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頻出質問でしたら申し訳ありません。
鎌倉時代とか江戸時代といった呼び方・区分けは、いつごろ誰が決めたのでしょうか?
また、たとえば明治の頃には鎌倉時代という呼び方はあったが江戸時代という呼び方はなかった、とか、あるいは全然違う区分けだったとか、どういう推移で今のような区分けになったのか、よろしくご教示ください。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>鎌倉時代とか江戸時代といった呼び方・区分けは、いつごろ誰が決めたのでしょうか?

明治5年の学制により学校制度が作られて以降、小学校への就学を促進するための親に対する啓蒙的な教育として、1885(明治18年)に「通俗教育」が初めて文部省の事務章程に規定されました。
この、全国民的な学校教育が開始され、それまでの「寺子屋」での「読み書き」「算盤」から、いわゆる、「算数」「国語」「社会」「理科」
を教えることとなり、この中の「社会」で、「歴史」を教える段階で、誰もが理解しやすいように、「鎌倉時代」とか「室町時代」「戦国時代」「江戸時代」等を区切って教えるようになったのが始まりのようです。

ちなみに、「通俗教育」とは、
通俗教育は当初、就学奨励を目的として、親に対して学校や教育の重要性について通俗的に語ることから始まったが、合わせて親や住民に対する国民としての啓蒙的な教育としての意味もあった。日清戦争以降、小学校の就学率は急速に上昇し、国民教育制度の確立が進んでいくが、それに伴って通俗教育の内容が、親への就学奨励を目的とする教育から民衆への啓蒙的な教育へと比重を移していく。特に1894(明治27)年8月に始まった日清戦争に際しては,国民の愛国心の形成や・「尚武教育」を目的とした幻灯会などが実施され,国民意識を鼓舞していく。
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この回答へのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。
なるほど、各「時代」の呼称は明治以前にはなく、学校教育に必要ということで一気に定まったわけですね。
たいへん参考になりました!

お礼日時:2009/02/16 19:24

まず知ってほしいのは日本の近代歴史学というのは、明治時代前後に文明開化で西洋の文化や学問を一気に取り入れたときに同時に入ってきた学問ということです。


もちろん、古代より日本人も世界の各国・各地域と同じように「歴史的なモノ」というのはありました。
日本で最古の「歴史(的)記述」というのは、8世紀頃に作られたと推測される『日本書紀』です。
この『日本書紀』は、中国の「正史」を参考にして作られたのではと言われています。
「正史」とは何かというと、「国家の支配権の正当性を主張するための歴史」となります。
つまり、「過去の事実」から「為政者にとって有利な歴史」が選択され、時には誇張・無視・ねつ造・誤謬etc,,,つまり、編纂者・記述者の主観で「歴史が主張」されるんですね。
これが「正史」となります。
『日本書紀』以降、時の政権によってこの「正史」が作られることはあっても、近代歴史学的な意味での「歴史」はありませんでした。

近代的な意味での「歴史(学)」というのは、ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケから始まったとするのが一般的です。
西洋でも「歴史」というのは、古代からありましたが(ギリシアのヘロドトスが最古の「歴史(記述)」とされています)、どれも近代的な意味での「歴史」ではありませんでした。

ルネサンスを経たヨーロッパはいろんな分野で転換期を迎えます。
その中で、(学問世界で)もっとも大きかったのは「科学革命」が起こったことです。
この「科学革命」によって「キリスト教的な世界解釈(認識)」から「自然科学的な世界解釈(認識)」へと移っていきました。
言い換えれば、「哲学」から「神話」と「科学」が分離したと言っても良いかもしれません。
そんな中、ヘーゲルが『歴史哲学講義』において「歴史哲学」を唱えます。
これによって、「歴史記述はどうあるべきか?」という問題が初めて認識されました。
その後、その「問い」に様々な回答が提出されていきました。
その中でも隆盛を極めたのは、啓蒙思想を背景とした「教訓的、実用的歴史学」でした。
つまり、「先人の知恵を学ぼうよ」という姿勢です。
それに「待った!」をかけたのが、ランケでした。
ランケは「史料をして語らしめよ」と唱えます。
歴史史料というのはあやふやで時には改ざんやねつ造が行われるモノだから、徹底して史料を批判し、その批判に耐えられたモノだけを使って書くべきである。
そうして書かれた「歴史」だけが、「真の歴史(客観的)」であると。
つまり、「実証主義」の立場を唱えたわけです。
そして、この「実証主義的な立場」が「近代歴史学」の主流となります。
もちろん、その後もこのクローチェやE・H・カーなどによってランケが言うように、「歴史は客観的に書かれることはない」と批判を加えていきます。
クローチェは、歴史認識というのは常に「現代の問題意識」に根付くモノなのだから、「全ての真の歴史は現代の歴史である」と唱えます。
カーも、過去から取り出される歴史というのは、現代の社会や価値観などに左右されるのであるから、「歴史とは現在と過去との対話である。」と唱えます。

ともあれ、「近代歴史学」はヨーロッパはランケに始まりました。
そして、日本もこの「歴史学」を輸入していきます。
そして明治20年に、ランケの弟子であったルードビヒ・リースが帝国大学に招聘されます。
これにより、日本の歴史学も近代的歴史学へとなり、「実証主義」の立場から研究・叙述されるようになりました。
その後、キリスト教的な史観でありヘーゲルやマルクスが世俗的にした「進歩史観」が紹介されると一気に広がり流行します。
そして、戦前の大政翼賛会体制において「超国家主義歴史学」による中断はあったものの、概ねランケの「実証主義」とマルクスの「進歩史観」に大きく影響を受けた状態が日本の近代歴史学といえます。

>「江戸時代」等の区分けはいつ決まった?

上記のように、日本は「進歩史観」に大きく影響を受けており、時代区分も西洋の「古代・中世・近代」という三区分法が取り入れられました。
この区分は、ルネサンス期に「古代の知」が発見されると「古代の知を失った時代」を「中世」とし、「古代の知を再発見した時代」を「近代」と考える歴史区分です。
その後、「中世」と「近代」の間に「近世」を加えたり、世界大戦後を「現代」としたりと、区分が増えたりはしましたが、基本的にはこの三区分法が取られています。
その背景には、「古代・中世・近代」と時代を下るにつれて「真理に近づいている」という進歩思想があります。
で、日本でもこの区分に従おうとしましたが、やはり西洋と日本では辿ってきた歴史が違います。
そこで、「古代と中世の区切りはどこか?」とかいった、いわゆる「歴史区分論争」というのが流行りました。
で、この「歴史区分論争」が繰り広げられると同時に、各時代ごとの研究成果も上がっていきました。
そして、その各時代の王朝(幕府名)や中心となった地名をとったおなじみの「平安時代」とか「江戸時代」などの区分も出来ていきます。
で、最近では「古代・中世・近代」という三区分法はやはり日本にはそぐわないとして、「平安時代」や「鎌倉時代」と言った呼称を便宜的に用いるようになってきています。
あるいは、文化面に着目して飛鳥文化時代・白鳳文化時代・天平文化時代・弘仁貞観文化時代・国風文化時代etc,,,と言った区分法もあります。
さらに、国号に着目して(寛永・明治・大正・昭和・平成など)分ける分け方も併用されています。

ただし、誤解してはならないのは、「○○○○年からが鎌倉時代だ!」という明確な区分は付けられません。
そこで、緩やかに時代がゆっくり以降していったという「時代移行論」が唱えられはじめています。
これは、先に述べたように日本の歴史学が「キリスト教的なモノを世俗化したヘーゲルやマルクスに代表される進歩史観」が蔓延していたことに対する反省に立つモノです。
とはいえ、時代区分というのは学校などの教育において「便宜的」に使われているにすぎず、学会では決まった基準はありません。
言い換えれば、研究者ごとに「歴史区分」があると言えるかもしれません。
まぁ、それじゃイカンと明確に定義付けようというかつての「時代区分論争」が再燃するかもしれませんが。。。

長文で、失礼しました。
参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございます。
なるほど、もし西洋式の三区分が取り入れられたら当時なら江戸時代の大部分が「近代」となりそうですね。
たいへん参考になりました!

お礼日時:2009/02/16 19:25

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