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自分の身に起こったことは全て自分が引き寄せた結果であり、自分の目に映るものは全て自分自信の鏡だ という言葉に胡散臭さを感じるのはなぜでしょうか。

また、これが真実であるとすれば、全ては自分から発生し、自分へ帰っていくわけで、そうすると全体というか世界の生成発展が起こることはないと思うのですが。

A 回答 (11件中1~10件)

No.10です。



要するにowlsjpさんは、曖昧で、『私・個人の姿』が分からなくなるような言葉や言い回しが嫌いと言うことですね。
この質問も根っこでは、テーマが同じなんですよね。

意味の分かりにくい矛盾のある言葉を放った側に、本当の意味を確認することもなく、「自己解釈のまま、雰囲気だけで分かった気になる」のは危険だと、おっしゃっているんですね。
私がその時の質問者であったのなら、補足要求をしたと思います。
自分の言葉でかなりの部分を補わないと分からないのなら、相手の言葉が本当には、理解できたとは言えないからです。
あのような見解を書いたのは、owlsjpさんが仰るとおり、「論理的な、意味のある文章であるに違いない」という、前提で出しました。
そうじゃないと、私には宗教的な情報?が不足しているので、分かった気にも辿り着けなかったからです。
また、owlsjpさんが質問者側にも疑問を抱いていたようなので、こう解釈するのが一般的なのではないかと、要らぬ世話をしてしまいました。


owlsjpさんは、どっちの意味もはらんでいるような言葉なのに、何か問題が起きたときに、
「おまえが選んだんだろう。私はそうは言っていない。おまえの解釈が間違っているのだ」という、余裕を残しておく言葉が無責任だと、その点で腹立たしくお思いなのですね。

で、一番気に入らないのは、「私は物事の道理が分かっている者であると言い切る」言葉の中には、「弱者の味方である」と言いつつ「弱者の上に立とうとしている傲慢さが見える」と、そういうことですね。
今回のテーマも、「私は物事の道理が分かっている者であると言い切る立場の人が、好んで使う表現」だから選んだんですよね。

owlsjpさんが一番問題にしているのは、「弱者の上に立とうとすることの傲慢さ」ということでしょう。
でも、これは、自分の中にも他者の中にも見え隠れしているもので、善意の解釈をしようとすることは、それを捨て去ることだから、「傲慢」だと仰っているのですね。勝手に幕引きをして、「そう言うことにしておく」というのは間違いだと。

けれども、幕引きは必要だと思います。
ここから先は、個人がどうやって自分と他者の間に見え隠れする傲慢さと闘っていくのか、あるいは、受け入れていくのかと言うことでしょう。
私が勧める道こそが正しいと、声高に叫ぶのも「傲慢」ということにはなりませんか。私個人に出来ることは「問題の提議であって、糾弾であってはならない」のではないですか。


>私は、善にも悪にも偏りたくありません。善にも、悪にも陥りたくありません。世界とは、そういうものではないと思うからです。ポジティブでも、ネガティブでもなく、良いものは良い、悪いものは悪いと、あるがままに見る素直な姿勢が大切ではないでしょうか。

そうですか? 拘りがあるように見えますが。
白黒付けたがっているように思えます。 

あるがままの中には“グレーゾーン”もあると私は思っています。
そして、世界とは“良いもの”“悪いもの”“どちらともつかぬもの”で出来ているとも思っています。
あるがまま、素直に見ようとすると“どちらともつかぬもの”が存在していて、ある人にとっては毒にも薬にもなるのだと思います。

あるがままの世界は、白・黒だけでは存在していないし、白は黒に変わることもあり、黒が白に変わる事もあり、常に変動していく世界だと思います。
だから、悩みが生じるし、グレーの存在も必要なんじゃないかと。

この回答への補足

 

補足日時:2009/08/10 21:56
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2009/08/10 23:00

>自分の身に起こったことは全て自分が引き寄せた結果であり、自分の目に映るものは全て自分自信の鏡だ という言葉に胡散臭さを感じるのはなぜでしょうか。



質問文にある語句は、「大人になれ」という意味合いの濃い言い回しですね。
「全て」とあるから、嘘っぽく聞こえるけれど、完全に間違いではなく…。
けれども、「全て」とあるから引っ掛かりを感じたのではないでしょうか。
「全て」を「ある意味」に置き換えたら、しっくりするのではないですか。

『自分の身に起こったことは「ある意味」自分が引き寄せた結果』

「ある意味」としたほうが現実的だと思います。
「全て」とすると強迫的で押しつけがましく、胡散臭いとなるのだと…。
でも「ある意味」とすると“自己責任”からは ほど遠く、“強制力”がないから、「全て」という言い回しが使われているのでしょうね。

自分という意識を持った自由な人が、自分の意志で進んで選び取ったのなら、
「自分の身に起こったことは全て自分が引き寄せた結果」と、言い切って問題はないでしょう。
選択の自由が保障されていたのなら、「全て」で間違いはなく、
選択の自由を勝ち取るべく努力して、成し得たのなら、その時も「全て」として問題はないでしょう。
けれど、選択の自由を勝ち取れる可能性があると分かっていて、“放棄した場合”は、「自分の身に起こったことは全て自分が引き寄せた結果」と言われても仕方のないことで、限りなく“全て”に近づくのではないでしょうか。
放棄することを“選んだ”んですから。


「自分の目に映るものは全て自分自信の鏡だ」
これは、自分が見る全ての物事に、“自分の主観が入ってしまう”と言う意味だと思います。
何かを見て“感じ取っているのも判断しているのも自分”だと言うことでしょう。


>学校のワルが、自分の前で問題を起こしたとしたら

学校のワルは自分自身ではないけれど、ワルがしでかしたことを見て、自分が感じたこと、“どうするべきか心に浮かんだこと=「鏡」”ということにはなりませんか。「ワル=自分」 と言う意味ではなくて、ワルの出現で“自分はどのような行動に出るのか=「鏡」”といっているのではないですかね。
 

>また、これが真実であるとすれば、全ては自分から発生し、自分へ帰っていくわけで、

“これ”は「真実を含んでいるけれど、現実ではない」となるのでは…。
一人の人間の存在だけで、全ての事象が発生するというのは無理があると思います。

“これ”は個人のことを言っていながら、全体主義的な臭いがします。
統率力を目的に作られた「大義名分」でしょう。
「真実」が混じっているともっともらしく聞こえるものです。
端から疑って掛かれるものではないから疑問も持ちにくいけれど、無視するわけにも行かず、“矛盾をはらんでいる”から、それに反応してowlsjpさんは、胡散臭さを感じたのではないでしょうか。

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また、昨日は再投稿を促していただきましたが、間に合わなかったのでこちらに補足させて下さい。
もう締め切られていることでありますが、蛇足をお許し下さい。

昨日、投稿した段階では、
「私=質問者=救いの必要を感じていない人・現時点で救われている人」の意味で解釈していました。

でも、もう一度読み直して原文にある“私”とは、「搾取を行わない者・弱者」という意味で、
弱者は、自由を求めてもがき苦しむ内に、自分一人の自由を希求しても何も物事が変わっていかないと“気が付いて”、そこで初めて、「物事の道理が分かっている人=救われている人」と言える存在となり、
「他者の自由を希求する人」になるのかな…と。

「救われている人」=「物事の道理が分かっている人」=「他者の自由を希求する人」

“勝手な解釈”と言われても、“言葉を補いすぎ”だと言われても、そう言う意味で書いたものでなければ、私には納得のいかない文章です。
残念ながら、原文そのままだと無知故、意味が分かりませんでした。
かなり、好意的な解釈だと言われそうですが、“善意の解釈”で宗教に明るく無い者が読むとそう言う意味になりました。

目が曇っていると言われようとも原文は、
「物事の道理が分かっているから(他者の)自由を希求する事が出来る」
「物事の道理が分かっていなければ(他者の)自由を希求する『欲する』ことすら出来ない」 
「物事の道理が分からぬ内は、自分の自由を希求するのみに留まる」
そう結論付けているものだと自分なりの見解を出すことにしました。

この回答への補足

 強制力に、大義名分、確かにその通りだと思います。「お客様は神様です」「お客様が第一です」という主張と同じような、管理者における都合によるものですね。お客様が神様であれば、悪いのは全て自分 ということになるわけですから。今回の、この質問における解釈には、ほとんど異議はありません。

 しかし、例の 救い についての見解は、やはり人が良すぎる と言わざるを得ません。

>残念ながら、原文そのままだと無知故、意味が分かりませんでした。

 意味が解らないのは、他の人も、そうだと思います。矛盾しているから解らないのです。もし本当に矛盾しているとすれば、「矛盾していること」が解るのみでしょう。矛盾していないだろうと思って、「ポジティブ思考」で読めば、わからないのは、当然なのです... 善意というか、意味のあることをいっているだろう、という前提での解釈を試み、原文をかなり曲解しなければ、理解できないのです。sirarkaさんの、能力の問題というよりも、「論理的な、意味のある文章であるに違いない」という、前提があるからなのです。言わば、ポジティブ(善意)という偏りがある故なのです。

>そう結論付けているものだと自分なりの見解を出すことにしました。

 この見解自体は、原文とは全く関係なく、おそらく正しいでしょう。私が、他者を救って、自分も救いたい という感慨を持ったことと、同じ意味でしょう。

 しかし、例のモノは、そういう意味で言ってはいないのです。

 「わたしはすでに救われているから 自由を希求するのです」と、はっきりと述べています。自分が救われているから、他者の救いを希求すると言っています。

 おそらく、例のモノは、
 『とりあえず何でも思いついた事を言っておけば、相手は自分が該当するかもしれないと思うことを勝手に思いつき、勝手に解釈して論じたり、「なるほど、そうなのか」と勝手に自分で納得するかも知れないから、なんでもとりあえず思いついたことを言っておけ、それで注目されたり、自分の寂しさがまぎれるのだから』 と考えて、適当に文章を書いているんでしょう。

 あるいは、わざと矛盾したことを書くことで、相手が賛同すればそれで良し、とする。もし、一方だけを あげつらって反論してくるなら、―矛盾した両方のことを書いているわけだから― もう片方の論をもって反論する。 ということなんでしょう。これは、私の新しい質問にも書いたことですので、後で読んでみてください。これが、考えてやっているとしたら、かなりの狡猾さです。もし、本能でやっていて、自分でも解っていないなら、太古から来るモノ達の、執念のようなものを感じます。

 私は、善にも悪にも偏りたくありません。善にも、悪にも陥りたくありません。世界とは、そういうものではないと思うからです。ポジティブでも、ネガティブでもなく、良いものは良い、悪いものは悪いと、あるがままに見る素直な姿勢が大切ではないでしょうか。どちらに偏っても、目が曇ると思います。これは、確かに、面白くない生き方、考え方かもしれませんが、もし、自分の都合で人間が苦しんでいるとすれば、やはりどちらかの色眼鏡で物事を見ているからではないでしょうか。

 しかし、正直、人生を楽しみたいし、世界は良いものでも、あるとは思います。

補足日時:2009/08/10 05:25
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この回答へのお礼

 それから、あまり関係ないですが、この質問の回答番号:No.8の 補足欄に書いた文章は、間違っているかもしれません。

 自分で取捨選択して背負ったり、排除したりするものではなく、すでに自分で解決済み、克服済みの問題であれば、気にならなかったり、目に入ってさえ、こないかも知れないですね。

 その問題が、気になるかどうか、心のどこかに引っかかるかどうか。それが、自分の問題か、そうでないかを判断する基準となるのでしょうか。

お礼日時:2009/08/10 06:41


質問のこのマークは何を表しますか?

この回答への補足

 適当なタイトルが思い浮かばなかったので、光 を連想させる形を選びました。

 それ以上の深い意味はありません。

補足日時:2009/08/08 22:30
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この回答へのお礼

補足:

 なぜ光か。明るくしておけば邪、魔が入ってこない。

 入ってきたとしても それがすく邪だと解る。

 光に照らされ、明るいところに入って来た人たちとのやり取りであれば、邪 はすぐにそれと解る。そういう、念をこめる意味で使った。

 そういう意味はあります。

お礼日時:2009/08/09 02:18

胡散臭さを感じるとすれば。


前者について。自分が引き寄せた、自分で全てを全てコントロール出来るほど一人の人間は万能ではないという主義ではないでしょうか。
見知らぬ誰かがよこしたものかもしれない。
後者について。自分の姿なんてそう簡単に分からないよ、自分にも親にもね。という主義。

すいません。想像です。

この回答への補足

 すべてどころか、大部分をコントロール出来ない人は、コントロールすべく自分の実力を磨くように心がけたほうが良いのかもしれませんね。

 要は、自分で納得して、「自分が引き寄せた、自分の問題ではないかもしれないけど、良い機会だから認識力を磨くためにも事に当たろう」と思うか、他者から強要されて嫌々引き受けてやるかの違いであり、後者では意味がない。ということか...

 見知らぬ誰かがよこしたものを背負っても間違いではなく、そうやって全てを背負えば世界を制覇する方向で臨むしかなく、それをやろうとすれば うとんじられ、認識力と感受性が上がることで他者と衝突し、挙句は弾劾されるようになる。全てを背負ったとされるイエスのように。

 もし、ある人が虚無的で、人生に意味を見出せないようなら、自分の身に起こることは自分のこととし、ある程度の重さの荷物を背負うことで、生きがいとなり、フワフワと取り留めのない人生を送らないですむようになる。

 もし、ある人が自分の責任の重さに耐え切れない心境で、それ故 日常生活においても他者と衝突気味なら、荷物をある程度下ろし、他者に担がせることが自分のためにも他者のためにもなる。

 他人のせいにするのが、人口の増加、物象化、物質の獲得になり、自分のせいにするのが人口の減少、精神世界の発展と自己の精神性の獲得につながる。

 すいません。悟りです。(悟り 観想 創造 妄想 いずれであるかは、自己申告制ですので)

補足日時:2009/08/08 07:09
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この回答へのお礼

誤字訂正
 悟り 観想 創造 妄想 いずれであるかは、自己申告制ですので

⇒悟り 観想 想像 妄想 いずれであるかは、自己申告制ですので

お礼日時:2009/08/08 07:39

??質問から離れてしまってませんか。



どう行動するかは心理的なものでしょう?

哲学的な回答がほしいのか、自分がどのように行動したらいいのかを聞いているのかどっちですか?

哲学(理屈)と心理(行動)を切り離してもらえないでしょうか。

この回答への補足

 話の成り行き上、両方となりました。よろしいでしょうか?

 それから、哲学を 理屈 としたのは問題かと。

 哲学にせよ科学にせよ宗教にせよ、もともと真理の、追求の仕方によってそれぞれの分野に分かれただけであり、真理を一側面から現したものである。それが互いに結びつかず、実際の人間関係等に応用できないなら、何のための学問でしょうか?

 結論としては、切り離したらもうそれだけで、それらの学問の存在意義がなくなると思いませんか?

補足日時:2009/08/06 13:17
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#5



質問にある内容は全ての状況において通用する法則であるはずだ。
というのが前提にあるのですか?

私はある側面では正しいと思っているのです。
円柱を真上から見れば円にしか見えません。
それ以外の見方はできないはずです。
そこからはそのようにしか見えない、そういう意味で全てです。
それが視点であり側面であると思うのですが。

この回答への補足

 捉え方の問題でなく、目の前の人間が悪さをしたらどうしますか?

 やはりとるべき行動はひとつですか?それとも、自分の鏡だからほっといて後で家に帰って内省しますか?

補足日時:2009/08/06 07:08
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ある側面では正しいのではないでしょうか。



例えば高校に進学する場合、通う学校を選びますが選んだのが自分なら
その学校で起こる全ての事象に対して自分が引き寄せた結果といえるんじゃないでしょうか。

自分の目に映る物、例えば目の前にある「リンゴ」。
この赤い物体がリンゴであることを知っているからこそリンゴはそこに存在していると言えませんか。
リンゴが何かを知らない人には目の前にある物がリンゴだとは認識されません。つまりリンゴは存在しないとも言えます。

世界が世界であると認識できるためには私たちは世界がなんであるかを知っていなければなりません。
世界を知っているとは自分自身の中に知識(記憶)という形で「世界」があるからに他ならないのではないでしょうか。
これはまさに鏡といえるんじゃないでしょうか。

胡散臭いとは心理的なものなのでそれに対する回答は質問者さん以外には答えられないですよ。

この回答への補足

 はい、全て他人のせいにするもの、自分のせいにするのも、どちらが正しいとかそういう問題ではないのは、アタマではわかっているのですが...

 あとは状況に応じてということなんでしょう。時間をとって読んだ後、お礼欄にてまた投稿します。

 最初の一行のみを読んだのみです。

 今日は時間がないのでまた。

補足日時:2009/08/05 19:53
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この回答へのお礼

 まだ少し時間があるので、追記します。

>例えば高校に進学する場合、通う学校を選びますが選んだのが自分なら
その学校で起こる全ての事象に対して自分が引き寄せた結果といえるんじゃないでしょうか。

 はい、では、その学校のワルが、自分の前で問題を起こしたとしたら、「これは自分の鏡だから、自分が気をつければよいのだ、今はほっとこう」と思いますか?

 そうでは在りませんよね。つまり「これは自分の鏡かもしれないが、自分の反対の人間かもしれない。どちらか解らないけれど、今自分がする行為はひとつしかない。止めることで、自分の悪しき部分をまた認識できるかもしれないし、今はやるしかない。やらなければ、また同じ現実を引き寄せてしまうかもしれない。」と思うのではないでしょうか。普通の人間であれば。自分自信を映し出しているかもしれない相手の悪しき行為を、ほっとくことで、かえって増幅させるかもしれませんね。さて、どちらでしょう。

 つまり、自分の鏡か、どうか解らないけど、とるべき行動はひとつであるということです。自分の鏡かどうか、神さえ解らない。であれば。

お礼日時:2009/08/05 21:15

こんばんは、owlsjpさん。



●胡散臭さを感じるのはなぜでしょうか?

臭いは目には映らない…と、すると

“ 自分の目に映るものは全て ”

ココがどうも怪しいか?

臭い、目には映らなくとも

目にしみることはあります。

何かあると――――― 察知!?

【どうして動物には人間にはない地震などの自然災害を事前に知る事が出来る察知能力...】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

この回答への補足

えーと、言葉遊びをしているわけじゃないのですが、補足すると

>胡散臭さを感じるのはなぜでしょうか

 これを別の言い方で言うと 「嘘っぽく感じるんですが」にも、なると思いますが。

 あとの文章は理解不能です。でも、相変わらずぶっ飛んでますね。うらやましいような、そうでないような。

 なんでも言っとけ みたいに丸投げされても、神ではないんで戸惑うばかりです。

 察知 と今回の質問と、何処でつながるのか、ぶっ飛ぶ前の、中間の段階の解説を希望します。

補足日時:2009/08/05 07:28
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この回答へのお礼

 仕事をしながら考えたのですが、私が「そのように感じる」という旨の内容を書いたので、「察知」という表現を使ったのだと理解できました。

 たしかに、形而上的、抽象的思考においては、皆と違う世界に依っているいうことは最近感じています。

お礼日時:2009/08/05 19:59

人のせいにしたいからです。

この回答への補足

 なるほど、そいつのせいにしたいから、「全てお前のことであり、他者は自分自身の鏡だ」と言っているわけですね。それも、場合によってはあるかもしれないですね。

補足日時:2009/08/05 07:25
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それが個々の性格です。



自分に降りかかった悪い出来事は全て他人のせい。
言い訳ばっかの世の中・・・。
自分のケツを拭けないヤツで曲がった自信を持った持ち主ですよ。

難しい言い回しをしていますが、おかしい人間が多いんです。
全て自分が正しいってね。
素直に頭を下げられない人間が多いという事ですよ。

この回答への補足

 確かに、全て他人のせいにするものおかしいですね。

 でも、他者に向かって、目に映る他者は全て自分自信の鏡だ と言うのもどうかと。

補足日時:2009/08/05 07:20
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