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私自身は哲学について素人です。

中央公論新社より
「哲学の歴史」という12巻組の本が
出版されていますが、
縁あって、その本が企画段階だった頃に
その説明をいただく機会がありました。
そのとき、私は哲学に歴史があるということに
おどろきを感じました。

哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に一からその人の中でまとめられるものだと
思っていたからです。

誰かがまとめたものを下敷きに
その考えを推し進めるということもあるとおもうのですが、
だとしたら、ある疑問の答えは
歴史をさかのぼれば、どこかで出ていることになります。

おそらく答えが出ているに違いない事を
わざわざ自分で考えるのも徒労に感じますが、
歴史を調べて答えを探す事は、
哲学ではないようにも思います。

哲学には、どうして歴史があるのでしょうか。

A 回答 (19件中1~10件)

哲学は思想、心理学、文学と同じです。


歴史と共にひとの哲学や思想も変化するということです。
逆にその時代の哲学でその時の歴史的背景がうかがわれます。
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この回答へのお礼

夏目漱石を読むと、
確かにその社会背景が今と違う部分がわかりやすいです。
しかし、描かれているテーマは
今と変わらない部分が多いように感じます。
人の根本的な感じ方や
考えるときの方法がそんなに大きく変わるものでしょうか。
歴史的背景を伺うと言う意味では
科学や美術のほうがわかりやすいとおもうのですが。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/26 20:46

哲学に歴史があるなんて、すっごいショックです。



誰それの名句だけを覚えて、それが哲学だと思っていたら大間違いなんですね。

哲学に歴史が必要な理由が、これではいまひとつ分かりませんね。僕も疑問です。
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この回答へのお礼

ごめんなさい。
ご回答の主旨がよくわかりませんでした。
質問に共感をいただいたと
素直に受け止めさせていただきます。

お礼日時:2009/07/26 20:49

歴史ですが、おっしゃるように、古い学説が段々進化したというよりも天才が現れてパラダイムの転換をしていったといえるでしょうね。

ただそれでも、古い哲学へのアンチテーゼとして新しい学説が生まれてくるという繰り返しの歴史はあります。

と同時に、おっしゃるように、パラダイムの転換の狭間で、まとめたものを下敷きにするタイプもあるのでしょう。
ただ、その場合、下敷きになる学説は実は完璧に正しいというよりもほぼ現状正しく思えるというレベルの仮説です。
それを完璧にするために研究をされているのだと思います。
まあ、先にはパラダイムの転換が待っていて、別の次元の正しさの競争になるのですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

生物学では、優れたものが生き残るという
ダーウィンの考え方がよく知られていますが、
そうすると、生物は最終的に1つの完璧な生物だけが
生き残るはずですね。私はそもそもその考え方が
疑問なのですけれども、その考え方にも
いずれパラダイムの転換があるということでしょうか。

科学に歴史があるのは、ご指摘いただいた内容と
全く同じ理由で、私にもわかります。
そもそも哲学は、正しい必要があるのでしょうか。

お礼日時:2009/07/26 21:15

私も哲学素人でプロでない証明に哲学を使って肩書きや対価を得ていな


いです。ただ好んで書き込むだけのアマチュア。

それで哲学に歴史があるのは、そこに先人の「人生」や「物事の見方」
の記述があって、他人の感じ方と主体とする自分の感じ方と同じなのか
どうかは同じ空間を共にしてても多分検証不可能で、他人の、それも思
考は感覚以上に実感から遠ざかってしまうので「過去の哲学者が如何に
してその方法を獲得するに至ったか?」を各人で考え推し進め、必要か
ら実践哲学を体得していくか。でもあるので。

>哲学は、それぞれの個人が考えることで

私にとっての哲学の必要性は、研究や真理探求というより、生活に欠か
せないものとしてあること。家事とかパートとか育児に役立てることが
出来るぐらで十分な、誰もがもっと哲学を身近に捕られたらいいのと思
っていて、哲学は難解な、高度な予備知識を必要とするものの逆説、コ
ペルニクス的転換?

>哲学に歴史があるということに
おどろきを感じました。

哲学は驚きが多いです!私も「こんな価値観の人が居る?」という
驚きが哲学の出発点です。師となってくれた人(平々凡々な隠者?)に
多大な影響を受けてしまって、そのようになりたいとのろのろ歩んでま
す。偉くならないだけの哲学ですから誰でもなれますが!?

この回答への補足

私が回答者様の指摘される誤解を
完璧でなくとも理解していて、
質問文が

>哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に、その人の生きられる時間の中で
まとめられるものだと思っていたからです。

と修正されていたとして、あらためて、
質問に対するご回答をお願いできないでしょうか。

補足日時:2009/07/26 22:08
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私にも、過去の哲学者の考えた内容を、
今自分の考えていることにあてはめて、
だんだん、その哲学者が考えていた事が
実感としてわかった感じがした経験があります。
ただ、その場合、
個々の哲学者の考え方が単独で並んでいればよく、
むしろ、あるテーマに対する様々な答えを
並列的に羅列してくれた方がありがたいのです。
その答えが時間とともに増えていくことを
歴史と呼ぶのなら、私にも納得できます。

お礼日時:2009/07/26 21:25

>哲学は、それぞれの個人が考えることで


それは、その時代に一からその人の中でまとめられるものだと
思っていたからです。

質問者さんは基本的なところで誤解しているようですね。質問者さんは「個人が考える」ことを何語で考えますか?多分日本語で考えていると思います。もしそうなら、そのことによって貴方は英語で考えている人とは全然違った世界を見ているのです。ところで、その日本語は貴方がその時代に一から作り上げたものではないですね。日本語には貴方が意識するとしないとに拘り無く、もうすでに多大な規則や暗黙の了解が組み込まれていますね。したがって、貴方の思索は貴方が気付かないうちに「日本語の進化の歴史」にすでに多大に影響されているのです。これは、「歴史」の役割のほんの一例に過ぎませんが、貴方の世界の見方は、常に過去の先人達の辿った道に多大に影響されているのです。ですから哲学的に物を考えるためは、自分の世界観の中でどの部分が自分の埋め込まれた文化に強く影響されているのか、どこが先人達の意見に影響されているのか、それに対してどこの部分が貴方自身の新しい創造の結果なのかを徹底的に分析し理解する必要があります。

その部分を理解しないで、果たして哲学をしていると言って良いものかどうか、あるいは、その部分を理解していないで哲学を論じることは、「カレー粉ぬきのカレーライス」を食べていることにならないかどうか、ご自分で哲学して下さい。

この回答への補足

(※上記No.4のmiko-deshi様の補足欄に誤って同様の内容を記入してしまいました。この補足はcyotoku様への補足です。申し訳ありません。)

あらためて、
私が回答者様の指摘される誤解を
完璧でなくとも理解していて、
質問文が

>哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に、その人の生きられる時間の中で
まとめられるものだと思っていたからです。

と修正されていたとして、今一度、
質問に対するご回答をお願いできないでしょうか。

補足日時:2009/07/26 22:19
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この回答へのお礼

数学の世界では、過去に証明されたり、
発見された内容が消えないために、
現代の数学者は
最先端の数学のテーマに取り組むまでに
お爺さんになってしまうそうですね。
時代が進めば進むほど、
数学者には歴史が重荷になる。

回答者様の「歴史」に関するご指摘は
そのとおりだと思います。
しかし、歴史に照らして、自分の考え方の真に新しい成果を
徹底的に検証したら、私はその検証の途中で死ぬでしょう。

お礼日時:2009/07/26 21:45

もちろん、歴史(思想史)の連続性は存在しない、という


スタンスを取った哲学者(ミシェル・フーコーら)も居ます。
歴史とは地層を調査する地質学のようなので、同じ現象に対する
考え方ですらその時代の世相によって異なるのですから、
別の解釈が出来上がることもあるかもしれません。
(もちろんこの考えも彼らの"個"に対する認識の上に成り立つものなのですが)


一方で、思想には連続性(つまり歴史)があるという立場を
とっている人も多いのです。





哲学とは何か、を考えたときに、多くの場合それは"問い"であると
言い換えることができるのではないでしょうか。事実、哲学者は
古代ギリシアの昔から、問いと、それに対する答えという方法
(問答法・弁証法)を重視しています。

他方、哲学というジャンルの特殊なところは、"前提を作る"学問
であるところなのです。1+1=2という前提があれば1+1+1>2という
解を導くことができるのですが、
前提そのものを問う哲学の答えは絶対的なものではなく、
同じ問いに対しても様々な解釈・考え方が生じます。


人間が群生物でなく、ひとつの自我を持った"個"だとすれば
まったく同じ知識・経験を持った人間というものは存在しません。
つまり、"最初の哲学者"が設定した問いに対して、多くの人が答えを
考えたときにそこには必ず違いが生じます。あるいは"最初の哲学者"の
考えの○○の部分は間違いであると指摘する人や、○○の部分の考えが
足りていないという指摘をする人も居る。
そうして相互に補完や否定を行うことで、思考はより醸成されていくのです。
これこそが、思考と哲学の歴史と言えるのではないでしょうか。




近代以降の哲学者の著作を見ていくと、その傾向はさらに顕著です。
ハイデガーから見たデカルト、カミュから見たデカルトというように
過去の哲学者への論評はすごく多いので、そういったものも見ていくと
より深い理解が得られるのではないかな?と思います。
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この回答へのお礼

私は、哲学には答えがある
という前提で考えていたので
その歴史に対して疑問を持ったわけですが、
哲学の歴史を問いかけの歴史と考えれば
そこに歴史があるのは当然のように思いました。

哲学には答えが無いというのは、
哲学の入門書にも書いてあります。
言葉としては読んでいましたが、
絵画に答えがないというのと同じ意味にとらえていました。

あらためて質問をし、回答をいただいたことで
その意味がよく分った気がします。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/26 22:53

哲学を思想とみなす立場からは、当然そのような世界観の歴史が、他の人文社会自然諸科学、そしてそのような科学を支えている人々によって形成されることになります。


しかしながら、哲学が思想であるという立場は、ある意味で偏っています。それは、思想がなんらかの政治社会経済体制などの基礎付けを行うというマルクス主義的な見方に立つという極めて近現代の日本的な見方に立っているからです。
もし哲学に歴史があるとしたら、特殊日本的な環境の中でそうなるのであって、それはあくまでもそのような出版やジャーナリズムそしてそれを批判したりするしか能のないアカデミシャンたちの働きによるものです。
ですから、哲学に歴史があるかないかという問題にあまり煩わされずに、ご自分で哲学をするということをお勧めします。
総合大学の哲学科を出て、大学院哲学専攻を中退したものとしての最小限の希望です。
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この回答へのお礼

哲学という分野とどのように出会うかという事は
とても大切なものですね。
私の場合、数直線を人間がなぜ理解できるのかという
疑問がきっかけでした。はじめは数学の本を調べていましたが
数学は数直線が理解できるという前提で書かれており、
脳神経学、認知心理学とほうぼう探すうちに、
哲学が扱っていることを知りました。
その試行錯誤が無駄だったとは思いませんが、
出版も含めて、哲学が、考えたい人にとって
もうすこし開かれたものであってもいいと思いました。
ご回答ありがとうございます。
ご希望に添えるように考えていこうと思います。

お礼日時:2009/07/26 23:19

>>哲学には、どうして歴史があるのでしょうか。



市民社会に時間的変化(歴史)があるゆえ、市民社会の新しい問題解決のための哲学に時間変化、つまり歴史があるということでしょう。
現代であれば、科学技術や医療技術の進歩に伴う生命倫理の問題については過去にはなかった問題ですから、この解決も哲学の領域ですよね。
その都度に生まれる新しい問題やその解決法の提示が哲学であって、言葉をこねくり回すことが哲学ではありませんね。それ故、哲学にも時代認識はあるということでしょう。
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この回答へのお礼

最近、脳死は死であるという法案が話題になっていますが、
哲学者がその議論に参加しているように感じられません。
現代の哲学者の顔があまり見えないのですが、
今も哲学の歴史は、市民社会の変化に応じて
変化しているのでしょうか。
私の疑問も、もとをたどると、その変化が
市民である私に感じられないからだとも思うのですが。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/26 23:27

歴史的な背景は必ずあります。



ある記述によると哲学は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問の一種。その理性的な思考自体も研究対象になるとなるようです。

たとえばルネッサンス時代の哲学者ブルーノ。彼はそれまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護したことで異端であるとの判決を受けて火刑に処せられました。ブルーノは思想の自由に殉じた殉教者といわれていたりする。

他の回答者さんが言っているように技術進歩や政治や経済の変動・進化に深く左右されるものだと思います。なので哲学は一言で言えば幸福追求の学問というところで歴史とともに進化するものなんじゃないかな。
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この回答へのお礼

私は、哲学は、時代に左右される部分が
他の学問に比べて少ない学問のように感じるのですが、
それは、現代の哲学がそう見えるだけなのでしょうか。
哲学が幸福を追求する学問なのかどうか、
私にはよくわかりません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/26 23:38

>現代の数学者は


最先端の数学のテーマに取り組むまでに
お爺さんになってしまうそうですね。
時代が進めば進むほど、
数学者には歴史が重荷になる。

この中にも誤解がありますね。人間の世界の多様性、人間の思考の多様性、人間の論理の多様性は、どの時代の人間にも想像を絶するものがあります。その中でも、数学は人間の頭脳が生み出す整合した論理の形態のあらゆる可能性を探る学問です。この多様性ゆえに、少なくともこれから来るここ数万年、あるいはもっともっと長い間、その論理の新しい形態を見出し続けて行くことでしょう。確かに、ある一つの論理的形態に対しては「完成」が在り得るかも知れず、従ってそれを一個人が理解するのに大変長い時間を必要とする場合もあります。しかし、過去の歴史を振り返ってみると、学問は進歩すれば進歩するほど、今までに見えなかった全く新しい問題を以前よりももっと多く見つけて来たことに気付きます。そのような新しい問題は、今までの「完成」された論理では理解できず、それを解決するためにはしばしば全く新しい世界観を必要として来ました。数学でそんな新しい世界観を必要とした分野は、集合論然り、群論然り、超関数論しかり、まだまだ数え上げれば切りがありません。このことは数学ばかりでなく、あらゆる学問にも言えることです。

私は今から10年ほど前、20世紀から21世紀に移る直前に、日立の中央研究所で開かれた、世紀末および新しい世紀に向かっての物理学に関する講演会に参加したことがあります。そのとき、ノーベル賞を授賞した著名な二人の物理学者、「対称性の破れ」で有名なリーと、「散逸構造の理論」で有名なプリゴジンの講演を聴きました。

リー教授に言わせると、「物理学の基本的な問題は最早終わった。これからさき物理学者に出来ることは、基本的な問題の中の重箱の隅を突つく仕事か、あるいは今まで得られて来た物理学の成果の巧みな応用しか残されていない」という如何にも世紀末的講演でした。

一方のプリゴジン教授の講演はそれとは全く違ったものでした。プリゴジン教授曰く、「確かに、素粒子論など今までの世界観に基づいた物理学は殆ど完成の域に達しているかも知れない。しかし、我々はその物理学の発展のおかげで今まで考えもしなかった新しい世界の存在に気が付き始めたではないか。今までは、「永遠」の概念に結びついた「安定性」に関して人類の関心が集中していたが、その発展のおおかげで、今や「変化」の概念い結びついた「不安定性」の役割を発見した。そしてその役割の理解のためには、未だ殆ど何も理解されていない「非線形性」に関する数学の発展が不可欠であることも判り始めた。「非平衡」の概念も殆ど何も判っていない。我々は21世紀に向かって、先人達がまだ見たことの無い未開で広大で肥沃な土地が目の前に広がっていることに気が付き始めた。いつの時代でも若者達はその意味で先人達よりも恵まれている。新しい世界が発見されるたびに、前よりももっと多様で肥沃な問題に巡り会え、したがって新しい寄与が可能になるのだ。実は学問の発展とはそう言うもので、今後もずっとそうなって行くのだ。」

過去の学問の歴史を振り返ってみると、私はプリゴジン教授の言っている方に軍配を上げます。

>哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に、その人の生きられる時間の中で
まとめられるものだと思っていたからです。

に関して。そのためにも、その時代が過去の何を背負い、これから何処に行こうとしているのかを理解しているかいないかで、そのまとめられた思索の深みや、有意義性に雲泥の差がついてしまうと思います。ただし、過去を知ると言うことは、過去の苦しみを先人達と同じ時間スケールで繰り返せと言っているわけではありません。もしそうなら、時代が進めば進むほど後から来る者の負担が増えてしまいます。ところが、この自然界は良く出来た物で、過去の経験を途轍もなく短いスピードで経験できるようになっているらしいと言う経験事実があります。質問者さんは多分生物学で言う、「個体発生は系統発生を繰り返す」という経験則をご存知だと思います。母体から生まれるあらゆる生物は、母の胎内で生物が過去数十億年掛かって種として系統的に経験して来た進化の過程を全て繰り返してから生まれてくるのです。貴方は母の胎内で先ず単細胞から始まり、分裂を繰り返し、エラができ、尻尾ができ、、、と次々と形を変えて、結局人間の形を手に入れてこの世に生まれて来たのです。生物はその進化に数十億年掛かりましたが、貴方はこの進化の過程を母親の胎内でたったの9ヶ月で全て経験してしまったのです。どうやら新しいものが生み出すには、過去の経験を繰り返さなくては不可能なようだと言うことを、この経験事実は教えてくれているようです。

私は自分の学生に向かって「学問もこれと同じことである。先人達の経験を自分自身が繰り返さずにいきなり新しいものを生み出すことは、どうやらできないらしい。したがって、貴方も先人達の経験を自ら追体験しなくてはならない。しかし、この母体の例が教えてくれていることは、その追体験を途轍もなく短い時間ですることが可能だということだ。先人達の苦しみを短期間に追体験し、目の前に出現した広大で肥沃な未開地に向かって突撃せよ」と檄を飛ばしております。
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この回答へのお礼

cyototu様

丁寧なご回答をいただき、感謝いたします。
とても貴重なお話を聞かせていただいたと感じています。

リー教授と、ブリゴジン教授の講演の違いは、
私自身が直面している課題への2つの態度として、
長く参考になることだろうと思います。

ブリゴジン教授の講演は、
人を元気にさせてくれる言葉ですね。
それがリー教授の講演とセットになっているところに
学問を追究する人たちの成熟した世界を感じました。

美術や芸術の分野では、
個人の文脈から生み出された作品に対して、
過去の先人の作品との類似を指摘し、
それを無知、もしくは模倣であるとして蔑むような
鑑賞の仕方があります。
そういう鑑賞者に多く出会ってしまうと、
自分の表現を歴史的な文脈の中で分析するようになり、
非常につまらない、頭でっかちな作品しか
つくれなくなる場合があります。
それはつまり、リー教授の立場に立って
表現を考えているからなのですね。

ブリゴジン教授の言葉は、
現代の「閉塞感」と呼ばれるものを
乗り越えていくという意味でも、
力のある回答だと感じました。

人体の尿管は明らかに不合理に湾曲しており、
それは進化の過程で、その湾曲が必要な時代があった
痕跡だと聞いた事があります。
進化はかならずしも進歩ではなく、
むしろ場当たり的な変化の繰り返しである。

回答を拝読しながら、そのような言葉を思い出しました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/07/28 01:10

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