
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
気になって「第一次月山富田城攻め」で検索してみました。
「月山富田城」の「歴史・沿革」の項目から引用ですが・・・
>長期戦の疲弊から大内方の三刀屋城主三刀屋久扶・三沢城主三沢為清・小倉山城主
吉川興経等が尼子方に寝返り、大内軍は劣勢になり出雲から撤退しました。
とあります。これなら・・・無理な長期の遠征が原因で負けているので
>何故、彼らにそんな事が可能だったのでしょうか?
という疑問は、貴方の推測通りに「不可能(失敗)だった」という結論になるのでは?
No.10
- 回答日時:
歴史のことはあまり詳しいわけではないのですが、
農業的なところから横槍を入れさせてもらうと
田植えや稲刈りは、必ずしも力がなければできないというものではないです。
確かに人手は多い方が良いし、力がある者が居た方が良い。
しかし、農家ならある程度の年齢になれば、男も女も関係なく農作業に従事していたと思います。
ある程度は慣れの部分もありますから一人くらいなら
欠けてもやってやれないことはないと思います。
開墾や堤防作りのような力がないとどうしようもないものだと
男手が欲しいのは良く分かりますが…
No.9
- 回答日時:
>つまり小規模短期の戦さなら農繁期でも可能だけれども、大規模長期の滞陣ならば農閑期に限定されるという事でしょうか。
これは論理がおかしいのではないでしょうか。農閑期に限定されるならば、それは大規模長期の滞陣とは言わないでしょう。大規模短期戦になる筈です。私が言っているのは、小規模長期の対陣は可能だったのでは?と言う事です。第一次月山富田城攻めの場合、国力不相応の大規模長期戦を挑んだために敗北したのでしょう。では、何故無理な大軍での長帯陣を実行したかと言う事が疑問かも知れませんが、軍事行動には政治的理由もありますし、軍事理論だけで説明できるものではありません。又、純粋に軍事理論だけで説明しようとする事に意義も無いと考えます。
>織田以外の大名の軍事行動には季節性があったため制約があったということは、多くの専門家が認めています。
別段、私もその定説を否定する気はありませんし、そのような論旨で文章を書いたつもりもありませんが、誤解を与たのでしたらお許し下さい。
兵農一致体制では、大名の軍事行動に季節性があった事は事実です。記録に残るような軍事行動は大規模なものでしょうから、大兵力を動員可能な農閑期に発動される事は当然です。前回までの回答でも、それを否定はしていません。季節を跨ぐような大規模長期戦については、第一次月山富田城攻めのケースのように、無理が伴う博打製性の高い選択肢だったと言う事でしょう。結果として遠征は失敗しました。織田信長の優れた点は、それまでの大規模短期か小規模長期と言う二つの選択肢以外に大規模長期の遠征を可能とした点にあると考えます。“大規模”の定義は各大名家の国力差もあるので、これも程度の話になるでしょうが。
No.8
- 回答日時:
No5です。
>川中島の戦い全五回や信玄の死地への旅となった元亀三年の西上作戦は、どれも農閑期に行われています。
これを、どう解釈しますか。
それは、その方が動員に有利だからでしょう。農繁期に動員が“可能”である事と、農閑期に軍事行動が起こりやすい事に、論理の矛盾は無い筈です。農閑期ならば農作業に専心すべき壮丁をも動員可能ですから、より大兵力を動員出来る、と言う事になります。大軍が必要な場合に農閑期を選ぶ事は自然でしょう。
有りか無しか、と言う二者択一的思考では、物事の実態には迫れないのではないでしょうか。記録は大事な資料ですが、それは事実の“一部”に過ぎないと思います。
この回答への補足
つまり小規模短期の戦さなら農繁期でも可能だけれども、大規模長期の滞陣ならば農閑期に限定されるという事でしょうか。
そうなら、第一次月山富田城攻めに関連する一年数ヶ月の滞陣は説明つかなくなるのですが、いかがでしょうか。
村落共同体の余剰労働力だけ徴発し、農業の生産力を減退させずに、農繁期の軍事行動は可能なら、信長の織田家同様一年中軍事行動ができた事になるのですが。
しかし、織田以外の大名の軍事行動には季節性があったため制約があったということは、多くの専門家が認めています。
いかがでしょうか。
No.7
- 回答日時:
戦は銭です かの信長のおとっあんの信秀は津島の港の権益 熱田の港の権益の力 銭で足軽の給与をまかなっていたのでしょ たいして強くは
ありませんが その銭のおかげで近隣の強い国とも互角に戦っていましたね 美濃も三河も 信長の初期の親衛隊のおおくは銭でつないで足軽にして 少ない人数ですがスピードがフットワーク利点があったんでしょう 家柄関係なく あぶれものや次男三男その他の余計もの だいたい他国の戦なんて 保障された身分のものはだれもやりたくないのが本音です 大内は兵庫と博多を早くから経営していましたから 明との勘合貿易の独占で銭はあったわけでしょ またタタラの生産もやっていたわけだから 家来たちも うまみの享受をうけていたはずだし 尼子との大森(石見)銀山のとりあいは勝つとふんだんでしょう 秀吉の太閤検地のあとの兵農分離以前でも これら農業従事者を中心としない兵の編成でも長期戦で十分戦えたんでしょう ただ大内は信長のように貨幣の価値を最大限にいかせなかせず また 譜代とか家臣団の操縦がまずかっただけでしょう 古い時代の考え方の大名だったんでしょうかねNo.6
- 回答日時:
信長が常備軍を作れたのは金があったからですよね。
一方それまで信長以外の大名は手持ちの金で一時的に兵を集めていたわけです。浪人・山賊集・地方豪族・国人衆といった連中は、金をばら撒けば日雇い的に集められます。
そして大内氏は信長と同じで石高(人口)に比べ極めて財政的に裕福な大名です。財源は石見銀山(奪い合いになっていたので常に持っていたわけではありません)と中国との貿易です。
よって日雇い的に集めた兵を、金をばら撒いて一年半維持し続けた可能性があると思います。
あと、山陽地方の大名なので、農業経営で短期間に集中的に労働力がなくてもなんとかなったかもしれません。
瀬戸内は気候的に温暖で、台風も冷害も少ないです。作付けや収穫が多少遅れても、問題なく収穫できる可能性が極めて高い地域です。
しかも降雨量が少ないので、生産の大部分を米が担う土佐や東海や北陸と違い、雑穀生産が多いです。農繁期といえども、全てを一時期に完璧に仕上げなくても、他地域に比べなんとかなったのかもしれません。
No.5
- 回答日時:
当時の人口構成にヒントがあると思います。
現代のような核家族社会の常識に囚われると見失いがちですが、農民といっても、父親の田畑を相続する(跡を継ぐ)息子が、常に一家に一人しかいない訳ではありません。医学が発達していない時代ですから、病気などで長男が死ぬ可能性は現在とは比較にならない程高いのです。特に幼児の死亡率は高かったようですから、スペアの労働力として、次男、三男を設けるのが普通だったと思われます。しかし、運良く長男が無事に育ってしまえば、取りあえず田畑の事はなんとかなります。田植えや稲刈りなど、人手が必要な作業は、通常村単位での共同作業になります。今日はあちらの家の田んぼ、明日は向こうの家の田んぼ、と言った具合です。従って、長男が健在ならば次男、三男はそれ程必要ではありません。丁度都合よく、一人しか生き残らないケースは稀でしょう。次男以下は場合によっては家計のお荷物です。このような余剰労働力が兵役を課せられていたと考えれば、農繁期の長対陣も説明出来るのではないでしょうか。長対陣の結果敗北した、と言うケースは、その上でも無理な動員をしてしまった結果と考えられます。農繁期には一切軍事行動が不可能であった、とする説は、少々物の見方が単純過ぎると思います。兵農一致も兵農分離も程度の問題であって、両者の境界線は現代人が想像するよりも緩やかなものだったのではないでしょうか。No.4
- 回答日時:
現代の出張でも、一泊の出張か一週間の出張かによって準備するものは変わりますよね。
だから、あらかじめ期間を決めます。戦争も同じことでして、あらかじめ「今回の戦争はどのくらいで終えるか」ということを考えて準備します。ただ、近代戦以前の戦いでは「攻め込んだ先で調達する(わかりやすくいえば略奪する)」ことが普通だったので現代ほど綿密な準備はいりません。
ただし、そうはいってももし一年を越える出陣ともなれば夏は暑いし冬着も必要です。ですから、出陣前に「今回は長期になるからある程度用意しておけ」となるでしょう。とはいえ、全てを持ち歩くわけにいかないでしょうから、現地でにらみ合いになったときに陣を構えたり小屋を作ったりしたと思います。
ローテーションについてはわかりません。一番常識的に考えれば、農作業に支障が出ない範囲で出兵したということです。もちろん、そうはいっても人出を取られますから影響は出ますが。おそらく一時的でも帰省させるとそのまま戻ってこない連中が続出するでしょうから(通信手段がないからいつ帰宅していつ出発したか確かめられない)、ローテーションはなかったと思います。
No.2
- 回答日時:
想像ですが。
浅井・朝倉などパートタイム兵士が一般的な時代にあって、織田は初めてフルタイムの軍団を持つ大名だった、というような記述をどこかで読んだ記憶があります。
これは織田の財源が農業を基盤としたものではなく商業・交易によるものだったからとかいう説明だったと思います。
詳しくないのであれなんですが、ご質問の大名の経済基盤も農業の割合が低いということがあるとしたら、織田軍のケースと同様の理由が当てはまるかもしれません。
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