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おもな、祭りなどを観ていると、そこには、結局「無病息災」やら「~~祈願」やら、ようするに

「危険を避け、いいことがあるように」

という一種「さもしい」姿勢に終止しているように思われるのです。こんな考えようによっては恥ずかしい心持を堂々と風習にするというハレンチはどう考えたらいいのでしょうか?あるいはこれを、

「もっと危険で、破壊的なことを通して、新しい次元に自分あるいは社会を止揚する」

という姿勢に貫かれた社会風習、慣習、習俗というものはないのでしょうか?

あるいは、このことから、人間はなぜこうも「安全祈願」ばかりする生物なのでしょうか?

A 回答 (5件)

>「もっと危険で、破壊的なことを通して、新しい次元に自分あるいは社会を止揚する」


>という姿勢に貫かれた社会風習、慣習、習俗というものはないのでしょうか?

皇国にはそれがありました。

>人間はなぜこうも「安全祈願」ばかりする生物なのでしょうか?

そうは思いませんし、必勝祈願しかやったことはありません。
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この回答へのお礼

そうですね。皇国時代には確かに狂っている軍閥政治はあるとしても、そこに流れている武士道的な、凛としたものがありました。それはそれで、腐った安全主義とは一線を画す価値のあるものですね。

お礼日時:2009/03/06 08:28

安全祈願は本能だと思います。


人間の欲求の順序でもまずは安全の確保だったと思います。
コラムで見たことありますが、特に日本人は人生が予定通りに行かないとか、つまづくということを嫌うらしいです。

それと、新しい次元だとか世の中だとか、そういうもののイメージが出来ている人なんてそうそういないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね、本能を素直に出すと、躍進とか新たな止揚というよりも、安全祈願現状維持というところになって、それが信仰行事という形を取っているのでしょうね。

お礼日時:2009/03/06 08:27

こんにちは。



私はお祭が好きであちこちに見学に出かけますが
あなたのおっしゃるとおりだと思うことが度々あります。

例えば雛祭りは、もともとは人形に息を吹きかけて
みずからの穢れを人形にうつし、
穢れをいっぱいに吸い込ませた人形を小舟に乗せて
川や海に流すというものでした。

豪華な雛人形が作られるようになってからは
雛流しの習慣は廃れましたが
3月3日が過ぎれば雛人形は早々に押入れの奥にしまわれて
日の目を見ることなく1年を過ごします。

六月に行われる水無月の大祓も雛流とほとんど同じで
人形に息を吹きかけて穢れをうつし、川や海に流します。

私は民俗学に興味があるので見学はしますが
人形をみがわりにする、という考え方が嫌なので自分自身はしません。見るだけです。
(伝統を継承するのはいいことだと思うので、する人を非難するものではありません。)

ただ、現代人はこのような神事を行いはしても
古の人々とは異なった意味づけをしているとは思います。
現代人の多くは、自分の穢れを人形にうつす、という意識はもっていないと思います。
そうではなく、雛人形を飾るということで、
女の子に思いやりの心を育てたいと、
そんな風に考えている親御さんがほとんどだと思います。

思うに、道徳観というものが、昔と今では随分変わってきていることが
恥ずかしい心持、ハレンチと感じる原因なのではないでしょうか。

祭りは伝統行事なので、古い形を継承することに意味があります。
ですから、今の感覚からすれば「さもしい」と思えることもありますが
神道や仏教も時代とともにその教義を変えているのではないでしょうか。

>「もっと危険で、破壊的なことを通して、新しい次元に自分あるいは社会を止揚する」
という姿勢に貫かれた社会風習、慣習、習俗というものはないのでしょうか?

例えば、修験道の修行などはこれにあてはまるのではないでしょうか。
自ら体験したことがないので断言はできませんが
水垢離、火渡り、くがたち(熱湯の中に手を入れる)など
厳しい修行を行うことで、悟りを開こうとするもののようです。

>人間はなぜこうも「安全祈願」ばかりする生物なのでしょうか?

それだけ古の生活に危険があふれていたからだと私は考えています。
風水害に悩まされ、その結果、ひどい飢饉に陥ったこともしばしばあったようです。
疫病の流行で大勢の人が死ぬことも頻繁にありました。

この文章を書いていて気がついたのですが
それでも人類は前向きに生きてきたと言えるのではないでしょうか。
人類がやってきたことは神仏に祈るだけではありません。
気象を観測して天気予報を行い、
土木工事を行って川の氾濫を防ぐ技術を身につけ
(飛鳥時代にすでに行われていたようです。)
疫病に対しても研究を積み重ねて対抗してきました。
(そのため、日本1955年に天然痘は撲滅されました。)
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この回答へのお礼

穢れを人形に託す、という思想は、ずいぶん前からありますね。縄文の呪術などもその類です。古からやっていることは同じですね。最近は物騒だと感じるのか、それともさもしいと感じるのか、優しさ風潮の興隆なのか、穢れ信仰は影を潜めているようです。こういうのも結構いやらしいですね。なかには、おっしゃるように、厳しい修行からのさとりもあるのですが、少数ですね。やはり、厳しい基準は一般には受けないのでしょう。古の生命維持というものは現代の感覚では捉えられません。

お礼日時:2009/03/06 08:25

外国ですが、バンジーとかは正にそれですね。

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この回答へのお礼

バンジーは知りません。

お礼日時:2009/03/06 08:22

生き物が絶対的な恐怖である死を回避(逃避?)するためなんじゃないですかね?


本能的に種の存続ってのがある以上当然の結果ではないかと思います
今でこそ眠ると必然のように朝を迎えますしお腹がすけば冷蔵庫を
あければなにかある なかっても半径1km圏内にコンビにはありますから何らかの方法で空腹を満たすことが出来ますが
寝ている間に別の生き物に捕食されるとか空腹のため餓死する
なんて時代もありました。これらの歴史を踏まえた状態での
本能なんだと思います。
それこそ残っている風習って一昔前に出来たものですよね
それこそ疫病が流行し人工の半分が死滅したとか
当時は医学も発達していないために結局は神頼みしか
頼る術がなかったんでしょう そのため無病息災を祈願する
お祭りってのが出来たんでしょうね。
もちろん願うばかりでなく秋祭りは豊作を祝って神に感謝する
お祭りですし 
もちろん 人身御供や人柱とかって言う風習もあったのは事実でしょうね でもこれも生き残るための神への供物としてですし
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この回答へのお礼

やはり、本能に訴えるところを正直に、素直に表現すると、こういう風潮の背景は安全に集約されるというところでしょうか。それが古ならばますます実感として納得できます。
結局、人間っていうのは、最大公約数的には、現状維持安全を願うもののでしょうかね。

お礼日時:2009/03/06 08:21

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