仏教を独学で勉強しています。まだ、初心者ですので判り易くご説明いただければと思います。
私の疑問は、輪廻転生を釈尊はどのように考えていたのかということです。
1.否定しないで悟りへの方便として利用したのか。
2.縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか。
3.物質からできている肉体は滅びても分子レベルで分解され、再び他 の生物を構成する物質の一部として生まれ変わると考えたのか。
1-3とは全然違う考えなのか。
そもそも、疑問に思ったのは、「業(カルマ)によって、人は転生する事を仏教では、苦であるとする。解脱することによって輪廻転生から開放される。」と解説書に書いてあったからです。
解脱は精神作用だと思うので、輪廻転生が物理的現象であるとするならば、開放されるなんてありえないと思ったのです。
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
私は、創価学会員ではない、日蓮系仏教徒です。
ですので、法華経、日蓮系の考えが濃いです。参考になるか解りませんが、回答したく、させていただきます。
私自身、輪廻転生というものを実感したことがないので、それまでと言われたら、それまでですが、私なりの考えを書きたいと思います。(考えであって、実感に基づく悟りではない)
>業(カルマ)によって、人は転生する事を仏教では、苦であるとする。解脱することによって輪廻転生から開放される
私自身、この考えは間違っていないと思っています。(あくまで思っているだけ)
私自身、私の宗派が言う、功徳を積む修行(業を消滅する修行)をした結果、少しばかりですが、自分の中にある苦が消滅して、良好な状態になりました。(ですけど、まだまだ、数え切れない苦は内在しているのを実感するところです)
ここで、業と功徳について私なりの解釈をしておきたいと思います。
業と功徳は、同じ線上のもので、
苦しむ方になるものを業、
「仏様・仏様の幸福」になる方を功徳と言うと私は思っています。
業を消滅する=功徳を積むことで、
業を増やす=功徳を減らすということだと思っています。
功徳をずっとずっと積んでいけば、仏様になれると私は思っています。ただ、そのずっとずっとがはかり知れませんが。
>否定しないで悟りへの方便として利用したのか。
輪廻転生は、事実だと私は思います。
仏様は、
現象のみを見る訳ではなく、
人の功徳(業)を見ることができるとされています。
人間が自力、もしくは機械等を用いて認識するよりも遥かに超える、細かいレベルまで認識することができるとされています。
故に方便を用いて功徳を積ませるとされています。
輪廻転生について、私なりの考えを書きますね。
まず、仏の境地と菩薩以下の境地というものを考えなければなりません。
法華経?の教えでは、10の境地(境涯)があり、
上から
仏
菩薩
縁覚
声聞
天界
人間
修羅
畜生
餓鬼
地獄
という境地、境涯あります。
さらに、
人間という姿で生まれても、
自己のもともと持っている功徳、業の因縁
産まれてからの積んだ功徳、業の因縁によって
一時、あるいは長い間、一時的な仏様~地獄までを行き来いすると言われています。
行き来することない、完全な仏様の境地、成仏した境地では、
人間には見えない(感じれない)ことが感じられ、
人間が思うような世界が見えるのではなく、
滅するも生じるものなく、安穏とした状態として感じることができる。つまり、解脱です。
しかし、人間の境地、境涯では、それができません。(それができないから、自己を救済しようと思う者は、一心に功徳を積もうとする、仏様に近づこうとする)
人間には、人間としての宿命というか、法則として生じ、滅します。そうなるようにしか感じられない。まあ、人は死んだら終わりと考える人もいるので、感じられるという表現に違和感がありますが、その辺の感覚は解って貰えると思います。
人が死ぬ、滅するというのは、人間として境涯、境地、能力では当然のことです。
そして、仏様のような境地、境涯、能力がなければ、また、生まるというのを実感あるいは、流れのままになるでしょう。(人が死ぬように)
それが、輪廻転生です。なんか難しくなりましたね。
1に、仏様の能力なら、生死という概念を超えたものが感じられるので、そこに解脱というものがある。
2に、人間には、仏様のような能力がないから、解脱というものが解らない。故に死ぬと思っているし、死を実感する。
3に、死んで生まれる変わるまで(あるのかないのか解りませんが)、その境地、境涯、能力、功徳、業によって生じる。(仏様のような能力がないので、解脱というものが解らないため)
上記では、輪廻転生というものの死について書いてきました。
ここからは、輪廻転生の生について書きます。
信じるか信じないか、真実か嘘かは議論しないとして、法華経では、長い間、仏教(仏教という「言葉」ではなく、仏教の考えや教え、仏様)に出会うことはないと書かれています。
十界があると書きました。人が消滅して、生まれる時に、功徳(業)によって生まれる世界、生まれる姿、そして、そこでの人生がおおむね決まります。
「単純」に言えば、
今の日本に生まれて貧しい人生を送るのか、
ある程度は裕福な人生を送るのかなどです。
人間に生まれることも稀でありながら、
仏教に巡り合うことも稀であり、
まして、成仏するために必要な一番効果的な仏教に巡り合うことも稀であり、
さらに、その仏教を信じることも稀であり、
さらに、その仏教を元に功徳を積もうとすることも稀であり、
さらに、その仏教の功徳を積み、現状の幸福に囚われず、自己に内在する苦を消滅しようとする境地に至ることも稀であり、
さらに、いかなる時を持っても、信を持って修行をしていく境地に至ることは稀であり、
さらに、成仏することは稀であると私自身思います。
稀の稀の稀の中に仏様に近づける
さらに、その稀の稀の稀の中に成仏である訳でありますが、
それを決める因果、運命、宿命、因縁、縁もまた、その人(存在)の功徳、(業)によるものだと私は思っています。
つまり、「比較して」功徳があるものは、仏になりやすく、功徳が少なく、業が深いものは、仏になりづらいということです。
さらに、業が深いものは、自ら業を積んでいく境涯になり、なかなか、仏の道に入ることはできないと私は感じます。
まとめます。私の考えでは、
輪廻転生で生まれる世界、姿、境地、境涯、能力、宿命というのは功徳(業)で決まる訳です。
>縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか
法華経では、不軽菩薩(ふきょうぼさつ)に書かれてあり、釈尊が成仏する前の辿った姿、境涯、境地がこの不軽菩薩です。
上記に輪廻転生についていろいろ書きました。
成仏を目指す人は、輪廻転生を繰り返しつつも、功徳を積むことによって少しずつ、完全なる成仏の境地を目指してがんばっていく訳です。
ですが、業が深い者にとって、仏教を信ずることはできまず、まして、その修行をすることもままならないです。
業が深い者にとって、仏教を信ずることは、損が得か考えれば、損でしかありません。損するものを信じようとする者はいないでしょう。
それでは、その方は一向に仏道修行に目覚めません。ですので、逆苦の縁というものがあります。
単純に説明するのが難しいのですが、もし、真実の仏教(真実の是非は置いておいて)を批判するものは、来世に苦しい境涯、境地、姿に生まれるとされます。しかし、苦しい境涯、境地、姿に生まれるからこそ、自分が救われたいと心底願う訳です。
世の中に生きていれば、自己の本心よりも周りに流される方が波風立たずに楽ということは日常茶飯事です。しかし、それでは、仏道の道を志ません。
しかし、苦、苦、苦というものが、それらを無視をし、一心に救いを求めます。それにより、仏道に入り、信を持って修行できる訳です。
つまり、逆苦の縁仏教を批判することにより、来世以降で仏教の大切さが解るということです。
しかし、生きれいれば、仏教を批判する機会にすら恵まれない人もいます。仏教がある国に生まれなければあり得ることです。
話を戻して、不軽菩薩です。、不軽とは、軽くない。意思が堅いというニュアンスです。不軽菩薩は、この逆苦の縁を教えを信じ(あるいは悟り?)、
仏教を知らない人、
仏教を軽んじる者、
仏教を批判する者、
仏教徒をいじめる者、迫害する者
仏教の広まりを阻止しようとする者、
仏教徒を暴行、殺害、拷問等をする者、しようとする者に対して、
逆苦の縁の尊さを感じ(知り、あるいは悟り)、上記の者に対して、教えを説きました。それは過酷極まるということです。特に最後の方などに大しては、
そして、釈尊が3000年前、私たちの知っている仏教を説いている時期の弟子達が、その釈尊が不軽菩薩の境地で教えを説いた者達という話です。その不軽菩薩の修行を励んだからこそ、成仏でき、また、その逆苦の縁によって、聞いた者も、仏に近い境涯にあるとされています。
生前というと、スケールが長すぎるのですが、生前の行いは、来世、来世以降に解る、解らないを別にして反映、繋がります。
>3.物質からできている肉体は滅びても分子レベルで分解され、再び他 の生物を構成する物質の一部として生まれ変わると考えたのか
たぶん、たぶんですが、そう考えたでしょう。
それは、人間としての境地、境涯なら、それが当然だと考えたでしょう。
法華経にも、この世界が火で覆いつくれされ、消滅する時も…という一説があります。
その続きがあり、消滅する時も、私が住むところは、安穏である。書かれています。
人間の境地で見る世界と
仏様の境地が見る世界は別である。
しかし、仏様は、人間の考え方が解らない訳ではない。だから、方便を用いて、あるいは、その者に対して教えを説くとされています。
>解脱は精神作用だと思うので、輪廻転生が物理的現象であるとするならば、開放されるなんてありえない
精神作用というものが、どういったものを指すは解りませんが、
解脱というのは、
霊が見える人と見えない人の違いみたいなもの「感覚」だと思います。
解る人には当たり前のように解り、
解らない人は解らないのが当たり前のように解らない。
解脱の精神作用と考える 考えは、私の中の執着の消滅ではないかと思います。
人は、行動を決断するときに、快く決断する訳ではないと思います。
本当はこうしたいが、自分にはできないからというものがあります。
早い話がダイエット。
食べたいが、食べれば食べすぎで太る
これを我慢できない人は、自己が生ずる執着、欲望によって食べてしまい、後で苦しむ
我慢できる人は、ストレスを溜め込む人
食べたいという気持ちが次の瞬間に無くなる人は、それに対し、執着、欲望を持っていない人。
私は、人は、自己の冷静な意識だけで行動を決定している訳ではないと思います。自己の内在する生ずる何かによって行動を決してしていることがあります。
自己の冷静な意識と自己の内在する生ずる何かが反するすることで、
パニックになったりする訳です。
自己の冷静な意識ではパニック(緊張)するほどではないが、自己の内在する何かは、パニック(緊張)状態になる。それが体を支配し、結局自分が思うような行動ができない。と言う訳です。
それを直そうにも直らない。
自己の内在する何かが執着し(逃げたい、拒絶したい、あるいは何を求め、何かに餓えている)がそうなる。功徳を積むことによってそれが消えるなら、それが精神的な解脱とも捉えられないことはないです。
私の解脱は上記の輪廻転生の苦を消滅することが解脱なので、その事を解脱とは言いませんが、質問者さんがそれをそう定義づけるなら、それまでです。
自分の書きたいことを延々と書きましたが、何か得るものがあれば幸いです。がんばってください。時間に余裕があれば、補足や新しい質問に回答します。
懇切丁寧なご回答ありがとうございます。
法華経は、伝教大師、道元、特に日蓮等が非常に重要視した経典で、完成度も高く優れた経典だと思っています。法華経以前の経典はすべて方便であり、法華経のみが釈尊の本当の教えだと言われておりますが、その点に関しては、疑問に思っています。非常に大乗的な考えであり、その思想の下に編纂されたものであります。釈迦の弟子たちは、教団を運営するに当たり考え方の相違が生じ、上座部と大衆部に分裂をしますが、どちらの考えが正しいのかは分りません。
私は、宗教としての仏教よりも釈尊の本来の思想に興味があるのです。
もっと勉強していきたいと思っています。
あなた様も解脱をめざして、修行にお励みください。
ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
なるほど、輪廻転生は認めるが、それから開放されるということはありえない、と言いたかったのですか。
しかし、昨日があり、今日があり、明日があるのは確かだと思いますが、それを観察することができるのですか?どうやって?
過去も未来も言わば 今現在 から派生した方便というべきものではないですか。
結論を言ってしまえば、今と言う一瞬、永遠があるだけだと思いますが。生き続けても、死んでも、「今」という永遠があるだけです。つまり、嘘偽り、欺瞞誤謬から逃れること
それに気づくのが解放だと釈迦は言ってたのではないでしょうか。
No.11
- 回答日時:
電磁波のエネルギーには波としての性質と、粒子としての性質があります。
それは観察者、当事者の「意思」によって決まります。波を選びますか、それとも粒子を選びますか.
あなたの回答が、私の問いに対する回答になっているのか疑問ですが。輪廻転生の存在も個人の「意思」によって決まるということでしょうか。
宇宙に存在する物質は、エネルギーに変換され、またエネルギーも物質に変換される。そして、それは一定である。という「エネルギー保存の法則」は物理の授業で習った事があります。
波はエネルギーで粒子は物質ですよね。電磁波は、波としての性質と粒子としての性質があるのも授業で習いましたが、粒子であるというのを観察する事は可能なんですか?確か不可能だったと記憶しております。
輪廻転生もまた、観察が不可能な点で一致していますよね。
輪廻転生を物理学用語を使って説明すると次のようになります。
人(物質)には、本質(我)というものがある。人(物質)は死によって肉体が失われ形は変ってしまうが、本質(我)は変らない。やがて、再び本質(我)は肉体(物質)に宿る。どんな物質に宿るか(結果)は、人間であった時の行為(原因)によってきまる。この現象は永遠に繰り返される。しかし、解脱(悟りを開く)すれば、この現象から本質(我)は解放され、永遠の安らぎが得られる。
こんな事は、迷妄に過ぎないと私は思います。釈尊もそのように考えたのだと思っています。その証拠を仏典の中に見つけようと探しているのです。
No.9
- 回答日時:
仏教では、この地球を仮の世界といいます。
科学者アインシュタインも、仮の世界を前提とした相対性理論を発表して、その後実験により、この地球が仮の世界である事が証明されました。だから輪廻転生の、この世とあの世が、仮の世界になります。解脱は仮の世界を抜け出して、本当の世界へ帰る事です。宇宙の大元は、完全調和の世界です。調和の世界が成長、拡大するためには、まわりの周辺部の不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。その地球へ、調和の世界から、神の子、仏の子の、無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。そして仏の子は、不調和の脳の自我に苦しめられています。しかしいよいよ2012年には、仮の世界が終わり、人は脳を自我を分離して、調和の世界へ帰ります。No.8
- 回答日時:
独学でされるのなら、
まずは
>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/ の 「スッタニパータ」
最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされる。
<<<
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) (文庫)
中村 元 (翻訳)
の
>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/ の 「スッタニパータ」
第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。
<<<
に相当する
八つの詩句の章(第4章)
および、その解説を参照されることをお勧めします。
もし、読まれていたのなら、疑問に関連する仏教関連書を、上記と対応させながら読むことをお薦めします。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83% …
No.7
- 回答日時:
私の了解した範囲でお答えします。
総体的に
輪廻転生の事は、輪廻転生を実際に観た人でなければ本当の事は言えないと思います。
仏典によれば、釈尊は輪廻転生を実際に観た人と言われています。
このような聖者は、ごく稀な存在と思われますが
成仏と言われる境地に於いては
輪廻転生をも含めた自己の有り方や本質をあるがままに捉えていると思われます。
そのような言葉がありますのでご紹介いたします。
道元禅師の正法眼蔵より
「自己をすすめて万法を修証するを迷いとす」
「万法すすみて自己を修証するは悟りなり」
上の言葉の意味するところは
限られた智慧により、この世界の本質とか真理といったものを推し量る事は誤りである・・・という事でしょう。
下の言葉の意味するところは
(深い禅定の智慧)によって、この世界の本質とか真理が、あるがままに心に写し出されて、自己とは何なのかが手に取るように分かるものである・・・という事でしょう。
簡単に言えば
あれこれと思い巡らすのは迷いで
禅定によって、あるがままを知るのが悟りである
という事なのだと思います。
しかし、迷いが不必要だとは言っていないのです。
迷いがあって悟りがあるのです。
失礼ながら、ご質問の内容を私は以上の事のように感じたものです。
>解脱は精神作用だと思うので、輪廻転生が物理的現象であるとするならば・・・
解脱というものを、一個人に於いての単なる精神的な働きとか状態の事のように思われているようですが
私にはどうも違うように思われてなりません。
通常の精神的なものを超えたもののように思います。
また、釈尊が輪廻についてどのように考えていたのか、といった点については
私は仏典のままに受け止めておく事をお勧めします。
釈尊の輪廻と解脱に対しての考察は、般若心経によく表されているものと思います。
深い瞑想(禅定)の体験の描写であり、先に述べた道元禅師の言葉の世界でもあります。
心経の後半の箇所をよく読んで下されば、そこに輪廻の解脱について書かれている事が分かります。
無明も無く、無明が尽きることも無い~老死も無く、老死が尽きることも無い
この文は、釈尊が考察したとされる輪廻の十二因縁(縁起)についてのものです。
読み変えると
輪廻も無く、輪廻が尽きることも無い
と読めます。
これは、輪廻の無い世界から、輪廻の世界を観ている(観察)状態を指しているものと思われます。
道元禅師の、万法すすみて・・・のあるがままの境地です。
考える、のでは無く
あるがままを知ってしまう事が大切なのだと思います。
昔、太陽が(地球を)回っていると誰もが思っていたのが、全く反対だったように
あるがままを観測して、知ってしまう事が必要なのだと思います。
重ねて失礼とは思いますが
釈尊の心中を推し量ることよりも
まずは、釈尊が残された教えを、あるがままに受け取るように学ばれる事をお勧めいたします。
ご回答ありがとうございます。また、ご丁寧な解説をしていただき感謝いたします。私は、一応正法眼蔵も般若心経も解説付きではありますが、読んだ事があります。般若心経を書いた人物は釈尊が輪廻転生については、否定的であったという見解だと感じました。また、道元も般若心経を曹洞宗の重要経典と位置づけている点からも同じ考えだと推察します。私の考えは、輪廻転生については否定的ですし、釈尊をそうであったと思います。しかし、他の経典の中には、釈尊が輪廻転生を肯定しているものもありますよね。聡明で論理的で考察の仕方が科学的なところもある釈尊が、当時のインド社会では常識とされていたとはいえ、非論理的な輪廻転生を肯定するなんてとても考えられません。
No.6
- 回答日時:
>釈尊はどのように考えていたのか
質問自体がすでに「考えていた」ものであるという前提になっていますね。
1.釈迦が輪廻転生を単に独自の考えとして持っていたのか、それとも拡大した意識の中でそれを実感し、「知った」のか。どちらだと思いますか?もし、単なる思想として持っていたのであれば、悟りのための方便として利用したのでしょう。もし、「実感した」のだとすれば、単なる方便ではないのでしょう。
2.>縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか
単に理論、理屈で考え、作り上げたものなのでしょうか。
直前の自分の振る舞いが今の自分に影響を与え、今の自分の振る舞いがその後の自分の立場、在り方に影響を与える。昨日の自分の生き方の結果として今日の自分があり、今日の自分の振る舞いの結果として明日につながっていく。もし輪廻転生があるとするなら、前世の結果が現世であり、現世での振舞い行動の結果が来世に影響する。これは当然のことだと思います。
3.>物質からできている肉体
では精神はなにからできていると思われますか?
プラシーボ効果という、精神作用が物理的現象として肉体に影響を与えるのは、わかり易い例だと思います。精神作用が物理的現象に影響を与えないなど、逆にありえないです。両者は別々のものではなく、密接に関係しているものだと思われます。
違う例を挙げれば、たとえばある人がここは危ない場所だと思い込んで常に危機感を感じていれば、肉体にもストレスがかかり、さまざまな病気にもなりやすいでしょう。逆にここは安全だ、自分は大丈夫だと気づけば肉体的にもストレスから開放されるでしょう。
この回答への補足
1について、輪廻転生というのは釈尊が考えた概念ではなく当時のインド社会では常識とされた概念です。それを釈尊は肯定したのか否定したのかというのが私の疑問です。
2については、縁起説が正しいのか否かではなく、縁起説により輪廻転生を肯定したのかというのが私の疑問です。
3.については、精神は物質ではなく物理的な作用なので、脳が死んでしまったら精神も消滅してしまうと考えます。だから精神が転生するなんてありえないと考えます。
ご回答いただきありがとうございました。私の疑問に答えていただいた事に感謝します。しかし、私が教えていただきたかった事は、貴殿の考えではなく、あくまで仏典の中の釈尊の教えを知りたかったのです。
No.5
- 回答日時:
最初に、細かいことですが、言葉の問題として。
開放:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/30569/m0u/%E …
解放:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/30581/m0u/%E …
でありました、今次のご質問の場合は後者であると存じます。
また私も、専門に勉強したのではありませんが、ご参考までに、一ヒンドゥ思想ではこうなります、ということを述べさせていただきます。
こういうことは言葉で伝えることには限界もあり、ことばもそれぞれでもあり、全体の体系のなかで述べないと、誤解が生じやすいものですが、一応日本人同士であることを前提にして、記述します。
1.否定しないで悟りへの方便として利用したのか。
投稿者⇒人生はやはり、生まれてきた根因を果たすこと最終の目的であり、それを果たすまでは、輪廻転生はするのであるということ、そして人間の生まれてきた最終の目的は何か、それを果たすにはどうするのか、ということを教えているのであると、存じます。方便ではないと思います。
2.縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか。
投稿者⇒≪縁起の考えにより≫から、≪考え≫ということばをとるのだと存じます。仏教における、縁起ということを実感はしておりませんが。
3.物質からできている肉体は滅びても分子レベルで分解され、再び他の生物を構成する物質の一部として生まれ変わると考えたのか。
投稿者⇒肉体やそれを構成しているものは、その来るところに所属するのだと存じます。
従いまして仰せのようなプロセスをとるものも、場合もあると存じます。
このことは人間の輪廻転生ということではないと理解しております。
輪廻転生するという、人間なるものはもっと異なり、自分という個人性的な思いで構成されている、有り方であると存じます。
○輪廻転生と苦、そして解脱の部分
投稿者⇒輪廻転生で生まれてくるのは、意識性と意志性がない、そして強制的である、という教えであります。
それは、人間の本来の尊厳にも悖っているということを教えていると存じます。
そういう身の際(ありかた・きわ)の連鎖から放たれることにより、つまり、この世に来ようが来まいが、それは自己の意思と意識とによる。そういう意識と意志の覚醒と実現が、本来の尊厳である。
至福的(サマディ的)ありかたである、というものだと存じますが。
回答番号:No.3で、貴胡桃さんが仰せの期間は、唯一の意識が創造の意識になって、創造をすることと、創造を消滅することの期間にるいじしております。
少し次元のことで、話が混乱するかもしれませんが、一応、ご参考のために付加します。
No.4
- 回答日時:
輪廻転生の考え方は、バラモン教がもっていた考え方であり、ブッダが作り出したものではありません。
仏教は、バラモン教から分離した宗教ですから、バラモン教の世界観が仏教にも引き継がれています。
ちようど、ユダヤ教から分離したキリスト教が、ユダヤ教の世界観である旧約聖書を引き継いでいるように。
仏教が自らの世界観を作り出したのでは無い以上、仏教がバラモン教の世界観を継承するのは当然の事であり、それは、悟りへの方便とはならないはずです。
また輪廻転生の考え方を誤解している人が多いのですが、輪廻転生を考える宗教においては、現世こそが地獄であり、功徳を積まないと何回でも現世に生まれ変わる。
積む功徳が少ないと、現世でも劣位の生物として生まれることになるという考え方によるものです。
そして現世で、十分に功徳を積むことにより、輪廻転生の輪から逃れ、現世に生まれてこなくなる事(解脱)を理想とします。
その解脱の境地に至ることこそ、悟りを開くという事なのです。
3に関しては、仏教やバラモン教では何も言っていませんが、グノーシス派キリスト教においては、3に近いことを言っています。
特にカタリ派の考え方は、まさしく3の考え方をします。
ご回答ありがとうございます。輪廻転生は、釈尊が考えた概念ではなく当時のインド社会で常識として語られていた事は承知しております。バラモン教では、不変的な存在であるアートマン「我」がカルマによって転生するという考えだったと思います。一方釈尊は不変的存在としてのアートマンを否定しています。諸法無我という考えです。それ故、解脱している仏陀には、輪廻転生なる概念は無意味だと思うのです。しかし、仏典の随所に輪廻転生の考えが「例え」としてでてくるので、方便として否定しなかったのかなと思ったしだいです。
No.3
- 回答日時:
仏教に詳しくないので、ましてや釈迦の言ったことはよく知らないのですが、、、、
占星術
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93% …
この兄弟バージョンとして十二黄道ってものがある。
12と黄色 つまり太陽の道。
黄道って太陽の道ですが、実際は地球に方が太陽のまわりを公転しているので、地球から見ると、太陽が12星座とともにぐるぐるまわっているように見えるわけです。
現在は13。
っていっても 人間が勝手に「これはおとめ座」って星をグループ化しただけなんですけどね。
仏像のバックにメラメラとして炎や後光ってのは、太陽のコロナを現している。
つまり仏像は太陽を人の形に変えたもの。
で、最初のリンクを読むと
『バビロニアから西に伝わったものはギリシア神話の体系に組み込まれ、インドにはギリシアから紀元前後に伝えられた。古代中国にも十二次というサインと類似したものがあるが、伝播によって成立したものかは定かではない。後に仏教経典を通じてインドから中国にサインが伝えられ、さらに日本にも伝わった。』
というわけで、バビロンで羊飼いたちが夜空を見上げて「これ○○」ってグループ化したのが起源といわれており、そこから広まっていって、地球からみたら12の星座めぐってかえってくる太陽のふるまいを、人間に当てはめて、輪廻ってしたんじゃないかと。
したがって、釈尊はどう考えていたか知りませんが、異国の羊飼いたちのアイデアを活用したのかもしれません。
でも、、、星と人間って違う・・・・。
しかも 地球の方が旅をしているわけで。
一周2万五千年・くらいだったかな?
二万五千年後 また生まれるとは到底 絶対 なにがなんでも思えません。
そりゃ 分子レベルまで分解され、もしかしたら虫に食われて、動物に食われて、それを人間が食って肉にするかもしれませんが、分解されちゃっうわけで 「あー二万五千年もよくねたー」とか人生歩むようにはなりえません。
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