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 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。
 けれども かれの小説をもし大事に読むとすれば それは 哲学の観点から言って 異常ではないでしょうか?
 ここで哲学の観点というのは 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題とするという意味です。
 ○ 村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。
 ○ 死の状態で面白可笑しく生きる。死んだようにして さまよいつつ生きる。大いなるもやもやの中に いつも いたい。――といった情況を描いているのみである。

 小説を材料とすると 主題が拡散しますから 今年にかれがおこなった例の《〈エルサレム賞〉受賞演説》を例にとります。
 ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 ・・・私の心の壁に刻まれているものなのです。

  「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
  私は常に卵側に立つ」ということです。

 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
 
 この暗喩が何を意味するのでしょうか? いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。
 そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
 
 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。
 私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここで
 ○ 卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を なぜ 見なくてよいのか。
 ○ そうだけれど 変えて行くと言いたいのなら そういう趣旨で 表現しなければいけない。
 ○ われわれは 卵であるのだから ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。

 より一層妥当性のある評価を問い求めます。ご見解を明らかにしておしえてください。

A 回答 (28件中11~20件)

>> 村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは


>> このような感性を共感させることなのかなと思いました。
> のごとくに 抒情的文学現象が伝染するなら
> ちょっと待てよとなるのでしょうね。当たり前ですからね。
当り前を言いたかったのではなくて
「このような感性」というのは「閉じている心」を指したかったのです。
私にはほとんど共感をくれない村上春樹ですが
閉じている状態に入り込む力はあるのかな?と思ったということです。
bragelonneさんの表現をお借りすれば
> その人のそばにいる。とにかくそばにいてやる。
ということが出来ているということで
それそれは評価されてイイだろうと思います。
一方で、私も
> 甘やかしすぎだという見解です。
同じ懸念を持ちます。
閉じた心に入ることは出来ても、開くことは出来てないんじゃないか?
このままでは、村上春樹は「甘えん坊製造機」です。

No.16さんの回答を読んでいて思ったのですが
> それ以降はなんというのかレコードの針が飛んで
> 同じ旋律がくるくる回っている感じです。
村上春樹自身がそこで逡巡してるのかも知れませんね。

エルサレムのスピーチを
村上春樹の願望を述べたモノだとしたら
つまり「やりたいけど出来ていないこと」を述べたのだとしたら
何となく分かります。
スピーチでは「私が小説を書く目的は」と・・・一応「目的」と言っていますが
私には「やっていること(成果)」であるような物言いに感じます。
その辺りの表現がどうも不誠実ではないか?
だから、彼の小説を読むと「隠し事」をされているような
嫌な気分になるのだと思います。

昨年末の派遣社員の問題では
派遣社員を「自己責任だ」と叱咤するような人たちが
世間の反感を買っていたように思います。
村上春樹のエルサレムのスピーチは、この反感とシンクロして
盛り上がっていたように感じていました。

自分が村上春樹に期待するのは
・家や共同体も卵を守る力がない
・社会や国家も卵を守る力がない
私たちは壁(という得体の分かりにくい脅威)に剥き出しで晒されているときに
どういう対抗策を提示してくれるのか、だと思います。
> 村上春樹は家族らを介して声をかけるというかたちになるのではないか
それは彼の目指すところではないように思うのです。
今はそれしか出来てないけど。
ねじまき鳥を読んだときは、私もかつてない程にガッカリしました。
何だかんだで期待はしているのですね。

この回答への補足

 CUE009 さん ご回答をありがとうございます。

 わたしは CUE009 さんに対するときには――言い訳ですが―― どうも気がゆるむようです。繊細な目のつけどころに わたしは気がつきませんでした。
 ★ 「このような感性」というのは「閉じている心」を指したかったのです。
 ☆ 《閉塞性》というのは よしもとばななを読んだとき 嫌というほど感じました。それを扱っているなとよく分かるように書いています。
 社会性と言いますか 社会科学的な見地と言いますか それはないのですが 人と人との交通に関しては かなり現実性をかもし出しています。壁と卵というより 壁に対してなら蟻か蚯蚓のような人たちの閉塞情況です。
 寄り添いつつ――添い寝をしつつ――作者は 引導を渡します。(読み過ぎと言われるのを覚悟しての分析です)。
 村上氏は 望みが抱けるような抱けないような 解決があるような無いような よほど気が長いというべきか 辛抱強いとするべきか。ただし どうも正解は無いというのが正解だと どこかの時点であきらめきったのではないでしょうか。

 ★ 派遣村の時事問題とのシンクロ
 ☆ そこで《〈卵〉の立ち場》が社会的な声として唱えられたのなら
 ▲ 「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。
 ☆ というかれの信念は 賛同を得ています。
 ★ ・家や共同体も卵を守る力がない
   ・社会や国家も卵を守る力がない
 ☆ これの確認ですね。言いかえると 出発点であるのでしょう。その上で
 ★ 閉じた心に入ることは出来ても、開くことは出来てないんじゃないか?  / このままでは、村上春樹は「甘えん坊製造機」です。
 ☆ の問題です。わたしたちのこの三月からの友だちで超優秀な男ですが ちょうど昨日次のような評言をくれました。
 ◆ ( ri_rong さん)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q:人間の内面と外面とは 総合されうるか】No.6
 ・・・自分こそが、そのシステムを管理し、コントロールするという者・・・の立ち位置を選ぶ者を〔神に見立てて〕「父親」と呼ぶとき、

 この世界は、紛れもなく父権制のシステムによって動かされていると呼べる。
 
 この「父」という壁について歴史を振り返ってみると、それを誰が支えているかという事ではなく、父殺しという名のもとに、その壁をどこの子どもが壊し、その子どもは如何にして父となったかが、常に語られていた。オイディプス王の昔から、父はいつも殺され続けてきたし、その父を殺してヒエラルキーの頂点に立った子どもは、自らこそが父だと宣言してきたのではないかと思います。

 おそらく、あの作家の読者らは、この神話の繰り返しに物語を通じて気付き、その不条理さにうんざりし、けれども自分は子どもだという名乗りすら――その名乗りが父を生むのだから――挙げられず、したがって、目の前に聳える壁が、いったい何か――せいぜいが、金属バットで殴り殺せる程度のものか――すら、よく見えてはいないのだと思う。
  躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品なんだろうと、僕は思います。別な書き方をすれば、愛が無いんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 時に過激なまでに刺激的な発言のようです。
 どうも村上は吹っ切れていないように感じます。
 ★ 何だかんだで期待はしているのですね。
 ☆ たしかにせっかくのノーベル賞候補だというのなら もし今からでも遅くないとすれば 尻に火でもつけてやりましょうか。

 前回の参照ブログに書かれていたのですが 村上は 予定調和で終わるのを嫌っていて 何とも読み取りがたいデタラメな筋の運び方(終わり方)をするというのですが どうなんですかねぇ。

補足日時:2009/06/17 12:39
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この回答へのお礼

 次のような見方・書き方もありうると思うのですが どうでしょう?
  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間じたいのではなく あくまで人間存在を超えてなのだが しかも人間関係としては その関係のあいだを吹きゆくかに思われる開かれた経験現実としての風。
 この風は 人間の言葉による仮りの表現として示せば ここでは 志である。あるいはほんとうに志としてなら 一個人としての問題であるよりは やはり信頼関係のことであるだろう。社会全体にまでは広がらなくても そういう人間どうしの交通の問題であるにほかならない。
 それが完全に実現することは非現実であっても それとして想定することがありえて 単なる記号としてすらの形ででも その言葉を用い 用いた文章表現を通して われわれは 互いに意思疎通をおこなう。
 作品では 志は消えており 信頼だの愛だのと言えば 白けるほどだけれど ぎゃくに初めからそれが 単なる歴史事実やその認識に還元されるなどということはないと前提しておくならば その時には たとえば物語の中に 言葉の掛け値を超えて シンライカンケイが 語られうるのかもしれない。伝えられうるのかも知れない。
 これは もしそうだとすれば その限りで全体として――そのような想定つまりははっきり言って空想を含んだ全体として―― 人間にとっての経験現実であると言わざるを得ず 物語作品は 広く表現をとおしての開かれた・厚みを増した経験現実の一環だということになる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようなうそをつき ほらを吹いて欲しい。
 そこで初めて 自立と助けあいの両面を基礎とした人間の自由が ものを言うようになってくると思う。ばななの《引導を渡す》――《父親殺し》?――ということさえ包みうる深みを帯びてくるかも知れない。つまり その必要がなくなっているという次元に駆け上がれるかも知れない。
 それは 共同の幻想か それとも 共同の主観であるか。《ほらを吹く / 大風呂敷を広げる》という意志がある限りで そのまぼろしを設定するという主観がある。

お礼日時:2009/06/17 13:50

tapparaです。


認識が物事を決定つけるなら読者がそれぞれ好き勝手いい本だ悪い本だといってるうちはいいでしょうけど、マスコミなんかがこの本はいい本だという一定の方向性を確定しそれに皆流される。だから今一度きちんと評論すべきでは。なるほどですが・・・
評論するのもいいかもしれませんが今度はこの小説はこういうものだって評論に引っ張られてその評論に付随う読者は多く存在しそうですけど・・・

この小説はおもしろいって論評=おもしろいはずだ。おもしろく感じなければイケない?おもしろい。なんて感じで。
この小説はこういう命題を掲げている=そんなこと小説から読取れなかったけどなぁ・・・でもなんかかっこいいこと言ってるしそれ使おうっと。=それが自分の感想。

流行や流行で読む人が振り子を大きく揺らされることはないんじゃないですかね。表面的におもしろいかどうかで終始するだけでしょう。
一方深く読み込む人であれば自分なりに考えるでしょうから暗愚に盲従するようなこともないでしょう。
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この回答へのお礼

 tappara さん ご回答をありがとうございます。

 今回は やや堂々めぐりになってきていませんか?

 ★ 流行や流行で読む人が振り子を大きく揺らされることはないんじゃないですかね。表面的におもしろいかどうかで終始するだけでしょう。
 ○ 少々の脱税――自分たちは 節税と言っていますが――は 市役所や税務署じたいがしているのだから 《流行》である。
 ○ この流行に合った行動を取っても 大した問題ではない。
 ☆ といったところでしょうか? もしこの論理にすり寄るならば こうなります。 
 ○ 原則は 市民として法律を守りましょう。しかし慣習としてまた流行として 世間の成り行きというものもある。その程度の法律違反は する場合が多い。ただし ばれたら だめだし それは むろん自分の責任である。
 ☆ ということになりましょうか? でしたら――でしたら―― 村上春樹についても そのようなところまでは評価を 一般的に しておくのがよいでしょう。
 ○ 人間性の問題としては くだらない内容である。しかし 喜んで読む人びともいる。それは 自由だ。
 ☆ この程度の《うわさ》を持っていても いいのではないですか?

 ★ 一方深く読み込む人であれば自分なりに考えるでしょうから暗愚に盲従するようなこともないでしょう。
 ☆ 《暗愚に盲従した》から 年金事情がここまでのようになったのでしょう? 《深く読みこむ》かどうかの個人の問題におさまらない場合があると言っているぢゃないですか。
 小泉なんとかという人に盲従する人びとに 暗愚でなくとも 盲従せざるを得なかったのではないですか?
 ノーベル賞でも取ってごらんなさい。佐藤栄作が取ったって だいじょうぶでしたが そういう批判の目も筆も 今度はだいじょうぶでしょうかという懸念です。
 ★ 表面的に
 ☆ でも その風潮に合わさなければならなくなる部分がおおきくなります。わづらわしい限りでしょう。

お礼日時:2009/06/17 10:46

質問者様がおっしゃっているのは《卵》というものがあるにしても、《卵》を御旗にして、すべてを《卵》として触れることを拒絶する姿勢が敷衍することが問題だとおっしゃっているのでしょうか?


そして、村上春樹の小説が”すべてを《卵》として”しまうくらい、あまりにもあいまいであるが故に、そして、(文学として)肯定的に受け入れられているがゆえに、あたかも”すべてを《卵》”とする姿勢を肯定するがごとき雰囲気が蔓延することが、とっても問題だ、とおっしゃっているのでしょうか?

で、質問者様が懸念されるような事態(上記のように私が推定したこと)をお前はどう思うのだ、というのであれば、それは問題がある、と答えます。(それが成功しているかどうかは別として)は、”すべてを《卵》として”というのとは違うというのが私の印象です。
彼のスタンスは、質問者様のようなすばらしい方が、世の中の仕組みが上手くいくように、あるいは、人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います(と思うところが、熱狂的ではないけれどファンである証!?)。

以下、与太話ですが、彼の作品群について、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『羊をめぐる冒険』までは大好きでした。気持ちとしては問題提起された状態でした。なので、それに続く作品で彼なりの答えが出てくるかと期待した(私は弱いのです)ものの、結局、いまのところ、そうではない作品ばかりのように感じている、というのが正直なところです。『ノルウェイの森 』が出たときは、悲しかったのを覚えています。それ以降はなんというのかレコードの針が飛んで、同じ旋律がくるくる回っている感じです。

この回答への補足

 moumougoo さん たいへん関心を惹くお話を――ご回答をありがとうございます――おしえてくださって感謝いたします。はじめにうまいぶどう酒を出して 酔いがまわったころには より少なくうまいのを出してもよいのがふつうなのに あとから取って置きを出してくるのですね。

 二点ですね。
 おおいなる《与太話》をうけたまわりました。もしほんとうは moumougoo さんと同じくこのように 後期の諸作品ではがっかりしたという感想を持つ人びとが なのに世間の《空気》でそのことを言い出しにくいとしたなら それは それも 問題です。
 どうでしょう? 村上春樹という人間は 人間問題について初めはほんとうに真剣に考えていたでしょうか? これも文学および哲学の課題であると考えます。つまり 村上というひとの正体 ですね。どういう経過で こういう作品を書くようになったか。経過は何もないから そうなのか? 世の中をいったいどう思っているのか?

 そこで二つ目のお話ですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 彼のスタンスは、質問者様のようなすばらしい方が、世の中の仕組みが上手くいくように、あるいは、人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います(と思うところが、熱狂的ではないけれどファンである証!?)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって
 ☆ という視点を どのようにかれが持ったか。あるいは かれ自身が その《卵》のひとりであったか? あるいは わたしの述べる《人間存在を高めるような通念》のすばらしさだけでは なぜ足りないのか? (へへっ)。かれ自身が そういう境遇にあったのか?
 だけれどもですね。だけれども 遠山の金さんに惚れないのはわるだけですが この bragelonne さまにはわるも惚れますよ。たいていのわるは。いちいち議論を聞かなくてもですよ。話はしたあとです。
 最初は反発もありますし 途中でも反抗期になって反発を受けます。けれども 嫌いだ反対だ全否定するという反応で 惚れている場合もありますから。――だって わたしの述べることは みんなその相手のいいところを明らかにする作業なんですから。批判という行為は そういう作業だと思いますよ。

 ★  ”すべてを《卵》として”というのとは違うというのが私の印象です。・・・〔すべてではなく〕やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います。
 ☆ これは――つまり あらためてですが――
 ○ 九十九匹よりも一匹を気に掛ける。
 ☆ という命題です。つまり哲学の問題です。その村上春樹版ないし文学作品形式版ですね。
 二つの反応を持ちます。一方で 何も出来なくとも その人のそばにいる。とにかくそばにいてやる。というおこないについて 必要だと考えます。他方で それでは 甘やかしすぎだという見解です。子ども扱いになりかねない。
 ○ 世間から片隅に追いやられ押しつぶされる《卵》を文学という手段ですくい取れるか。
 ☆ ですから わたしの答えは 村上文学では現状維持作戦だと見るというものです。よしもとばなな文学は だいじょうぶだからあなたは消えなさいという声であり政策だと見るものです。
 《迷える一匹》については 家族・身内・友だちの問題だと一たんは言うべき側面と 広く社会政策の問題だという側面とがあると考えます。よしもとばななは この一匹に直接に声をかけています。村上春樹は 家族らを介して声をかけるというかたちになるのではないかと考えます。

 舌足らずの箇所が わざと あります。

補足日時:2009/06/17 08:20
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質問者様の願うように、盛り上がってきていますか?



私が言っているのは、哲学なら、彼の書く失われたもの(喪失感?)を、ちゃんと記述できるのか?ということです。
それができなければ、問題定義ができないので、実践として事態の解決はできないと思います。
記述できないのであれば、あなたのいう哲学こそ、かれの戦おうとしていることに対して無力なのではないしょうか?
記述できるというのであれば、なぜ文学があるのか、もう一度よく考えてみてください。

というかんじですがどうですか?
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この回答へのお礼

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。いわば日本のためですので ご投稿を必要なかぎりで よろしくお願いいたします。

 ★ 《失われたもの(喪失感?)》という問題の定義
 ☆ これは 《我れに還る》というときの《我れ》つまり《わたし》だと思いますよ。
 ○ 存在論です。
 ○ 《わたしがわたしである》 あるいは 《わたしがわたしする》という現実の命題。
 ○ もしくは これを・つまり《存在》を 関係性において捉えた場合です。
 ○ したがって たとえば 信頼関係などです。

 いえ ですから そのような問題ないし命題を 村上もその作品の中に 取り上げていると思いますよ。そういう方向性はあるのぢゃないですか。
 ▲ 風 ないし 風の歌。あるいは 象が平原に還る日。
 ☆ などと言ったくらいですから。そしてその主題を すべて どうしたことか 雲霧の中に放り込んでしまう。

 しかも この作品とその読者が 一部の範囲にとどまっているのなら 問題はちいさい。あるいは 範囲というより 社会現象になるかどうかですね。なれば 広く評価の対象になるでしょうし 批判の矢面に立たされるのも 必然です。
 ところが 外国で評価されたとなると 日本人は もうその評価に従わなくてはならないと思いこんでしまう傾向があるのではないですか? とうぜん この評価については 吟味し検証しなければいけない。そういう問題です。

 ★ なぜ文学があるのか、もう一度よく考えてみてください。
 ☆ 哲学による評価とは別に この作品を文学として賞味する人びとがいることは 何ら扱っていませんよ。干渉するものではありません。そうではなく 社会現象として問題にしています。

 * 《喪失感》そのものを 哲学が記述できるか? という問いでしたら たしかにその記述は 文学としての表現のほうが 現実感をもって描くことができると思います。哲学は 一般論としての分析になります。
 文学は 現実の人間に即したそのときそのときの一回きりの思いや行動をあつかうわけですから きわめて現実性を醸し出せます。――ただし その方向性を見失っている状態や情況だけを描き出した場合には どうなんでしょう? 微妙に そこでは おもしろいかどうかで 見解が分かれるのではないでしょうか? 哲学からいけば それではだめだと見るでしょうね。

お礼日時:2009/06/16 22:46

tapparaです。

哲学ということでしたので個人的な小説に関する自己評論は意味を成さないとの思いで概念的な事柄に焦点を当てているつもりです。回答を見ていると文学レスのようなきも・・・
正直、質問者さんの言う哲学の意味がいまいち把握できてません。

中身はないが多くの人を引きつける村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険ってそんなニュアンスでしょうか?

>言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。
これは書き手側です。しかし、その固定認識を読み手が同じように受け取ることはありません。

>世の中は 《固定的な認識を生む》のが必然であり不可避であるとすれば――つまり いまそのように成りつつありますね
僕は不可避であるとは思えないのです。不可避どころか書き手の固定認識を読み手がそのまま受入れること自体不可能と考えます。言葉は変換機であり書き手の体験を読み手の体験とするものではありません。
(痛いと伝えた時、読み手が感じる痛さは書き手の痛さではなく読み手自身が経験した痛さをそこにあてはめているだけです)
すなわち、読み手の数だけ解釈がありそれ故に大まかなベクトルが揃うことはあっても完全に統一されることはない。それすらも容認できないのであれば表現自体が危険なものであり全ての人間は殻の中で自己表現をしなければ。

>より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか
これは宗教ではないでしょうか?経典に解釈ってところでしょうか。
それだったら確かに怖いですね。

読み手はもっと自由ですよ。エロ本からでも人生を読取る人だっています。(//▽//)

この回答への補足

 tappara さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すなわち、読み手の数だけ解釈がありそれ故に大まかなベクトルが揃うことはあっても完全に統一されることはない。それすらも容認できないのであれば表現自体が危険なものであり全ての人間は殻の中で自己表現をしなければ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。読者の自由にまかせておけといったところでしょうか? ですから 一番の問題は この《読者》の範囲が 潜在性において 広がったと社会が見なした場合でしょう。
 ★ エロ本からでも人生を読取る人だっています。(//▽//)
 ☆ というように 社会の一角をになう文学という世界のそのまた一部の層を読者とする作家であり作品である場合には おそらく問題はないでしょう。エロ本がそのように一部であるか もしくはひとりの人間にとって生活のごく一部であるかであるならば 問題がないように。
 たとえば北野武の映画は 外国で賞を取って評価されても 日本では鳴かず飛ばずです。変な事例かも知れませんが これなら《一部》の事柄と範囲におさまっています。そうではなく社会現象にまでなれば 評論をしてもよいしする必要があるのではないでしょうか? そしてそのような批判も
 ★ 読み手はもっと自由ですよ。
 ☆ の《自由》に属するはづなのです。
 ★ 書き手の固定認識
 ☆ かどうかを超えて 社会現象としての一定の認識があり これが《固定》するという場合が考えられます。それに対して 今から言論活動を始めておくことは 必要だと考えたわけです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 中身はないが多くの人を引きつける村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険ってそんなニュアンスでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 微妙にちがう点もあるので 細かく述べます。
 ○ 《中身はない》《多くの人を引きつける》こと自体は どうでもよいです。
 ○ 中身がないのに 社会現象となって話題に取り上げられると メディアなどの力は放っておけなくなる。これが 問題です。北野武に もし定評がつくと ことは大ごとでしょう。それと同じです。
 ○ 《村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険》 これは おまけとして文学論をつけ加えたのみです。でもそういう根拠をも示す必要があるのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか
 これは宗教ではないでしょうか?経典に解釈ってところでしょうか。
 それだったら確かに怖いですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ま これは 次につづく文章を合わせて見てもらわなければ たしかに語弊があります。
 ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが そのように一方の極から他方の極へと――ちょうど 起き上がりこぼしとは 逆のかたちで――振り切ったり振り返ったりするのを放っておくこと自体が 問題なのではありませんか? その問題に対するささやかな抵抗としての努力を 一介のどこの馬の骨とも分からぬばかがおこなったら そんなファシスムのような言論活動はやめておけとおっしゃる。 
 つねにそのように ファッショの振り子がはたらく社会のあり方こそが 問題なのではないですか? 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * 変わった問い方をすれば こうです。tappara さんなら エルサレム賞の選考委員やらそのほかの外国の村上読者に対して 作品の評価を どのように説明するか。堂々と いい作品ですよと言えるかです。これなら単純で分かりやすいのでは?

補足日時:2009/06/16 22:17
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> もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの


> 正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが
なぜ村上春樹がここまで評価されるのかを疑問に思う私としても
期待していたのですが・・・
哲学カテゴリーでは集まらないのかも知れませんね。

> 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。
発売前に増刷が決まったことが噂を呼んだと思います。
しかし一方で、発売前には本書の内容は秘密にされていました。
つまり、話題先行で売れているのであって
本当の内容評価はこれからだと思っています。
(私はまだ読んでません。様子見です?)
とりあえずAmazonのカスタマーレビューでは凡庸な感じです。
天邪鬼な視点かも知れませんが
エルサレムのスピーチは、日本では派遣社員問題とシンクロして
反貧困支持の文脈で評価されていると(少なくとも私は)感じました。

> それにしても世界が注目し出したのですよ。
セカイ系という文脈では、アニメやゲームは欧米で成功していると
言われるモノが多い。
海外ではある種の目新しさがあるのかも知れない。
(この辺りに詳しい方からの回答を期待していたのですが・・・)
あとは流通力の問題ではないかと。

> 赤ん坊ぢゃあるまいに
> なんでこんな当たり前のことを言われなければならないのですか?
> それぢゃ 文学ですらないのではないですか?
私は、村上春樹からは「ファッション」小説以上のモノを感じとれません。
しかも、センスはあまりよいとは思えない。
村上龍はどうですか?と言ったのは冗談で
こちらのQ&A(ANo.3)をお覚えではないから?というフリだったのですが
http://okwave.jp/qa4731792.html
> 私が龍さん本人は好きなのに、作品は読めない、その理由はこれですね。
> そして「何故読めないのか。。。」と自責の念に駆られるわけも判りました。
> どうにも己の「弱さ」を突き付けられるようで情けなくなるのです。
村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは
このような感性を共感させることなのかなと思いました。
私はどうしても共感できないのですが
それは例えば
> 私が小説を書く目的はただ一つです。
> 個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。
綿谷昇をあのように扱っておいて、よく「個々」の精神が持つ威厳さ
などと言うもんだなと、どうしても反感を覚えてしまいます。

この回答への補足

 CUE009 さん ご回答をありがとうございます。

 どうもわたしは 健忘症が CUE009 さんに集中して出てくるようです。最初の出会いのことを 二回目に忘れていましたし マーケティング関係なのに 建築方面だと言ってしまったり(これはあとで気がついたのです) 今回は yuk・・・さんの質問でのご回答をもはやすっかり失念していました。そこでは《叙事詩》だというので わたしは出しゃばってその種の投稿をしていますね。そして 龍と春樹。いや 
 ▲ 己の「弱さ」を突き付けられるよう
 ◆ (No.3) 自分たちの弱さを許容すること
 ☆ このこと自体は むしろ誰もが体験すると言ってもいいわけで しかももし
 ★ 村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは / このような感性を共感させることなのかなと思いました。
 ☆ のごとくに 抒情的文学現象が伝染するなら ちょっと待てよとなるのでしょうね。当たり前ですからね。
 これも健忘症の口だったのですが
 ★ 綿谷昇:(ヰキぺ)〔主人公の妻である〕久美子の兄。東京大学卒、イェール大学大学院に留学などの後に東大大学院を出て学者となる。離婚歴のある独身。
 ☆ なる《邪悪な存在》でさえ 自分としての卵の側に立つのですから 話が幼稚すぎるということになります。
 『ねじまき鳥』のほうは あまり覚書きを取らなかったのです。きょうこの名前を聞いたとき思い出せなかったのですから。
 ■ (或るブログ:グーグルの最初に出ていた)~~~~~~~~~~~~
http://homepage2.nifty.com/sober_reality/bookrev …

 (α) 主人公の対となる邪悪なもの、欲望や死や権力と云ったもの象徴として綿谷昇という人物が登場します。・・・つまり、癒しや生命を象徴する善なるものと、死・欲望・権力といった邪悪なものの戦い・・・なんですね。
 ・・・
 もちろん、最後は主人公が勝利します。
 夢の世界にある、クミコ(主人公の妻)がとらわれた、闇に支配された部屋で、主人公は綿谷昇を倒します。現実の世界の綿谷昇は、そのとき公演中に脳溢血で植物人間になります。
 そして、クミコは彼の息の根を止める。

 (β) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 作品を読めば、綿谷昇が邪悪な存在であることは書いています。
 でも、彼はどのように邪悪なのか、具体的には分からないのです。
 邪悪な力で、加納クレタを汚し、クミコの姉を汚し、クミコを汚した。
 でも、どんな風に汚したの?
 それが、描かれていないもどかしさを感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (α)が
 ★ 綿谷昇をあのように扱っておいて、よく「個々」の精神が持つ威厳さ / などと言うもんだなと、どうしても反感を覚えてしまいます。
 ☆ の一端にかかわっているのですね。そして(β)を読んで わたしは これなら忘却しなくてもよかったのにと思いましたが 失念していました。
 そしてわたしの場合 これの第三部で クミコが主人公に文章で連絡を入れるところがあったと思うのですが その箇所が 何ともいただけない。つながりも脈絡もないと思いました。人間性に立つ(つまり哲学にも基づく)文学を完全に放棄したと受け取りました。その後は 読んでいないのですが 『カフカの海辺』で何も新しいことはないと一度確認しました。

 あとは 世界がどうなのかですね。短絡的に言えば 日本人読者化しているのか。よほど見逃していた長所があってそれを見出したという可能性は ちょっと考えられませんが なにはともあれ 謙虚になって 批判・擁護いづれの側も 自由に発言していければよいと考えます。
 つまりけっきょく 変だよ・おかしいぢゃないかという声が ふつうは 一部に聞かれるものですよね。それがあればよいという物言いでもあるのですが どうでしょうかねぇ。

補足日時:2009/06/16 14:24
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>もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが どうなったのでしょうか。

これからどうなりましょうか。

では、といっても、熱心な読者ではないので、弱々ですが。

国語の問題風にいえば、
【問1】
”卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実”が述べられています。本文中の文章を用いて、その理由を述べなさい。

【解答欄】
「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。」から、すなわち、私たちのすべてが卵ではなく、
「「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。」から、壁でもあることを作者は問題視している。

だと思います。つまり、個々の中の部分の話を彼はしているのではないですか?
「卵である自分の側に立つ」のではなく、私たちの中の卵の部分に立つといっているのだと思いますよ。
彼は、その相克を書くのではなく、二つの存在として書いているがゆえに、卵の部分が例えば《僕》のすべてのように見えているだけではないですか?

《システム》が「私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ」ないためには、卵の側にたつこと自体が最低限必要なことではないでしょうか?

彼は告発します「「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し」ていると。彼は《システム》をただ取り除けばよいといっているのではありません。しかし、文学的な表現だと思いますが「自己増殖」という言葉を用いて、私たちがコントロールできない《システム》のもつ影の部分の脅威を表しているように思われます。
まあたとえば、”お金が人を変える”といった場合に、その人が死んでしまうわけでなく、その人の中の何かが変わってしまったということだと思いますが、彼は、その変わってしまった何かの側に立つといっているのではないでしょうか?質問者様は、それに対してお金を使っているのだからおかしい、とか、金融システムを変える答えを提示していないからおかしい、といっているように思われます。彼は「変わってしまった何か」をわれわれは明示的に認識(表現)することができす、穴ぼこ的な失ったものとして、表現しているのだと思います。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa39578.html
という感じです。それを穴ぼこの表現としてではなく、《僕》の一部ではなく全てとして捉えて、彼が、人間存在の在り様として表現していると捉えるのは、奇異に感じます。

といったところでしょうか?

この回答への補足

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。

 ○ ひとがお金ならお金によって 変わってしまったというとき そこで失ったものを《何らかのしるし》によって表わし 物語を編む。
 ○ つまり変わる前の自分を 《わたし》なり《自然本性》なりと規定せずに あいまいに《穴ぼこ的な失ったもの》として――その物語の中で――表現していると見なしたとします。
 ☆ と どうなるのですか?
 ★ それを穴ぼこの表現としてではなく、《僕》の一部ではなく全てとして捉えて、彼が、人間存在の在り様として表現していると捉えるのは、奇異に感じます。
 ☆ というほうが 奇異に感じられるのではないですか? どうでしょう? 《わたしとその自然本性 つまりは 精神と身体 特には自由意志》 これは 
 ★ 人間存在の在り様として表現
 ☆ すべきなのではないですか? どうなのでしょう?
 
 それゆえ 多くの場合 個人にとっては《壁》として迫ってくる《社会システム》も あからさまな皮肉交じりですが 《定額給付金》を支給するということもおこなうわけでしょう? 失った人間性を せめてこのささやかな相互援助によって 取り戻していただきたいというのでしょう。
 人間にとって 存在の全体 人格の全体であるものを いまは《穴ぼこ》であるから 腫れものに触るべからずのごとく そおっとしておいて その代わりに 膨大な物語を編みましょう。その曖昧模糊とした世界に みなさん 浸ってください。ということになるでしょうか? 
 文学としてなら 勝手にやってくれたまえです。哲学としてなら 何を寝ぼけたことを言ってんだいとなります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まあたとえば、”お金が人を変える”といった場合に、その人が死んでしまうわけでなく、その人の中の何かが変わってしまったということだと思いますが、彼は、その変わってしまった何かの側に立つといっているのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 当たり前です。しかも あいまいにぼかす必要は何もない。しっかりと――哲学としてなら―― 語らねばならない。しかも
 ○ 《わたし》とは 何か。
 ☆ これを誰もが ほんとうには 知っています。欺かれたなら そこで 我れに還ります。あやまつなら そこで 我れに還ります。その《わたし》をわたしは それまで愛して来なかったわけではないことは じゅうぶん 分かるものです。
 なぜ これをわざわざ もやもやの雲の中に放り込まねばならないのですか? 哲学が それはけったいなことだよと ひとこと口をはさんでもいいだろうし ここは はさむべきところなのです。

 ☆☆ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ (α) 自分たちの弱さを許容すること
 ☆ と(β) 《か弱い卵であるわたしたちがつくった〈壁〉を その〈わたしの内包するもの〉から取り除いて いわば自分に縮こまること》とは 別だと申し上げているはづです。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《システム》が「私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ」ないためには、卵の側にたつこと自体が最低限必要なことではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 赤ん坊ぢゃあるまいに なんでこんな当たり前のことを言われなければならないのですか? それぢゃ 文学ですらないのではないですか?

補足日時:2009/06/16 10:04
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昨今「セカイ系」と呼ばれるカテゴリーがあるのをご存知でしょうか?



ご存知という前提で話をすすめさせて頂ければ
> 卵であるわれわれ一人ひとりが壁をつくり支えているという現実を なぜ見なくてよいのか。
> そうだけれど変えて行くと言いたいのならそういう趣旨で表現しなければいけない。
> われわれは卵であるのだからただ卵である自分の側に立つというだけではおもしろいはづがあろうか。
上記は私には完全に「セカイ系」批判に見えるのですが違うでしょうか?

(すでにあちこちで言われていることですが)私は
私小説というのは多かれ少なかれ昔からセカイ系だと思っています。
そして、セカイ系の需要は、常に一定量(相当量)あると睨んでいます。
昨今、セカイ系需要に応えているのは
マンガ、アニメ、ラノベだと思いますが
村上春樹は数少ない、文学でセカイ系需要に応える作家であり
「文学」というスパイスが、ある種のセカイ系愛好層には
非常に魅力的に映るのだと思います。

簡単にいえば
> 卵であるわれわれ一人ひとりが壁をつくり支えているという現実をなぜ見なくてよいのか。
セカイ系の流儀だからです。
> 変えて行くと言いたいのならそういう趣旨で表現しなければいけない。
そういう方には村上龍はいかがでしょう?
> ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。
あるんだと思います(私には面白くありませんが)。

哲学ということでとりあえずこんな回答をしてみます。
(少々一般論的でしょうか?)

文学?として村上春樹を読むと
何か「隠し事」をされているような嫌な気分になります。

この回答への補足

 CUE009 さん □好。好久没見阿。感謝□的答応。(□:ni = あなた)

 ★ ただ卵である自分の側に立つというだけでは・・・(私には面白くありませんが)。
 ☆ そうだったんですか。(一般論としてです)。何も村上ファンだと思っていたわけではありませんが 一般にあまり あるいは ほとんど批判の声は聞こえて来なかったのです。次のブログのコメント欄で讃嘆の声の多さには驚きます。
 ● http://d.hatena.ne.jp/nakamu1973/20090217/123478 …

 ★ 文学?として村上春樹を読むと / 何か「隠し事」をされているような嫌な気分になります。
 ☆ そうだったんですね。わたしは ひょんなことから 見究めようという特殊な目的をもって読んだんですが はじめは この
 ★ 何か「隠し事」をされているような
 ☆ について それは なぞがあると受け留めて 読み継いでいったのです。人間について語ることがあるであろうという可能性のことです。『ねじまき鳥クロニクル』の第二部まで 期待と希望を持ち続けました。第三部で 崩れ落ちました。むろん それまでの作品における可能性としての良さも 崩壊しました。

 ★ セカイ系
 ☆ と聞いて ヰキぺで知り なるほど 《卵と壁》の演説が みごとにこれに当てはまる〔→次の(α)の定義〕と思ったものですが 小説については 分かりませんでした。
 ▲ (ヰキぺ:セカイ系) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB% …

 (α) セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり
 (β) セカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。
 (γ) セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群のことであり
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (γ)でも 後者の《意志の喪失》が小説の主人公らに当てはまり 前者の《世界をコントロールしようという意志》は ですから ないでしょうね。(β)の《自意識過剰》もないように思えます。

 ★ 村上春樹は数少ない、文学でセカイ系需要に応える作家であり / 「文学」というスパイスが、ある種のセカイ系愛好層には / 非常に魅力的に映るのだと思います。
 ☆ もう少し 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》命題にかかわろうとした痕跡くらいは 認めてやりたいと 逆に思いましたが 言葉の綾にすぎないかも分かりません。
 ★ 私小説
 ☆ のすべてが――つまり《わたし》と名乗って語り継ぐ物語のすべてが―― 狭い世界と狭い視野におさまるとは思いませんが
 ★ セカイ系の需要は、常に一定量(相当量)あると睨んでいます。
 ☆ たぶん確かに いくら人気作家だと言っても そのように一部の世界におさまっていたなら それだけのことだと考えます。社会現象になれば 別だということだと思うのです。
 ★ ラノベ =ライトノベル
 ▲ ヰキぺ:出版社がつけていた名称としては「ジュヴナイル」「ヤングアダルト」または「ジュニア小説」などがある。
 ★ 村上龍
 ☆ については解説を読んで反応するわけには行かず あしからずご了承ください。情報としては 政治経済についても発言し始めたように思っています。その意味でなのですね。

 もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが どうなったのでしょうか。これからどうなりましょうか。
 それにしても 世界が注目し出したのですよ。どうなりましょうか。

補足日時:2009/06/15 12:42
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No1です。

村上春樹現象が読者側のものだってことは前に書きました。
僕が言いたかったのは、結局のところ小説なんてものは読者の受け取り方が全てであり、究極のところ書き手の小説とはこうあるべき論なんてものは必要ないということです。自身が読取った感想こそが読み手側の全てじゃないでしょうな。
必要ないとは語弊を呼びそうですが・・・読み手にとっての全ては書き手がいかに崇高な目的を持って書いているかではなくあくまで読手側として受取ったものですよね。(この受取ったってのも実際は書き手からうけた読み手のインスピレーションなんでしょうけどね)
書き手さんには敬意を表しつつも「表現しなければいけない」「おもしろいはづがあろうか。
」といった断定的な物言いに少し違和感がありました。
小学生に相対性理論の論文がいかに優れているか(それ自体がとてもすばらしいものであっても)を説いた所で意味はありません。まったく理解できない以上その人にとってはその書物は何の価値もない。
だったら絵本のシンデレラのほうが価値のある本でしょうね。そのシンデレラで受け取る読み手の教訓として玉の輿を狙うであろうが、効果的な見返し方であろうが得るものがあるでしょうね。

質問者さんの回答者への補足の中でも、村上春樹の小説に対する解釈があらねばならぬといった断定的な書き方で書かれています。
小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたらそんな窮屈なものはないでしょうね。

質問は書き手主体なのかもしれませんが、であればなおさら書き手ごとに小説への思いは変るのでは?
言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。こういった作業を信念をこめて行うには一人の人間が行える幅はかなり限られるでしょうね。一般論ではダメなわけでしょうから。

この回答への補足

 tappara さん ご回答をありがとうございます。

 煮詰まってまいりました。tappara さんの・作品に対する評価じたいの問題ではないですが 評価のあり方をめぐる問題としてです。すなわち
 ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 全体としてまづは 文学と哲学とをきちんと分けて ここでの質問をおこなうべしというご見解を――つまりは 従って 前提としての問題を――明らかにしておられると受け取りました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ です。今回その焦点は 次にあるでしょうね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 質問者さんの回答者への補足の中でも、村上春樹の小説に対する解釈があらねばならぬといった断定的な書き方で書かれています。
 小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたらそんな窮屈なものはないでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは このご指摘をめぐって
 ○ 文学と哲学との区別の問題
 ☆ だと考えますし その内の哲学の見方に徹して 質問を掲げています。つまりは
 ★ 小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたら
 ☆ を 一方で文学としてその自由の幅いっぱいに楽しむという姿勢があるでしょうし 他方で広く文章表現について・その限りで思想(生活態度)について 哲学として どう捉えるかという姿勢も あるはづです。両方があるはづです。そして 文学の問題はここでは扱っていないのです。(間接的に触れているとは思いますが 焦点はむろん 哲学の問題です)。

 ★ 相対性理論の論文がいかに優れているか(それ自体がとてもすばらしいものであっても)
 ☆ という科学の問題があります。それ自体として何の制約も受けずに自由な研究が奨励されますし 援助されるところです。他方で この自然科学の成果が 社会一般にどう受け取られるか あるいは その成果としての知識がどのように応用されるか これは ひとり科学の問題ではなくなります。
 それと同じように 文学としてどのように創作されようが またそれらを楽しもうが 自由です。それは 文学の問題です。しかもその問題と領域を超えた世界つまり社会にとっての問題も あるのではないですか?

 たぶんわたしの評論が かなり妥当な内容を伝えているので 面喰っておられるのではないかと考えますが わたしは何も わたしの評価一色で世の中を塗りつぶそうとは思っていません。一石を投じるだけです。
 おそらく tappara さんならとうぜん そんなことはお分かりである。知りきっておられる。ですから 《哲学の視点から自由に批判を加えることに何ら問題はない》ということまでなら 何のうれいもなく合意なさるはづです。
 ところが bragelonnne の言うことは その原則論から一歩踏み出して 評価じたいを明確すぎるほどに述べている。ここまで作品を裸にするような評論が世に出れば・またそれによって世の中の受けとめ方が 今度は別の極へと振り子のように振りきってしまうならば それは おおごとだと見ておられる。ということではないのですか?
 
 さて
 ★ 言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。
 ☆ こうして もし世の中は 《固定的な認識を生む》のが必然であり不可避であるとすれば――つまり いまそのように成りつつありますね 村上の評価において―― より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか?

 ところが そのように一方の極から他方の極へと――ちょうど 起き上がりこぼしとは 逆のかたちで――振り切ったり振り返ったりするのを放っておくこと自体が 問題なのではありませんか? その問題に対するささやかな抵抗としての努力を 一介のどこの馬の骨とも分からぬばかがおこなったら そんなファシスムのような言論活動はやめておけとおっしゃる。 
 つねにそのように ファッショの振り子がはたらく社会のあり方こそが 問題なのではないですか? 

 つまり そういう社会であるからこそ 村上のような《ぬえ》の世界に むしろ勤勉な人びとは そのうれいと悲しみの吐けどころを見出す仕組みになっている。それは 自分たちの怠慢を そのまま映し出しているのではないですか? それが いまの日本――そしてあるいは近い将来の世界――であるのでは?

補足日時:2009/06/15 10:53
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この回答へのお礼

 ★ こういった作業を信念をこめて行うには一人の人間が行える幅はかなり限られるでしょうね。一般論ではダメなわけでしょうから。
 ☆ わたしたちは ほんの少し――ほんの少しです 決して大きな壁ではなく どこかからささやく小さな声を聞いたように思い その声について行って そのほんの少しの隙において―― 目隠しをされている。のではないでしょうか?
 目隠しが取れると ひとりの人間が行なえる範囲は そうとう広がるようですよ。原子力というぢゃないですか。もしその一人人間からの井戸端会議が手をつなげば 孫悟空に如意棒ですよ。

 はっきり言えば ムラカミハルキは 現代人にとっての阿片です。癒やしが与えられ 現状維持には持って来いです。
 作家も読者も 何らわるいことをしているわけではありません。しかも たぶん 眼つぶしの粉を振りかけられていて その粉の空からの散布をやり過ごそうとするための秘策なのでしょう。たぶん 将来にとって・社会にとって それは 悪に変わるでしょう。

お礼日時:2009/06/15 11:08

追伸まで


☆ わたしの場合 《死を受け容れよ。その死の観念をも包みこんだ大いなるもやもやの中で生きよ》というふうに受けとめたのですが 重なっていますでしょうか?

● 重なっていますね。私の感覚では死も生の一部であることを認めてはいるが完全には受け入れていないのでもやもやとしていると考えているのです。
生と死に境界はないのですが、死の明確な意義やビジョンが描かれていないので生と死の狭間文学といいたいのですね。
例えば、芥川の「くもの糸」はあの世の世界の話ですがこの世のことのようにリアルに描かれていますね。そのようなリアルさがないもやもやの世界ですね。つまり、単にドアの外がその世界で現実のようなそうでないようなもやもやですよね。
挨拶も無く死後の世界に踏みこんでいることは確かですが、例えば、三途の川を渡らない状態でいまだ死を完全に受け入れてはいないなと感じるのですね。それがもやもやの理由かなと思うのですね。
まあ、あの世の世界を真摯に描いてしまうと本は売れないですから作家の知恵としてあえてもやもやなのかもしれませんが。
しかし、こんなもやもや本が売れるのですからまっとうな作家は気落ちしてしまいそうですね。

この回答への補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、芥川の「くもの糸」はあの世の世界の話ですがこの世のことのようにリアルに描かれていますね。そのようなリアルさがないもやもやの世界ですね。つまり、単にドアの外がその世界で現実のようなそうでないようなもやもやですよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうもこのあたりの事情が 絡んでいるようですね。この《リアルさ》を村上ないしその読者は かたくなに嫌っているのでしょうか。――それで 思想(生活態度)がはっきりとしたものになればいいのですが。

 ちょっと質問者が出しゃばりますが 《現実感》のある作品がひとつありますので 紹介しておきます。反論を待ちたいと思う意味でも。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 『国境の南 太陽の西』。わたしは この作品で作者は 主人公なる語り手をして ほとんど作者自身が現実に語るのと同じように 語らしめるようになったとまづ思った。
 《現実に語る》というのは たとえば作者が 対談者を前にして会談で自らの考えを述べる如くという意味あいである。ただし 《作者》といっても 人間としての村上春樹と作家としてのかれとが考えられるから ここではなお 後者なのだとは思われる。

 いづれにしても 初めからの主人公の系譜は続いている。この作品では 主人公の《わたし探し》の巡礼の旅が ある種の仕方で 落ち着きを見出した。すでに以前の作品でも部分的には シンライ原則という現実に立とうとするかに思われたが この《国境の南 太陽の西》なる霊場(?)(どこだ?)に来て その姿は ほとんど一つの作品の全体にわたって 拡がりをも持ちつつ 安定した様子を見せた。
 そんなシンライ関係の具体的な相手は やはりとりわけ妻の有紀子である。

 もしそうではなく 単純に 風の歌をめぐる旅に出て シンライ原則の問題で発展途上にありつづけたという見方に限定しつづけるなら この作品では 一つの到着点に大きく近づいたのだという段階である。けれども 出発点が 時間過程にあって常なる動態であるなら 主人公は 自らの出発点に立ったと言ってよいと思う。

 既に結婚して仕事をこなし家庭を持っている主人公にとって 幼馴染みの島本さんに出会うことは 確かになお これまでの旅にかかわる精神分析のことがらにからんだ問題が 残っていたことを物語る。この島本さんとのかかわりで 自己に重大な欠落感が残っていたとするなら それは 相手のほうではなく むしろ全く逆に自らのほうにである。

 ただし この島本さんと主人公との関係で 一方的に主人公のほうに欠落感があり これに促され 促されるままに ついにその実際上の関係に走った とは思わない。それは 二人の間の問題だと言ったほうが よい。
 だが 作者はここで主人公を すでに基本的に 動態としてのシンライ関係を妻との間にきづいて来ている情況に置いている。その夫婦としても家族や身内としても 《幸せである》と繰り返し語っている。ということは 主人公じしんの《欠落感》やあるいは一般に人間そのもののたとえば《無意識》や《井戸=イド》などという問題が どこまでもわれわれの生についてまわるという現実の一環であることを 示唆しているように思われてくる。

 いや ひょっとすると 作者は そのように無意識問題の重要さを主張したいと思っているのかもしれない。実際にそのような主題を追究しているのだとは推し測られる。そのためにも 少年時代に遡って 島本さん以外の女性との関係も 筋の展開にとっては克明にもと言えるほどに 報告したりしている。
 まさにシンライ関係を結果的には明らかに裏切ったことになるその相手であるイズミにかんしては 決して脇役とは思えないほどの位置が与えられているようである。このイズミ問題のほうが むしろ主人公やその夫婦にとって ついに埋めることの難しい深い《井戸》となっているとさえ考えられてくる。

 主人公は このような経験現実に立ち会っているのであり そこに《風》の問題が展開されている。だから 逆にいえば ここでは 段階と情況とが かなり新しい確かな基盤の上に立っていると言ってもいい。それは 『ダンス・ダンス・ダンス』の結末で ユミヨシさんと現実の共同生活を始めようとするに到ったことが 基礎となっているであろう。そしてそうとすれば 詰まるところ この作品ではやはり主人公の人間関係における出発点は 妻・有紀子とのシンライカンケイ〔の動態〕にあると見てよいであろう。もしくは そう見なければならないであろう。

補足日時:2009/06/14 15:22
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この回答へのお礼

 主人公は――ユミヨシさんを介して―― 妻・有紀子とともに 一たん新しい人となっている。従って この新たな出発点に立っては 現在や将来のことだけでなく 過去のことも 回想の中にではあるが 自らの経験現実として――主観真実の限りで―― 再形成されていくのである。取り返しのつかない不信の関係がその過去に見出されたとしても 語り手はは もはや無力感のもとにでも 自らの物語(歴史)を再形成していく。これが 風の歌の問題である。

 なおも執拗に発現する欠落感とその欲望は すでにここでは風の歌を聞いているかに思われる自らの新しい経験現実の中の一部分である。
 風の歌は じっさい 一個人の主観真実の域を出ない。それは大きく虚構をとおしてしか 表現されえない。あるいは まぼろしである。よくも悪くも そういうものである。

 有紀子(主人公の妻)は 島本さん事件のあと 主人公にこう問いかけている。

   《そしてあなたは何も尋ねようとしないのよ。》
   ・・・    
  有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。《私は思うんだけれど》
  と彼女は言った。《あなたは私に向かってまだ何も尋ねていない。》
    (『国境の南、太陽の西』 pp.289&291)

 風の歌の問題は もしシンライ関係にかかわるのならば それは 関係であって その過程なのだと思われる。話し合い 尋ねあわなければいけないというわけである。上の問いかけを承けて

   《明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど 君
  はそれについてどう思う?》と僕は尋ねた。
   《それがいいと思う》と有紀子はそっと微笑んで言った。
        (同上・承前)

 ユミヨシさんと生活を共にしていくといった経験現実の過程が 類型的に同じ形態として 島本さん事件を経つつ ここで有紀子との家庭生活となって 落ち着きを取り戻すと言ってよい。そのような再形成が描かれる。ただ《現実だ。ここにとどまる》と宣言するだけの踏み出しでいいわけである。風の主題は 全く単純である。

 物語は最後ではなおも不安が 顔をのぞかせている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/06/14 15:59

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