切ないような悲しみの三つの要素から大体できているのです。

この作品にも、この三つが含まれていて、この場合、詩的形象が一番希薄というか、形象はあるのですが、それが自嘲的な表現に隠れてしまっています。

どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしは、中也が自分自身を反省的に眺めている結果,出てくるのだとも感じられるのです。この詩の場合、自虐的とも言えるレベルまで来ているのですが、しかし、上に抜き出したラインを見ると、詩の形象彫琢は行っていることが分かるのです。

中也の詩は、自意識過剰で、自己の感情に溺れているようにも思えるのですが、良く読むと、冷静にそのような自己を眺めている視線があるのです。「自嘲」とは、そういう状態だとも言えるのですが、中也の場合、ただ自嘲に溺れこんでいないというのが、彼の作品を「詩」と評価する人たちの見方でしょう。

自嘲し、悲哀の感情に溺れているように見えるなかに、冷静に詩の言葉を彫琢している中也という詩人がいるということになるのです。すると、これは、単なる自嘲や自虐ではなく、もっと複雑な屈折した意識のありようの表現であるとなります。

どこかユーモラスな自嘲的な屈折した、いわば青年期の自己の客観視のような視点と距離の取り方、それに先に述べた,詩としての形象彫琢と、悲哀という組み合わせで、「中原中也世界」というものが出来あがっているのです。

自嘲的な視点に心動かされる人と、詩的彫琢に心動かされる人と、悲しみのある言葉に心動かされる人がいるということになるのですが、これらは、どれも、中也の詩の世界を前提にしているのです。

この「汚れちまった悲しみに」は有名な作品ですが、これは詩ではなく、青年が日記に書くような感傷的で自意識過剰な言葉の羅列だと感じられる人には、これはそういうものに見えるのです。

立原道造という青年詩人がいて、若く亡くなりますが、彼の感傷的リリシズムの詩は、エピゴーネンが一杯あるが、しかし、立原はエピゴーネンとは一線を画しているという評価を昔,読んだことがありますが、「一線はなかった」というのが答えだったと思います。

中也の場合も同じで、こういうスタイルのエピゴーネンはたくさんいるのです。そこで一線があるのかというと、あるのですが、ないとも言えます。しかし、中也の詩は模倣できないのです。こういう自嘲的で悲哀のある詩の真似はできますが、「中也の詩」にはならないのです。

この詩は、投げやりになり自嘲的になって、「人生はこんなものさ」と言いつつ、感傷的に悲しみや絶望をうたっているように思えますが、どこか、「冷静さ」が入っているのが特徴なのです。自分を反省して自嘲する自分自身を、また冷静に眺めている自分がいるというような構造です。

何重にも、こういう自己観察、自己省察の視点があるのではないかというのが中也の詩で、立原の詩は、ここまで自己省察した視点がある意味ないとも言えます。

立原の詩は、詩的空間からある距離を置いて、詩を形象している作者がいるのですが、中也の詩は、もっと自己観察・自己省察が錯綜しており、もっときっちりした詩的イメージを彫琢できながら、敢えてそれをしない中也という存在が感じられるのだとも言えます。

実はわたしもこの詩はよく分からないのです。しかし、中也の他の詩のなかに、その哀切さと美しさに心動かされる作品があるのであり、そこからすると、この詩にも、大きな感銘を受ける人がいるだろうと想像できるのです。

この詩がよく分からない場合は、中也の他の作品を読んでみて、どれか心に感銘を受けるものがあれば、もう一度引き返して、この詩に戻ってくると、違って見えてくる可能性があります。

最初に述べたように、この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。

No.1 の方の回答が簡潔で見事に中也の詩の構造を言い当てているのですが、そういう意識は、実は大勢の人が持っていて、しかし、彼らは中也ではないのです。しかし、中也の詩に心動かされる人たちなのです。

「近代人的意識」と言えば、小林秀雄につながって行くのが分かるでしょう。
 
>汚れちまった悲しみに
>http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html
 

参考URL:http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html

 
詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。

作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。

造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。

中原中也の詩は、その点、少し...続きを読む

Q親子が別々のジャンルで活躍した著名人

いつもお世話になっております。

現在、俳優・タレントとして活躍中の 「 坂口憲二 」 の父親は、プロレスラーだった 「 坂口征二 」 です。
また、元・西武ライオンズ投手の 「 東尾 修 」 の娘が、現在プロゴルファーというのは有名ですね。
ゴルフでいえば、「 福島晃子 」 の父親もプロ野球選手でした。

また、「 小泉純一郎 」 の息子が、俳優の 「 小泉孝太郎 」 だったり、
東京都知事 「 石原慎太郎 」 の息子が、俳優の 「 石原良純 」 だったり、
少し昔では漫画家の 「 岡本一平 」 と作家の 「 岡本かの子 」 の長男が芸術家の 「 岡本太郎 」 ですね。

これらの様な、親子で別々のジャンルで活躍した著名人が他に、いらっしゃいましたら、
古今東西を問いませんので、皆様どうぞ御紹介、よろしくお願いいたします。    ( 文中敬称略 )

Aベストアンサー

 こんにちは。前はいろいろとご迷惑を掛けてしまったghq7xyです。

●作家・伊集院静氏の娘は女優の西山繭子さんですね。

●俳優の清水章吾氏と画家のハルマンさん夫妻の娘は響美さんといって、モデルさんでしたね。確か過去、水着のキャンギャルだったと思います。

●映画監督だった故・伊丹十三氏の息子は俳優・池内万作氏ですね。

●アナウンサーだった故・逸見正孝氏の息子は俳優・逸見太郎氏ですね。娘の愛さんもミュージシャンじゃないでしょうか。

●元食いしん坊だった故・竜崎勝氏の娘はフジテレビアナウンサーの高島彩さんですね。余談ですが、誕生日が私と同じ(私が1歳上)です。

●プロゴルファーの話題が出ているので、私もそこから1つ。女優・五月みどりさんの息子はプロゴルファーの西川哲氏ですね。西川氏の奥さんは女優の菊地桃子さんです。

●現ダイエー監督の王貞治氏の娘は王理恵さんといってキャスターをしていますね。

Q汚れちまった悲しみに

中原中也の有名な詩に、「汚れちまった悲しみに…」というのがありますが、あれはヨゴレと読むのでしょうか、それともケガレでしょうか。どちらかだとはっきり証明するものがありますか。

Aベストアンサー

「汚れつちまつた」という表記だったかも...?
個人的には「よごれ」派です。
「けがれ」というようなやや固い、比較的文語的な
表現よりも、「よごれ」という口語的な表現の方が
吐露としての(?)この一句の調子にあうと思いますし、
「汚れ」の後に促音が入るなら、「よごれっちまった」
の方がより自然な気がします。
また、たとえば「汚れ役」というときのような
「よごれ」という語がもつ惨めさ(?)が
「狐の皮裘」とか
「小雪の降りかかる」などのイメージにあうんじゃないかな
と思います。
いかかでしょう。


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