【選手権お題その1】これってもしかして自分だけかもしれないな…と思うあるあるを教えてください

人によって違うとは思うのですが、
あなたにとって数学とは何ですか、
と聞かれたらどう答えますか?

A 回答 (34件中1~10件)

“数我苦”ですか? “数楽”ですか? 私は後者です。

大学では4年間理学部数学科に在籍していました。
“数我苦”の人達”は小・中学校の数学教師とういう悪性ウイルスに犯された病人です。
わたくしDr.Johns(若い頃はインディ・ジョーンズ役のハリソン・フォードに似ていると言われていたから)の処方する薬で間違いなく治ります。 ようこそ,”数楽”の世界へ! 
まず,教科書が良くない。
従って教科書通りに教える教師は悪の使いです。例えば1次関数を直線だという人がいるが全くの嘘です。
関数の英語はFunction で頭文字の f をよく使う。 ある数 x を2倍して 1 を加えるという決まりを f とする。 f:x→2x+1,f(x)=2x+1,xをyに対応させるという意味でy=2x+1と書いたりします。
よって1次関数は y=2x+1となります。そして,y=2x+1を満たす点(x,y)を全て集めると直線になるのです。つまり,直線は軌跡であり関数とは全く違うのです。
明治時代の初めにFunctionを函数と訳し関数と変化した。歴史を見て欲しい,関数という和訳が悪いのです。
今,高校3年生は”受験戦争”の真っ最中! 現在のセンター試験を利用することによって”考える”ではなく”覚える戦士”が勝ち残る悪い 制度です!文科省は方針を変えろ, と言いたいのです。 現在の文部科学省のやり方に腹を立てています。
数学の教科書は明治時代の初期に和訳されたまま変更されずに使用されています。そのため,時代にそぐわず“数我苦”を増やしています。
センター数学で,確率やベクトルができない生徒のために、放課後を使って商業科の生徒が学ぶコンピュータのプログラミング言語である「Basic」をWindows上で動く“十進Basic”というフリーソフトを使って教え;自分で打ったものが実際に動くと“数我苦”の人達も楽しそうな顔をする。

日本では,最新の数学である “コンピュータ言語” である “Basic” を進学校では学びません。
やはり、文部科学省の教科書のせいで“数我苦”が増えたと実感する。オーストラリアは主に電卓を使う授業をすると国際系の留学生が言っていた。 教育課程が10年ごとに変更されますが教科書はたいして魅力的にはなりません。
コンピュータは世界一で初めて価値を持ち,第二位では全く価値がありません。民主党は”鳩山”,”管”と珍しく理系の総理を輩出しながら科学技術関連に対して厳しい予算となって日本を後進国にしようとしています。
文系の人には科学技術の大切さを理解できないかもしれませんが,日本には“技術”以外に売るものはありません。
以上!
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バカですいません・・・。



>>数学とは何ですか?
と聞かれたらわたしは


A:人生の楽しみです。
 
根拠:あるじゃないですか、そこら辺に・・・。
   そこら辺に数学なんて転がってます。
   人生のどこにでも転がっている数学を探して拾って楽しみます。
   そしてそれがどうなるかを見て、求めてるのが1番楽しいのです。

・・・。
バカですいませんね、

役立たず人間ですいません。
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#26です。



久しぶりに自分の書いた物を読んで見て、誤植だらけだったことに恥じ入っております。それでもほとんどの部分は文脈でも判ると思いますが、#26の第6段落目の最後の部分には意味不明の誤植がありました、

「何かい、お前はこの宇宙が不安だとでも言うのかい」 => 「何かい、お前はこの宇宙が不安定だとでも言うのかい」

と読んで下さい。さもないと全く意味が通じません。
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自然現象を理論的に表現するための手段。

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具体と抽象の階段を自由に行き来することが数学ではないかと思っております。

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自分にとって数学とは趣味ですけど、数学ってよくできてるじゃないですか。

だからどんなゲームより楽しいです
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この質疑応答にも何度か登場しています岡潔氏は「数学を志す人に」という文章の中で、アンリ・ポワンカレの「数学の本体は調和の精神である」という言葉を重んじています。


 岡潔氏の文章は、まさに天才の文章で、鵜呑みにすると、飛んでもないことになるような危ういところもあるのですが、数学とは何かといったことを考えるのでしたら、読んでみられるとよいかも知れません。
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#26です。



抽象化について常々考えていたことで、重要なことを言い忘れておりました。#26及び以前に挙げた幾つもの具体的な例でも分かるように、抽象化の作業で決定的に重要なことは、具体的な事物の中から抽象化を通して見つけ出された共通な概念を使って、それこそ抽象的に物事を論じる作業ばかりでなく、それとは逆に、その抽象化された概念に対応する具体的な例を幾つでも指摘してみせるという、言わば、抽象化とは逆の方向を向いた作業です。具体的な物事から抽象的な物事を引き出す能力は、ある程度の段階に来た人なら、比較的に易しいのですが、その逆の、抽象的な概念を具体化して見せると言う能力は、余程優れた生産的な学者さんでないと、中々出来る物ではないことが、それを出来る人や出来ない人を見てた経験から思うようになりました。#25で述べたコルモゴロフの例のように、これだけ抽象化能力があると、数論でもいきなり具体的な世界に使ってみせることができるのかと感心したのは、そのほんの一例です。

別な言い方をすると、抽象的な能力があると言うことは、皆さんがどうも通常思っているように「抽象的な概念を抽象的な形で論じたり理解できる能力」ではなく、「抽象的な世界と具体的な世界を自由に往き来できる能力」ではないかと思うようになったのです。

この認識は数学屋さんから大分異議が出てきそうな認識ですね。
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質問者さんが提起した大変興味のある問題のお陰で、一連の長々とした無駄話を投稿する機会を手に入れたことに、感謝しております。

もういい加減にせいと怒られてしまいそうですが、毒を食らわば皿まで、とも言いますから、ここいらでお皿を食らうことにします。

>物理屋さんは、とにかく計算ができればいいという考えでしょうか。
>数学者は、∞も見えます。
>数学では、この世の中の現物より、頭の中での極度に抽象化された論理を見ています。

以下に説明しますように、特に上の最後の主張に対して私も同感です。ただし、どうしてそう結論できるのかに付いては、私には、相当な分析が必要です。私論を述べますので、少々長いですが、その分析にお付き合いして下さったら幸いです。 

だたし、私の私論が、以下のモンテーニュの『エセー』の中の断片のようになっているかも知れないと、怖れてもいます:
「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。、、、難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。、、、
彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。、、、
なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。」

さて、数学では「抽象化」という言葉が使われるようですが、物理学ではそれとは微妙に意味の違った「理想化」という言葉が使われます。この意味の違いを深く認識せずに話をしてしまうと、分かったような分からないような議論になってしまいます。数学者も物理学者も数式を使って論じているうちは良いのですが、「だから何なのだ」と通常の言葉を使い出すと#18のところで紹介した「音楽と物理学」を論じた素粒子屋さんのような間抜けな話になってしまいます。

抽象化とは、いろいろな物事を比較して、その人にとって余り重要でないと思えることを取り除いた後にもまだ残っている何かに気付いた時に、それを敢えて同じ物だと認識する行為ですね。ですから、抽象化の行為は、何が重要であるかを判断する主観が入る余地がある。従って、その主観の良し悪しによっては、抽象化が出来なかったり、あるいは見当違いの抽象化をすることだってあり得る訳です。例えば、チンパンジーに3本のバナナと3冊の本を見せて、ここに何か共通な物があるか聞いてご覧なさい。チンパンジーは、そこには何も共通した物がない、バナナは食べられるが、本は食べられないからだ、と主張すると思います。また、貴方の周りには、いつも失敗を繰り返し、経験から学べない方が必ず一人位いるはずです。その方に、どうしてまた同じ失敗をしたのかと、問いつめてご覧なさい。その方は「いやそれは同じことではない、だって、あれは朝起こったが、これは夕方起こったではないか」とか何とか言って共通性を認めませんよ。私は、私も含めて経験から学ぶことが出来ない人を、抽象化能力の欠如した人と呼んでいます。逆に、われわれ凡人にとって何でもない事象や、考えても見なかった事象の間に、思いがけない共通性を見出すことができる方を、抽象能力のある方と呼んでいます。優れた詩人や、優れた学者とは、こう言う意味で抽象能力の優れた方だと思っております。ホメロスが美しい目の女性を形容するのに、「牛の目をしたヘーレー」と言ってのけたり、昔あるとき、私が自分では何でもない小さな計算をして私の学問の師に見せたら「何かい、お前はこの宇宙が不安だとでも言うのかい」とびっくりすることを言われたなどがその例です。

一方、理想化とは、この途轍もなく複雑に出来ている現実の世界を理解するために、話を思い切って単純化して、極端なことを考えようと言う行為です。例えば、ボーリングの球を10m位の高さから落としてその運動を記述する時には、厳密には空気の存在も考慮に入れて、気体分子運動論か、あるいは非線形流体方程式を解くのが筋なのですが、そんな物、誰にも解くことが出来ません。しかし、現実の経験では空気の影響は有っても無きがごとしなので、空気の存在を無視すると言う、現実とは違った物と置き換えるごまかしをやります。このことを理想化と言います。これなら誰にでも解けますね。例えば、摩擦が小さいので摩擦を無視するなどと言うのも理想化の一つです。理想化にはしばしば抽象化が伴いますが、それよりも、この例でも分かるように、本質的には、こちらの都合で、現実の系を在りもしない系に置き換えると言う「ごまかし」の行為なわけです。もちろん、そのごまかしで失う物もありますが、その代わりに、系の振る舞いの本質が理解できるようになるという利点もあるわけです。

ここまで準備して、「数学者は、∞も見えます」との関連で、いよいよ物理学者にとっての無限大とは何かに触れてみましょう。物理学の計算で無限大や無限小と言う概念が本質的になるのは連続変数を扱う場合です。この宇宙に存在する全粒子の数は約10の80乗個程であり、有限だと考えられています。宇宙の大きさも有限のようです。ところが有限な大きさである限り、例えば、フーリエ展開の例などのように、われわれは級数を扱わなくてはならにことになり、その級数をいきなり積分で置き換えることは出来ません。ところが、級数を取り扱うのは積分よりも桁違いにむずかしいですね。そこで、物理学者は、無限大の大きさを持つ在りもしない宇宙を考えて、上のボーリングの玉の問題と同じ様に理想化してしまうのです。これなら、フーリエ積分でも、ルベーグ積分でも、解析接続でも、超関数でも何でも使って、この理想化された在りもしない宇宙を論じられるようになるからです。宇宙などと大げさな例を出さなくも、もっと短なれいはトランジスタやナノデバイスなどです。この現象は結晶の中で起こっている現象ですが、このデバイスの結晶の大きさは高々数センチや数ミリと有限な大きさですね。でも、物理学者が現実の計算をする時には、平気で積分を使って、数学屋さんが手に入れくれた道具をフルに使って計算しています。そんなことは、厳密には無限大の結晶でなくては出来ないはずですね。流体力学だって、今ではこの世の中は連続体ではなく、粒子の集まりで出来ていることが判っているのだから、この力学は現実の世の中を記述するには厳密には間違っていることが判っているのに、工学者も物理学者も、これは理想化だとかなんとか言いながら平気で流体力学を使って現象を論じていますね。

#24でも述べたように、数学は「分析的真偽」を扱いますから、この自然界に現実に存在しているかどうかの問題は扱っておらず、人間の脳味噌の創り出すことが出来る概念の間のあらゆる整合性を探ろうという学問です。無限大とか無限小と言うのもそう言う概念の一つであると私は考えています。そして、この現実の宇宙には在りもしない数学者の創り出した概念を、物理系の理想化と言うごまかしをする事によってこの宇宙を理解するために物理学者が使わしてもらっている、そう私は考えています。

こんな理屈をこねくり回していると、またまた、モンテーニュさんに皮肉を言われてしまいそうですね。
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>数学にも、ぞくに純粋数学と応用数学と呼ばれる分野がありますが、



に関しても一言。

人間の歴史を振り返ってみると、面白いもので、人は何も役に立たないことをやっている者ほど、自分に誇りを持ち、威張って来たようです。昔は、何もしないで哲学を語っていた貴族達が、物を作る連中を馬鹿にしていました。理系の連中のなかでも、原理を語る物理学者は、もっと地に着いた物を研究している化学者や生物学者や、それよりももっと直接役に立っている工学者達よりも威張っているところがあります。また、物理学の中でも、宇宙論や素粒子論などのように、最も役に立たないことをやっている連中が最も誇りが高く、その反対に、化学や生物や工学に最も役に立つ熱力学をやっている連中を見下すようなところが在ります。ナノサイエンスをやっている物理学者は物理学の間では大分肩身が狭いと思います。ただし、本当のことを言うと、基本原理だ何だと威張っている宇宙論屋さんや素粒子論屋さんの中には、彼等から言わせると単なる現象論をやっている、最も油にまみれた熱力学が、量子論という基本原理を導き出したことを、つい忘れている連中も一杯いますが。

多分それと同じ様なことが数学者の間でもあるかもしれません。昔ある本で読んだのですが、ある数学者が大変興奮して、自分の証明した定理を捲し立てていました。彼は、その定理が応用できるところがどこにも存在していないことを大変な誇りを持っていたと言う笑い話です。

この笑い話のご仁のように、並な数学者は、自分は数学基礎論と言う所謂純粋数学をやっているので、応用数学のように実社会に役に立つ物ではないと、と言うかもしれませんね。ところが、人間とは恐ろしい者で、数学の基礎論をいきなり現実の物理現象に適応して、物理学の難問を解いてしまった並外れた数学者も居ります。ロシアの数学者コルモゴロフ(K)は1954年に、天体の運動の3体問題と呼ばれる非線形数学の代表的な問題に対して、その問題にもエネルギー以外にも、力学の基本的な量である運動の恒量と言うもが、非常に特異な形で存在できることを発見したのです。その発見は、その後、現代の大数学者アーノルド(A)とモーザー(M)によってそれぞれ独立に、厳密に証明されました。これは、KAMの理論と呼ばれ、近代非線形力学およびカオスの問題の夜明けをもたらしたと言われています。

私がコルモゴロフの原論文を読んだ時に度肝を抜かれたのは、彼が天体の運動を論じるのに、数論で数の分類の時に使われるデオフォントスの不等式を使ってその運動の恒量の存在を示したことでした。この時には、数学基礎論だ応用数学だと言っているのは我々凡人の戯言であり、人間行き着くところまで行き着くと、そんな区別は余り意味がないのかと、目から鱗が落ちたような気がしました。

でもその一面、物理学をやるのに数学の基礎論も勉強しないといけないのかと、見方によってはウンザリしたことを覚えています。数学者の方から見ると、数論がどうの、超越数がどうのということは数学の中でどの位置を占めているか知れませんが、物理屋から見るとこんなもの、物理学をやっていても一生お目にかかれない数学の分野だと思っていました。

全くの現象論である熱力学が量子力学の基本原理を導き出してみせたり、数論のような数学の基礎論が現実の天体の運動を記述してみせたりと、この世の中には一筋縄では行かないところあるから、学者は食いっぱぐれずにいられるようですね。
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