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哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね?
頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。
けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。
私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。
歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。
数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね?
漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。
はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。
どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。
酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

A 回答 (13件中1~10件)

私は数学も哲学も門外漢ですが、養老孟司さんが両方とも頭の法則を研究対象にしているというような意味のことを書いていたと思います。

言葉を含んだ記号によってほかの人にも共通の理解が可能になることもあうという事なのかなとも思います。
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この回答へのお礼

養老孟司さんの本はさらっと読んだ方の感想を聞いていつも手にはしていなかったのでこれを機会に今度本屋で見かけたら立ち読みでもしてこようかと思います。
回答と本のご紹介大変ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/11/26 10:30

質問の中に複数の議論があるように思われ、そのすべてに満足のいく回答をすることは難しいのですが、論点を思考の言語に対する依存性にある程度絞ってお答えしたいと思います。



私たちが日常ものを考えるとき、頭の中に一定のイメージが浮かび、それを言語にする。こう考えることはきわめて自然なことで、事実過去の哲学においてはそういった言語観が主流でした。心の中の観念、精神的言説を実際の言葉にすることが発話と呼ばれます。言語は観念を表示する記号であるという立場です。この立場では思考ないし観念が言語に先行することになります。

以上の考えはある意味では常識的です。事実ほとんどの人が言語をそういったものとして考えているのではないでしょうか。しかしこの言語観を維持しようとするとさまざまな問題があることも確かだと思われます。

たとえば、「自動車」という概念を考えて見ましょう。これまでの言語観によれば、私たちが自動車という言葉を発するときには、心の中に自動車の観念が浮かび、そしてそれに言語を与えている、ということになります。
ここである人を考えてみよ。その人は、自動車という語を発話する際、心の中に自動車という観念が間違いなく浮かんでいる。しかし、実際に発話をする際、自動車以外のものを指して「あれは自動車である」と言ったり、または自動車を指して「あれは自動車でない」と言ったりする。またさらに、自動車がいったいどういうもので、何の役に立つのか等に答えられない。私たちは、こういう人に対しては、端的に自動車を理解できていないとするのではないでしょうか。
その概念を適用できるか否かという能力が、概念をもつということを構成します。心の中にいかなる観念、いかなるイメージが浮かんでいるかはまったく問題ではないのです。音楽や風景であれば心の中に浮かぶということは正しい。しかし、概念に関しては観念の出てくる場所はないのです。

別の例をあげましょう。ある数学の理論があり、ふたりの人間がそれを学ぶ。ふたりは数式を正しく適用し、記号を正しく適用でき、結果について完全に合意したとします。しかしここでこう考えよ。一方の人間はその数学の理論を利用するときにAという心的イメージをもっており、もう一方はBという心的イメージをもっているとします。言語=観念の記号説に従えば、彼らは完全に理論の使用において一致しているにもかかわらず、そこに結び付けている心的イメージが異なっているため、実際はまったく別のことをしているのだ、ということになります。しかしこれは不合理です。

表立って現れない観念、または心的イメージを言語に優先させる理論は、意味を伝達不可能なもの、表面上一致が見られるだけであって互いが互いについて完全に理解することはできないなにか、にすることです。しかし現代の哲学においては、言語を公共的なもの、社会的伝達の手段であるということをまじめに受け取ります。ある概念をもっているということは、その概念を適用する場面において、なにかしら観察可能な違いがなければいけない。

もちろん、非言語的活動というものもあります。たとえば、自動車を運転しているときなどです。ドライバーは周辺環境を即座に把握・判断し、高度な活動を行っていますが、これが言語的活動とはまず言うことはできないでしょう。ただ、こういった非言語的活動は基本的に空間的な運動をする場面において出てくるものでしょう。主張や判断、信念といった分野ではやはり言語的な側面からアプローチをせざるを得ない。

そして概念の分析において、主役となるのが心的イメージではなく、言語の使用や言語そのものの分析となるならば、そこから踏み出す結論は決定的です。すなわち、哲学は言語哲学として可能であろう、ということです。

以上質問者さんの論点からは大幅に脱線したように思いますが、雑駁に書いてみました。最後に関係ありそうな話題をひとつ。子供が「赤いリンゴ五つ」と書かれた紙を持って八百屋に行く、そして八百屋は即座にリンゴを五つ渡す。このとき、八百屋は「赤い」「リンゴ」「五つ」という心的イメージを順番に浮かび上がらせたのでしょうか。そうではありますまい。この八百屋は端的にリンゴを五つ渡したのであり、それで彼が意味を理解したことのすべてになるのです。数学においても哲学においても、なにか言語的活動をすることがすなわちそれに対応する心的イメージをもっているということはない、ということです。
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この回答へのお礼

とても参考になりました!
頭の一部分が少しすっきりした感がします。
わかりやすく回答して頂いてありがとうございます。
理解するのには相変わらずまだ時間がかかりますがここからまた自分でも考えていきたいと思います。
まだまだ色々な方の意見も聞きたいので引き続きよろしくお願い致します。

お礼日時:2008/11/25 05:47

私も哲学の素人です。



>哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね?

一応、ここでは「哲学」を徹底的に考えることと定義しておきますね。
すると、言葉なくして思考できませんから、言葉以前に「哲学」もそのカケラもないと言えます。

そして、言葉は言葉である限り、辞書と文法に認められる規範性、制度性、抽象性という一面と、言葉が誕生した瞬間にそうであったような具体性、一回性、絶対性という一面という両面を併せ持っているはずです。
だからこそ、他者同士なのにコミュニケーションができたり、それと正反対に、ある一人がその人固有の想念や心情を表現することもできるわけです。

>“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。

純粋な詩人でもない限り、良くも悪くも、哲学に限らず、各業界で共有されている専門用語?を無意識に自明の前提として使いたがる傾向があります。
でも、多くはないですが、その悪弊をより自覚できている哲学者、用語の定義の根拠の根拠をさらに掘り下げたがる哲学者がいることも確かです。
でも、数理哲学をはじめ、いくつかの共通概念(定義)を共有していた方がより理解しやすい、時間の節約になることがありますので、業界用語を軽視するには及びません。

>漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。
>はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。

「哲学者」と「数学者」との間にある差異と言っても、結局はそれぞれの用語(概念規定)の差異以上に根本的な差異などありえようがないはずです。
いずれにせよ、より深く考え、それをより明快に記述したり、論証したりした方が“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”方よりもエライとしか言いようがないと思います。

と同時に、どんなにエライ哲学者・数学者でも、すべてのことがらについて、あらゆる前提をチャラにして、ゼロから記述したり、論証したりするなんてことは不可能でしょうから、言葉についても、程度の差こそあれ、誰しも多少は数学的記号を扱うように扱わざるをえないところがあるかと思います。
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この回答へのお礼

大変明快にが尾回答していただきありがとうございます。
とても理解しやすかったし、大分質問する以前と比べ様々なことが整理された様に感じます。
>純粋な詩人でもない限り、…その悪弊をより自覚できている哲学者、用語の定義の根拠の根拠をさらに掘り下げたがる哲学者がいることも確かです。
そういえばデカルトは多層にでもわかりやすく文章が書ける人(違う人だったかもしれない)でも有名、というかそのような才能も持っていましたね。
他の方とのやり取りのうち言葉と数という扱う道具の差異を追求したいと書いたのですが、さらにそこから発展できました。
ありがとうございます。引き続き様々な意見、感想お待ちしております。回答順がぐっちゃぐちゃで申し訳ない。

お礼日時:2008/11/26 11:02

哲学カテにおいて思索にふけることに強い苦手意識を持つ反面、算数・数学・図形パズルを趣味で楽しむ者です。


質問者様のおっしゃる根本的な「境界」があるとすれば、それは一体何だろう、と素人ながら考えてみました。

質問者様が触れている「数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で解けるものを峻別し究明していく」という件ですが、結局は算数・数学における解く際に必要とされる「直観」とは、自らの過去の蓄積された膨大な質量からなる経験の積み重ねに過ぎないと思うのです。

例えば、ある人には図形の中に「いとも簡単に瞬時に浮かび上がって見える一本の線」が、決して他の人には見えざるものであり、そのたった一本の線が解答の出来不出来に大きく関与する場合。

脳の気質による得手不得手、図形センスの有無の差であると、短絡的に納得することもありがちです。
ですがその不思議な線でさえも、実は若かりし頃より精進し格闘してきた証であり、努力の賜物に他ならないと拙い経験上思うのです。
そしてそれはチェスや囲碁などの頭脳戦において、大局的な一番で要となる「ひらめき」にも言えることではないでしょうか。

翻って、哲学の思考においては全く同様なことが言えるのかどうか。
具象的な図形のセンスにあてはまる何かが存在し、実際にその経験則が必要とされるのかどうか。

また私事ながら、図形の問題には時間を長く割いて格闘することは比較的苦痛でなく面白さを感じられたのに、何故哲学においてはこの上なく面倒臭く退屈極まりないと思ってしまうのか不思議でなりません。

更に、数式は世界共通の最も明晰な「言語」ながら、よりシンプルに美しく解くのがスマートなことのように思われ自然とそれを目指します。
ですが、哲学においても同様に言えることなのかどうか。
必ずしも結果の正誤ありき、スマートさが重要ではなくて、必ずしも結論に至らなくともその思考過程の方法論こそが時に珍重されることもあるのではないか。

このように幾許かの拙い疑問を持つ私には、哲学と数学とは似て非なるものではないか、と思わざるを得ないのです。

何らまとまりのない酷い投稿になってしまい、参考にもならず申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>また私事ながら、図形の問題には時間を長く割いて格闘することは比較的苦痛でなく面白さを感じられたのに、何故哲学においてはこの上なく面倒臭く退屈極まりないと思ってしまうのか不思議でなりません。
このような実体験でお話いて頂けるとこちらもリアルに実感でき、
真実味が増すので大変ありがたく、貴重に思います。
>更に、数式は世界共通の最も明晰な「言語」ながら、
よりシンプルに美しく解くのがスマートなことのように思われ自然とそれを目指します。ですが、哲学においても同様に言えることなのかどうか。
確かにそうですね。自分の知る歴史上の哲学者は素人から見て自分の 主張をどこから見ても間違いの内容に思わせたいという想いからたま に強引に言葉を並べている印象があります。結果明晰な答え、目指し た真理についての文章が複雑になっていき分かりにくくなるような気 がします。哲学を知る前は、哲学者達のイメージは純粋に真理を求め ていくような人物像をイメージしていたので、自分の主張、立場を少 しでも優先させようとするなんて思いもしませんでした、って私の誤 解かもしれませんが。
数式には私情ははさめないですもんね、ひとつの答えがあるか、間違 った解がでてきてしまうかどちらかでしか公に発表できない。
同じところを目指しているけれど扱う道具の違いにより(数と言葉)、 そのような違いが結果に反映しているだけのようにも感じますが。
そう考えるとこの数と言葉という道具の性質の違いをもっと詳しく追及していきたくなりますね。
またちょっと的外れのようなことをいってる気がしてきた…。

全然まとまりのないようになんて感じませんでしたよっ。
大変丁寧に思ったことを書いてくださり、参考になりました。
また何か思うところがありましたら是非ご回答の方お待ちしております。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/26 10:27

chick33さん


イアン・ハッキングの「言語はなぜ哲学の問題になるのか」はご覧になったでしょうか?
恐らく「言語哲学」に関する本をお読みになり、まるで集合論のような数式に辟易されたのかと拝察いたします。
ご質問の趣旨に全く一致しているかと言われると、う~んとなりますが、少なくとも数式からは開放されます。それでもホッブスからデイヴィッドソンまでの近・現代の哲学史上のどのような問題意識の流れから「言語への注視」と言うテーマが浮上してきたかを扱っています。かなり自由な発想でケーススタディとして解説しています。(自分勝手との意見もありますが・・・)
勁草書房から出ていましたが。
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この回答へのお礼

回答と本の紹介ありがとうございます。
『言語哲学』という存在さえ知らなかったです。
半年前から独学で哲学史入門をさらっと読み、今は個人の哲学者の入門書を4,5冊(90分で分かる…というシリーズです。)読み始めているばかりです。
今回は自然といくつかのその入門書を読んでいてふと感じたので投稿させていただきました。
ご紹介して頂いたイアン・ハッキングさんの本なのですが、まだ未熟な私のような段階の者が読んでも理解できるレベルでしょうか??
今はまず最低限のレベルで哲学史、歴代の哲学者達への理解をざっくりとしっかりと認識していきたいと思うので。。
>ホッブスからデイヴィッドソンまでの近・現代の哲学史
 まだこれ↑自体しっかり把握できてないんです。
よろしかったらまたお返事もらえると嬉しいです。

お礼日時:2008/11/26 09:54

こんばんは。


哲学と数学が絡められている事で、とても興味深く拝見しておりました。
門外漢が「門の外から壁を齧っている」程度の私ですが。。。

数学も哲学も、「世界をどう理解するか?」を命題にしているように感じます。
数学等、まさに「世界観を垣間見せる学問」だと思っております。
特に高校からの数学等、世界観そのものだ、と感嘆しつつ授業を受けておりました。微分積分、三角関数等はその最たるものではないでしょうか?

ゆとり教育が叫ばれ、小学校では円周率を「3,14」ではなく「3」で教える事になった、と聴いた時、これは、子ども達が知覚する世界を狭める事になるのでは?と危機感を抱きました。
小数点以下の計算を繰り返す事で見えて来る世界の奥深さ、それを子ども達から隔てる事になる。。。と私には思えました。

数学の世界では、数式は「世界を掴む(理解する)為の言語」そのもの、だと考えています。
哲学の場合の「言葉」も変わらないのではないでしょうか?
只、「数」と「式」で表すよりも、「言葉」は(日常で溢れ返っているので盲点となり)「定義が曖昧になり易い」ので、門外漢には「回りくどい」ように感じられるのだと思います。

ご質問の「境界」は、只「使用言語(数式か言葉か)の違い」だけではないかしら?と言うのが、私の私見です。
専門に学んでいる者でなくて申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>ゆとり教育が叫ばれ、小学校では円周率を「3,14」ではなく「3」で教える事になった、と聴いた時、これは、子ども達が知覚する世界を狭める事になるのでは?と危機感を抱きました。
小数点以下の計算を繰り返す事で見えて来る世界の奥深さ、それを子ども達から隔てる事になる。。。と私には思えました。
とても共感がもてました。初めて算数の時間で答えがでない事を学んだ、またそれを当たり前のように授業で教えられた事にちょっとしたショックを感じたのを覚えています。それまではこうしたらこう、というひとつの解が必ず出る事が当然だと自然に教えられていると感じていたので。あの繰り返しの数は、“永遠”を感じさせる日常とは別の認識での世界が現実には一緒に存在してるのだと感じ、また一歩違う思考の仕方を覚えたような気持ちになりましたよね。

>ご質問の「境界」は、只「使用言語(数式か言葉か)の違い」だけではないかしら?と言うのが、私の私見です。
専門に学んでいる者でなくて申し訳ありません。
いえ、とんでもないです。他の方の回答で実は私も結局yukkinn66さんと同じ様な意見となってしまいました。
哲学だけでなく数学を専門にしている方の意見も聞いてみたいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/26 10:44

No.4です。



ロクな回答でないにもかかわらず、私如きにあのようなご丁寧なお礼を下さり感無量です!

自らの駄文に苛立ちを感じたため「数式を解く際に求める美しさ」に係わる愛書『黄金比はすべてを美しくするか?』(早川書房)を昨夜再読致しました。
そしてご丁寧なお礼の中の「そう考えるとこの数と言葉という道具の性質の違いをもっと詳しく追及していきたくなりますね。」のご好意に甘えて再度投稿することをお許し下さい。
 
幾何学の創始者古代アレクサンドリアのユークリッドにより定義された黄金比。
それは数学的に定義されながら美しく心地良く調和のとれた性質の数式とみなされ、数学以外の分野で度々見出されてきたΦ(ファイ)。
ピラミッド、ピタゴラス学派の図形と音楽とバッハ、オウムガイのらせん構造、ルネッサンス絵画の遠近法から印象派、ダンテ「神曲」の構成、現代の株価推移のグラフに至るまで過去から現代に至る黄金比伝説に挑んだ作品で大変面白い読み物です。
(哲学書でなくて申し訳ありません)

最終章9「神は数学者なのか?」では、進化と自然科学、宇宙を理解するための「数学の不合理なまでの有効性」に言及しています。
「数学は、人間が経験とは別個に持つ思考の産物なのに、どうしてこんなにも見事に物理的現実の対象に当てはまるのだろう」と言ったアインシュタイン。
何故準結晶の存在を説明するのに、黄金比という、ユークリッドが純粋に数学的な目的でこしらえた概念が使えるのか。
またノーベル経済学賞を共同受賞したジョン・フォーブス・ナッシュ氏が「ナッシュ均衡」という非協力的なゲーム理論を説明した数学論文によって、のちの経済学、進化生物学、政治学といった多岐に渡る分野にまで多大な影響を与えることが出来たのか。

美しくエレガントな各種数式や図式にかかれば、いかなる事象も解明する余地がさもありえるかの如く、数式や記号を実際に多用して論破していく著者の思考に触れるにつれ、
「哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます」とおっしゃる事は、なるほど、的を得ているのかもしれないのだなぁ、と考えるに至りました。

あらためて質問者様の問われる「はっきりとした違い、境界とは何か」を再考するならば。

「数式では決して解く余地のあり得ない対象」に哲学者が対峙する可能性があり、また逆もしかりで、その【余地の有無=差異】と「一般言語と数式が各々支配する領域の【限界の認識】」こそが質問者様のおっしゃる「境界」と言えるのではないかと思います。

数千億もの星をもつ銀河の構造が非常に多くの場合にベルヌーイを魅了した対数螺旋曲線に一致するなどのように、通常一般言語を用いて哲学では究明し得なかった宇宙や原子といった世界を解明し得る余地のある数式の未知なる可能性や不思議さ、面白さ、そしてエレガントな美しさ。
そして現在用いている数式それ自体がこの宇宙で唯一の存在とも言い切れないという理不尽さをも、数学者はとっくに承知の上で自ら楽しんで思索しているようにすら思えます。

逆に哲学者も同様に数式では決して立証し得ない対象に一般言語を用いて心血を注ぐ一方、近現代の歴史が強いてきた数学に因る哲学領域の侵犯と今後の方向性をあまり快く思わない面があるのだろうか、などと考えたりもするのです。

口惜しくも更なる駄文と取り急ぎの乱筆乱文を質問者様をはじめ他の回答者の方々に対し深く失礼をお詫び致します。
こちらこそ本当にありがとうございました。
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数学と哲学では研究対象が違いますよ。


数学者と哲学者では修めた学問が違います。
この違いが数学と哲学、数学者と哲学者の違いです。
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哲学を専門には学んでいませんが、単位とるために、この方面もちょっとかじる程度ですが、、、



言葉。
例えば 翼があって空を飛ぶ動物を、日本人はトリと言う。
でも、それはあくまで他者に伝えるための<記号>であり、鳥そのものを伝えてはいない。


ある本の訳者のあとがきに書かれていた言葉。


『ヘブライ語は何より先ず抽象観念を避ける言語であり、より正確に言えば、抽象化の概念不在の言語なのである。
律法の語彙は具体的で、直接的で、いかなる奸策もなく、<力>であり、イメージ・ソース(=自然)がありうる限り理解可能なものである・・・・

これに対してギリシャ語はすでに抽象概念にみなぎっていて、結果ギリシャ語の思考者達、ギリシャの哲学者達は正確には何を言わんとしていたのを、人はかつて、今でも、そしてこれからも問い続けることができる・・・・

さらに、ギリシャ語という師からかなり刺激を受けたラテン語は、<物のレッスン>を先ず第一とするヘブライ語クラスに入れば、およそ不出来な生徒ということになる。

ヘブライ語が、示す<もの>と一体であることを自負する言語であるとすれば、ギリシャ語は存在の射程から開放された記号システムの中に抽象観念、すなわち、指し示すものとの異体性を導入しているのである・・・・

だから詭弁家はギリシャ語的でしかありえない。
ヘブライ語的見地からしてみれば詭弁家は嘘つきでさえなく、明らかに愚者なのである。』


というわけで、物の本質を直接表せない言語を使うと、哲学においては、どこまでも終わりなく、議論ができるってわけですね。


日本語は?
日本人の場合、あまり言語を介して他者とコミュニケーションを取らないですよね。

討論に関して、日本人は苦手。
アメリカでは、討論の技術が盛ん。
何故なら負けると損するし、勝つと徳するから。
日本人の痛みわけという概念を理解できないと思います。

日本人は話し合って解決をすることをあまりしない。
日本人は「なあなあ」状態でも合意に達したりする。

「なにがOKなの?」と聞いても、言葉で説明せず、「もういいんだよ」とか両者はいがみ合うのをやめている。

日本人は何を介してコミュニケーションをとっているんでしょうね。
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最初にお断りいたして起きますが、私は哲学者ではありません。

どちらかと言えば自然科学の方に属しているのかなと思います。従ってどの程度お役に立てるか分かりませんが、返事をとのことでしたので敢えて少し長くなりますがご容赦ください。

>頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。
それはそうなんですが、ある理論数学者が話しているのを思い出しました。それは
「琵琶湖の漣が光っている情景を切り取った絵画について、“この先になにがあるのでしょう?それを考えるのが数学者です。見てしまえば湖水の向こう岸の風景が見えるでしょう。それが回答ですが、そこに辿り着く道筋は無限にありますね?”」
と言う回答は如何でしょう?数字から数式を導き出し、計算をするのは数学者にとっては、どうもどっちでも良い事のように聞こえませんか?
哲学の楽しみ、苦しみも同じようなものだと思います。古来、回答のない問い掛けを問い続けてきた人間です。「人間とは何か?」、「何処から来て、何処へ行くのか?」。琵琶湖の対岸を湖面だけから考えようとするようなものです。
このような意味で
>哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。
と感じられたのは正しいのではないですか?もう、哲学の本質に迫っていらっしゃると拝察します。其の入り方が、集合論の数式の分からなさ、哲学者の語る意味不明であったり、何を言いたいのか良く分からなかったりが、原因であったとしても。
☆言語に関しては、神からの賜物、自然法から公共道具に到るまで色々な思考がされていました。乱暴な言い方をしますと、これを哲学的に考えたものが言語哲学だとなります。言語哲学の祖と言われるフェルディナンド・ド・ソーシュールはそれまでの言語起源論を否定したことにより、その後構造主義~ポスト構造主義へと発展したと思っています。
簡単にはウィキペディアで「言語哲学」で見てくだされば比較的分かりやすいかと思います。それ以外にも多くの方がコメントを出されていると思いますが・・・
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