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何故宗教は有るのでしょうね、救いという程のもはない様に感じます、有ったとしても今にも折れそうな杖にしかならないと。逆に宗教に迷っている(悩んでいる)のを此のカテではよく見かけます。

A 回答 (23件中1~10件)

有るとか無いとか超えているかもしれないですね。



>逆に宗教に迷っている(悩んでいる)のを此のカテではよく見かけます。
見かけますね。
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この回答へのお礼

なるほどそうだと思ってますありがとうごいました。

お礼日時:2009/01/04 23:47

進化の過程で、人間の知能が発達するにつれ、どうやら物事には原因と


結果があるようだと気づき始めた。
あらゆる原因には結果を、また原因には結果を対応してペアを作っていった。
そうする事で脳は快感を覚えていった。
しかし、原因の解らない結果、結果の解らない原因がどうしても出てきた。 脳にとってはとっても不快な状況でストレスが溜っていった。
不明な原因と結果に対し擬似結果と擬似原因を当て、脳が安堵するシステムそれが宗教かも・・・・・・・・・・・・・しれない。
ならば折れそうな杖あるのはまあしょうがない事であるかもしれない。
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この回答へのお礼

中々おもしろいですね。

宗教とは分からない言う事が、解ったのかも知れないですね。。

有り難うございました。

お礼日時:2009/01/06 18:39

No20です。

 意図が無かったわけではないですが、解かりにくい回答文を書いてしまいました。

再回答します。

宗教の本質が 神仏への謙虚さにあるならば、 それを利用してなんらかの別の目的のためにだましている人が裏にいようといまいと、 その本質をつかむことは、 意識のあるかぎり、 私達の究極的な力にもなるし、一歩一歩の誰にとってもの大きな力にもなりうるものと   思います。

そのことへの気づきの 力は、意識の中で 折れそうな枝とは表現する人はいないと思います。

それでも その枝が折れてしまう可能性があるのは、そこに「悪と科学」で脳(意識)が操作されてしまう可能性があるからです。(死によって意識自体が無くなってしまうという事については、死後の世界の在る無しの別の論議ともなりかねないところ、その意味でも、ここでは略します。)

私達の意識は その点からも常に相対的です。 しかしそのままにて 謙虚さはかなり力強い気づきの世界と思います。

でも

その謙虚さを 教義を疑わないこととしている信仰には、 一枝の強さはあれど、 自分への嘘という気持ちも脳(意識)のどこかにあるでしょうし、 まさに> 有ったとしても今にも折れそうな枝にしかならないと<というふうに、 そのままそのとおりに思えます。

もしかしたら、 この存在に(というと難しいですが) 生きてることのすべてに謙虚になれ、我以外皆師、 それもそれをどんなに頭の悪い人においても感性において(感じるということにおいて、ということです。)学ぶことがあるということを気がつくことが 宗教の本質なのかもしれません。

大勢の あまりにも大勢の 宗教組織に折れそうな枝を与えられてしがみついてる人たちがいるかと思いますが、 そういう人たちも あと一歩なのではないでしょうか?

その普遍的な あたりまえの真実を哲学できるようになりさへすれば、 おそらくほとんどの宗教教義とも矛盾することなく、 宗教の本質を確信出きるようになるのでは と 私は思っています。

枝を しっかりしたものに しっかり考えることによって育てればいいんです。

そういうリーダーが 宗教組織の育ってほしいなと思います。

自律の宗教と 他律 あるいは他によって立つ宗教(絶対に頼る宗教)とありますが、 自分で気がつく必要があるということは自律の宗教に偏ってるように見えますが、

この自分で 謙虚さの強さに気がつくという道にしても、  絶対、あるいは神でも観世音菩薩でもなんでもいいのですが、 すべてをわかっているような存在への謙虚さというのが、 存在への感謝であることにただあたりまえに気がつけば      解かりやすく言えば 感謝しておもわずひれ伏したり どさっとその心のふるさとの大地に身を投げ出すような気持ちになってみれば、  さて絶対他律と どこが違うのですかということです。

時間的に 他律宗教に頼っている人の方が 自律宗教に頼ってる人より はやく自律できるかもしれないということです。

雲が解かりやすいかも知れません。

雲って 無限に豊かに変化しています。  どこまでも どこまでも 知るほどに豊かです。  でも、

私は むかし、五感のすべてが色あせたように何も感じたり、感動なんて何もなくなったようになってしまったことがあります。 病気なのかよく解かりません。 悪いことは思い出せないといいますが はっきりしていないのです。 しかし、 すべてが灰色だったことと何年かそれが続いたことは思い出せます。

何もたべても もちろんおいしくないわけです。

そんな時にても ある時 川原で どてっとすっかっり心身疲れきって何時間も寝そべっていたら、 数時間後 ふと川のせせらぎの音が聞こえてきたんです。  すると その音が これは確かに私の心を癒し始めてるとも気がついたんです。    と、 次に 仰向けになっていた私の目に はじめて青空と白い雲が  これは少しですが心(意識)に飛び込んできました。    始めて 灰色としてではない 何かの色という感じでしかなかったですけどね。

でも この一点が 希望となったのでしょう。  それから徐々にですが 感覚は戻ってきました。

この事は どんな状況どんな心のときにも 人間は諦めちゃダメだ どんな人も変わることは出きるんだという  ほんの それこそ一筋の理かもしれなくても 「その証拠」と理解しています。

また たった一筋でも 人間には大きな力となる時があるということそれは意味していたと思います。

この一点、や一筋の理 、これは、一枝というものも必ずしも 弱い人間にとって「折れそうな」と表現できないものを与えてくれる 存在となりえることをも 意味してると思ってますし、 そういう地点からも宗教を私はいろいろ考察したりもしています。

ただし、その弱さを 増幅する機能を多くの宗教組織が持ってしまっている姿も私は見てきました。

だから ここには 哲学が必要であることは確かだと 私は語りたくなるんです。

やがて、雲の豊かさが無限であることに気がつけば、  地球中のあらゆる大自然の美、たった一枚の葉っぱでさへ無限に豊かな感動を私達に与えてくれる世界にも気がつけるでしょう。

この弱い 生物でもある意識のままにてです。

そうしたら、 それは自分で作ったせかいではないですから むずかしいこともなく ただあたりまえに、 神仏に謙虚になっているはずです。

自分なんてちっぽけなもので、 どこまでも さらにさらにおくが深いのですから ただの雲ですら(この水のある星の灰色?の水蒸気にすぎないもの?ですら)   宗教が かなり強靭な折れない生きた枝であることを  教えてくれる時はくるでしょう。

迷うことは そこに向かっている思索の苦しみとも言えるでしょうから それもむしろ大切と思えばいいと思います。

意識のある限り「希望」をすてるな。  これがこの回答のここだけの(笑)メッセージです。
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この回答へのお礼

「今にも折れそうな杖にしかならない」とは、折れると言う意味ではありません、か細い杖です、修正します。杖には違いがありません、光には違いがありません。

か細い杖を、凄いものだと思い、正しい願いなのに神さまは、何故、願いが叶えてくださらないのか?神を疑うだとか、信仰を疑う、色々な矛盾を聞く事がありますが、そもそも神とは矛盾そのままで有り、矛盾そのままを有り難く感じる、それが信仰の要だと思います。

答えは神の側に有るのであって人間側にはない、つまり言い換えれば神は親で有り人間は子供と言い換える事が出来ると思います。
親は子供を時に叱ります、甘いものを食べ過ぎると虫歯が出来ます、親には判りますが、小さな子供には判りません、子供は甘いものを取り上げられて泣きます、子供にとっては苦です。

つまり宗教とは苦がなくなるのではない、そう言う意味で、か細い杖と言う意味ですね。

つまり、人間(子供)の智では神(親)の超智は解らない。

だが神は親ですか子供の為に悪いようにはしない例え苦難を与えても。

arayata333さんの考えと余り変わらないと思いますが。

神(存在に)に全てを任せるのが信仰だと思います。が、神(親)の気持ちは人間(子供)には理解が出来ない。つまり智と超智は相容れない。故に本当の信仰を得ている人は数少ないと思ったりもしますが。

お礼日時:2009/01/06 01:39

おそらくですが真理というものは、どう納得できるかという違いがあるだけなのでしょう。


人それぞれの体験・経験によって真理の様相もまた異なるというのが実際のところではないでしょうか。
つまり、真理には個人差があり、個人として獲得していくべき性質のものである。
乱暴に言えばこういう捉え方も可能であるように、ど素人としては感じます。

こういったことどもは、いわゆる超自我性に関わる問題ですが、人間は本能やら自我やらも並立的にいとおしんでやらないと生きていけない存在。
あれこれ悩むのはそれこそ悩ましい作業です。
しかし、なおざりにはできない問題としてのしかかってくる場合が多い。
この矛盾を一刀両断に解決してくれるのが宗教とういうことかな、という印象は受けます。
絶対神、あるいはそれに伴う教義のあることが宗教の最低条件でしょうから。

「>今にも折れそうな杖」に見えるのは、それを必要としていないからであって、そう見えるのはあくまで視点の違いに過ぎないのだろうと思います。
個人的には宗教を礼賛する気持ちは理解できないのですが、
しかし、宗教に限らず、あらゆる場面で様々な先入観や固定観念に囚われているのが人間というものであるような気もまたするわけです。
 
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この回答へのお礼

>この矛盾を一刀両断に解決してくれるのが宗教とういうことかな、という印象は受けます。

理想と現実が離れるから矛盾として人は悩むのでしょうが、この矛盾が雲ひとつ無い晴天のようになるのかは疑問だとも思ったりもするのです、宗教において、嵐に見舞われている人が小雨には感じる様には成るでしょうが、そういう意味でか細い杖ではと。。折れそうな杖は訂正します。

有り難うございました。

お礼日時:2009/01/05 00:56

単なる回答です。



なるほど、 もし宗教に迷っている(その真実を探している)のではなくて、 ほんとうに与えられている存在へのリスペクトとか 存在への感謝のようなものに気がついたならば、 このカテの質疑も もっと実践的な形となるかと思います。   弱いまま 今にも折れてしまいそうな(じっさいその可能性のある)枝のままにも、 他人へのリスペクトとか思いやりへの

ともかく実践性が その文をリードすると思われます。

その実践性にはかける このカテの多くの宗教関連?の文。

何かの迷いが それ以前にに 立ちふさがった人がこのカテには多いのでしょう。

しかし実践それ自体が 時に応じて、一歩一歩しか進めないところを見抜いて行動すべきところもあると思います。

もし 人間として戦い続ける人間意識を 私達の対話が共有できないならば、おそらく哲学にも 経済社会の明日にも希望は無いのですからね。

行動に反映しない感謝というものは、気づきが正しいなら存在しないかと思います。 つまり行動を避けるということならば、たしかにそれは本当には信仰に気づいていないのかもしれません。

繰り返しますが、まだ、どこかが迷っている人が多いのかもしれませんね。

このカテには多いのでしょう。



折れそうな枝 しかし、折れない枝は無いですね。 意識が無くなればなくなってしまう枝でしかないわけですし、 そして 科学が発達した今ではその意識は そこに悪意があるならば操作されてしまう可能性すらあります。   原爆だけが怖いのでは無いですね。

折れそうな ではなくて折れてしまう枝 おれてしまう精神しか人間はも持っていません。

でも 折れない必要がありその責任が存在する範囲は(あるいは  いつかくる平和を祈り 信じる 血を吐くような想いの範囲は)  信仰を持った意識がそこにある時のみだとも思います。

意識のあるかぎり、 おそらく折れない おれることのできなくなった可愛そうな枝(信仰の場面)もあるかと思います。

それをわたしは 強く望んでいます。 それでも おたがい強くなろうという対話と呼びかけです。  

神が それでも何もしない、とわかっていてもです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/05 00:36

確かにおっしゃるとおり、ほとんどの宗教に救いはない状況です。


この点について、神の言葉である聖書からアドバイスしたいと思います。

私自身はエホバの証人ですが、精神的また霊的に今のところ救われています。イスラエルの王ダビデがこう歌ったとおりです。
「そうだ,わたしの魂は黙[して],ただ,神を[待ち]望む。
わたしの救いは[神]のもとから来る。
そうだ,[神]はわたしの岩,わたしの救い,わたしの堅固な高台。
わたしが激しくよろめかされることはない。」‐ 詩編 62:1‐2

ですから、救いは神によるのです。
「高貴な者にも,地の人の子にも
信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。」聖8‐参 詩編 146:3

では、実際に私たちの自身の命についてはどうでしょうか。
本当に救われるのでしょうか。
イエスはこの点をこのように言われました。
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。」 ‐参 マタイによる書 7:13‐14

ですから、ごく少数の人々しか命を得ることはできないと聖書は教えています。

また、命の道を歩んでいても試練がない訳ではありません。
イエスはこう語られました。
「そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」
マタイによる書 10:22

聖書の中で救われる人々は大群衆と呼ばれ、ある程度の規模になることが分かります。こう書かれています。
「だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。10 そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」。すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。」‐ ヨハネへの啓示 7:9‐10

この大患難とは、ハルマゲドンを含めた、神の裁きの日を表しています。それを生き残る人々がいることを裏付けています。

ではどのように、救われたら良いのでしょうか。
イエスはこのように神に祈られました。
「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」‐ ヨハネによる書 17:3

ですから、まず神とキリストについて知識を得る必要があるのです。
ぜひ、聖書を読むことによりそうしてみてください。

参考URL:http://watchtower.org/j/
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この回答へのお礼

御回答有り難うございました。

お礼日時:2009/01/05 00:15

団体に所属していようがいまいが、既存のものであろうが個人的、自己満足的なものであろうが、宗教とか信仰といったものに強い拘りをみせる人には、ある傾向性が見られることが多いとは感じます。

全ての人がそうということは勿論ないですが。

>宗教に迷っている(悩んでいる)のを此のカテではよく見かけます。

迷いや悩みに拘ってるからこそじゃないですか。このカテでも、迷ってる、悩んでるという以上に、ケンカしてるのをよく見かけます。かえって宗教がらみの人に多いように思う。

普段、わしゃ人格ができておりますと言わんばかり、あるいは見識の高さを誇らんばかりに(自分には高い見識があるてなことを実際に言って大顰蹙買ってたオッサンおられました。)悟りすましたような説教たれてても、ちょっと自分の信条やプライドに逆らうようなことを言われた途端、かあ~っとムキになったり。いっぺんで地が知れる。

どなたか理解力のことを挙げておられますが、そもそも思考力そのものが著しく偏ってたり、論理能がからっきしだったり、(年齢のせいなのか?あるいは若くてもコレだと、わたしゃ霊能力がありますなどとシャアシャアと宣伝し始めたり)だからこそ宗教や信仰にのめりこめる体質なのかとも思うけど、自分じゃかえってわかりにくいものなのだろうから、こういう人が論争(のつもり)をおっぱじめたりすると目も当てられない。
しかも人並み以上に書物を読み漁ってきました、勉学研鑽を重ねてきました、となると、それで半世紀以上生きてきて、その程度か!とかえって哀れを催すというもんです。ソッとしといてあげましょうよ。それはそれで文句言いますがね、寂しいんでしょう。ここにだって質問と称して承認欲求満たしてくれる仲間を求めて来てるらしいし。
他人にまで縋れ縋れって押し付けなきゃそれでいいんですがね。寂しい人ほど仲間を欲しがるから。


>今にも折れそうな杖にしかならないと

同じような言葉に「藁をも縋る」ってのあるでしょう、そういうことですよ。騒がしい信仰や宗教の人はね。

この回答への補足

お礼文を他の方と間違えました。改めて。

おめでとうございます。

確かにケンカは大げさですが、しているのを見かけますね。もともと自分の意見をもっていて・・・これも良く見かけます。プライドが高いのでしょうかね。

ありがとうございました。

補足日時:2009/01/03 00:00
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この回答へのお礼

此の文面から女性でしょうね。。真言でしょうか。。

なるほど有り難うございました。

お礼日時:2009/01/01 16:22

失礼いたします。


私はすでに特定の宗教・信仰に入っている者ですが
その立場から一言お話しをさせていただこうと思います。

あなたのように宗教を必要とせず、また必要とも感じておられない方は
沢山いらっしゃるかもしれません。
或いは、それらの方々のほうがはるかに多いのかもしれません。

宗教=救い、とお考えのようですが 
救い、を宗教に求めなくとも、他に救いとも思えるものが、現実の中に沢山あるのではと思われているのでしょうか。
浅はかな救いのように思える事を追い求めるのは愚かだとも・・・

私は愚かだと思われてもいいと思っています。
また、私自身の宗教・信仰の中身については
実際のところは、あまりお話したくないのが本当です。
その訳は
言葉にすればするほど空しさを感じるからです。
それに個人的な体験を話ししたくないという面もあります。

普通の感覚では、話しをしたくない事で二通りあります。
口にするのも嫌な事と
口に出すのがもったいない事とあります。
私が、今の信仰から得たものは後者の方です。

無宗教の立場と思えるあなたに対して
いささかも反論するものでもありませんし
また、反論する理由もありません。
ただ、宗教の世界を漠然と外から見ている人と、中に踏み入った事のある人とでは(浅い深いはありますが)
見方がだいぶ違うように思うのです。

あなたからみれば折れそうな杖でも
私にとっては何よりも確かな杖なのです。
やっとめぐり合えた杖なのです。
この大切な一本の杖だけが支えなのです。

愚かさを笑ってくださっても結構です。
またそれでいいのかもしれません。
失礼いたしました。
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この回答へのお礼

おめでとうございます。

此の文面から女性でしょうね。。真言でしょうか。。

別に宗教を否定しているわけでは有りません。か細い杖にしか見えないだけです。釈迦は6年間難行業をし痩せ衰え、自身の愚かさを自覚(大悟)したのでしょう、人間から苦を取る事は出来ないと。人間は明日をもしれない人生を手探りでいきていくのかもしれませんね。合掌。

有り難うございました。

お礼日時:2009/01/03 00:20

モモの話をしたNo.5です。



宗教側も悪いと思うんです。
宣伝の仕方が。
「この石は幸運を招く石です。買うと天国にいけます」とでも消費者が受け取るような宣伝の仕方をしている。

それで、困っている人は、信じて藁をつかみ、おぼれかけている。
本人は「幸せです」と言うが、どう見ても 溺れかかっているとしか思えない。

ある宗教。
私は海外小説が好きなので、その宗教が聖なる書物だという本の内容をだんだん知るようになった。
で、その宗教の信者さんと対話をするには、聖書の内容に触れる必要があり、その内容をめぐってバトルしたことがあります。

愛と寛容さを薦めるその宗教の信者さんを、試させていただいたところ、不思議なことに、聖書の内容を信者でもない私より知らなかった。
さらに愛と寛容さがどの程度のものなのか、右の頬と打たれたら左の頬を出せと言うその宗教を絶対だと信じる信者さんは、本当にパコンとやると、左の頬も出すのか試してみた。

結果、平手打ちをくらった。笑。  
釣れた! と喜んでしまった。

「おおーーー!  普通の人じゃん! なんら そこらのヨッパと変わりないじゃん!」 と思ったが、相手の迫力に 「これは面白い」と そのままイジったため、その方、暴れ狂ってしまい、「いや なにもそこまで披露してくれと、私は求めていなかったんですけど・・・・。愛と寛容さをスローガンと一応している信者ですから、もうちょっと少しはトーンを落とさないと ヤバくない? みんな見てるよ。」と、こっちが「どしましょ・・・」って困ってしまったことがあります。

私が、面白いと煽ったため、相手の方は自分を自分以上に見せかけて人騙す衣装、こんなもの喧嘩するのに邪魔!とはぎとり、本性で私とバトルしてくださったわけです。

そうですよね~ 喧嘩するのに、宗教は邪魔ですよねぇ。
自分がいかにすばらしいか、人を騙すときには、その宗教の衣装は有効な道具でしょうね・・・・。

で、この人の場合、宗教に迷っているのでもなんでもなく、自分を実質以上に人に見せるために、宗教を利用していただけ。


よく信者さんは、聖書の文句を並べ立て、命令口調っぽい書き方をして、上から見下ろすような言い方をなさる。

「神の代弁者であられられるのだぞ。 私を尊敬するべきだ」と言わんばかりに、聖書の文句をみだりに使う。

自分を着飾る衣装として、聖書の文句を軽はずみに使う。
聖書の安売りもいいところ。

目を背けたくなる醜態をさらしている。
この宗教の威厳を、非信者ではなく、信者が壊していると思える。

こういう高みから物を言うような人は、宗教信者でなくても現実嫌われる。
日本人の美徳とするものが無いから。
まあ 西洋かぶれした日本の魂を売った信者には、日本の魂など無いので、言っても理解しないが。


他に、一旦は宗教の団体に入っていたが、集団に嫌気が差して、集団には入らず、独自の解釈をする信者もいる。
団体に入っていなくても、信仰していれば信者と自称してもなんら問題はない。
ところが、どうも聞いていると、団体に入っていたとき、トラブって 結果脱会したと思える。
何故なら、団体の教義を批判しているからだ。

宣誓をしたくせに、信じると言ったくせに、やっぱり違うと言う。
軽はずみに信じると誓った後、軽はずみにやっぱり信じられるのは自分だけ、自分こそ神に近い思考をするとして、質問と称して、主張を書いている。

この人の場合、迷っているので質問しているのではなく、最初から質問していない。
自分の主張を認めて欲しくて質問のふりをして、賛同を求めて主張を繰り返しているだけ。

で、主張なので「すばらしい」と賛同する意見は喜ぶが、ちょっとつっこむと、たちまち変な理屈をつけて、難癖つけてくる。
Aという質問にAの答えを例をあげていると、それがAの質問の答に添っていると理解しない。
「知能に問題があるのか? この人 本を読まないので読解力が無く、同一だとわからないんじゃないのか」と思えることがある。
で、「別の話していませんよ 同じことをたとえで話しているんですよ」と言っても、理解できないでいる。

ある障害を持つ人と会話するときの注意を思い出す。
単語ごとに「ね」を入れて思考する時間を与え、相手がその単語を理解したと思ったら、次の単語を「ね」をつけて言う。
相手の表情で、理解していないと思ったら、先を続けず待つ。
そうしないで、相手が理解しないまま進むと、会話についてこれなくて、混乱してしまうから。

こういう人は現実世界でも、理解の違いで誰でもわかることが理解できず、相手が悪いとなり、孤立し、宗教にすがってしまいやすくなるかもしれない。
そういう社会が拾えない人をすくい取る機関として、昔は寺があった。
寺は社会から排除された人を救済する役割を果たしていた。

そういった面では、宗教はうまく機能していたと思います。
で、その救済された場所でも、交われない人は、そこから出てきて、シャバに戻って暮らすわけです。
しかし、かつてどっかにいたというプライドがあるのか、シャバで通用しない理論を絶対だと主張し、自分が一つ抜きん出た者であるかのように、言い続ける。

質問じゃなく主張なわけですが、質問として書くので、初めて見る人は、「わからないので聞いているのだろう」と思って答えるわけです。

で、私は気づいたので、「場違いです。ここは質問をする場であって、主張の場じゃないですよ」と何度も何度も教えてあげました。
が、手遅れで、毎回 質問ではなく主張だとされ、削除されていました。
でも、自分が主張しているという自覚が無いので、また質問を称して、どうみても主張の内容を書き、また削除 また 削除 また削除 とされています。
何度 わかりやすく説明しても、理解できず、専門の人による説明が無いと、本人は理解できないと思えます。
理解力が並外れてひくすぎる。 だから リアルでもトラブってしまい宗教のすがったが、やはりそこでも並外れた理解力の低さから、共有できず、出るしかなかったと思えます。


そういう経緯を知らないと、掲示板を見て、「宗教を信仰しているのに、全然救われておらず、さまよっている」と感じるかもしれない。

原因は宗教ではなく、理解力という能力の問題。
宗教が悪いんじゃないんです。

でも 宗教は奇跡を売りとしているので、その人に理解力を授けてくれるんじゃないのか?
確かにその宗教に功罪はあります。 
不可能なものも神はできる、神を熱心に信仰すれば、神は顔を向けてくれると言うので、それがあたかも失った手が生えてくるかのような印象を与え、奇跡を期待して、入る人が多い。

でも、現実、不可能なものを欲するので、起こりえないわけで。
すると信仰心が足らないのが原因だと考え、あーだ こうだ と理屈で理解しようとする。

簡単なこと、あるがままの自分を受け入れることです。
自分の欲しないものを、自分のものじゃないと排除するのではなく、障害を受け入れること。
ありのままの自分を受け入れられたとき、自分の欲しないものは自分は所有していないことになり、安楽になる。
奇跡だなんだと、欲望を募らせるから、今無いので不幸感を募らせる。

そういうことをもともと宗教は説いていたと思うんですね。
それが宗教の存在価値だと、私は思うんです。

それができないなら、宗教は存在価値が無いわけですから、本来の役割を喪失した宗教は、信者の見栄に使われる道具になりさががってしまうしかないわけです。

神と対話するとき、自分と対話しているということを信者は気づいていない。
自分の弱点を引き受けないで拒絶するから、いつまでも不幸感を抱くしかない。
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この回答へのお礼

宗教の本質を理解(信仰を得てる人)している人は本当に少ないと思います。私みたいな無知な人間が言うのは、おこがましいですが。

二度の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/05 00:11

mmkyから追伸程度に


回答者さんのコメント
[神に委ねようが悟を開こうが苦からは逃れなれないと思います。]
これはまさに言い得えて妙なことばですね。其の通りですね。肉体生命を持ってこの世界を生きているのですから、生きている以上苦から逃れることはできないのですね。それは地に下りた神であろうが悟りたるものであろうが同じなんですね。四苦八苦から逃れることは誰1人できないし、それを神であろうが他人であろうがに転化できるわけもないのですね。その意味では[神に委ねようが悟を開こうが苦からは逃れなれないと思います。]は100%正解ですね。これは仏教的な悟りの一歩手前まで来てるのですね。
真の悟りとは逃れられない苦が何故あるかを知ることですね。それを知れば苦が苦でなくなるということなのですね。苦が苦でなくなれば「艱難辛苦を我に与えたまえ」という言葉が理解できるようになるのですね。もっと苦を与えたまえといってるのですね。これ自虐的な意味ではないですよ。苦があるわけを知ったものの喜びの言葉なんですね。これが宗教の1%の意味ですね。
知らないと、[神に委ねようが悟を開こうが苦からは逃れなれないと思います。]だけでは死ねば楽になるといった間違った考えも出てきますね。これは明らかな間違いですね。こういう論理も賢明な質問者さんには理解できるでしょう。
人生は苦しみの連続ですね。楽しいこともありますが殆ど苦ですね。苦に翻弄される自身、肉体を生かしその行動から生じる思いの苦から逃れることは誰しもできない、でもこれが本当の私自信かと問えというのが宗教なんですね。あなたの心に問え、わからなければ師に問え、それが宗教の存在理由ですね。問いて答えなくば宗教にあらず、必要もないですね。でも答えるものあらば宗教の必要性を信じることもできるでしょう。問うてみることですね。
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この回答へのお礼

>問うてみることですね。

公案を頂いたみたいな感じですが、本来、公案は人智では解けないように出来ていると察しますので。。

お礼日時:2009/01/04 23:43

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