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豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?

A 回答 (4件)

家臣団の貧弱さ。


これが原因で朝廷の権威体制を採用した。
ってことじゃないかと思う。

林羅山の説は「武家はやっぱり将軍が本流よ」というプロパガンダの臭いもしますよね。徳川家は武家の本流だから将軍だという行間を読めという感じがします。
小牧長久手の戦いで勝てなかったから将軍になれなかったという説もありますが(征夷大将軍は、東夷を倒さないとならないという説)じゃぁ、北条家を倒した段階でいいじゃん。まぁ関白になった後だから不要という考えもありますが。頼朝の前例ということになるのですが、じゃ、尊氏は?という感じがします。

頼朝、尊氏、家康
この将軍になった連中と秀吉で一番違うのが「重代の家臣」がいなかったこと。
頼朝=御家人
尊氏=管領家や有力守護大名(半数は一族だったり、高家のように、重代の執事)
家康=酒井家や他の松平家など
擬制家族のような体制の上で将軍になっています。
ところが、秀吉には擬制家族が三成や清正など一代で育て上げた連中しかいなかった。
なので、擬制家族を作る代わりに、武家殿上人を作ることで、体制を作る必要があったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

新たに秀吉の配下に入った者たちが、朝廷の官位をもらったほうが
喜ぶし、支配しやすいという感じでしょうか。
確かに・・・そうですね。
現在の会社や役所の中でも、
数年前までの同僚が実力を示しても、なかなか頭を下げづらい。
でも役職という客観的な価値観の中で序列付けられると
納得しやすいのと同じでしょうか?(笑)

ありがとうございます。

お礼日時:2009/03/24 08:12

何を置いても、出目の貧しさだと思いますよ。


どう隠そうと、庶民出であることは周知の事実ですし。
武家の順列で言うと、織田家の家臣は全部自分より上だったわけで、それを追い越したんですからね。
一社員から社長まで上りつめた人は、自分より上を全部処分(系列などへ追い出す)するでしょう。

ですから、武家や織田家の序列をぶち壊す必要があった。
その意味で朝廷の権威を使うのは非常に便利でしたね。
公方と帝はどちらが偉いかってのは、京都の童でも知ってましたから。
それに足利幕府は信長が潰しましたから(そのため、織田家は平氏を自称していた)その後に幕府っていうのは、信長の家来だった秀吉にはできなかったんじゃないでしょうか。
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 個人的な考えですが、将軍が武家の棟梁と言うのは、江戸時代に豊臣家に地位で負けていた江戸幕府の後付理由な気がします。


 (秀吉にしてみれば、どの役職でも取得できるのにわざわざ格下の役職を選択する必要性に掛ける。)

 秀吉と家康の地位を比べると
   秀吉 太政大臣と関白を兼任
   家康 太政大臣(将軍を秀忠に譲った後に就任)のみ

 家康以降の歴代の将軍の内でも、秀忠や家斉が太政大臣まで上っていますが彼等も将軍を譲った後に太政大臣に昇進しています。
 (徳川家でも太政大臣は将軍より格上だと認識したいた。)

 まして神君家康公が生涯にわたって獲得できなかった関白の地位を、後の将軍達が要求する訳には行きません。
 (家康がもう少し早く天下統一していれば[長生き出来れば]、秀吉が関白相論のゴタゴタに乗じて関白に就任した様に、関白就任を目指したかもしれません。)
 
 仕方ないので、秀吉は生まれが卑しいので将軍に成れなかった何てマイナスイメージを作って、関白・太政大臣の兼任を目指せない徳川家の面子を守ろうとしたのではと愚考したりします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>秀吉にしてみれば、どの役職でも取得できるのにわざわざ格下の役職を選択する必要性に掛ける

そうですよね。平清盛とか太政大臣はいましたが、関白はすごいですよね。

しかし、そう考えると家康も晩年は どの役職でも取得できたのかなと・・・

お礼日時:2009/03/25 23:58

>家康も晩年は どの役職でも取得できたのかなと・・・


 晩年の家康の権力は確かに絶大ですが、寿命(死去は1616年)がもう残り少なかったのです。
 (太政大臣の就任が死去の一ヶ月前。)

 秀吉は死去(1598年)する14年前に関白に就任(1585年)していますが…。

 絶大な権力があった事を制度的に裏付ける「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」も死去する前年(1615年)に制定された訳ですし…。

 家康が自身の権力の大きさを、公に誇示できる様に成った理由は、個人的には1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、建前(豊臣家は建前上は徳川家の主家)でも実質でも徳川家が最高権力者である事が確定したからだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういえば夏の陣から家康が死去するまでは 一年もなかったですね。

お礼日時:2009/03/28 11:05

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