dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

関東大震災で壊れるまで存在していた、国宝級の名茶腕「木守」の意味ですが、辞書で引くと、「来年もよく実るようにとのまじないから、木にひとつだけ残しておく果実」のことなのだそうですが、今の日本にもこの習慣が残っているところがあるのでしょうか。

A 回答 (4件)

残っていると思います。

地方に行けば、今でも親や祖父母からそう教えられたことがある、という人は結構いるのではないでしょうか。ただこの「木守(きもり)」の背景の感覚も言葉で説明しないとわからなくなってきているのが現実で、次の代までのこるかどうかは甚だ疑わしく思えますが。

この習俗は、作物や果物といった恵みの受け手である人間が、来年の豊作を祈って言わば贈与側にあたる神の手にその一部を返す、という習慣です。もとは神との関係において行われる行為ですが、似たことは近所つきあいの中で当たり前に行われていました。

例えば、昔は米や食物を家同士のつきあいの中でやりとりすることが多かったのですが、頂いた側は容器を空にして返す事はタブーでした。必ず少量を残すか、全部頂いた場合には、マッチ箱でも何でもいいのですがちょっとしたものを入れて返すのが常識でした。
この返礼品は「おうつり」と呼ばれますが、地方によっては「おため」とか「おたび」「とび」「とみ」などとも呼ばれたりします。

柳田國男はこの「とび」「とみ」に注目して、「賜る」の変化形である「賜(タ)ぶ」の命令形つまり「与えたまえ」というニュアンスがあるのではないか、と考察しています(「トビの餅・トビの米」)。
語源がそうであるとすれば、恐らく“賜る、頂く”という神との関係を断ち切ることなく、より発展的に継続させたい、という人々の気持ちから始まり、やがて一般の人間関係にも持ち込まれたものなのでしょう。

実際、「おため」「とび」は不祝儀つまり香典を頂く場合には決して行いません。次があっては困ることは断ち切りたい、という気持ちが恐らくそうさせているのだと思います。

もうひとつの考え方もあります。
「きもり」は「きまぶり」とも呼ばれる地方があるそうです。「マブリ」とか「マブイ」というのは「魂」に関係する言葉ですから、最後の実を「木の魂」つまり木の霊性のシンボルとしてとらえる感覚が古くにはあったのかも知れません。魂が残されているからこそ、木は来年も沢山実をつけるはずだ、という考え方です。
恐らくこちらの感覚が古く、人々の古層に早くから伏流としてあった、のかも知れません。

※後半は回答としては余計な事かも知れません。適当に捨象して頂ければ結構です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答有り難うございます。後半も興味深かったです。
広辞苑では「きまもり」では載っていましたが「きもり」では紹介されていませんでした。neilさんのお住まいの地域では「きもり」と言い習わしているのでしょうか。
長次郎の名椀がなんで「木守」なのか、また、それをどう読んでいたのか、いろいろ考える材料が多くなりました。

お礼日時:2003/01/18 18:31

残っています.というか.近所の方々は.年で全部取れないというのが.現状です。


若い人は.取るなんて.面倒なことをせず.スーパーにいきますので。
    • good
    • 0

こんにちは、


庭先の柿など取るときにそのように教わり、そういうのが普通にされていると思っていました。
多分・・・(わたしが思うのですが)残した果実を鳥などが食べ糞が肥料になると考えられた知恵ではないでしょか???
    • good
    • 0

果樹園などビジネス化していないとこでは、たいていやってるんじゃないでしょうか?



茶碗のほうは、知りませんでしたけど。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!