仏教では、二元の相対世界を超えた絶対という概念を認めない、と聞きました。
なぜでしょうか?

またそれは大乗とか小乗などで違うのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

小乗では、「自未得度先度他」


「生死とて厭うべくも無く、涅槃とて願うべくも無く、生死すなわち涅槃」
絶対の入る余地はないです。
大乗では「念仏」「お題目」が絶対です。他を学ぶ事も厭われます。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりまして申し訳ありません。

わかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/27 18:19

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Q仏教の分類について

仏教は、観光仏教・民俗仏教・葬式仏教・信仰仏教に分類されるそうですが、具体的にはどのような違いがあるのですか?できれば、その成立の過程や、現在の日本仏教への影響についても教えてください。

Aベストアンサー

 これは仏教の内容による分類というよりは、位相による分類だと思います。成立の過程や影響もなにも、現在の日本仏教をさまざまなレベルで区切るとこういったものに分類できる、ということでしょう。
 観光仏教というのは、京都や奈良の有名な寺院のように観光客集めの目玉として仏教を利用すること。拝観料と称して入場料を取ったり、縁結びのお守りを出したり、写経ツアーを組んだり、といったことでしょう。今のようにひどくなったのは戦後、ことに高度経済成長期以降旅行が手軽になってからですが、信心のお客さんを集めてお金にするという意味では善光寺や清水寺なんかは江戸時代からそうかもしれません。また巡礼も見方を変えれば観光仏教と言えるでしょう。
 民俗仏教というのは、お寺を離れて民俗信仰として息づいている仏教的なもののこと。京都の地蔵盆や各地に残っている百万念仏、あるいはお盆やお彼岸の地域的な風習といったものから、葬儀にかかわるその地域だけの習俗なども含まれると思います。山伏や修験も仏教的な要素を多く持っているという面で民俗仏教と言えるかもしれません。この起源はどこまでさかのぼれるか不明であるとしかいえませんが、多くの場合中世期に現在のかたちが完成しているようです。
 葬式仏教というのは、お寺もしくは仏教は葬式と法事だけをやればいい、という発想や信仰のこと。多くの日本人がそうであるように人が死んだときだけ仏教にかかわるという態度のことであり、一方お坊さんの側ではそうした人生の不幸に際して相手にたかるたちの悪い売僧への悪罵として用いられることもあるようです。これも今のような状況になったのは戦中から戦後にかけてですが、度合いこそ違え日本人は江戸時代ごろからそういう傾向がありました。幕府がキリシタン禁制を行うために、すべての日本人(神道者も含めて)はどこかのお寺に属し、そこで葬式をあげなくてはならない、という制度を作ったあたりに淵源があるといえます。
 信仰仏教は以上のいずれでもない、人間の苦しみを救うための信仰としての仏教のことでしょう。ここまでゆくとその淵源は聖徳太子あたりにさかのぼってしまいます。

 これは仏教の内容による分類というよりは、位相による分類だと思います。成立の過程や影響もなにも、現在の日本仏教をさまざまなレベルで区切るとこういったものに分類できる、ということでしょう。
 観光仏教というのは、京都や奈良の有名な寺院のように観光客集めの目玉として仏教を利用すること。拝観料と称して入場料を取ったり、縁結びのお守りを出したり、写経ツアーを組んだり、といったことでしょう。今のようにひどくなったのは戦後、ことに高度経済成長期以降旅行が手軽になってからですが、信心の...続きを読む

Q縁起の法・四聖諦・五分法身・三宝が説かれていれば、それは仏教ですか?

縁起の法・四聖諦・五分法身・三宝が説かれていれば、それは仏教(仏教を正統に受け継いだ教え)なんですか?

Aベストアンサー

こんばんは。

大乗仏教の伝統的な考え方に従うならば、
三法印、または、四法印が説かれているものが仏教(の経典)
です。
〜〜〜〜〜〜〜〜
諸行無常印(梵: sarvasaṃskārā anityā)-「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
諸法無我印(梵: sarvadharmā anātmānaḥ)-「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
涅槃寂静印(梵: śāntaṃ nirvāṇaṃ)-「ニルヴァーナは、安らぎである」
一切行苦印(苦印)-「すべての現象(形成されたもの)は、苦しみである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%95%E5%8D%B0
〜〜〜〜〜〜〜〜

実在した歴史上の人物であるゴータマ・シッダールタは、法身について説いてはいません。
これは釈迦滅後数百年経過した部派仏教の時代に成立したもので、その意味で仏説ではありません。
ですから、いわゆる小乗のお経では法身は説かれていない。
もし、五分法身が説かれているものを仏教の教えとするならば、小乗仏教(の経典)は仏教ではないということになり、仏教そのものを否定することになってしまいます。

縁起はともかく、四聖諦・五分法身・三宝については、経典で必ずしも説かれているわけではないんですよ。

たとえば、有名な般若心経には、四聖諦・五分法身・三宝は出てきません。
苦集滅道は無いという形で四聖諦という形で出ているとしても、
五分法身・三宝は出てきません。
これをもって般若心経を仏教の教えではないと誰も言わないでしょう。

仏法僧の三宝という考えは、あきらかに、仏教教団という宗教組織ができて以降の考え方でしょうね。
仏教の僧は、世俗を離れ、しかも、農業などの生産活動にすら従事できず、もっぱら信者の寄進・寄付に頼らないと生きていいけない、仏教教団を維持できないので、どうしても、三宝ということを説かないといけないんですよ。

うがった見方をするとですよ。

まっ、そういうことで。

こんばんは。

大乗仏教の伝統的な考え方に従うならば、
三法印、または、四法印が説かれているものが仏教(の経典)
です。
〜〜〜〜〜〜〜〜
諸行無常印(梵: sarvasaṃskārā anityā)-「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
諸法無我印(梵: sarvadharmā anātmānaḥ)-「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
涅槃寂静印(梵: śāntaṃ nirvāṇaṃ)-「ニルヴァーナは、安らぎである」
一切行苦印(苦印)-「すべての現象(形成されたもの)は、苦しみである」
https...続きを読む

Q「小乗仏教」という言葉の使用が適切でない理由

「小乗仏教」という言葉の使用が適切でない理由とは何ですか?

以前、仏教について「仏教は主に小乗仏教と大乗仏教に分類されるが、小乗仏教という言葉の使用は適切ではない」という話を聞きました。
イマイチこの意味がわからないのですが…。

小乗仏教は上座部仏教の蔑称であるから適切ではない、のでしょうか?

どなたか回答お願いします。

Aベストアンサー

もともと「大乗仏教」と「小乗仏教」が存在したわけではありません。
釈迦の教えを忠実に守る上座部仏教というのがあり、
それに対し後から出てきた一派(つまり新興宗教)が自らを大乗(仏教)と名乗り、先に存在する上座部仏教のことを古くて小さな考えしか持たない小乗(仏教)だと罵った言い方をしたものです。

上座部仏教にすれば、大乗と名乗る団体こそ新参者に過ぎない軽蔑すべき団体ですが、いかにせん大衆を味方につけた大乗側の圧倒的な勝利に、上座部仏教は小乗との汚名を着せられた格好になったものです。

歴史的に考えても、釈迦の教えを忠実に守る上座部仏教は決して低く見られる存在でなく、大乗側が勝手に付けた蔑称は好ましくないと言うことです。

Q鎌倉時代の支配について質問です! 公武二元的な支配だったということは、農民は2倍の年貢を納めなければ

鎌倉時代の支配について質問です!
公武二元的な支配だったということは、農民は2倍の年貢を納めなければいけなかったのですか?

Aベストアンサー

上川村は地頭支配地で年貢は地頭に
となりの下山荘は、荘園なので国司さんに

そういう感じ

Qなぜ仏教は力を失ってしまったのか

 
問う人:
なぜ仏教は力を失ってしまった。

「人の道」:
それは仏教が本来の理念と哲学を失い、安々とビッグバン理論の上に居座り、一神教世界の仲間入りをしたからである。
これでもー仏教は仏教でなくなった。
これで仏教は理念と哲学を完全に失い、ただ南無妙法蓮華経とかお経を唱えるだけの安物になってしもーた。

問う人:
仏教が力を取戻すことはできるのか。

「人の道」:
いや、こーなってしまった以上、仏教が力を取戻すこと出来まい。
仏教は安々とビッグバン理論の上に居座り、宇宙の偉大さを忘れ、創造主を求めるよーなった。
もはや仏教は仏教ではなくなった。
仏教はミーハーになってしもーた。

問う人:
あ~、哀れ仏教。
皆はどー思う。
 

Aベストアンサー

とうほぐの被災地で、ある曹洞宗の寺の檀家が30名も亡くなったんだと。

で、30名に戒名付けて、ひとり当たり平均30万円として、「被災遺族から900万円もの戒名料を巻き上げんのかい?と友人に聞かれた坊主は、さすがに欲ボケ、焼け太りはイケないと戒名料を無料にしたとさ。

その話を聞いた、情動信州の葬式坊主がの、「そんな話を広められて、戒名料を取れなくなるのは困る」って談話を発表しただと。

これが、仏教の実態やで。たまたま曹洞宗が慈悲を持ち、浄土真宗が無慈悲ということになっちょるが、これは偶々じゃて。みんな、出家坊主の葬式ビジネスの話じゃ。

Qいろんな考えがあることを認める立場に立ちたいが、一定の勝ちは認められない・・ これは自己矛盾??

いろんな人のいろんな意見があります。
それは認めます。
しかし、僕が、どうしても認められないときがあります。
いろんな考えがあること自体を否定する考えです。

よく似たものとして、差別する人を差別することも差別なんだろうかとかも思っちゃいます。

僕はいかなる意見も認めたいです。
絶対的な意見など無いと思っています。(A)
しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)

これは自己矛盾でしょうか?
Aは客観、Bは主観とも思えますが、
差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくないとまでおもっています。

人と議論していて、いつもこのことに悩まされます。
いつかつつかれたらなんてつつじまをあわせればいいのでしょうか?すじを通したいのです。

たとえば、価値相対主義を否定してくる人に対して、どう言えばいいのでしょうか?そういう人の意見もわかるのですが、それはよくないと言いたい。
けど相手から、「あれアンタは価値相対主義なんでしょ?だったら僕の意見もあったっていいんでしょ?」と言われたときに、「うん、あってもいいよ、けどね・・・」 とその後どういえばいいのでしょうか??

何か自分で言ってて分けわかんなくなってきちゃいます。誰か僕の立場で、スジを通してください・・(+_+)

いろんな人のいろんな意見があります。
それは認めます。
しかし、僕が、どうしても認められないときがあります。
いろんな考えがあること自体を否定する考えです。

よく似たものとして、差別する人を差別することも差別なんだろうかとかも思っちゃいます。

僕はいかなる意見も認めたいです。
絶対的な意見など無いと思っています。(A)
しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)

これは自己矛盾でしょうか?
Aは客観、Bは主観とも思えますが、
差別することや価値相対...続きを読む

Aベストアンサー

アメリカに35年ほど住んでいる者です。

私にこの件について私の考えをわかりやすく説明できるか心配ですが、一応やってみますね.

ここには、いろいろな考えを持った人たちがこの国を作ってきたと言えるほど、違った意見を持った人たちがいます. そして、違った意見をもってもいいよ、と言う社会です. つまり、人は違った考えを持っている、と言う事がまず土台となってしまっています.

つまり、最近の日本がそのようになってきた、と言う事でもあります. 昔は、みんなと同じ考えをもっていないといけない、とまで言われました. 持たなければ、協調性が足りない、社会性を無視してる、となり、一人狼になりかねませんでしたね.

私が思うに、日本はその過渡期に入っているので、調整が難しい、のではないでしょうか.

アメリカ人は自分中心だ、と言われるひとつの理由として、子供の頃から、自分の考えははっきりもたなくてはいけないよ.と言って教育/躾をします. いろいろな意見を尊ぶ社会で、自分の考えを持たない、自分の考えを言葉にしてあらわせない、と言う事は、鳥なのか地上を歩く動物なのか分からないこうもりの童話の主人公になってしまうわけです.

極端な理解をすると、自分にためになる意見だけ取り入れて後は無視! 悩まされるのは時間の無駄、と感じる、とでも言ってもいいと思います.

つまり、いろいろな意見があると言う事は、すなわち、自分でも理解できない、または、理解したくない、認めたくない意見、と言う物が実際に存在する、と言う事なんですね.

それをどのように処理するかは、一人一人の自由であり、権利でもある、ということです(社会を乱す事をする以外は). ということは、意見の違いに悩まされると言うこと自体、自分の為にもならないし、時間の無駄になる、と言う事でもあります.

では、どうするか、と言うと、理解しなくても、認めなくとも、いいことなんですね. その意見があると言う事の存在さえ認識すればいいことだということです.

自分の意見を教える立場、または、その意見で人を引っ張ると言う意識と実力がなければ、聞くだけ聞いとくよ、で済ましてしまう、と言う事なんですね.

アメリカ人も人間です. 違う意見に怒りを感じる、と言う人も、また、反論したくて仕方ない、と言う人もいます. その人たちはその人なりに苦労をしてしまう、と分かっている人は、仕方ないな、で済ましてしまうと言う事ですね.

こちらでは、予断になりますが、トークショーと言って、おもにAMのラジオですが、ある、話題に対して、視聴者が自分の意見をずけずけといえる/言う番組がそこら中にあります. それを聞いていると、極端に違う理解をしている人たちがたくさんいるし、こんな事で話し合っているのは馬鹿馬鹿しいと言うだけの人もいます。 そういう違う意見を毎日のように聞いていると、人それぞれの感情、状況に合った理解をしているんだな、と言う事が分かります.

と言う事は、違った意見の一つ一つの中にも納得のいける要素と言う物が見えてくる、と言う事になります. そうする事によって、自分の意見に共鳴しない人は「必ずどこかにいる」と言う事も分かってきますし、状況によって、その意見が正しい、と言う事も分かってきます.

つまり、絶対的に正しいと言う事も、絶対的に正しくないと言う意見も元々ない、と思うことになります.

だから、自然と相手の意見を尊重するけど、自分の意見を変えるところまでは行かないよ、と言う事になるわけです. これが分からない人は、いつまでたっても、人を非難する事にもなるし、自分が一番なんだと思い込み、結局は、誰にも認められなくなってしまうわけです. 結局は自分にとって「損」だと言う事ですね.

と言う事で、アメリカ人は~、と断言的に言っている私の意見も、私個人のアメリカ人を見た全くの個人自己主張、ということになります. 私は、誰にも、私の考え方を押し付けようとも、納得させようともしていないつもりです. ただ、私の意見を受け入れてくれれば、個人として嬉しいな、と言うレベルである、と言う事です.

人を差別する事がいけないと一般が思っても、私はする!とすれば、私自身の考えであり、それに対しての、副作用が私に降りかかってくることを予測できなかったり、気がつかない、と言う事は私自身の問題であって、私自身の大人としての責任でもあるわけで、誰の問題でもないとするわけです. という事は、その副作用についても知る必要があり、それが、人の経験と言う事にも繋がってくるわけですね.

自分の言った事、自分の行動には自分で責任を持て、と言う躾がその背景となっているわけで、だからこそ、子供たちに、基本的な考えを植え付けると言うことが、結局、子供たちの為になる、と言う考え方もでてくるわけです.

何か、取り留めのないことを書いてしまった感がありますが、私はこの質問に対しての一回答として、書かせてもらいました.

アメリカに35年ほど住んでいる者です。

私にこの件について私の考えをわかりやすく説明できるか心配ですが、一応やってみますね.

ここには、いろいろな考えを持った人たちがこの国を作ってきたと言えるほど、違った意見を持った人たちがいます. そして、違った意見をもってもいいよ、と言う社会です. つまり、人は違った考えを持っている、と言う事がまず土台となってしまっています.

つまり、最近の日本がそのようになってきた、と言う事でもあります. 昔は、みんなと同じ考えをもっていないといけな...続きを読む

Qヒンズー教、バラモン教、仏教

インドは零の発見など文明として数々の発明発見をしてきた土地だと思います。また、宗教上でも多くの宗教が芽生え発展してきたように思います。

現在、ヒンズー教がインドで最も盛んな宗教のようですが、ヒンズー教の前身にバラモン教があると勉強しました。

質問:現在、日本で私を含め信仰の深い仏教もインドから中国、朝鮮を通じて日本に入ってきましたが、この仏教はヒンズー教より歴史は古いのでしょうか?

質問:今、仏教はインドではどうして多数派では無いのでしょうか?
昔から仏教を信仰してきた私には、発祥の地のインドで仏教が盛んではないないというのが残念です。

また、お隣の中国は逆に現在仏教に関してはかなり研究が盛んに行われているようです。
質問:チベットは密教として仏教が盛んのようですが、チベットの仏教とインドの仏教の接点を教えてください。

Aベストアンサー

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこんなに苦しまなきゃいけないの?」というものです。
現代の我々はそれが化学作用によるもので人間が原因だと理解できますが、
これに近い明確な答えを出したのがインド哲学です。
つまりこれらの原因を「業(カルマ)」であるとしました。



数百年後、仏教の開祖「シャカ」が誕生します。
彼はヴェーダの思想どおり、「殺すからその報いを受けている」と考えました。
ところが彼の思索はさらにその先に突き抜けてしまいます。つまり
「我々の食事は動物を殺して食べている。だから植物を食べて生きよう」
という凄まじい結論に達します。この<<不殺>>の考えはヴェーダの「業」を信じ、
環境被害に苦しんでいたインドの人々に広く受け入れられ、
急速に勢力を拡大していきます。




ここから様々な分派が生まれますがインドにおいてはヴェーダの思想が強く、
カーストを否定した仏教徒との対立が次第に多くなります。
とはいえ、「業」の思想に明確な答え<<不殺>>を出した仏教も支持され
カースト(前世の業による階級制)の思想と仏教の不殺の思想が融合していきます。
こうして成立したのがヒンドゥー教です。



一方で中国にわたった仏教は、儒教や道教の思想と出会い、
やはり融合をすることになります。この中国仏教が日本に伝わっている仏教です。
統治論としての政治手法や組織宗教としての完成度は高まっていますが
一方で最初の理想である<<不殺>>は大部分で失われており、ほぼ別物です。
つまり原始仏教の成立は早いものの、日本に伝来した中国仏教は
成立がかなり後期ということになります。



これ以外にも様々な宗教が仏教との融合により生まれています。
チベット土着の宗教であるボン教は巫女による神との交信を行っていた宗教ですが、
これが仏教と出会い儀式性の強いチベット仏教へと変化していったのです。

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこ...続きを読む

Q今年のクリスマスプレゼントに何が欲しいですか?それはなぜですか?また、クリスマスプレゼントをあげるな

今年のクリスマスプレゼントに何が欲しいですか?それはなぜですか?また、クリスマスプレゼントをあげるなら誰に、何をあげたいですか?それはなぜですか?英語8文以上で説明して下さい。(>人<;)

Aベストアンサー

あんたには関係ないよ。

Q世界史の質問です! 大乗仏教 小乗仏教 上座部仏教の違いと関係がよくわからないのですが教えてください

世界史の質問です!
大乗仏教 小乗仏教 上座部仏教の違いと関係がよくわからないのですが教えてくださいm(__)m

Aベストアンサー

スリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等の
地域に伝わったのが上座部仏教で、
中国、チベット、ベトナム、朝鮮、日本等の地域に伝わった
仏教が大乗仏教です。

小乗仏教というのは、大乗仏教がバカにした
差別用語なので、今では上座部仏教と呼ぶ
ようになりました。

内容の違いですが、上座部仏教は個人の救済、
悟りが中心になり、
大乗仏教では、広くみんなの救済を目的と
しています。

だから大乗仏教が、上座部仏教を小乗仏教だと
バカにしたのですが、
みんなを救済するという性質上、政治と関係
するようになり、宗教としては堕落した、と
批判があります。

Q「ハンセン氏」とか「バセドー氏」とか、

昔は「ハンセン氏病」とか、「バセドー氏病」とか、呼ばれていた記憶があるのですが、さいきん、「よびすて」で「ハンセン病」ってよばれています。
いつごろから「呼び捨て」になったのでしょう。

ところで、温度計の「セ氏」は、呼び捨てでないけど「セ式」になることは、ない?

Aベストアンサー

そういわれればそうですね。
多分ですが、ICD-9あたりからじゃないでしょうか?


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