私は最近の社会に以下のようなことを感じています。
(1)年上を全くといっていいほどリスペクトする慣習がなくなった。
少しでも自分の能力が高いと分かればタメ口で横柄な態度を取る。
(2)見知らぬ人への親切を仇で返す人が増えた。
例えば道路で道を譲っても無反応で割り込みしてきたり。
(3)何もしなくても、赤の他人には取りあえず酷い思いをさせてやろうという考えを感じる。
仲間以外は全て悪党とでも言いたげに、ため息をかけたり、舌打ちしたり。
聞こえるように人を指を指して笑ったりする。
赤の他人が不幸になることを望んでるようにさえ感じる。
(4)少しでも自分に無礼を働いたと感じると、仕返しを図る人間が多い。
一般の人間や、店の店員すらも平気で悪態をつく人がいる。
(1)は外を歩いていても、職場でも非常に強く感じることです。
職場では特に、能力序列指向が極めて強いです。
私も年功序列には疑問を感じており、能力の高い人間が評価されて然りと考えています。
しかし、度を超えた不遜に近い振る舞いをする人がいます。
私は例え自分より能力が高くても、無礼を働くものではないと考えています。
(2)は他人へ働きかけた親切を仇で返されることが多かったことによります。
感謝するべき場面で、無視して平気で立ち去ったりというのが多々ありました。
私が親切の代償を求める陰湿な人間に見えたのでしょうか?
(少なからず、そんな気持ちは一切働きませんでした。)
また、相性が合わない人間と関わろうとしない人が多くいるように感じます。
(3)は街や人が集まる施設などで強く感じることです。
ため息、舌打ち、咳、睨みつける、何もしてないのにされることがあります。
印象に残ってるのが、ファーストフード店で後ろに座った学生たちから聞こえてきた、
「うちらが幸せならそれでいいんじゃない?」という言葉。
非常に強い利己主義、自分さえ良ければそれでいいという考えが伝わってきました。
(4)については、そうならないように努力はするのですが、
彼らはまるで揚げ足を取るかのように仕返しを図ろうとします。
彼らに何かされたことを、私は一々思い返し、何が悪かったのか、
次はそこを修正しようと考えます。
しかし、何かキリがないような部分もあり、むしろ、そうした努力さえ搾取されてるように感じます。
重要なのは、これらの慣習が大人だけではなく、
小中学生、果ては幼稚園児にさえ散見されることです。
どこかでそういう教育が施されてるのでしょうか?
どこかでそういう談合が開かれてるのでしょうか?
皆足並みを合わせたように同じ事をするので非常に不思議です。
2000年を過ぎてから、こういった価値観が広まっていったように感じます。
通り魔事件や、凶悪事件、詐欺事件が長く報道されたからでしょうか?
100年に一度の不景気といわれてるからでしょうか?
政治に信頼が持てない時代になったからでしょうか?
彼らは他人にされた何かの仕返しとして無差別に他人に当たってるのでしょうか?
別に彼らをどうこうしたいという思いはありませんが、
彼らも同じ事をされて嬉しいのでしょうか?
私は全然嬉しくありません。
寛大な人間になることは心がけてますが、
忘却や彼らと同じ行動を取ることで疑問を片付けたいとは思いません。
社会において上記のようなものは良い倫理観だとは思いません。
ただあまり社会全体で解決出来そうな問題にも思えないので、
個々人が他人へ配慮や思いやりを少しでも多く行っていければと思っています。
もちろんこれらは私個人が捉えてる特徴なので、
そうでない人も大勢います。
びっくりするくらい礼儀をわきまえた大人、子供も多く、
また、最近の若い人は能力の高い人が多いように感じます。
積極的で、度胸もあり、発言力もあります。おどおどしません。
彼らは仲間内だと、全ての場合ではありませんが、非常に力になります。
私が人当たりが悪すぎたということあるかも知れません。
私が悪かった部分も多々あるでしょう。
しかし、上のような考慮しても以上のような価値観が社会に蔓延してるのは錯覚ではありません。
私はどちらかというと暗い方の人間なので、
ついつい物事の悪い面に目を向けがちで、
細かいことも一々気になってしまうタイプです。
それでも、他人よりも自分自身をどうにかするべきだと常々考え、
嫌なことは忘れようと努力しています。
しかし、今回お聞きしたいことは、あまり「私」が考え直すとか、
無視するべき、ということではありません。
上に書いたような私の社会に対する価値観への批評と、
自分の社会に対して思っていることをお聞きしたいのです。
願わくば、それに対する個人の解決策などもお伺いしたいです。
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
たとえば、秋葉原通り魔事件・・・「ざまぁみろ」感覚の極みです。
どうだったならばこの事件は起こらなかったのでしょうね。
犯人の家庭環境、教育履歴、派遣社員で格差があったことなどが、是正されていれば起こらなかったでしょう。
でも、こういうことはいずれも、社会学上の社会システムの話しであって、我々個人の具体的行動には結びつきにくいんです。政治運動等に参加するなら別ですが・・
それにしても、この事件は、いろんな方々からさまざまな意見が噴出してました。
「絶対ゆるせない」「即死刑にしろ」
「ヒーローだ」「よくやってくれた」・・・
これらも「ありがとう」感覚の逆相と「ざまぁみろ」感覚と言ってしまえばそうなのですが、
ヒステリックな「ありがとう」感覚は、「ざまぁみろ」感覚と同質なんですね。
そして、「ざまぁみろ」感覚が歪曲した「ありがとう」感覚に変質もしています・・ね。
以下は、私の意見ですが・・
まず、この犯行は、私の中では、精神異常者や麻薬中毒患者の類の異常行動では無く、自分の日常生活の延長線上にあるということです。
そうなると、必要なのは自分なりのイメージ化した理解だと思うんですね。
「信じられない」、「理解できない」では、終わらせないようにしてます。
思うに、このような犯行に及んだのは犯人が誰にも自分の孤独を理解されなかったからだと感じるんですね。犯行前に、彼を居酒屋にさそって、話しを聞くなりして、感じ取ってやればよかったのですよ。それだけで彼の孤独は消失するのです。私はそう思います。おそらく、難解なことなど何もないのですよ。
それをできなかったのは、我々側であって、「信じられない」「絶対ゆるせない」「即死刑にしろ」という短絡した「ありがとう」感覚の裏返しが彼の犯行に及んだ動機を形成しているのではないだろうか・・・・というのが、強いて言えば、私のいわゆる社会の倫理観ですね。
>この手の問題には、"元々「自分だけがよければ」という本能を、国家が出来たときから、支配者が制度・宗教の強制により封殺してきた"という説があります。
>社会制度の充実により「自分の権利」を主張できる基盤が整ってきたというのです。
確かにそういう面はありますね。ご質問者様が言われる風潮・・・ですね。
国家が個人の権利を封殺する社会は、自分の権利主張ができない不自由さがある一方で、他人の封殺された権利を気にする必要がない分はすごく楽なんですよ、おそらく。
かつて、イデオロギーは違いますが、体制への反発で政治運動を盛んにやっている時代がありました。不満、怒り、暴力は、国家権力に向いていて、個人ではなかったんですね。
不満は、体制にぶつければよかった。不満の原因は国家体制にあると感じていた時代・・・・
今は、それらが、個人としての他人、あるいは自分自身へ向かっているんですけどね、自己の権利の主張拡大に伴って、直ちにそれに見合う他人の権利の容認や理解が不可欠になっているにもかかわらず、その理解や容認が辛いというのが結局「ざまぁみろ」感覚になるんですね。自由の履き違いに気づけないということかな・・・・
さて、明日はアイツと飲みに行くかな。どうです、ご一緒に。
秋葉通り魔事件の容疑者の犯行を決意した瞬間というのは「ネットでも無視されたから」だったと思います。
最終的な犯行動機は最後まで自分の声を聞いてくれなかった社会への復讐だったのです。
(日本)社会というのはどこか、集団の中にスケープゴート(イジメのような存在)を置こうという風習があります。
その目的はストレス発散の捌け口であり、またそういう存在を集団の中に置くことで浮かんでくる、対照的に肯定される自分の姿なのだと思います。
私も彼が社会における身代わり役の一人だったのではないかと考えています。
捜査上彼が意図的に殺人鬼に仕立て上げられたということはないでしょうが、
社会が彼のような殺人鬼を生み出しやすい構造になってるのは確かだと思います。
昔から上のような風習はありましたが、現代は格段にエスカレートしています。
犯罪の厳罰化や時効撤廃の動きにより犯罪自体非常に起こしにくい世の中になってきました。
安全な世の中になってきたと言えば聞こえは良いですが、角度を変えて見れば、一歩外せばコンティニュー不可能な危うい世の中になったとも言えると思います。
現代の日本のコミュニケーションの仕組みもそうです。
相手の一言、一挙手一投足をつぶさに精査し、一瞬でも違えば即悪人・要注意リストに追加されてしまいます。(←私感ですが
異端(失敗や犯罪)を極度に排斥する社会システムになったからこそスケープゴートの存在が余計に必要になり、
自分の正義を固持するためにも見ず知らずの他人だろうとお構いなしに悪態をつくようになったと考えられます。
(現実で見る彼らの行動はそんな構想めいたものではなく単なる唾の掛け合いのようにしか見えませんが・・・)
>今は、それらが、個人・・・
それは非常に同意です。今この不況の最中に国民同士で足の引っ張り合いをしてる場合ではないと思うんですよね。
ここで頂いたご意見は役に立ってるのかというと・・・非常に役に立ってます!!
忘れればいいで忘れられない私にとって、何かされて彼らの行動原理が論理的に解釈できるのと全く何もない状況では大違いなのです。
ちなみに私は言われたように平静な態度を取っています。
荒らしと同じ原理でスルーされる彼らはとてもやるせない表情を見せます。
そして何より嬉しいのが自分の中の社会像の輪郭が明確化してきたことです。
ps 是非お供します!
No.8
- 回答日時:
>実態のない社会について考えるのは意味があるのでしょうか。
>個々の人間が集まれば集団としての意識が生まれます(法人のような)。
個人の中にある「社会」には実体が無いと言われていますか?
むしろ、いわゆる社会にこそ実体がないことに是非気づいて下さい。
このご質問のような日常に関しては特にそう思います。
ご質問者様がいわゆる社会として捉えている「社会」は、ご質問者様の中にこそ存在していて、質問者様にとって唯一実体のある「社会」ですよ。
>混沌とした現代の社会構造を知ることは重要だと思います。
ご質問者様のいわゆる社会だと実感しているものを作っているのは、社会構造の理解等々主観客観含めて全部ご質問者様自身なのですよ。
でも、どうなんでしょう、日常生活で(1)~(4)を肌で感じておられるご質問者様はお気づきなられているのではありませんか。
>相手に何かされて、その理由が分からないことが一番困ります。
>不安と恐怖が一層深くなり、憎むことでいつまでも相手に縛られ続けます。
(1)~(4)とこの恐怖と憎しみの感受性は裏表です。
相手からの加虐性は既に感じとっていますね。
相手の狙いは受ける側のその感受にあります。その動機を知っているだけで充分ではありませんか。
相手の加虐的行為の真の具体的理由は本人しか知りえませんしね。
ご質問者様は、結局、ご質問者様に中にその理由を映し出すことになります。
そして、その感受性が、その固有の「社会」の窓ですね。
>彼らの行動の「理由」または「動機」を理解すること、
このご質問は、文面こそ社会の価値観と銘打っていますが、教育問題、家庭問題、格差問題等として手を打とうとすることではありませんよね。
動機は、前に記載したサディステックな快感です。しかし、その一般化された「理由」を現実の(1)~(4)の個々の事柄に当てはめて、最善の手を打つことは出来ません。
個々の事柄への対応こそが自由選択で、そのご質問者様の「社会」を変える行動なのではないでしょうか。
優しく諭すか、笑い飛ばすか、あからさまに激怒するか、権利侵害で訴えるか・・・または、受け流し、無視、泣き寝入りですか・・・
そして、その選択は「社会」を明らかに分岐することになります。
だから、自分を変えることと「社会」を変えることは同じだと思うんですね。
>相手の行動理由を理解できない状態=相手の心が読めなければ、それに返す最善の手を考えることは出来ません。
相手の行為の真の理由を知らなければそれに対する最善の行動できないから行動しないというのでは、不安と恐怖があまりに先行してます。
あまり言いたくはないのですが、これでは、逆の見方をすると、恐怖と憎しみの感受性が(1)~(4)を発生させ易いと言うことにさえなるのですよ。
相手の狙いは、動機であるサディステックな快感を与えてくれる恐怖と憎しみの感受性なのですから。
思うに・・自分の伝家の宝刀は常にキッチリ研いでおくことではないでしょうか。そうすることで自ら(1)~(4)をすることはないでしょうし、(1)~(4)を受けてもそれに対する平静な態度が、その相手の動機を恥ずかしいものにしますよ。
お礼が遅くなりまして申し訳ございません。
再びご回答頂き誠にありがとうございます!
「社会」は、物理世界にはその実体は存在せず、個人の中にのみ実体を有する。
自分のアクションによって個人の社会観とは変わるもので、
行動が自由選択できるということは個人の中に映し出される社会も、それに応じて姿を変える。
ということでしょうか?
なるほど、それで「具体的な行動」なわけですね。
私が「社会とは何か」と聞かれたら“個人が過去の光景を思い返し頻出する事柄を平均して出した特徴”だと答えます。
具体的な行動によって過去に見た光景が変わり、自分の社会像や価値観も変わってくるのでしょう。
ひとまず今は「平静な態度」で対応したいと思います。
(多分ネットの「荒らし」の原理と同じなので)
>しかし、その一般化された「理由」を現実の(1)~(4)の個々の事柄に当てはめて、最善の手を打つことは出来ません。
一般論と個々の事案が必ずしも合致することはないのですから、そうなりますね。
ですので私も最善の手を打つことを考えるのは止めにします。
ただ社会全体として出てきた特徴なので、そうなった理由は知りたいのです。
---以下、個人的な意見です---
彼らを見ていると自分の行動に確信を持っています。
行動に迷いがありません。
ということは日頃考えている(社会常識レベルの)価値観があるはずです。
そして共有されているのではと思うのですが・・・。
その理由を「ざまぁみろ」感覚だとします。
ではなぜ「ありがとう」感覚から「ざまぁみろ」感覚になったのか、ということになります。
2000年以前にもサディスティックな人々は少数派ですが存在してました。
それが急に多数派になったのは、質問の「通り魔事件や~」が原因だと思うのです。
しかしそうであるようには感じても、雲をつかむような話で結論に至りません。
この手の問題には、"元々「自分だけがよければ」という本能を、国家が出来たときから、支配者が制度・宗教の強制により封殺してきた"という説があります。
社会制度の充実により「自分の権利」を主張できる基盤が整ってきたというのです。
ただそれが上の、サディスティック指向の急増の答えになるかどうかは今考え中です。
また暇な時、気が向いた時で構いませんので、お茶片手にご意見をお寄せ下さいませ。
No.7
- 回答日時:
>私自身に内在する問題となればチェンジも容易。
>社会を変えるのは難しいけれど自分を変えるのは簡単。
たびたび失礼します。前回舌足らずだったようです。
「社会」を変えることと、「自分」を変えることは同じことなのです。
社会は、「自分」とは分離した外側にあると思ってしまうのですが、
「自分」の「社会」は「自分」の内部にあります。
「自分」が消失して、「社会」が残ることはありません。
ご質問者様がとらえている (1)~(4)の価値観なるものは、その客観性さえも含めて「自分」が体験し、把握し、思考しているのであり、この「社会」はご質問者様独特の「社会」です。
いわゆる社会としてとらえられているものは、こういった各個人が「自分」に内在する「社会」が点在しているだけで、実際には単一の社会なるものはどこにも存在していません。
ご質問者様が、何に夢中で、何に無関心であるかは知る術はありませんが、ご質問者様が関心を持ちご質問者様が取捨選択した結果で形成されているのがご質問者様の「社会」ですから、そういう意味で「自分」が変わることと「社会」が変わることは同質だということです。
>しかし、今回お聞きしたいことは、あまり「私」が考え直すとか、無視するべき、ということではありません。
そういった視点で見れば、人間は、関心を放棄したり、無視することなどできないのです。一度見たおいしそうな真赤なリンゴを、あれは、ドドメ色のリンゴだから食べたくない・・と言って、食べないという不作為をしても、これは関心を放棄したり、無視することではありません。おいしそうな真赤なリンゴ (1)~(4) は、何も変わらずそのまま残ることになります。「社会」には、苦しくとも、現実に対峙し、具体的に行動せざるをえないのです。逆に言うと、具体的に行動こそが「社会」を変えます。
ps 以上は社会学などのいわゆる社会を否定しているのではありません。あくまで、個人と社会との関係の話です。
再び回答頂き誠にありがとうございます。
>社会は、「自分」とは分離した外側にあると思ってしまうのですが、
>「自分」の「社会」は「自分」の内部にあります。
そう言われてみれば自分は社会を考える時つい客観視し過ぎだったと思います。
客観視することでいつの間にか自分を除外した社会像を追っていました。
社会について考え込むことでいつの間にか社会と自分の相対化が必要以上に進んでいたようです。
もしくは社会に目を向けることで自分から目を背けていたのかも知れません。
実態のない社会について考えるのは意味があるのでしょうか。
個々の人間が集まれば集団としての意識が生まれます(法人のような)。
その動向を探ることで(社会について考えることで)、逆に個々の人間の行動の根拠が分かってくると思います。
相手に何かされて、その理由が分からないことが一番困ります。
不安と恐怖が一層深くなり、憎むことでいつまでも相手に縛られ続けます。
(よってこのように深々と考察しているわけです)
彼らの行動の「理由」または「動機」を理解すること、
混沌とした現代の社会構造を知ることは重要だと思います。
相手の行動理由を理解できない状態=相手の心が読めなければ、それに返す最善の手を考えることは出来ません。
理由の分からない全ての行動が、理不尽な行動に見え、それに延々と思い悩んでしまうのです。
>「社会」には、苦しくとも、現実に対峙し、具体的に行動せざるをえないのです。逆に言うと、具体的に行動こそが「社会」を変えます。
それは分かります。
ただ上にも書いたように理由が分かり納得しない限りちゃんとした行動は取れないように思うのです。
足の踏ん張りきれない、自信のない、中途半端な行動に。
どんな行動でも具体的であれば何か良い結果を生むようには思います。
なのでそれで彼らの何かが見えてくるならばやる価値はあると思います。
多分彼らと同じ行動をすることで彼らが思うことが分かってくるようにも思います(どんな行動を取ればいいのか分かりませんが)。
実は複雑化した社会をしっかり捉えることは入口と出口が繋がったトンネルの中を永久に走り続けることと同じではないかと不安になってきます。
実態がないわけですから、実際そうなのかも知れませんが。
No.6
- 回答日時:
(1)
リスペクトをどのような意味でお使いか分かりませんが…、
『長幼の序』を求める意識は、むしろ強くなっているように思います。
団塊世代は、それ以上に対しては『長幼の序』の意識が薄いわりに、
下世代には強く求めますから。尊敬よりも崇拝に近いものを求める人すらいます。
実際のところ、あまり変わっていないように思います。
(むしろ、根拠のない尊敬されたがりが増えているだけのように思います)
(2)
感謝を表現するのが下手な人は増えています。
してもらって当たり前という人も増えています。
これは『お客様は神様』という商習慣の、負の側面かとも思います。
(3)
これは、前問と通ずると思います。
根拠無くしてもらう(尊敬なども)。
こういう甘えの強い人は増えていると思います。
日本は、こういった甘えや願望などは表に出さないことが美徳とされてきました。
一種のやせ我慢の文化であり、恥の文化も含まれるでしょう。
ちょうど、団塊世代で文化が断絶し、こういったことを表に出ように変化したように思います。
(4)
これは、右肩上がりが停滞に入ったからかも知れません。
拡大期なら、自分が努力すれば成果を享受できますが、
停滞期や縮小期では、他人を出し抜かないと成果を享受できません。
そう言った『空気』が社会に満ちているため、
『空気を読む』人ほど、影響を受けてしまうのかも知れません。
No.5
- 回答日時:
がんばりすぎないでください、いろいろしんどいですが。
おおらかに。
正義感は大切です。でも絶対正義にするとゆがみます。
そして古い価値観に頼るだけや、わかりやすいものを批判対象にして
答えを求めても、憤るだけですから。
言われてみれば、私はあまり社会適合に優れてないような気がします。
直ぐには自分の持っていた価値観をそれほいとは捨てられないです。
それが出来ればどんなに身軽になれるか・・・。
ネガティブな人がいきなり突然ポジティブにパッと変われる気がしません。
その間にちゃんとした考察と変遷があって初めて変われると思うんです。
(それで今回質問させて頂いたわけです)
ただそれで他人より無駄に頭を悩ましているのも事実で、
やっぱりそれほいと変われる人間になりたい・・・。
回答頂きありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
全ての問題の根元は家庭教育の中にあると思います。
BOSSの缶コーヒーのCMにあるように女房が亭主をバカにするような家庭に全ての間違いがあると思います。
父親は爺ちゃんば婆ちゃんを大切にして家庭の中では父親母親長男長女の順序をしっかりと教育しないからこんなバカな世の中になるのです。
男女雇用均等法で社会の中では男女平等は進みましたが家庭の中ではバカな女達がどんどん離婚してバカな子供達をどんどん生み出しているのです。その結果が現在のニートフリーターの増加です。
私の家では子供を叱るのは妻の仕事です。私が子供を叱るときは必ず妻を怒鳴りつけています。男は全力を描けて仕事をして妻は家庭を守るを徹底するしかこの日本を守る方法はありません。
社会、つまり集団の中で生きていくには、各々が自分の立場を把握し、自分の役柄を全うすることが大事です。
従来の、例えば女性は結婚すれば専業主婦、夫を支え、子供の教育を支えるという考えでは、現代を生きていくためには不都合が出てきたのでしょう。
女性に関して言えば、女性の権利拡大が、従来の役割崩壊の主原因であると思います。
男性中心社会への反発や女性が活躍する場を増やそうという動きが非常に活発化しています。
それに関して私は賛成ですが、度が過ぎるというか、
男性側に不都合が出てくるようなら、問題があると思います。
そこを男なんだから我慢しろと言われれば何とも言えませんが、
いつまでも女性のわがままを無条件で認めろというのは、理不尽だと思います。
子供に関しては、仰るとおり、家庭教育の影響が非常に強いと感じます。
今の能力序列指向社会では、従来の家族や社会における順位を一定に押さえていては、
いろいろと不都合が生じると考えられてるのではないでしょうか。
決められた順位や年功序列をいつまでも遵守していては損をするというふうに。
一方で、放任主義も増えました。
自由を奪ってはいけない、自分で判断できる子供にしたい、自由にのびのび育って欲しい・・・。
言いたいことは分かるのですが、これは明らかに親の教育放棄です。
規律の中で育たなかった子供は結局、自分の身勝手を主張していくしかないんです。
今の人たちは、上に挙げた"役割"や年功序列を"自由の剥奪"と受け取ります。
年功序列などが若い人たちの成長や出世の妨げになっていたのも事実ですが。
それで彼らが主張する"自由"というのは、残念なことにただの"身勝手"なんです。
彼らの"自由"は非常に排他的で、成立させるには少なからず周りが犠牲になります。
自分の自由は主張するけど他人の自由は認めないのです。
家庭教育の見直しはもちろんですが、
私はそれに加え、家族や会社、仲間内までに縮小化したコミュニケーションの輪を、地域、地域同士、地方、地方同士に拡大していくことも重要だと思います。
長文失礼いたしました。
papabeatles様の子育てが上手くいくよう願ってます。
ご回答頂き誠にありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
創造的、建設的、調和的、平和的なことがすばらしく気持ちの良い快感であるのと同様に暴力的、破壊的、敵対的なことも快感なんですね。
「ありがとう」感覚と「ざまぁみろ」感覚です。
で、どういうことになっているかというと、さまざまな日常生活の人と接する場面で、暴力的、破壊的、敵対的な態度をとった方が快感を得やすい関係になったということです。ものごとを「ありがとう」とか「どうも」じゃなくて「ざまぁみろ」で終わらすという感じでしょう。
「ざまぁみろ」感覚をよ~く理解した方が良いんだと思うんですね。
感覚的に忌み嫌っても、理性、道徳、倫理で考えても、体感しないと理解はできないと思うんですね。暴力、破壊、敵対の快感ってヤツをです。
結局、社会の価値観の問題じゃなくて、自分がどちらを自分の社会にするか・・・を自由選択するわけですね。
>しかし、今回お聞きしたいことは、あまり「私」が考え直すとか、無視するべき、ということではありません。
ご質問者様は気づいていらっしゃるのではありませんか。
ご質問者様の外側の問題ではなく、ご質問者様の問題であることを・・
なるほど、それは気づきませんでした。
快感を得る手段が変わったと言うことですね。
言われてみればそうだと思います。
しかし今までの温厚な日本人像からして、それほいと直ぐに暴力的、破壊的、敵対的行動が取れたのが実に不思議です。
「一寸でも損な気分をしてたまるか」という風潮は感じていたのですが、
その域を通り越して、「快感を感じる」ですか。
人を不幸にして快感を感じる価値観がまかり通る社会が現代なわけですね。
それを平気で実行できる人間が大勢いるのも不思議です。
昨今、他人の迷惑を顧みない行動を取ることを度胸と勘違いする人が多いです。
取りあえず手段は何であれ勝てば正義というものも感じます
欧米から入ってきた自由と権利が都合解釈されてる証拠だと思います。
この問題は、他文化の大量流入、爆発的な情報増加、国内外の政治・経済状況、
国または地方の発展など、広域にわたる諸々の原因をつなぎ合わせて初めて、
今の日本社会における倫理観の実態と原因が見えてきます。
この問題に関心のある人たちが監視の目と関心を失った時、社会システムは破綻を迎えると思います。
他の方がいうように、真面目に生きてる人が大半ですから、
そういった事態には陥らないだろうと思いますが、気を抜いてはいけないというのも確かだと思います。
時に、実は真っ当な正義は彼らであって、あれこれ屁理屈並べ、
彼らの価値観を認めようとしない私こそ身勝手なのではとも思ってしまいます。
これだけ私が社会に対する不満が多いのも、この問題を外側の問題と捉えているからでしょうか。
私自身に内在する問題となればチェンジも容易。
社会を変えるのは難しいけれど自分を変えるのは簡単。
しかしそれは思考停止とも受け取れます。
立て板に水のような問題ではありますが、関心を完全放棄したとき、
日本社会の倫理観は有りもしない方向に突っ走ってしまうと思います。
国民が政治が暴走しないようを政治を監視するように、
国民一人一人が現代社会の倫理観を監視するべきだと思います。
この不景気に国内で足の引っ張り合ってる場合ではないと思います。
回答頂き誠にありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
日本が欧米化したからでしょう。
確かに私もその影響を強く感じます。
欧米化による文化の多様化が、個人の価値観にも多様性を生んでるのだと思います。
欧米化と言っても、アメリカにいても、日本みたいな他人への陰湿さは感じませんでした。
集団での生活が基本だった日本が、横から入ってきた「個」を取り入れた結果としての、独自のケースだと考えるべきでしょう。
言語学的には、相手との共通コードが多ければ多いほど意思疎通が図れるとされています。
つまり、相手と合う価値観や知識が多いほどコミュニケーションが取れるわけです。
それが価値観の多様化によって自分と整合する人間が少なくなったと考えられます。
かつて一つのものを共有する時代からしたら、今の時代千人千色。
自分と高確率で価値観や好きなものがシンクロする人は中々見つけにくいです。
(掲示板やコミュニティを介せば幾分見つかりますが)
ただ、相性が合わなかったというだけで、そのまま関係を放置する人は多いです。
残念ながら、相性が合わなかった人間と同じ目線に立ち、相手に歩み寄ろうとする素振りは、全く見せませんでした。
歩み寄るなら、お前の方から歩み寄ってこいと言わんばかりに。
私の質問に似た質問の回答にもありました。
かつて戦前の日本では、海外が絶賛する「相手を尊ぶ文化」があったのですが、海外からやってきた「自由」を日本人は「身勝手さ」と履き違えたという意見です。
その真偽は確かめられませんが、私もそう思います。
取りあえず権利は主張する、それをするに十分ではないけれど、
譲って私だけ損するのは嫌だから、といったところでしょうか。
なんだか、そういった人たちのことを考えながら書いていると、
そうでない人たちをないがしろにしがちです。
私ができることの一つは、懸命に、誠実に生きる人たちが多くいることを忘れず、50年後もそれを忘れないことだと思います。
回答頂きありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
「今時の若い者は・・・」って事で世を憂うのは、何千年前のエジプトの
遺跡にもあるくらい、定番のことです。
世の中、価値観が多様になっています。まとまりはしずらいです。
いい加減なやつも居れば、まじめな人もいるものです。
大半はまじめな人です。少しハズレた奴もいますが、
いざとなればおとなしい物です。
いい加減な奴は、その場は良くてもいつか破綻します。
子供であっても同じ、大人になってから困ります。
ただいいかげんな奴はとかく目立つので、多いように見えるものです。
見かけで判断して憂い、ネガティブになっても不毛です。
ポジティブが新しい考えや意識を生みます。
生真面目にいい加減や奴を叱っても、糠に釘。
基本直に降りかかってこないかぎり、放置しておきましょう。
大仰な正義感は、マッチポンプのようになりますから。
今求められてるのは「スルー力」なのだと私もそう思います。
確かに赤の他人にされたことを悔やみ続けても、結論的には時間の無駄です。
ただ、それを相手が計算の上でわざと悪態をついてるのだとしたら、少し腹が立ちます。
間接的に彼らに行動や思考を拘束、搾取されてるとも考えられます。
まだ、真面目に生きてる人たちが多い世の中というのは、心の大きな支えです。
私の周りにも、多くはないですが、懸命に働き、死や絶望の寸前で必死に生きている人がいます。
彼らを見ていると、大切なことから目を背け、目の前の小事に拘っている自分が情けなく思えます。
時代の流れによって、社会の価値観も変容しますが、その中で「他人への思いやり」というのは絶対に風化してはいけないと思います。
他人との潤滑油を失って困ってるのは、私が社会に抱く価値観を持ち合わせてる人を含め、社会全体の人だと思います。
歩幅を合わせようとしない個人からなる社会が上手く機能していくのが不安です。
社会に対して価値観を強要してるみたいで、文章を書いてる自分もあまりいい気はしないです。
しかし、自由や道徳観が、自らの身勝手さを主張する都合言葉になって欲しくないです。
礼儀が、他人の善し悪しを選別するフィルターとして機能して欲しくはないのです。
変わることは大事ですが、何もかもチェンジすれば良いというのは間違っていると思います。
仰るとおり、私の安っぽい価値観など、そびえ立つ巨大な社会に対しては、完全に無力と言っていいでしょう。
ただ、その正義感を示す人が少数派になる社会というのも、それはそれで危険だと思います。
何だかんだいって、チェンジするのは私自身。
この昭和脳、何とかしたいです・・・・・。
真摯に回答頂き誠にありがとうございました。
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