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 現代の日本で、天皇制や天皇陛下の存在を知らないという人はいないと思いますし、天皇制についてはともかく、今現在の天皇陛下については素朴な好意というか敬意というか(←うまく表現できません;;)そういうものを多数の人が持っているんじゃないかと思います。
 これに対して、江戸時代以前の人々はどうだったんでしょうか?ある本で「江戸時代の民衆で京都に天皇なるものがいるなんてことを知っていた者は少なく、国学の書物などを読み『公方様より偉いお方がいるのか!』と驚いた者も多かった」みたいな記述がありました。
 「うそ~」と思ったのですが、実際のところ、江戸時代やそれ以前の時代において天皇に対する認識、意識はどの程度のものだったんでしょうか?
 知らなかった。知ってはいたけど尊いものという認識はなかった.etc・・・もちろん個人差はあると思いますが、大多数を占める一般の民衆における傾向を教えていただきたいと思います。

A 回答 (5件)

一般人の話ではないのですが・・・



『明良洪範』という江戸時代に書かれた文献には、あの織田信長が吉法師と呼ばれていた少年時代に、家臣の村井七郎左衛門に
「王(天皇)というものは厨子に入れて持ち運ぶ事ができるのか?」
と質問したという逸話が書かれています。

天皇というスゴイ人がいる事を聞かされて、「その存在を仏像か何かのように思った」という事ですが、その逸話の真偽はともかく、現在のように、テレビやネットで、皆が同じように、同じ情報を共有する時代ではありませんから、生活に密接していない情報に関しては「知らない」というのがホントのところではないでしょうか?

殿様の息子で、当時としては、ちゃんとした教育を受けていたであろう信長でもソレですから、一般人ではなかなか、その情報に出会える機会はなかったかも知れません。

ただし、逆に、商人や芸人の子供なんかだったら、旅をしたり、人に出会う可能性が高いので、情報にはスルドかっただろうと思います。

同じ時代では、秀吉が、身分が低いおかげで、あっちこっちをウロチョロして、人の集まるところに行っては、ウワサ話を聞いてまわって情報を集めてたなんて話もあり、意外とこういう身分の人たちのほうが知っていた可能性もあるでしょうね。

古い話ですが、平安時代にお姫さまの教育係として抜擢された清少納言や紫式部など・・・彼女たちは、家庭教師と言いながらも、誰かから特別な教育を受けた人ではなく、むしろ、身分の低い貴族の家に生まれた事によって、父親があっちこっちへ転勤させられたために、様々な情報を得る事ができる立場にいた人で、その情報を武器に宮仕えをしたワケです。

今なら、教育者になるためには、イイ大学に行って勉強して・・・というところでしょうが、昔なら、旅をしてあっちこっちを見て回って・・・というところでしょう。

やはり、一つの場所でじっとしている限りは、一部の情報しか入ってこないので、質問者さんがおっしゃる通り「知る」「知らない」は個人差・・・その人にとって必要な情報かという事と、その人がどれだけの人と接し、どれだけの情報を得る事ができたか?でという事で変わってくるのではないでしょうか?

信長のように、ある程度の身分があって、それなり教育を受けない限りは、情報は、人のウワサでしか入ってきませんから・・・
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この回答へのお礼

早いご回答ありがとうございます!
織田信長の話興味深いですね、支配階級でしかも割と京都に近い地域なのに…戦乱が続いたから、忘れ去られた存在になっていたんでしょうか。
ちょっと思ったのは、必ずしも時代が下るほどに認知度が高まったわけじゃなくて、公家政治の頃は「国で一番尊い存在」としてみんな知っていたけど武家政治の世の中になりだんだん忘れ去られ、武家政治が最も強固に確立した江戸時代が一番認知度が低かった、みたいなこともあるのかもしれませんね。

お礼日時:2009/02/01 20:50

江戸以前でも日本一般国民の教育程度は世界的に見て大変高い物でした。

ある資料によると、幕末期と同じ頃のロンドンでの識字率は20%ぐらい、パリでは10%未満、ところが江戸では70%以上、日本の全国平均でも50%を上回っています。16世紀の初頭に日本に来たポルトガルの僧侶達は日本人の農民の知識欲旺盛なのに感心しております。江戸時代以前の文章はもちろん文語ですから、それを一般民衆が70%以上も理解できると言うことは、多分現在の若者達よりも遥かに教育程度が高かったのも考えられないこともありません。そんな昔の民衆達の教育の教科書は、伊勢物語や源氏物語、また、楽しみは平家物語、それにどんな山奥の片田舎でも、娯楽として、百人一首で遊んでいたのですから、天皇やお公家さんの存在を知らないはずはありません。

既に亡くなった私の母は山奥の村で生まれ、電気はなく、ローソクやランプの暮らしでした。はじめて機関車を見たのが12歳のとき、はじめて海を見たのは13歳のときだと言っておりました。学校も尋常高等小学校といって、今の中学2年生に相当する歳までしか教育を受けておりませんでしたが、百人一首は作者の名前も含めて、全て空で覚えており、その替え歌の狂歌まで覚えていました。

また、仏教を見事に吸収して神仏混淆してしまうほど国民の間に根強く浸透していた神道は、お百姓や町人ではお稲荷さん、漁師では金比羅さんを代表に、一般民衆に親しまれており、彼等の間には神国日本という考え方が当たり前でした。その総元締である天皇家がお祭りする伊勢神宮などは、国民に大変親しまれており、江戸時代には、「お陰参り」と呼ばれる一般民衆の伊勢神宮への集団参詣運動が、それぞれ数百万人規模で、60年周期に3回も起こっております。

日本人で一番多くのお墓をもった方は和泉式部、次が小野小町だそうです。彼女らは北は東北から南は九州まで、至ところにお墓があります。民俗学者の説によると、これは多分京都を本部にした巫女集団が、平地、山間を問わず日本中の村々に散らばって、霊媒などの口寄せの旅をして、そのうちに各地に住み着き、京都の文化を伝えて行った名残であろうとのことです。村の人達は、彼女達が語る和泉式部や小野小町を代表とする宮廷の女官達とその巫女を同化させてしまったのではないかと言うことです。

また、どんな山奥に住んでいても人間は塩無しでは生きて行けませんので、全国各地に蜘蛛の巣のように込み入った塩の運搬道が出来ていました。塩は、餌を与えなくても道ばたの草を食べていれば十分な、超エコ運送機関の牛によって運ばれていました。従って塩の道は獣道のように細くても十分でした。そんな、塩の運搬人や、また塩の道を通って入ってくる口寄せの巫女達によって、古代からどんな山奥にでも都会の出来事や噂などが入って来ました。ですから、一つの場所でじっとしていても、また、特別な教育を受けていなくても、都会の情報を手に入れることは出来たようです。また、今のようにテレビやインターネットなどで情報が洪水のように流れ込んで来るわけではありませんから、その情報に溺れるようなこともなく、したがって、その情報に対する印象は今より遥かに強烈だったと思います。

公方様は鎌倉や足利の将軍、すなわちお侍さんでしたが、一般国民は、天皇やそれに繋がるお公家さんの方のが遥かに格が上だと思っておりました。大分昔に読んだので何処に書いてあったか覚えておりませんが、こんなことが書いてありました。田舎などに何かの理由でお公家さんが訪れ、どこかの家の風呂を使うと、村中の人達はその風呂のお湯を飲みに来たそうです。お公家さんには神に通じるものがあり、そのお湯に霊験が現れると信じていたのだそうです。そんな霊験は、どんなに偉いお侍さんにもあるとは思っていませんでした。

ですから日本人にとって、天皇とお公家さんは大変霊験新たかな存在として、古来からどんな無学な日本人の間でも尊ばれていたようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
昔の日本の基礎的な教育水準は現代人がイメージするよりはるかに高かったという話は聞いたことがあります。
お伊勢参りなどは江戸時代の庶民も割と普通にやっていたそうだから、すくなくともそういう人は天皇の存在を知っていたと解釈してもおかしくないですね。ただ、政治的な権力とは無縁の、「日本で一番偉い神主さん」みたいな意識だったのかな~と想像しました。もちろん公家政治の頃はまた違うんでしょうけど…。

お礼日時:2009/02/01 21:00

江戸時代の「大多数を占める一般の民衆」は農民になりますが、


幕藩体制下の農民は自由に旅行などできず(徳川天領は違いますが)、
藩領内どころか惣を出るのも制約がありました。
情報も寺子屋があったとはいえ狭いエリア内が基本だったので、
天子様の存在は知っていても、公方より偉いとか、どういう存在かは知らなかったのではないかと。

もちろん水戸藩、長州藩など国学が盛んな藩や関西は話が違うと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
地域差はかなりあったんでしょうね…いくらなんでも京に住んでいて天皇を知らないということはどの時代においてもなさそう。

お礼日時:2009/02/03 23:43

江戸時代だと「知識」としては知っていたとしても, 表に出てくることはほとんどないだけにそれこそ「雲の上の人」という感じじゃないんでしょうか. とりあえず, 江戸時代になって「(江戸幕府という) 中央政府」の支配する「日本」というイメージができたようなので, それ以前は知らない人が多かったのかもしれません (知っていてもたぶん「日本をまとめる」というイメージではない).


ちなみに江戸時代の農民は意外と自由に動けたというのが真相のようです>#3. ただし, さすがに農繁期に出ていくと生きていけないので農繁期に動くわけですが. 体制上はむしろ武士の方が藩に縛られているような感じ?
もちろん「旅行のためにはお金がいる」とか「届け出る必要はあったらしい」とかの事情で「思い立った時にすぐ旅に出る」ということができるわけではありません. ですが, 例えば「伊勢講」という組織を作って家々がお金を出し合い, それで毎年誰か (「抽選」という形をとりつつも誰もがなるべく行けるように取り計らったという話もある) が伊勢に参るというのは特段珍しいものではありません. また, 各地の名物や見どころを集めた「ガイドブック」も既に存在しています.
さらに言うと, このように「旅をする」ことを知っているがゆえに, 明治になって鉄道が異常に発展したとかいう話もあったりします.
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
たしかに、「我が国」という概念が根付いたのはかなり遅いようですよね。大多数の人はそれこそ幕末に至って否応無しに意識させられたという感じなんでしょうか(幕末ですら「おらには関係ねえや」って人も多かったかも?)。いずれにせよ今の天皇観とはかなり違いそうですね。

お礼日時:2009/02/03 23:50

1868(明治元)年9月の車駕(しゃが)東幸が行われ その盛大さで沿道や東京では天皇の威光が誇示され 東京市民には酒肴がふるまわれ、数日間にわたってお祭気分だったと記録があります。

また
1872(明治5)年の西国巡幸以降、1885(明治8)年までの6大巡幸により、北海道から九州まで天皇のイメージを民衆に浸透させていきました。、天照大神や神武天皇とつながり、伝統的権威を持ち、正統な支配者であり、解放者としての天皇を民衆に知らしめるためです。ここまでやったのは あなたの疑問への答えです
もともと朝廷の公地公民制によって 土地も民衆も天皇からの借り物で
そのことは武士や各地の搾取階級は認識しています その証拠に
維新の大政奉還等すべての領土の返還での争いはなかったでしょう
戦国期は将軍の出撃命令は断れません そのかわり 土地の使用権利を認めてもらえるからです 
搾取される側の民衆は、おかげ参りや抜け参りなどの伝統的な伊勢信仰がありましたが 文盲率の大小にかかわりなく直接的な日常でのかかわり中では存在性がありませんでした 朝廷でも幕府でもなく 個々の所属する村や惣の単位の管理者を知っておれば事足りてきたわけです
ですから天皇が全国を巡幸という形で表出することで、民衆の生き神様信仰が、神としての天皇に収斂されるべく教化しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
すごく参考になる知識をいただきました。わざわざ全国を巡幸なさったということは、(国家の支配者としての)存在をアピールしたかった=(国家の支配者としての)認知度が低かったということの傍証になりますね。
ただ、崇拝の基礎となる「かみさま」への素朴な信心はすでに根付いていたから、それを具現化する存在として違和感なく受け入れられたということなんでしょうね。自分なりに納得のいく理解ができたように思います。

お礼日時:2009/02/03 23:57

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