プロが教えるわが家の防犯対策術!

 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。
 けれども かれの小説をもし大事に読むとすれば それは 哲学の観点から言って 異常ではないでしょうか?
 ここで哲学の観点というのは 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題とするという意味です。
 ○ 村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。
 ○ 死の状態で面白可笑しく生きる。死んだようにして さまよいつつ生きる。大いなるもやもやの中に いつも いたい。――といった情況を描いているのみである。

 小説を材料とすると 主題が拡散しますから 今年にかれがおこなった例の《〈エルサレム賞〉受賞演説》を例にとります。
 ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 ・・・私の心の壁に刻まれているものなのです。

  「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
  私は常に卵側に立つ」ということです。

 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
 
 この暗喩が何を意味するのでしょうか? いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。
 そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
 
 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。
 私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここで
 ○ 卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を なぜ 見なくてよいのか。
 ○ そうだけれど 変えて行くと言いたいのなら そういう趣旨で 表現しなければいけない。
 ○ われわれは 卵であるのだから ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。

 より一層妥当性のある評価を問い求めます。ご見解を明らかにしておしえてください。

A 回答 (28件中21~28件)

参考程度の回答です。



私も良くはわからないんですが、村上さんの小説、実際は映画を観たのですが、その感じでいえば、「生と死の狭間」に逃げ込んだ人の心を描いてるように思いますね。
「生と死の狭間」といえば比較的に「現在と未来の間」というハンナアレントの哲学本もありますが、まったく違うものですよね。
「生と死の狭間」ということですが、生にこだわれば現代社会のシステム(市民社会)に囚われ、死に囚われれば死後の闇(これも壁ですね)に恐怖する。
そこで、生から逃げ死から逃げると生と死の狭間で生きることになりますね。
この生き方が卵じゃないですかね。
現実から逃げたいが、さりとて死にたくない。ことを含めて題材にすると「生と死の狭間」文学が出来上がりますね。
似て非なるものに宮崎アニメ(文学といってもいいですね。)がありますね。宮崎アニメは西洋的にいえばゴブリン(いたずら好きのあかるい妖怪)の世界ですね。これは妖怪の世界と人間の世界は明らかに区別されていますが、人気ありますね。同じように暗い妖怪の世界を描いた漫画も人気がありますね。
妖怪と人間ではなく卵の人間が「生と死の狭間」を生きるということかなと思います。
ヨーロッパでは、黒魔術の流れがありますから、魔女や魔術師の世界は好かれるのですね。イギリスではウイッチ本は大人気ですね。かれらも現実と魔女の世界を行き来するのですね。
日本も漫画やアニメを基礎として生と死を行き来するなんとも不可思議な世界がもてはやされるようになったのかなと思う次第ですね。
こういう考えや思想は、現実のシステムに入り込んで努力しよう、良くしようという前向きな思想ではないですね。
それ故、卵を割って現実のシステムに立ち向かうという実践哲学とは相容れないもののように思います。

この回答への補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 ○ 卵は割らなきゃオムレツは出来ない。
 ☆ と言ったりしますが これぢゃ効きませんね。
 ★ それ故、卵を割って現実のシステムに立ち向かうという実践哲学とは相容れないもののように思います。
 ☆ という結論をお聞きして まづは どうしたものかと思いました。
 
 ★ 映画を観たのですが
 ☆ これは 昔の知識のままで言えば 『風の歌を聴け』の映画版でしたか? これを見たのですが なんとも捉えどころのない内容だったのを覚えています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・生にこだわれば現代社会のシステム(市民社会)に囚われ、死に囚われれば死後の闇(これも壁ですね)に恐怖する。
そこで、生から逃げ死から逃げると生と死の狭間で生きることになりますね。
 この生き方が卵じゃないですかね。
 現実から逃げたいが、さりとて死にたくない。ことを含めて題材にすると「生と死の狭間」文学が出来上がりますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合 《死を受け容れよ。その死の観念をも包みこんだ大いなるもやもやの中で生きよ》というふうに受けとめたのですが 重なっていますでしょうか?

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 死にかんしては 初めの『風の歌を聴け』から出ているが たとえば『ノルウェイの森』では わざわざ目立つかたちで こう書かれていた。

   死は生の対極としてではなく その一部として存在している。
     
   言葉にしてしまうと平凡だが そのときの僕はそれを言葉にしてでは
  なく ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。
     (『ノルウェイの森』〈上〉=文庫版 p.48)

 この死にかんする命題は 西欧では歴史的な伝統の一つで よく知られていると 解説にも触れられている。 ただし 《汝自身を知れ》や《メメント・モリ》にしても それらは人間存在が有限な時間過程にあるという重要な内容を指し示すと思われるけれど 一般論であることを免れない部分を有しているのであろう。ここでは 引用をつづける。

   ・・・文鎮の中にも ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボー
  ルの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみ
  たいに肺の中に吸いこみながら生きていたのだ。

   そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在
  として捉えていた。つまり 《死はいつか確実に我々をその手に捉える。
  しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで 我々は死に捉えられる
  ことはないのだ》と。それは僕には至極まともで論理的な考え方である
  ように思えた。生はこちら側にあり 死は向う側にある。僕はこちら側
  にいて向う側にはいない。

   しかしキズキの死んだ夜を境にして 僕にはもうそんな風に単純に死
  を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極
  存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれてい
  るのだし その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるもので
  はないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は そのとき同
  時に僕を捉えてもいたからだ。

   僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っ
  ていた。
      (『ノルウェイの森〈上〉』承前 )

 親友の《キズキを捉えた死は そのとき同時に僕を捉えてもいた》というのは その歳でのわれわれにとって 何の嘘でもなければ誇張でもないと思われる。しかも 《風》の物語としてなら――つまり《風の歌を聴け》と言うのなら―― この表現のままでは まづいとわたしには思われる。

 それは まづはかんたんに言って ただの心理情況を言い表わしたにすぎないからだ。そしてそれ以上の内容と重みがあるというときにも いまの限り 人事(人為)としての経験事実の領域にすべておさまる問題のはづだからだ。経験事象の観察と実感としてなら 《死は生の一部である》と言っても いいわけである。しかも それだけのことだと言えると思う。

 これに対していささか図式的な理解を持ち出すとすれば それは 《ユミヨシさんとの朝》で およそ初めて主人公が《現実だ》と思った情況でこそ そして《羊男》にもかかわってこそ 死の主題が 自らの経験現実の中に捉えられるようになったということに まず もとづくと見なければならないようである。

補足日時:2009/06/14 10:55
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この回答へのお礼

 心理情況や日常の事態が落ち着いたところで その経験事態を超えるようにして 死の主題が 実感され腑に落ちることになったようなのである。けれども もっと単純に次のようにわたしなら表現したい。

   死と生とは別だ。
   死は死で 生が生だ。
   生は死に何のかかわりもない。
   死は死で死にかんする風が吹く。・・・

 これは 両者が《対極存在》であるかどうかの観点とはちがう。対極存在の捉え方は 経験思考と論理の問題であり 《風》はここにおさまらない。この理性におさまらない。たとえ風――つまり《息・息吹き》として 《聖霊》である――の想定をしなくとも 互いに対極であるかどうかは その論理思考を超えては わからない謎があるという意味である。従って その捉え方で決めつける必要がない。
 いま・ここなる経験現実にあって ユミヨシさんとの朝が朝であり それはやがて夕べとなりまた次の朝を迎える。こういった時間過程に足をつけるのだと言ったとき 生が生となり 死はもはやその生とは関係のない死となったのだと捉えたい。そのときには 《空気のかたまり》は 削ぎ落としている。

 すべて 非現実(非思考・非対象)のことは 風に任せた。このとき 生は 確かに考えてみれば 有限なる時間過程なのであるから その生の限界としての死は 起こり来ると思われる。けれども そうだとしても またそうであるからには そのような死は死で 言うとすれば 死のほうでの風が吹くことになる。
 同じ風であるはずだが 同じであるなら余計に われわれは――つまりここでユミヨシさんと主人公とはそれぞれ―― その風のもとに 生きている。生きていることを見出している。死は 別の話だとなる。

 《生は風の一部である。そしてもしお望みなら 死のことも風の一部である》とならなければおかしい。お望みでなければ 死は われわれにとって どうでもよい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/06/14 11:59

オコリザルです。


私が数知れず表現した文学表現と何らかの混同をした上でお話しされることはないようにお願いします。(余計な心配ですけどね)
すでに表明していますが教養の膨らませ方を現実に由来しない手法が私の表現です。でも夢の話じゃなくて、すべての現象が愛で説明できることを証明するすべをあきらめてはいません。いまは頭ごなしに誰もかれもをいじめています。

よく考えてみれば、壁はあくまでもシステムであり、人の作り上げたものに衝突したとしても、ぶつかっても村上春樹という卵は実際には割れないでしょう。でもぶつかった痕跡があるかどうかは作風でわかるでしょうが、どう思われますか。

この点に、
>つまり あくまで文学の世界のこととして作品じたいが自覚しているのであるならば―― 大した問題にはならないと思います。社会現象にまでなるとすれば それに対するきちんとした見方を みなで形成しておくことは大切なことだと考えます。
この見解とからめば面白いんですが、要するに村上春樹の世界と言う美しいドグマ(迷路)に誰もが陶酔しているという話であれば、それは「日本人は死んでいるのか」のような国民性の話でなく、海外で賞を取ってる実績の通り人類共通の恥でしょう。
村上春樹さんが意図してそのような罠を張ったのであれば素晴らしいうそつきです。

ノーベル賞は別のどうのこうの言うつもりはありません。私には別の誉れがあります。

この回答への補足

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 よく考えてみれば、壁はあくまでもシステムであり、人の作り上げたものに衝突したとしても、ぶつかっても村上春樹という卵は実際には割れないでしょう。
 でもぶつかった痕跡があるかどうかは作風でわかるでしょうが、どう思われますか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん この作家のことを分析するとすれば このあたりが問題になるのでしょうね。
 わたしの印象ですが 村上春樹という人は おそらく自分のことは何も語らない人間ではないかと考えます。個人的なことを誰か人に伝えようという気が起こらないのでしょうか。連れ合いにだけは話しているというような感じです。
 むろん たとえばギリシャの島に 充電を兼ねてでしたか休暇をとって滞在したその日記のようなことを出版していたりしますが どうも――それ自体は おもしろいのですが―― それなどを読んでも あぁ この作家は こういう人間なんだと思うことは 少ないですね。
 ですから
 ★ 村上春樹もしくは作中の特に主人公が 壁にぶつかった痕跡があるか
 ☆ は――いまは記憶のみで語っていますが―― あまり明確ではないと思います。
 漠然と そして 乱暴に言ってしまえば 
 ○ わたしは人生が虚無だ。でも 物語を愛し 物語をつむぐことが 大好きだ。これをして生きていければ最高だ。
 ☆ という人間だと考えます。
 あるいは別様に考えて かれは 地下鉄サリン事件の被害者に取材したりしています。そして 臨床心理学者(ユング派で独自の療法ゆえ こういうらしい)の河合隼雄の思想に共鳴しているようで(ただし それは 振りかも知れませんが) 要するに きわめて曖昧な心理の世界が好きなようです。そこに 癒やしでしょうか 自己治療の方法を見ようとしているかに捉えられます。
 もう少し言えば それはかれから言わせれば深層心理と言うのでしょうけれど わたしから見れば 精神つまり心の表層におけるものであるのに・しかもあたかも魂の遍歴とでも思えるような物語を編む。というふうに思います。――たぶんそこでは 読者はじゅうにぶんに遊べるのだと考えられます。

 ★ 村上春樹さんが意図してそのような罠を張ったのであれば素晴らしいうそつきです。
 ☆ もちろん 《物語》は 意図して書いているのでしょう。それが《罠を張る》ことになるかどうかを かれが考えたか? たぶん 自分の読者を得ようとしてその目的のためだとしたら わなを張ったのだということでしょうね。ただ
 ★ 要するに村上春樹の世界と言う美しいドグマ(迷路)に誰もが陶酔しているという話
 ☆ の罠は張ったおぼえはないと言うでしょうね。

 そう言えば 以前に一度は――たぶん 十年くらい前でしたか―― 村上春樹批判が出たというのを新聞の文化欄の記事で〔だけですが〕見た記憶があります。登場人物の生活態度が軟弱だといった批判だったでしょうか。その後の経過や反響は聞かないですね。 
 わたしは 憎まれ口をたたくのが専門ですから言いますが ほかに よしもとばななを その当時として全作品について読んで これは これも おかしいと結論づけました。
 要するに わたしはもうだめだと言っているひとに向かって ばななは 至極簡単明瞭に・それはもちろん作品をとおして間接的にですが 死ねと言っています。引導を渡すということですね。
 春樹は そのまま現状維持で歩みなさいという声を伝えています。その今の《もやもや》をどんどん拡張し増殖し その繭もしくは天幕の中に入って 過ごしなさいと。その手段として わたしの小説を使いなさいと。

補足日時:2009/06/12 10:51
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ぽこぺろぽです。

補足質問をいただきありがとうございます。

 村上読者は、おそらく村上が描く、虚無に通じる感覚を味わったことがある、自己の精神が正常であるかを、懐疑しているのでしょう。それを作品中の主人公に認めたことにより、作品を楽しみつつも、自身の正気を確認し、平穏な日常に戻れるのかもしれません。そうでなければ、村上現象は社会の衰退を意味しますから、広義の《甘え》が人気の原動力とはいえず、この点は考察が浅すぎました。

 村上は主人公に、自己の《死》を描きますが、自己が死ぬまでの過程や、死の苦しみや、再生への試行も描いていません。ただ、死んだまま生きながらえている主人公がいて、知覚だけがかろうじて残されている状態です。このことは、人間や社会の問題を扱っておらず、マスターベーションのような自己満足を得ようともせず、無気力に疑問すら投げかけない、デカダンとも少し違った、無脊椎動物のようなジメジメ感があります。これは一体なんでしょうか?

 そういえば、理論さんが、割れやすい卵に対する『壁』を、〈父なる神〉に例えておられました。そういう見方もあるのかと目から鱗でした。その《三位一体》について、私も考えを改めましたので、拙問のご回答番号6の補足質問欄をお読みください。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 小説になると具体的な論評が必要でしょうし ただ記憶を頼りに述べてもいけないと思い 文章を皆さんに対しても掲げておこうと思いました。
 話題作『ノルウェイの森』を取り上げます。

 (1) 空虚なる信頼関係がまったくの虚無のみなのではないという経験現実 少なくともそれを問い求めつづけるという位置に 主人公は 立っている。あるいは その位置でさまよっている。そのように物語がつづき そこから新たな出発が始められる。
 従ってちなみに ここでの《森》は 前著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で扱われた壁の中の街にある森とは 別であろう。後者は――つまりそこでの全体としての想像上の実験は―― ご破算となっている。

 (2) 主人公である語り手は ただし すでにおよそ二十年後の時にある。二十年前の自分をめぐる世界を回想しつつ 《風》のかかわる出発点 それとしての人間関係を 模索する。あるいは まだすべて受動的な姿勢にあるから 成り行き任せの如くそして回顧の中で発展途上の過程を再形成するかの如く 自らの経験現実の流れに立ち会っていく。
 二十年の時の隔たりは それにもかかわらず 人間関係にかんして なおここでそう言ってよければ 試行錯誤を歩んでいることを示そうとしている。積極的な結論は 出されていない。少なくとも 二十年前から生き残っている人びととの関係が 二十年後の今と 必ずしもつながれていない。
 ほとんどの人びとは死者となったから当然のようであるが 中で どこかで暮らしているはずの《小林緑》が今どうしているかも わからないし 死者たちについても その理解が もう一つ明らかなかたちでは 示されない。
 あらかじめ言うとすれば 二十年後にしてこのようであるなら 初期作品からのシンライ原則が この作品では 一歩後退したかの感も否めないように思われる。

 (3) 少年時代からの親友《キズキ》も 語り手にとって 《風》のかかわる信頼関係のもとにあるのではなかったと言おうとしている。親友にしてそうだというのであろう。
 ある種の仕方でむしろ自らに固有の出発点ではないかと疑われた《永沢》との関係も 語り手にとって 実際に初めからそう思われていたように 風の問題として長く続くものではなかった。なのに 永沢として《永》の字が入っているのは 信頼関係の空虚さが 自らのことでもあると捉えられたこと その自らの空虚(欠落感)がつねに虚無と接しつづけていること これを示したものだと考えられる。
 ここでは 全般的に 物語は 発展途上にある。

 (4) それはまた すでに別れを見たと思われていた《鼠》ないし《影》との関係が なおここで 親友キズキとの関係に――そのキズキの死後も―― どこかに 一面では正当にも そして消極的にだが 続いていることの自覚に通じているのではないか。これは 一面では正当にもである。
 『羊をめぐる冒険』におけるあの星印をつけた羊が人に入り込むという観念の王国 という観念 これとは もはや遠く隔たっているけれども なおその経験現実において むしろ風のそよぎのもとに このこと(すなわち 観念をめぐる志)を執拗にとらえつづけている結果であるように思われる。
 もっとも キズキ自身にかんしては 思想の上でそんなに重きを置かれていないかも知れない。かれのばあい かれは主人公に対して親しい関係にある自分として見せる以外の自分を 見せようとしなかったと書かれている。
 これは 演技原則でもなく 出発点の《わたし》がつまり自分が 自らの意志によって分割されていて そうとすれば これを使い分けするということであろうか。考えられないことである。ありえないことである。人間以前の状態にある人間である。

 (5) キズキの恋人だった《直子》 永沢の恋人だった《ハツミ》 あるいは一種謎の人物・小林緑 これらの女たちも――結論から言って―― キズキが去っていくことになるのと同じように 一方で 青年にとって信頼の感覚が持たれ合われたというかたちで信頼関係に立ちつつ(つまり 立ったと何となく感じられつつ) 他方で 後からの回想のもとにでも 風のかかわる出発点を形づくらなかったと見ている。
 一言でいえば 再び 『風の歌を聴け 』の中の空虚感に 戻ったと考えられる。
 ただし 局面は新しくなっていた。新しい段階に立ったゆえ あらためてそのような欠落感の織りなす実際の歴史が たどられていったとも考えられる。

補足日時:2009/06/11 23:41
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この回答へのお礼

 (6) 具体的に 直子にかんしては 結果論としてでも そのように空虚そのものとして実際にも語られている。事実経過としては むしろかのじょの意向をすべて受け容れ かのじょその人を丸ごと引き受けた恰好なのであるが その主人公は それゆえにこそより一層 欠落感が増すというものである。
 かのじょとの関係は そこでの主人公の振る舞いとともに ひとまずは 突き放して捉えざるをえないのではないか。つまり作品じたいが そのことを 要請しつつ 物語るのではないだろうか。

 (7) 具体的に。あの『1973年のピンボール 』で主人公が《愛していた》同名の直子と同じような人物であるのかどうか。『ピンボール』のほうは 叙述が少ない。
 この『ノルウェイ』のほうの直子の場合も 主人公がかのじょに《恋をしていた》ぶんだけ かのじょとの間に風の物語にかかわって希望を抱いていた。姿勢が受け身だからでもあるが――あるいは もっと詳しくは 小説じたいの成り立ちから言って 主人公は単なるものさしの眼(= private eye )としてのようにのみ 存在しているからであろうが―― 愚直というほどに かのじょの存在を受け容れていたし 引き受けようとしていた。
 シンライ原則にかかわると見えつつ 二人のあいだの関係においては それ(受け容れ・引き受け)が 相手に届かなかった。けれども のちになって直子を理解したというその内容は 明言されたこととしてなら 《直子が僕を愛してさえいなかった》(〈第一章〉)ことだけである。
 たとえば その恋心や親身になって注ごうとする愛情のことを別としてよければ 主人公が直子に 《肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ》とある種の助言を与えたとき 直子からは 《どうしてそんなこと言うの?》と むしろ突き返されることになる。このとき もし実際にも直子の言うとおり 《肩の力を抜けば体が軽くなることくらい》は かのじょに分かっていて しかも《もし今肩の力を抜いたら 私バラバラになっちゃうのよ》というのであれば 主人公はこれに対して 《バラバラになっちゃっても そうしたほうがいいのではないか》とすら 返すべきであったと思われる。このとき《僕は黙っていた》ことはなしにして 仮りにそのばあい薬の補助や医師の介助が必要であるなら それに頼ってよいはずである。主人公も 看護の手を差し伸べるはずである。・・・

お礼日時:2009/06/11 23:46

ぽこぺろぽです。

最初にお断りしなくてはならないのは、私は村上作品を知人の薦めにより、『風の歌を聴け』、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』の4作品と、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『グレート・ギャツビー』の2訳書しか読んでいないということです。いずれも読了しましたから、さして難解とはいえず、さりとてまったくつまらないとも思っていません。しかし、彼が何を求めているかは、正直なところ理解に苦しみました。

 その主人公は、『僕』という一人称で書かれたものばかりで、彼自身が一人称でしか書けないと言い切り、それを課題にしつつも解消されていないことは、ノーベル文学賞受賞が噂される作家としては、いささか奇異に感じます。つまり、彼は作品中にも、主人公を客観的に捉える形態を取れずにいるのです。

 割れやすい卵とは、彼自身の内面の繊細さ、割り切れなさを言い表しているにすぎず、その主観は人間本性のごく一部にすぎません。主人公は他者に共感をしても、目的を共有したり、生産活動に励むこともありません。社会との断絶や、孤立感、虚無感、自己同一性の錯綜を描くだけで、社会集団が必要とするであろう、価値命題を模索すらしていません。そんな自己を嫌悪するどころか、モラトリアムを礼賛すらしているようです。

 われわれが割れやすい卵であるならば、割れない方法を探究すべきですし、他の卵を割らない細心の注意を払うべきです。しかし、彼は卵が割れる原因の片方である、硬い壁ばかりに視点がいっており、卵の脆さや卵の積み方を示唆することはしていません。内面だけに注意を向けるのなら、プルーストがとっくの昔にしていますので、外向性をほとんど描かずに、ストーリーを構築する彼の姿勢は、自己憐憫さえ感じます。

 村上人気が沸騰する日本社会は、他者を観察するよりも、自己に注意を向けてほしいと欲する、意識的共同体を形成しつつあるのではないでしょうか。これが公に認められるのは、人間の克己心を軽視し、生産を伴わない無個性人間の欠陥を、思索しているなら無批判に受け入れよと言っているも同然です。

この回答への補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  村上人気が沸騰する日本社会は、他者を観察するよりも、自己に注意を向けてほしいと欲する、意識的共同体を形成しつつあるのではないでしょうか。これが公に認められるのは、人間の克己心を軽視し、生産を伴わない無個性人間の欠陥を、思索しているなら無批判に受け入れよと言っているも同然です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すでに次の一手に関することがらを見とおしてのご発言ですね。
 いまのところわたしは微妙に違うのです。
 ★ 村上人気が沸騰する日本社会は、〔* もしくは 或る程度において 世界は 何らかのかたちで もやもやっとしたとでも形容すべき〕意識的共同体を形成しつつあるのではないでしょうか
 ☆ と見るところで軌を一にするのですが その中身としましては
 ★ 他者を観察するよりも、自己に注意を向けてほしいと欲する、
 ☆ という広義の《甘え》の傾向とは違うように思ったりします。たぶんそのような幼稚な考えの場合には 村上作品は読まないのではないでしょうか? 読んでも すぐほっぽり出すのではないか。自分にとっての指針を見出せないでしょうし したがって泡をつかむように感じるのではないでしょうか? (いま そういう考えでいます)。
 もしそうであれば こう考えました。
 ○ 村上の読者は 勤勉な市民である。ただし いろんな意味でそれぞれがさまざまに《壁》にぶつかっている。
 ○ そのための癒やしとしては それこそ《弁証法的解決》などなくてもよい。ただただ 大いなるもやもやの中で 積極的なもやもやワールドの展開を楽しみたい。
 ○ この偉大な繭を与えられ自分のものにもすれば 持ち前の勤勉をさらにわたしは発揮して きょうも頑張ろう。
 ☆ といった風に捉えました。

 ちょっと対立しましたが 率直に申し述べました。

 ★ つまり、彼は作品中にも、主人公を客観的に捉える形態を取れずにいるのです。
 ☆ なるほどそういう見方もあると 月並みな言い方ですが 思いました。たぶん わたしは それゆえに――つまり 形式としてでもいわゆる《わたくし小説》の系譜であることによって―― むしろ読者に直接に迫るものがあるとは 振り返って思えば 思いました。どちらもありでしょうね。

 ★ 主人公は他者に共感をしても、目的を共有したり、生産活動に励むこともありません。
 ☆ この《共感》も少ないわけですが このようであるみたいです。ただし
 ★  割れやすい卵とは、彼自身の内面の繊細さ、割り切れなさを言い表しているにすぎず
 ☆ につきましては 二つの点で 異見を持ちました。一つは すでに主人公としては 虚無がその心を支配している。弱い部類に属す《卵》だとは言っていても もはや《割れやすい》とも何とも言えない無感動であるように思います。もしくは《内面》を失くした状態にあるのではないか。――そしてこれが 現代人の心理をつかむのではないか。
 二つには ニヒルな眠狂四郎ではありませんが――つまり 何かに秀でたというわけのものでもありませんが―― 弱い卵でありつつ むしろ割れないところに 人びとは惹かれるものがあるのではないか。それは 内面が無いことからであっても構わないのだと。
 そうして 次のご指摘には 同意いたしました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 社会との断絶や、孤立感、虚無感、自己同一性の錯綜を描くだけで、社会集団が必要とするであろう、価値命題を模索すらしていません。そんな自己を嫌悪するどころか、モラトリアムを礼賛すらしているようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 次のご指摘に 上に触れた異見を持ちつつも 共感するのは たぶん この《内面を失くした割れない卵》が けっきょくは いつか過去に割れてしまったのであろうから その過去のいきさつを明らかにすればいいであろうのに それをしないところを感じるからでしょうか?
 ★ われわれが割れやすい卵であるならば、割れない方法を探究すべきですし、他の卵を割らない細心の注意を払うべきです。
 ☆ 作品は 時には めでたしめでたしのハッピーエンドもあったかと思いますが 基調として 解決策もなく解決を求めているかどうかもはっきりしないまま ずるずると話がつづくという風ですから やはり解決ないし《おわり》は ないとでも言っているのでしょうか? その姿勢が受けているのでしょうか?

 そうですね。にわかに記憶を引きつり出して書きましたので勘違いなどがあるかも知れません。とお断りしつつ。

補足日時:2009/06/11 11:30
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オコリザルです。


A2は論議のとっかかりを増やすためにあえて補足要求としました。
その点で一つ修正です。
>儲かってるんならいいじゃないですか。と、善人なら納得するでしょうね。
これを
私の考える存在善性の基づいた知解ではあくまでも「儲かってるんならいいじゃないですか」と「よし」とします。
このように修正します。
欲が働くのならこの儲けは悪となるでしょう。
お金に冷静な人は少ないので慎重を期して修正です。
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 ★★ (No.2) ちなみに私は前にお話ししましたが地雷撲滅キャンペーンがノーベル賞を受賞する過程に立ち会っています。
 ☆ その後どうなりましたか? もう決まったのでしたか?

 村上春樹は おもしろいのですよ。めっちゃ面白いです。物語としてです。作り話で これほど興味深くつむげるかというほど おもしろいものです。
 玉ねぎの皮を剥いていって そこに何も残らなかったとしても あぁ面白かったというひとときは 保証されています。また この玉ねぎのたとえは 昔から日本人の好みのたとえのようで 自分じしんが 玉ねぎだというような言い方もしますね。
 そして むしろそのように芯など何もないと知ったというほうが 健全と言いますか 無難なんでしょうね。皮をむいて考えるというコギトないし理性なら いいでしょうけれど その芯にこのコギトを見出したと言われてしまうと そのような人間の高ぶりは困りものです。ですから ハルキ・ワールドは その意味でも 健全にしてたのしい時間なんだと推し測られます。
 
 そうして もうこれだけに終わってしまえば――つまり あくまで文学の世界のこととして作品じたいが自覚しているのであるならば―― 大した問題にはならないと思います。社会現象にまでなるとすれば それに対するきちんとした見方を みなで形成しておくことは大切なことだと考えます。
 さて いかにあい成りますことやら。

お礼日時:2009/06/11 10:45

「村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。

」と述べられていますが、私は逆に感じています。
多くの人が「わたし」≡わたしの中の《卵》の部分が何らかの形で表され、戦っている(もがいている、葛藤している)状況が書かれている、と感じているのではないでしょうか?
いつもはわたし自身が抑圧している(と私は感じます)「わたし」と小説の中で戦っている「わたし」が重なって、ご指摘のとおり、壁=わたしであり、同時に現実世界でも壁=わたしであること、そして、わたしには「わたし」が欠かせないことを強く認識します。
ゆえに、《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題にするためには、「わたし」≡わたしの中の《卵》が必要であると思います。
ここでいう必要という意味は「わたし」≡わたしの中の《卵》を無視した《わたしが生き わたしたちが共に生きる》ことは無意味であるというこです。

質問者様はそれは文学で哲学ではないとおっしゃるかもしれませんが、たぶんそれは、(村上春樹の小説を読む人にとって)意味のない哲学です。

感想ですが、質問者様は「哲学」が人間を高め、私たちが高まるためには、自分たちの弱さを許容することは「哲学的ではない」という、「思い」を持っていらっしゃるように感じます。でも私は、「哲学」は『かくされた悪を注意深くこばむ』ために「かくされた悪」を見出すこと、見つける目を持つことだと思っています。

質問者様の「哲学的な観点」からどうかという質問だったので、なんか村上春樹信者ぽい回答になっていますが、特にそういうわけではありません。
ちなみに「1Q84」は確かにブーム的な売れ方だと思っています。

この回答への補足

moumougoo さん ご回答をありがとうございます。

 まづ 
 ★ 「村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。」と述べられていますが、私は逆に感じています。
 ○ を受けて わたしのこの評言を少しでも肉付けするための文章を 直前の回答への補足欄に補いましたので ご覧ください。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 多くの人が「わたし」≡わたしの中の《卵》の部分が何らかの形で表され、戦っている(もがいている、葛藤している)状況が書かれている、と感じているのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらくそういう実情にあると思いますよ。
 ★ わたしの中の《卵》の部分
 ☆ というよりも すでに全体として――わたしなる存在の人格を含めた全体として―― いまは《卵》だと言っていると思います。つまり
 ★ わたし自身が抑圧している(と私は感じます)「わたし」と小説の中で戦っている「わたし」が重なって
 ☆ というよりは こうだと考えます。つまり
 ○ 自己を世界の歩みにつなげようとして駆動させたり抑圧したりする自分も そのとき一般に社会的に弱い立場である自分を精一杯はたらかせ続ける(つまり その意味で戦っている)自分も すべてをひっくるめて 《たまご》だとでも言うほかない全体としての《わたし》
 ☆ だと思いますよ。
 それほど 複雑怪奇ではないでしょう。

 しかも moumougoo さんは それだけに留まらず この主体ないし主観である《わたし》をさらに 社会という場にもおそらく外延として(もしくは 内包としてでしょうか) 開き伸びている存在として捉えていらっしゃる。いわく。
 ★ ご指摘のとおり、壁=わたしであり、同時に現実世界でも壁=わたしであること、そして、わたしには「わたし」が欠かせないことを強く認識します。
 ☆ 《ご指摘のとおり》というのは わたしは 《卵であるわたしたちが 壁をつくっている》という表現で言ったのですが たしかに考えてみれば わたしも この《壁=社会=システム》は 《卵であるわたしが 内包している》と捉えているかも知れません。
 ですから ここまで――《卵であるわたし》の把握に関して―― ほぼ同じ見解のようです。

 そこで moumougoo さんは この《わたし》の自同律という見方――つまりは 《〈わたし〉の自乗》理論――を提出しておられます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ゆえに、《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題にするためには、「わたし」≡わたしの中の《卵》が必要であると思います。
 ここでいう必要という意味は「わたし」≡わたしの中の《卵》を無視した《わたしが生き わたしたちが共に生きる》ことは無意味であるということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ さらには 自己批判気味に見直しつつも 自乗の自乗を主張されます。
 ★ 質問者様はそれは文学で哲学ではないとおっしゃるかもしれませんが、たぶんそれは、(村上春樹の小説を読む人にとって)意味のない哲学です。
 ☆ でもね――あれっ ちょっと文体が変わりました―― 思い出してみてください。
 ○ 《卵であるわたし》は 卵でありつつ 壁を含む社会システムでもある。
 ☆ のですよ。《わたし》の《冪》をつくるときには 壁は置いてけぼりなのでしょうか? ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 感想ですが、質問者様は「哲学」が人間を高め、私たちが高まるためには、自分たちの弱さを許容することは「哲学的ではない」という、「思い」を持っていらっしゃるように感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ については 
 ★ (α) 自分たちの弱さを許容すること
 ☆ と(β) 《か弱い卵であるわたしたちがつくった〈壁〉を その〈わたしの内包するもの〉から取り除いて いわば自分に縮こまること》とは 別だと申し上げているはづです。どうでしょう?
 それでこそ
 ★ でも私は、「哲学」は『かくされた悪を注意深くこばむ』ために「かくされた悪」を見出すこと、見つける目を持つことだと思っています。
 ☆ このことが 実現されていくのではないでしょうか?


 ★ ちなみに「1Q84」は確かにブーム的な売れ方だと思っています。
 ☆ ゆくゆく 世界が村上春樹を歓迎することになるならば 世界の日本人化が起きる――あるいは すでに起きている――のでしょうか?

補足日時:2009/06/11 10:25
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○ 卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を なぜ 見なくてよいのか。


具体的にシステムと表現した壁は所詮人の作り上げたもんだ。という話ですね。
文学者はただ美しいと評価されれればいいんで考慮しなくてもいいんでしょう。
 ○ そうだけれど 変えて行くと言いたいのなら そういう趣旨で 表現しなければいけない。
ノーベル賞受賞者とは違うんでそんな責任感は育ちようがありません。
ちなみに私は前にお話ししましたが地雷撲滅キャンペーンがノーベル賞を受賞する過程に立ち会っています。
 ○ われわれは 卵であるのだから ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。
村上春樹は割れない卵です。
ぶつかっていないから割れないのでしょう。
うそつきはとことんウソを付くのだと思いましょう。
儲かってるんならいいじゃないですか。と、善人なら納得するでしょうね。

この回答への補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。物言いを言っていただきましたので 何とかよい方面を見ておきましょうか。
 実際わたしは――ひょんなところから当時の全作品を読む仕儀になったのですが―― はじめ好意的に捉えていました。そのあたりの事情を述べておきます。公平――という言い方も 哲学にはおかしいですが――を期したいのは 誰でも同じでしょうから。

 処女作の『風の歌を聴け』は なんとも謎だったのですが たとえば具体的に 《志》のことを書きたいのかとは思ったものです。この問題について 以下 独り言のごとく述べます。

 (1) いやいや いくら何でも この見方は単純にすぎる。具体的な人物にとっての特定の志は あるいは登場人物の一人である《鼠》とよばれる男には当てはまるかも知れない。だが かれとて 一定の世界観については それを問い求める志が薄れている。もはや崩れたところから出発しようとしている。

 それでは 志の空虚をめぐる何らかの志 と言ってみれば どうか。語り手たる主人公は 空虚となった志を 問い尋ねようとしているだろうか。いやいや 虚ろな人間関係を 《ものさし》で測ろうとしている。
 けれども ものさしによる測定にかんしてなら かれに意志があるのだろうか。いやいや かれに志はもはや 欠けている。
 とはいっても この欠落した志は いま自らの物語をつづろうとしている。空虚なる語り手は ものさしなる眼(作品には《private eye 》とある)としては 存在していて これが 時間過程に沿って 生きていこうとしていると言うべきだろうか。

 (2) それゆえ かれの語り終えた小説の全体としては 一方で 個々の登場人物の具体的な志にかんして全く空虚であり 他方で それでもその一つの世界をどこともなく《風》が吹き流れるかに思われると言うべきであろうか。
 それとも そのような風の歌は どこにも聞こえないと言うべきだろうか。そしてそんな・敢えて曖昧にとらえた含みをもった上でなら それでも《風の物語》と仮定するのも 必ずしも安易な楽観ではないと言えるだろうか。

 (3) もし言えるとすれば それは 《象》が示唆している。

    その時 象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語りはじめる
   だろう。(§1)

 《ノートのまん中に1本の線を引き 左側にその間に得たものを書き出し 右側に失ったものを書いた》その《ただのリスト》(§1)にすぎない文章の中に 上のようなことを書きつけるのだから。《その時》というのは 《うまくいけばずっと先に何年か何十年か先に 救済された自分を発見することができるかもしれない》(§1)時だというのだから。

 それにしても 《結局のところ文章を書くことは・・・自己療養へのささやかな試み〔にしか過ぎない〕》(§1)と主張するのは 志であるだろうか ないだろうか。

 (4) 要するに――単純な論点をめぐって くどくどと言っているのだが―― もしも作品の冒頭に掲げられた一文を 仮りに《完璧な文章が存在しないように 完璧な絶望も存在しない》と読み替えてよいものならば 語り手の志あるいは作者のものを書こうという意志は 大雑把に言って空虚であるけれども 完全な虚無なのではないと われわれは受け取ってみなければならないであろう。この一つの想定でわれわれも出発する。

 (5) このように船出して行って 六・七編の長編小説を読み継いでいくと 『ねじまき鳥クロニクル』の第一部二部まで初めの《謎》が続いた。そしてそのあと この第三部に到って――謎ははじけた。失望であった。
 《出発点》の《わたし》は もはや 置いて行かれてしまった。この《わたし》は 主人公をはじめとする登場人物の一人ひとりであるだろうし 読者でもあろうし また 物語をつづる作家でもあろうし さらには 村上春樹その人でもあるはづだ。
 《わたし》なる村上春樹本人は 物語の人物の中に移入していく作者に従属してしまった。《なぞ》の追究が途絶えた。途端 すべての人物も人間も動かなくなった。こう結論づけた。

補足日時:2009/06/11 09:43
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小説家としての信念の違いでもってそれを支持する多くの読者を異常って言うのは変じゃないかな。

村上春樹現象って彼自身じゃなくて読者がおこしてるものなんですから。村上春樹の信念を認めないからそれに共感する多くの読者も認めないってことでしょうか?

僕が小説を読む一番の理由はあらゆる表現方法の中でもっとも認識を得る事が容易いことだと思います。(毎日こんなことを考えながら読んでるわけではありません。言葉として表現するってことならです)
「認識のないところに存在無し」ってのが僕の中にあって、言葉は認識を導くのに一番素敵な材料って思ってます。
遅めの朝食と早めの昼飯で自称が一緒でも言葉=認識だけで朝食か昼食か変化するみたいな。
で、僕が村上春樹さんを好きな理由の中にはあの独特の文章ってのがあるんですけどね。

そんな訳で僕が評価する小説って小説家にとってこうあるべきだってものじゃなくって僕にとっていいものであればいいんじゃないかと。
小説家が信じる信念はイコール読者にとっての信念ではないでしょう。

村上春樹さんの作品は僕は好きですよ。世界の終わりとハードボイルドワンダーランドなんか今でも一番好きな小説です。やっぱり不完全な人間が主人公で、喪失感のある世界観の作品ですけどね。
反面、最近読んだ彼の作品は微妙な感じです。これは僕が変ってきてるのか彼が変ってきてるのかよくわからないですけど・・・

ってなわけで、僕の結論!!
小説家はこうあるべしって一定の方向性の作品だけよりも、多くの方向性を持った作家さんがその分野で自分の信念をこめて書いた作品をたくさん読みたいです。押し付けられるのではなく検証し、吟味できます。
僕ら読者はそういった小説家の相反する価値観から自分なりの新しい価値観を生み出していけますからね。

P.S 村上春樹現象はちょと行き過ぎ感がありますけどね(≧∀≦)

この回答への補足

 tappara さん ご回答をありがとうございます。

 全体としてまづは 文学と哲学とをきちんと分けて ここでの質問をおこなうべしというご見解を――つまりは 従って 前提としての問題を――明らかにしておられると受け取りました。
 
 ★ 小説家としての信念の違いでもってそれを支持する多くの読者を異常って言うのは変じゃないかな。
 ☆ ええ。ですから 《哲学の観点から》のみの問題です。
 ★ 村上春樹現象って彼自身じゃなくて読者がおこしてるものなんですから。
 ☆ だいたい そうでしょうね。ですからその《現象》についての質問です。
 ★ 村上春樹の信念を認めないからそれに共感する多くの読者も認めないってことでしょうか?
 ☆ ですから こうです。
 ○ 新作の売れ行きが異常なほどであるということは 一応それだけ人びとが読んでいます。読むにあたいする内容であるか 哲学の観点からは 疑問だという問いです。
 ○ 《信念》についても 文学やその他社会的な観点からではなく そうではなく 哲学的に言って 内容がないという物言いです。
 ○ そういう内容が行きわたることに対して 批判を示すことも ふつうの言論活動であるでしょう。そこまでは行きませんが その検証などをしたいので 情報交換という意味です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 僕が小説を読む一番の理由はあらゆる表現方法の中でもっとも認識を得る事が容易いことだと思います。・・・で、僕が村上春樹さんを好きな理由の中にはあの独特の文章ってのがあるんですけどね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ですから 《文学その他社会的な観点》の問題だと考えます。でも ここは 哲学カテゴリですから たしかにその観点からも ご回答を寄せてもらったとも思います。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・押し付けられるのではなく検証し、吟味できます。
 僕ら読者はそういった小説家の相反する価値観から自分なりの新しい価値観を生み出していけますからね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから この《検証・吟味》の結果を いまここで ご披露していただけばいいわけです。それを問い求めています。
 どうでしょう?

補足日時:2009/06/10 20:50
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